このところ、私は「感情と理性」の問題を、もっと深く考えていかなければならないと思っている。さまざまな神学の本を読んだり、歴史や法律の本を読んだり、また、読むだけでなく、神学について、また、歴史について語る人々の言及を通じて、発信者の発言は、本当に理性の営みと言えるのかという点で疑問に思わざるを得ないことを、常々体験しているからである。解釈学という学問(組織神学)の世界の末席に名を連ねる者にとって、これは重要な問題であると同時に、私が死ぬまで(死んでも)解決できそうにない問題でもある。
この理性・感情の問題は、セキュラーな社会でも、よく遭遇する話である。たとえば、日本軍による従軍慰安婦は、歴史上「存在しなかった」とみなすことが日本人としての誇りを守ることだと信じる人たちがいる。この「信仰」の持ち主たちは、その結論を導くことを可能にする論理に説得力を見出し、その論理の展開を気持ちよく感じるのだろう。一方、このような歴史観は、自分に都合のいい解釈による見立て違いだとみなす人々もいる。私も後者に与するひとりだが、しかし、この両者の立場を分ける要素とは、いったい何なのか。感情なのか、それとも理性なのか。いずれにしても、結論ありきの論証だと、お互いを非難しあうという現実がある。
しかしながら、学問の世界も似たり寄ったりと言わざるを得ないところがある。いったい、学説の対立なのか、学者の個人的感情の対立なのか、分からないとしか言いようがないこともある。個人的な怨念や、劣等感に基づくとしか思えないような主張をつづった論文や著書も、中にはある。読めばそれらが、たとえ時代を経ていたとしても、読者に伝わってしまうのが不思議なところだが、とにかく読んでいて、聴いていて、不愉快な「学問的成果」が、少なからず存在するのは否めない。(神学や宗教の場合、これに当たる率がとくに高い気がする。いやだなぁ。気のせいかなぁ)
これこそが「真実」とか「学問的である」とか「客観的である」などと断定的に主張する者の主張を、私は一番信用しない。あらゆる「歴史観」は、解釈から逃れることはできないという人間の営みの限界を、このように主張する人たちは、見事に見過ごしているからだ。どの立場がより客観的かという判断は、結局のところ、不可能なのである。なぜなら、この世に純粋な客観性など、存在しないからだ。だからといって、私はアカデミズムや客観性を否定するのでは全くないし、むしろそれらは、最大限尊重されるべきであると思っている。私が言いたいのは、純粋なアカデミズムや客観性など、この世に存在しないという前提なしに、それらを扱うことは間違いだということである。
ところで、主張や立場は、どのようにして形成されるのであろうか。私をモデルにして、例を挙げて考えてみよう。
まずテーゼとして、「豆大福は、キリスト教を伝道する」。
なぜ、豆大福はキリスト教を伝道するのか。伝道者である以上「論理的に」その理由を説明することが要求されるだろう。考えられる理由をいくつかあげてみよう。
・この世は全知全能の神が支配しているのだから、その神に逆らって生きることは罪である。
・キリストは、われわれの罪のために死んだのだから、われわれの方としては、悔い改めるのがキリストに対する礼儀だ。
・以上に由来するわれわれの罪を放っておくと、その者は地獄に突き落とされる。
・キリストを信じる者だけが、罪を赦され救われる。
書いていて、自分が嫌になってきたのでここらでやめておくが、日本の多くの人々がこれらの主張を「論理的」(つまり説得力がある)とみなさないであろうことと同様、実は私も、とてもではないが、このような論理では伝道できない。もちろん、私もキリスト教徒である以上、ここに並べられた用語が、聖書や教会史上の伝統に根ざしていることは理解しているし、このうち多くの用語が信仰にとって重要な概念だと思っている。
