marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(584回) 今年も「永眠者記念礼拝」が訪れた

2019-08-11 08:10:49 | 日記

 毎年、この暑い夏に訪れる日本でいうところのお盆  キリスト教会では「永眠者記念礼拝」が行われる。そのまま読めば、キリストが再びこの地上に目に見える形で来られる時まで、今まで信じて亡くなった人々は眠っているのであるという意味。

◆ あの戦争、ノモンハン事件、誰もが馬鹿な戦いだったと誰もが今では言う。必然的にあの戦争は起こらねばならなかったのだろうか。日本を巻き込んだのはあの「空気」だったのだろうか。日本はどうしてこうも常識を外れた戦争をおこなったのだろうか。戦争に関するものでも少しく目を通せば、馬鹿な戦争だったとどの本にも書かれているのが不思議、というかその根は、何も変わっていないのではないか、というか我々は、過去のそのような出来事をとおして何を変わらず持ち続け、何を変えなければいけないかを真剣に考えなくてはいけないと思う。しかし、待て。

そもそも僕らは、その時代に生きていた訳でもなく、当事者でも無い。過去の出来事に一見平和な今の時点から、安穏と評価しているだけではないのか、そう思う判断資料は何なのか。時代を映し出すメディアか。僕らは、もっと高みに登った物の見方が出来るのではないか。しかし、やはり理想か、豊かになれば民主的にもなろうの筈が、援助すればそれをいいことに、攻撃武器を持つようになり、昔の恩など何処吹く風。

 ◇◇教会で毎年、日本のお盆の時期に行われる「永眠謝記念礼拝」

  ◆今までの亡くなられた沢山の信者の写真が飾られる中でノモンハンで亡くなった戦時中の服を着て帽子をかぶられた方の写真がひとつ掲げられる。太田一男(1939、8、21 永眠)それだけが分かり、若くして亡くなられた顔立ち、他のことは何も分からない。戦時中に相手国の情報も自分の国の力量も理解せずに、ただ精神力だけで無謀な戦争に突き進んだのか不思議でならなかった。額の後ろにノモンハンで戦死とだけ書いてある。  

◆昨年2018年昨年15日のNHKスペシャルで「ノモハン 責任なき戦い」を見たことを思い起こす。たいそう聡明な辻政信というエリートの戦略が頑なに押し通されたいったという内容であるが、頭が切れ、物言いが強く、主張し続ければ、内地のこの国の例の人的関係で情実(理性的で合理的ではない心情で、主張を通せばそれがまかり通ってしまうこの国の組織のあり方を考えさせられた。止めさせ様とする天皇陛下も、現場強しで飾りと成り果てていた。20000人の日本兵が無駄な死を遂げているのである。ロシアやアメリカの映像も取り入れ、当の日本では間違ってもこういう記録は出た来ないだろうと思わされる多くの遺体の場面。しかも撤退を指揮した現地の部隊長にはしめしが付かないと、銃をわたし自決を促しているのである。これ不思議、軍部上層部の一部は自分のメンツを保つために兵を独自判断で待避させた現場の上位に拳銃を密かに渡し、自決を迫っているのだ。こういうことがすでに内輪で行われて居ることにすでに勝敗は決まっていたと思う。かの、司馬遼太郎も馬鹿な戦争をしたとTVであからさまに言う。「組織とは何か、責任とはなにか」・・・その言葉で番組は終わる。

◆同様な軍部の独走。作家澤地久枝が長年追求してきた2.26事件。軍部上層部がいかにも天皇の許しがでたように換え、政治家を暗殺するクーデターを若手将校にけしかけ、あからさまに天皇が側近暗殺に不満を述べるとその決起した若手将校らを死刑処罰したというとんでもない実情だったという話。そもそも日清、日露の勝利は日本だけの力ではない、それを分からないところが天皇をバックしにした皇軍と呼ばれた軍隊組織での上層部の阿呆さ加減であった。個人と組織、人という生き物が持つ、優位性、排他性、覇権主義、それらは国単位でも起こりうるし実際、見渡せばそうなのである。神の似姿に創造されたという人と言う生き物は、いかなるものなのか・・・