Rikoの再建日記~気ままな恋文

病期3の乳がんから自家組織再建、リンパ浮腫治療、抗がん剤後の薄毛治療など、心身共に毎日が昨日からの再建って感じの日々♪

春の訪れ

2011年01月21日 15時29分45秒 | 乳房再建を決めるまで

それは春の訪れだった。

3月の終りのまだ肌寒い日。
桜の蕾が東京の空の下で小さくこごえながら淡く街を包んでいた日

HANAさん掲示板のマチ桜のオフ会があった。

そこで、私はまこつまさんと初めて会った。出会いはその前から、
掲示板やブログを通して、お互いの名前は知り、当時の私の同時再建を諦める
という記事をみて、「それが全てではないからね、」とメールくれた方。

そう、再建への布石をくれた再建体験者の皆さんの中で初めて会う人がまこつまさんだった。

その責任?なんていったら、怒られちゃうわね

もっと、

もっと大きな・・・とても大きな・・・・
この病気の持つ切なさが優しさへと導き、その優しさの一つとして
私に再建したばかりの自らの胸を見せて下さったのだ。


しばし見入り、そして呆然と、
まだ見ぬ、未来の私を鏡で見ているような錯覚の中、私は泣けた。

「絶望より希望が勝った涙だった・・・」
その頃のブログに書いた言葉、今でも忘れてない。


私はこれが欲しかったんだ。こうなりたかったんだ。
自分がどこかで我慢していた本当の感情が、
再建により見事に胸をとりもどし、
そのバランスのとれた本来の身体を見て、
私の中の本能の気持ちがグラグラゆれて心から溢れ出た瞬間だった。

当時のブログで、
まるで現金3億つまれたよう、そんな衝撃・・・・・なんていう、
とても下世話な表現であえてその時の気持ちを書いたけど、
でも、それは私が求めていた本能そのものとして、目の前に現金3億つまれ、
「これがあなたが落としたものですよ!」といわれた気分だったの。

失ったものの大きさ、諦めきれない欲する気持ちの大きさ。

落としてしまった当選宝くじ3億円。
初めから買って無かったと思えば良いじゃない!
そんなイメージで、無理やり自分の気持ちの納め方をしていた事に掛けて書いた表現でした。


今更ながら・・・やっぱり現実に見る、間の当たりにするというのは、
凄い影響力・力なのだと、あの時、
溢れ出る直情に自分自身で驚くほどの出来事だったなぁ。




そして・・・・・




その涙と共に、沈む私は消え去り、私は再建を決めた。


私の中で春が来た。




PS
私としては一気に、この「再建を決めるまで」のカテゴリーを書いてきました。
それはね、

怖いの。

今、現実に手術が迫ってきて、喜びの気持ちと同じくらい、怖いの。

とても、大きな手術だし・・・・・

だから、自分がどんな思いの中、この選択をしたのか、私の心に再びきちんと問い掛けたかったの。

乳がん術後、
「麻酔で眠っている間にさよならしてしまった私と、もっと話しておけばよかった」
と涙したあの頃に、今回はなりたくないから。

だから、いっきに、思いを巡らせてきました。

あ~~、それでも怖い怖い。
あ~~、それでも欲しい欲しい。

前回、このカテゴリーはこれでおしまいね、と、予告したけど、まだまだ私の迷走は
つづく・・・・・かもしれない。





放射線のリスクと向き合う

2011年01月20日 16時15分18秒 | 乳房再建を決めるまで

ちょうど、今から1年前ころから放射線治療が始まった。

 さて・・・・・ 再建と放射線。

このことのリスクが頭でっかちであったことは、「術後に出会った私」の記事で書いたが、頭でっかちの反面、片隅に、放射線を掛けて見事再建をしたという方の存在を、有難いことに私は知っていた。

 教えてくれる、お仲間、先輩患者さんに恵まれたからだ。

 そこで、私は照射・毎日の通院による「不」の感情をプラスに持っていく手段として、放射線後に再建をかなえた方のブログなどを見るように努めた。

 そうした人がいるという存在は、限りなく不可能と思っていた私の中に希望を与えてくれ、

先ずは、喪失感といものの苦しみを軽減するほんの僅かなきっかけになってくれた。

 

では、 放射線と再建のリスクとはいったいなんなのか?