ではなぜ、私は「とてもではないが、ついていけない」のか。それは、例で挙げた用語の使い方に共感できないからである。この世・全知全能・神・支配・罪・キリスト・贖罪・悔い改め・地獄・赦し・救い、といった用語は、確かに、キリスト教にとって重要な意味をもつ用語たちである。問題なのは、それらの用語をどのように解釈し、また、どのような文脈で論理が展開されるのか、という点である。
分かりやすくするために、この用語たちに「とは何か、どういう意味か」を付け加えてみるといい。この世「とは何か」、全知全能「とはどういう意味か」、という具合に。そして、ここのところが曖昧にされたままの主張、我田引水な主張は、私には気持ちが悪いのである。これらの用語が意味するところを、時代の、そして自らの限界までつきつめて、これ以上無理というところで折り合いをつけられた上で解釈されることなしに提示することは、私にはちょっと考えられない。つまり、これらの用語を解釈するのに、どのような方法論を採用するのか、どのような学説を採用するのか、歴史的にどのように考察されてきたのか、などという点がおざなりのまま、さらっと言い流されるのには、我慢ができないたちなのである。さらに言えば、地獄におちるとか、キリストを信じないと救われないといって脅してみたりするのは、論理の運びという点でも、趣味が悪いなあ、と思ったりする。
そう、気持ちが悪いのである。趣味ワリィ~と感じるのである。しかし、私がこう感じるのは、なぜなのか。感情の働きなのか、それとも理性なのか、それともその両方なのか。両方である場合、その割合はいかほどなのか。そもそも感情と理性は、分けられるものなのか。このあたりの事情を、D・ヒュームあたりから始めてボソボソ復習してみているところだが、さしあたりこの点、神戸女学院大学の内田樹先生が、ご自身のブログで「気持ちイイ」説明をしてくださっているので、それを一部引用しておく。(内田先生のこの記事全体のコンテクストに、引用が適当であるかどうかは別として。)
ある文章が論理的であるか非論理的であるかを判定するのは推論の働きではない。
論理的な文章は「気持ちがよい」が、非論理的な文章は「気持ちが悪い」。
それを判定するのはフィジカルな感受性である。それは幼いころから美しい音楽を浴びるように聴いてきた子どもが演奏の半音のずれを「不快な音」として聴き咎めてしまうのと同じである。
私も、そうなんじゃないかな~と、ぼんやりと思うのである。まだよく分かんないけど。
この理性・感情の問題は、セキュラーな社会でも、よく遭遇する話である。たとえば、日本軍による従軍慰安婦は、歴史上「存在しなかった」とみなすことが日本人としての誇りを守ることだと信じる人たちがいる。この「信仰」の持ち主たちは、その結論を導くことを可能にする論理に説得力を見出し、その論理の展開を気持ちよく感じるのだろう。一方、このような歴史観は、自分に都合のいい解釈による見立て違いだとみなす人々もいる。私も後者に与するひとりだが、しかし、この両者の立場を分ける要素とは、いったい何なのか。感情なのか、それとも理性なのか。いずれにしても、結論ありきの論証だと、お互いを非難しあうという現実がある。
しかしながら、学問の世界も似たり寄ったりと言わざるを得ないところがある。いったい、学説の対立なのか、学者の個人的感情の対立なのか、分からないとしか言いようがないこともある。個人的な怨念や、劣等感に基づくとしか思えないような主張をつづった論文や著書も、中にはある。読めばそれらが、たとえ時代を経ていたとしても、読者に伝わってしまうのが不思議なところだが、とにかく読んでいて、聴いていて、不愉快な「学問的成果」が、少なからず存在するのは否めない。(神学や宗教の場合、これに当たる率がとくに高い気がする。いやだなぁ。気のせいかなぁ)
これこそが「真実」とか「学問的である」とか「客観的である」などと断定的に主張する者の主張を、私は一番信用しない。あらゆる「歴史観」は、解釈から逃れることはできないという人間の営みの限界を、このように主張する人たちは、見事に見過ごしているからだ。どの立場がより客観的かという判断は、結局のところ、不可能なのである。なぜなら、この世に純粋な客観性など、存在しないからだ。だからといって、私はアカデミズムや客観性を否定するのでは全くないし、むしろそれらは、最大限尊重されるべきであると思っている。私が言いたいのは、純粋なアカデミズムや客観性など、この世に存在しないという前提なしに、それらを扱うことは間違いだということである。
