2016年5月10日です。
うーーん。 なんということだ。
あの人は私にすごく似てる。 という自覚はあり。
あの人のあの態度 むかしは私もよくやっていたんだよなー。 これも自覚あり。
自分がやってないことを 人からされることはないんだよなー。
これは自分で認める法則なので認める。だから仕方ないよなーー これも自覚あり。
しっかし べたべた気持ち悪いなーー
気持ち悪くて、到底同じ空間にはいられないなー ・・・・・・・・・・
自分に似てる、ということは 前からすごく自覚あったんだが、
「気持ち悪くていっしょにいられない」 というのは 前々から感じつつも、今日やっと自覚した ような。
「過去の自分と同じ態度」は無礼なので、無礼に対して怒ってると思っていたんですが、
どうも 生理的に受け付けない的になっているんだよな・・・・・・
自分と同じ態度、考え、存在が おぞましいとは 自分自身がおぞましいということで、
それを今まで自覚なく他人に向かって思っていたつもりが
ほんとは自分自身がこれだけ気持ち悪く、自分で自分に虫唾走ってたってことで
それでこんなにこじれて切れてんだ。
ということに 今やっと気づいた、ということに またぞっとする。
生理的におぞましくて虫唾でぞっとするのと
また 知らない自分が出てきたよ・・・ というこのぞっとする感じ。W
多分 自分の切り離し具合が相当なので、自分なのに、すごい 他人感 なんだよな。
シャドー だよな。
自分の中から、自分を本気で呪ってる人が出てきたときは、こわいぞぅ・・・・・・・
自分の中から貞子が出てくるんですよ 想像できますか・・・・・
その人は、超本気で、何年も、何十年も、その意志を変わらず持ち続け、
狙った相手を確実に不幸の一生で終わらせることを目的としている。
名よりも実をとり、目的を達しさえすれば、自分は生涯表に出ずに終わることなどへとも思っていない人です。
貞子さん、あなたが私の人生を決定されていたのですね、 まったく 気づきませんでした。
という このこわさ。
何十年つねに共にいながら、その存在にまったく気づいていない上に、
つねに見られて、しかも心底呪われている。 というこわさ。
自分が切り捨ててきた 「ゆるせない自分」=シャドーと、それを罰することに命をかける自分。
どうも シャドーよりも、追跡者のほうが 破壊的で怖いよな???
ともあれチャック先生の シャドーの解説 うわーー・・・・・・ もんげー・・・・・・・・・
抜粋と要約
シャドーは 「いい人、やさしくて善良だが、ダイナミックさが無い、死んでる感じの人」 という薄皮をまとって隠されている。
その下に、邪悪、陰険、残酷、冷酷、拷問にかける暴君 という 観念体系がある。
観念体系であるため、真実のように見える。
暗い観念が、ベルサイユ宮殿のように荘厳に、隙なくすみずみまでがっしりと組み上がっているために、実体のある真実のように見える、というようなことでよいでしょうか。
「いい人、やさしくて善良だが、ダイナミックさが無い、死んでる感じの人」 は、暗い観念に対する防衛、
この次です。
その暗い観念もまた、真の善 、私たちの中の「神の子」の部分を抑圧するための防衛!!
うおーーーー
なんていうんでしょうかこういうの。 壮絶・・? 圧巻・・・? 凄惨・・・・?
お白洲で金さんの桜吹雪を見せられたお代官様と越後屋の心境 を もうちょっと神聖にしたような感じ?
「観念しろい」、「神妙に縛につけ」 というかんじ
幸いにも、他の問題や対立と同じように、この問題からも簡単に抜け出すことができます。
まあ、コーラと同じで(?)、見つけたときにはすでに別のもの
光が当たった時点で、シャドーはシャドーとは言わないし・・・・・パワーはだいぶ減るのかもしれません。
歴史上の人物、伝説やおとぎ話や神話の人物の中で、私がこの人にだけはなりたくないと思う人物は誰でしょう?
