Rikoの再建日記~気ままな恋文

病期3の乳がんから自家組織再建、リンパ浮腫治療、抗がん剤後の薄毛治療など、心身共に毎日が昨日からの再建って感じの日々♪

緑のバラ

2013年05月05日 17時33分26秒 | 日々の事
みどりの日ように創られたかどうかしらないけど、緑のバラだってヽ(´▽`)/
昨日、自然に咲く緑を載せてこちらは遠慮してたけど、ゴールデンウィークはまだあるみたいで…ってことで連休連載ってことは無しで私の中では再びのみどりの日なのだ!!気分も指折り日付もね
(*´∀`*)

連休〆は子供の日(追記あり)

2013年05月05日 11時20分31秒 | 日々の事

 

さて、寒く長い連休、何処も行かずでれでれ過ごしてブログもちょこっと更新したりしていた私の中での、連休連載の

憲法記念日→みどりの日ときた最後は子供の日。

今や日本は高齢化社会のレベルではなく高齢社会となっている。対比して少子化もすすむ一方で、

子供一人の家族の中での地位は向上しているようだ。

変な講釈から入ってしまったけど、

先日引っ越してきたこのマンションは、どうもこの辺の学区目当ての家族が多いということらしい。

つまり、いい学校があるのだ!

私は子供無しだから学区なんていまだにあるの!って感じで物件購入で意識したこともないけど、そういう見方が実際にあることをしった。

マンション購入は大きな買い物だ。そこに学区という価値がど~~んと入ってくるのは、まさにお子様さま基準、大切な一人っ子様の家族の中での地位の向上だろう。

いい学校にいけば、いい友達に出会え、いい人生へとつながる。自然な考えだけど、

「いい」

の内容をどうとらえるか、昨日のコメントですこし仕込みしたけど(笑)そこが今の時代の考え時なんじゃないのかな~って思う。が、じつはもう30年も前から私は思っていた。

30年前くらい、超スーパー小娘(私の造語)だった私は、ある時、ある社長さんに提言していたくほめられた事がある。

その内容は、

タクシー運転手さんの評価についてなんだけど、当時、乗車拒否ってのが多かったの。

で、

私は、

「遠くまで乗せること、売上金額あげることをその運転手さんの評価とするより、何回乗車させたかを基準にしたらどう!そして接客態度とかもプラスしてね。

そしたら、近距離でも乗車拒否もなくなるし、だいいち見た目じゃ、何処まで行くかなんてわからないのにさ~~。」

と。

「この国は、子供にも偏差値なるものをつくり、会社は会社で業務成績を全て数値で管理してるけど、その数値の設定がおかしいのにどうしてきずかないんだろか?」

 

と、スーパー小娘の私の言葉に、その社長さんはとてもほめてくれたけど、

「でも、数値ってのは単純明瞭が長所でもあり、多くの人間を絞り込んでいくためには解りやすさ、まわりへの説得力が必須で、君のいう数値はわかりにくいことをふくむんだ。誰もが解ること、そこに設定しないと管理できないのが営利企業なんだなぁ」

といわれた。

ならば・・・・・・・

今、

少なくなった子供たちの評価はもっと複雑でもいい、それでも評価・指導・はできるはず。

点数が点数としてポイントされる基準をもっと多角的かつ複雑にいろんな背景も含めてみれるはず。

そして、そのことが皆に理解できる単純明瞭な段階と思えるまで子供のみならず、大人までまさに教育していくことが可能なのではないか。

いや、数値なんて事自体意味の無いことでいいんじゃない~(これまで語ってきたことなんなんだ!!笑)

そんな風に30年たった今、ようやく時代が私にむいてきた!うはは~~~とひとり喜ぶ子供の日。

そんな私は何年、、何十年たってもまさに子供!?

ところで、

話は大きく戻して、

学区目当てのこのマンション住人のお子様たち。

ときどきエレベーターで一緒になるけど、じつに爽やかに行儀がいい。

まつもとじゅんみたいな横顔の子(男子か女子かわからない~)にはぜひまた会いたい。

手の届くところまでエレベーターのボタンを押し各駅にした子。

私が乗り込んで、各駅になってることに照れてもじもじしてるのが可愛かった。

ま~10階以上まで押せないくらいの幼さが可愛かったのか、10階以下だったから許すぜ!の気分だったのかは、私自身解らないけどね~

子供リコちゃんだからさ。

 

とにかく、爽やかがつく良い子共たちが多いこのマンション。沢山いるはずなのに沢山すれ違わないのも、色んな意味で納得。

ま、私にとってはそれもいい事かな!

 

PS

余命何年ってのも、まだまだ信憑性というか緻密さにかける数値だね~

と、病気をして思う。(笑)

 

追記

今、コメントにお返事書いていて、ちょっと言葉たらずかと思ったので足しておきます。

この記事で私が書いている「評価」の前提は、

その人全てを指すものではなく、あくまでその人の一部の何か、語学力であったり、計算であったり、運動であったり、表現力であったり・・・・・
一部の能力にたいするものです。

それが、その人全ての価値のように、評価する側もされる側もおおきな感違いに陥ってしまっているような気がします。

だけど、たとえ全人格に対するものでなかったとしても、もっと多角的に評価基準を決めることが大切なのではとの思いで書きました。

人って、褒められると嬉しいし、的確な批判や点数なら奮起のきっかけにもなりうるから。

でも、多くはそううまくはいかずに人格否定されたような気分になってしまうんだろうな~って思ってみたりします。

だとしたら、コメントでポーさんが書いて下さったように評価なんてしなくてもいいじゃん!ホントに大切なことをしっかり教え込む!ってのが究極に思ったりもしますね~

う~~ん、難しいぞ!