ところで、主張や立場は、どのようにして形成されるのであろうか。私をモデルにして、例を挙げて考えてみよう。
まずテーゼとして、「豆大福は、キリスト教を伝道する」。
なぜ、豆大福はキリスト教を伝道するのか。伝道者である以上「論理的に」その理由を説明することが要求されるだろう。考えられる理由をいくつかあげてみよう。
・この世は全知全能の神が支配しているのだから、その神に逆らって生きることは罪である。
・キリストは、われわれの罪のために死んだのだから、われわれの方としては、悔い改めるのがキリストに対する礼儀だ。
・以上に由来するわれわれの罪を放っておくと、その者は地獄に突き落とされる。
・キリストを信じる者だけが、罪を赦され救われる。
書いていて、自分が嫌になってきたのでここらでやめておくが、日本の多くの人々がこれらの主張を「論理的」(つまり説得力がある)とみなさないであろうことと同様、実は私も、とてもではないが、このような論理では伝道できない。もちろん、私もキリスト教徒である以上、ここに並べられた用語が、聖書や教会史上の伝統に根ざしていることは理解しているし、このうち多くの用語が信仰にとって重要な概念だと思っている。
ではなぜ、私は「とてもではないが、ついていけない」のか。それは、例で挙げた用語の使い方に共感できないからである。この世・全知全能・神・支配・罪・キリスト・贖罪・悔い改め・地獄・赦し・救い、といった用語は、確かに、キリスト教にとって重要な意味をもつ用語たちである。問題なのは、それらの用語をどのように解釈し、また、どのような文脈で論理が展開されるのか、という点である。
分かりやすくするために、この用語たちに「とは何か、どういう意味か」を付け加えてみるといい。この世「とは何か」、全知全能「とはどういう意味か」、という具合に。そして、ここのところが曖昧にされたままの主張、我田引水な主張は、私には気持ちが悪いのである。これらの用語が意味するところを、時代の、そして自らの限界までつきつめて、これ以上無理というところで折り合いをつけられた上で解釈されることなしに提示することは、私にはちょっと考えられない。つまり、これらの用語を解釈するのに、どのような方法論を採用するのか、どのような学説を採用するのか、歴史的にどのように考察されてきたのか、などという点がおざなりのまま、さらっと言い流されるのには、我慢ができないたちなのである。さらに言えば、地獄におちるとか、キリストを信じないと救われないといって脅してみたりするのは、論理の運びという点でも、趣味が悪いなあ、と思ったりする。
そう、気持ちが悪いのである。趣味ワリィ~と感じるのである。しかし、私がこう感じるのは、なぜなのか。感情の働きなのか、それとも理性なのか、それともその両方なのか。両方である場合、その割合はいかほどなのか。そもそも感情と理性は、分けられるものなのか。このあたりの事情を、D・ヒュームあたりから始めてボソボソ復習してみているところだが、さしあたりこの点、神戸女学院大学の内田樹先生が、ご自身のブログで「気持ちイイ」説明をしてくださっているので、それを一部引用しておく。(内田先生のこの記事全体のコンテクストに、引用が適当であるかどうかは別として。)
ある文章が論理的であるか非論理的であるかを判定するのは推論の働きではない。
論理的な文章は「気持ちがよい」が、非論理的な文章は「気持ちが悪い」。
それを判定するのはフィジカルな感受性である。それは幼いころから美しい音楽を浴びるように聴いてきた子どもが演奏の半音のずれを「不快な音」として聴き咎めてしまうのと同じである。
私も、そうなんじゃないかな~と、ぼんやりと思うのである。まだよく分かんないけど。