自分の望みを達成させるために、わが子を何人か生贄に捧げている黒魔術の女。
ヒットラー。
妊婦がおなかから下に落ちるように天井から落下の刑に処す西太后。(事実かは不明。映画でそんなシーンがあった)
実はあなたが自分自身に対して持っている観念です。
通常はこんなのは否定され、防衛されていることが普通。それでも影響を受けており、自分に罰を与えようとして、いろんなトラブルを起こす。
カードを飛ばしたら 絵が上になったから、無意識層。
自分の天国のために、その他すべての犠牲を強いるみたいな
自分は邪悪 というイメージがあるんだなぁ・・
でも 小学校低学年くらいだったと思うけど、何かを生贄に捧げる暮らしをしてた夢をみて、目が覚めたとき
あぁぁぁぁぁ もう 生贄やらなくていいんだ と、ものすごく心底ほっとしたことがあったのを覚えています。
「前世」というのも なんですが。
もし、時間を一本の線でみる見方で、「人類の歴史」を「事実」と見る見方であれば、
分かってるだけでも6000年くらいあるんだから その間何回か自分登場してても別段不思議とは思いません。
時間を一本の線で見ない見方の場合は、「自分」てなんなのか 今 ぱっと言えることがない。
どうして「自分」は「邪悪」と思っているのかも わからない。
以上はまぁ、 闇 とつながってる自分ですが
でもそれもなんと、 「光の自分」 を見ることへの 防衛!!とな。
そんだけ深い闇にしないと押えられないくらいの光ですよ。
なんだか苦労するね。
「神の子」を直視することがこわいばっかりに 邪悪と闇を持ち出して、隠す。
相当 厚手の遮光カーテンでないと光が漏れてばれてしまうもんだから
ついつい邪悪にしすぎ、そしたらあまりの邪悪さがゆるせなくなって罰する。
全部 自分の1人芝居なんだろうねぇ??
●自分を邪悪にしておかないと困る自分
●邪悪をゆるせず罰することに一生を捧げる自分
それで 日常に戻ると、あの人が気持ち悪くてしょうがない、というのは。
あの人は自分に似てて、ほぼ自分なので、
自分を自分に近づけない。自分自身をおぞましがらせておけば、
自分は統合されることなく ずっと 破片のままでいられる。
光も細切れの光で済む。 そのような罰でしょうか。
まとめたようで あまりまとまってないですが
あしたも自主練があるのでもう寝ます。
2016-05-11 00:33:58
----------------------
寝ながら 私がこの人にだけはなりたくないと思う人物 を考えていました。
二人追加になった。
暮らしのために真っ白なあざらしの赤ちゃんを撲殺する男、
そしてそれをテレビで放映する人 が追加になりました。
最もひどいのはそれなりに隠されているんだろう。
これは 夜寝ているときにたまに思い出してうなされる。
ごまちゃんがキューキューいいながら こん棒で殴り殺されるのだ。
なんでそんなもんをテレビで放映するんだろうか。
私はブログで放送しちゃってますが。一桁代の子供は読まないだろう。無責任には変わりないが。
そのころたぶん私は一桁代だったが、なんでごまちゃんがころされるのか
しばし呆然としていた記憶があります。それを今でも覚えれる。
世界が壊れたんだが 子供には受け止めきれない
受け止めきれないものはどうしようもないので闇に流される。
そして 「かわいい友達が殺されるのをどうにもできなかった自分、
助けられなかった無力な自分、そんな世界に住んでいるろくでもない自分」というふうになっていくんだろう。
どうしようもないけど、そういうふうになっていくことも全自動で どうしようもない。
世界が壊れたら 自分もいっしょに消えてなくなるのが、なんか自然なんだよな。
なのに「自分」という感覚は依然として残ってる。それだけで「自分」は歪むように思います。
残ってるということは 歪んでる、まともじゃない ってことだ。うまく言えませんが。
なので、あいつもたぶん、世界が壊れる経験をしたんだろう。
自覚ある、なしは関係なく。
ふつうは、受け止められず闇に流されているので
世界が壊れて、残った自分はゆがんだ なんて 自覚されないと思います。
しかしですね、どうやら 闇に流してあんまり闇とつながらない人もいるようです。
母いわく「フタして終わり」で済む人と、「フタができない人」。
2016/5/11
執着 というのは 結局、自分の欲求を満たそう とする態度のことか。
そこへなんで特定の人物や物が出てくるかというと
その特定の人物や物、が より自分の欲求を満たせそうだから、ということか。
相手は 自分の欲求を満たすための道具。 それが執着 ということか。
しがみつきとはかんしゃくの一種で、思い通りに行かないのなら前には進まないと言っていることなのです。
ほとんどの人は、『執着』と愛を混同しています。相手に『執着』し、心理的にしがみつくことは、
相手への思いやりというより、自分の欲求を満たすことを重視しているということです。
(略)
あなたにとっての「愛情」というのは、彼や彼女に対するものではなく、あなた自身の欲求を
満足させることなのだと、相手も気がついてしまうのです。
手放すことと遠ざけることは、はっきりと区別することが大切です。
遠ざけるということは、感情を切り離すことによって、何も感じないようにしているだけです。
こういう拒絶のしかたは(略)、うんざりし、怒っている状態なのです。
遅かれ早かれ、怒りの下に隠れている依存心と痛みに向き合わねばならないでしょう。
自分が執着しているかどうか?は、以下の点でチェックできるでしょうか。
1. 相手の幸せは何か?より、自分の「こうしてほしい」のほうが強くないかどうか?
2. それなしでも前進する、または自分が変わる気があるかどうか?
3. それでも、たまにそれに出会ったときは、やさしく接せられるかどうか?
4. それが無い人生を受け入れているか(苦しみ尽くしたか)どうか?
このようなかんじでしょうか?
「受け入れる」とは、苦しみ尽くすことと見付けたり。
釘を刺されるとか爪はがされるとか、あまりな苦しみに耐えきれないばっかりに、
そこから逃げようとし、目をそらし、(残念ながら)小細工(でしかない)を弄するために、
話がこじれて もっと苦痛が増えて苦しむ時間が長引くのだなぁ と最近思うようになりました。
「そこを生きるしかない」 とは これも母の言葉です。
2016年2月12日です。
今
発狂人間関係でセッションめぐり
ファンタジー、空想、無垢な明るさ(あほう)、ハイテンション
実体を放棄
社会復帰
(育ての父に出会う)
世捨て人
(育ての母に出会う)
空虚
光と訣別
罰としての霊障 泥沼人間関係
引きこもり
無気力
燃え尽き
自分のせいでないなら、全部まわりのせい
自虐 (まじめにやったら死んでしまうのでやめる)
自己不在、否定中毒
閉ざす
人のせいにする =トラウマ創作
怒り、失望、存在の無意味 補うための万能感
孤独
自分にほとほと愛想が尽きる、見捨てる、殺す
役割 英雄 失敗
女の子失敗。男の子でないと、だめみたい
役割 迷子 自分はいない方がいい(母親の泣き顔を見てやめる)
役割 マスコット 失敗
上から 新しい順。
先日のセッションで、いちばん下が出てきた。
その前のセッションで、下から3番目。2番目は自分で思い出した。
かつ、こんまりさん式片付けをする中、自分のこれまでの人生なんだったのか、
このように、なんとなくつながってきました。
上記は自己否定ラインなんですが、これと並行して、
「実は愛されていることを知っている」と思っている自分もいて、
それが「根拠のない優位」ラインとなって、万能感につながり、
母、妹を筆頭に、周囲と仲良くするのではなく争って勝つ、
しかも戦っている自覚はない、というベースがありました。
自己否定と、過大評価がまぜまぜになって
二重螺旋の如く 絡み合ってました。
これで全部説明できるわけでもないんですが
ちょっと整理したくて 思いついたことを並べました。
2016-02-12 19:22:58
自分自身の内なる罪悪感を解消すること
まちがって責めてしまったことを謝ること
再びつながること
前向きに与えること
『許し』とは、あらためて相手に向かって与えることであり、新たに受け取ること。
人ともう一度つながること。
自分が犯したと思った過ちを、人のせいにして責めてきたことを詫びること。
あなたが許す時、過去には与えられなかったものを、やっと与えることができるでしょう。
それによってあなたは癒され、あなたが非難していた相手も癒されます。
『Dr.チャックスペザーノのセルフ・セラピー・カード』より
私は、天から多くの豊かさを与えられていたのに、自分からそれを捨て
人々との愛あるかかわりに唾を吐き、美しい芸術作品も泥の中に投げ捨て、
価値を理解せず、すべてを否定してきました。
愛がわからず、愛してくれる人々、愛されることがわからず、
価値が全く理解できず、与えてくれる人々の心に唾を吐き、悪態をつき、
蹴っ飛ばして、ごみの中に捨てていた、と思っていて(これも自分がそう解釈しているだけ)、
そういう自分をたぶん許せずにいたんだと思います。
それを特定の人に投影して、その人にはそういう残念なことはやめてほしい、
価値に気づいてほしい、恩恵をきちんと受け取ってほしい、きちんと理解してほしい、
もったいなさすぎてあきらめきれない と思っていたんだと思います。
もったいなかったと執着しているのは過去の自分自身(だと思っている姿)で、
目の前の相手には、それを投影しているだけなんだろう。
相手には相手の人生があって学びがあって、価値観があり、豊かさがある。
それは私の目からは見えず、私が見ているのはやっぱり自分自身なんだろうと思いました。
「許せない」というのは、自分自身への罪悪感なのだなぁ。
あと今許せないのは、
「自分が自分が」 で、自分がもらおうとするばっかりで芸をして得意になっている自分、
自分の身を守ることが第一で、他人は自分の保身の道具 としか思えない自分です。
2016-01-12 20:36:34
今までよくわからなかったチャック先生の言葉が 最近ふに落ちてきました。
親が⚪︎⚪︎をしてくれなかった、
まわりの人間がろくでなしばかりでひどい仕打ちを受けた、
そういう不満があるとき、「そこになかったもの」を提供するのは自分のはずだった、
という意味のことです。
「問題に気付く」ということは、それは自分の問題だということ、
「あいつはあれをもってない、こういう態度ができない、思いやりがない、あいがない」
そう気づく、ということは自分が持っている、ということで
持っているんだから自分が提供する立場だった、という意味のことです。
持っているのに出さず、持っていない人を責める、できない人を恨む
自分もそうですが、「できない」ことは責められても困るし、どうしようもない。
持っていないものは、たとえ殺されたって、出しようがないのだなぁ。
そこにまったく無いものを 自分が手品のように出す。
や、自分にとっては手品でもなんでもないんだが、持ってない人から見ると手品のように「見える」。
おおげさなようですが、無かったところに出現させる、ということで、創造 と言えます。
お互いにそうやり合っているのが 人とのかかわりなのだなぁ。
無かったところに自分が何かを出現させてしまうとか、
自分が「何か」になって出現してしまうとか、ものすごくいやだったな。ぜったいに耐えられなかった。
耐えられなかったのが 少し変化してきました。
「明らかに必要だよな」と思うのに その気配がないとき、自分がやるしかなく、
「自分がやる」とはいっても、「明らかに必要」なんだから「自分を通してなされる」ということで、
必要なものが出さえすれば、別に私でなくてもよい。
「よりよくなるエネルギー」が ここにいるこれ(私)を足掛かりにして物質世界に出現してくれればよいのだ。
たぶん、そこにガ(我)が混じることが ものすごくいやだったのかもな。
ガ(我)が混じると、ただ出る杭は打たれるだけなので。
12/6 + 12/8