①照射により、皮膚や脂肪組織は硬くなり、しなやかさが失われていく。

②皮膚の血流そのものが悪くなり、再建時にはがした皮膚そのものが壊死することもある。

③ ②までの事がなかったとしても、つなぐための血管に辿りつくのに困難な場合などもある。

④ ①から③を踏まえれば、必然とインプラントより自家組織というように選択肢が狭められる

 

 しかし・・・・・・こうしたリスクを理解すれば、また別の観点で事が見れる。

 

 ①の場合は、新しい胸のための皮膚を伸ばすのに限界があったり、または、ゆっくり慎重にのばさなければならない。しかし、不可能ではない。

 ②の場合は、再建手術の際にこうした事態になった場合、ドナーとなる皮膚に置き換えるなどの措置で対応できる。また、そうなる可能性の高さを判断するのは熟練の医師であれば、事前に可能と考える方が合理的だろう。いずれにしても、不可能ではない。

 ③の場合は、放射線照射からの時間を1年以上おき、じっくり皮膚の再生(この1年というのは、組織の回復に必要な最低ラインのようだ。)を待つ。また、つなぎやすそうな血管を見つける力量も優れた医師にはある。よって、不可能ではない。

④の場合、自家組織に思いを絞ればいい。よって、不可能ではない。

 

 つまり、放射線を掛けても、時間をかけ、優れた医師と出会い、ドナーとなる皮膚を使うことも覚悟

(この場合、皮膚感の違いなどで、パッチワークのようになったり、仕上がりの胸のキズが2本・・この葉のような感じになるということもある)

すれば、再建は十分可能なのだ。

そういう再建でも、充分な満足を得られると自分の心に問いかけ、イエスなら、放射線を掛けても再建は出来るという答えになる。

 そんな事をきちんと、自分で勉強する機会をもつきっかけとなった出来事。

それが、私が再建を決める瞬間だったのではないかなぁ。

そう、再建胸を生で初めて見た衝撃。その時自分の心が見えた。

 

その日の出来事はまた・・・つづく

 

このカテゴリー、次回で完結させますねん

 

PS

今では、温存の場合は当然のように放射線とセットの治療になるし、私のように全摘でも、病理の結果、リンパ転移が4個以上あれば、胸壁・鎖骨上への放射線を進められる。

また、温存をしたもののその変形に「こんなはずでは・・・・」と心を痛めている患者さんも多いという現実もあるそうだ。

「温存・放射線(変形の可能性)」、「全摘・放射線」、これらと再建のリスク、

そして必ずしも不可能では無いという事は、もっと広く知られる事が必要ではないかなぁ~

と、色んなお仲間のお話しを聞いて感じるこの頃です。

 

 


術後に出合った私

2011年01月18日 18時08分06秒 | 乳房再建を決めるまで
さてさて、「再建を決めるまで」のカテゴリーの続きを書きましょう。

とにかく、「命」。

既に見た目の事など考える余裕もない状態で、何とか抗がん剤をやり終えた。

しかし、その副作用の浮腫みがひどく、オペを1カ月ほど延期するという、
もう、じらしにじらされて臨んだオペだったので、
入院中は、自分の心の変化も
何を感じているかも、感覚自体がマヒした感じ・・・・・


心の深いところで、最終防衛兵器が動きだし、
私の心に麻酔を打ち、おおきな膜を一枚かぶせていたのかなぁ。


そんな感じ。


考えたり、感じたりの感性が雲の上を歩くように宙に浮いていた。

何だか、ボーとドレーンの中のリンパ液を見ていたり、
テレビを音を消して見ているような感覚を時々覚えた。


それでも、ダンナッチと笑ったり、友達とメールをしたり、1日3回のリハビリ運動に
やたらと精を出したり、
一見順調に回復しているような、当の私がそんな暗示にかかっていた入院期間だった。

だけど、ドレーンもとれ、胸帯も軽いものとなり、退院すると、
現実の生活環境の中で、
私は見知らぬ自分に戸惑った。


半分削げてしまった胸を持った私。

胸は、二つあるものではなく、二つのふくらみで一つのものなのだなぁと・・・・

だから、私はたったひとつの胸がキズついたという事を実感した。

その頃の思いを書いた、闘病中のブログには、
「麻酔で寝ている間に前の私とはさよならしたんだ・・・こんなことならもっと、前の私と話しておけばよかった・・・」
と書いた。
まさに、その通りの思い、喪失感というものに暫らく苦しめられる日々だった。


挙句、病理の結果から、やはり放射線もする事になり、「再建」というものが、
現実から遠のいていく。

無理ならば、今のこのバランスを欠いた自分を今一度愛そうという、そんな気持ちに揺れる日々。
自分を改めて愛することで、「再建」は半分「夢」になっていく。
グラフの線が交わらずに離れて行くような皮肉な現象が、ちょうど1年前頃の私だった。

自分を愛するイコール「再建」という構図を描けなかったのは、やはり放射線を受けるという事が大きく影響していた。

当時の私の知識・・・・再建について、真剣に考える手前で私の心をブロックした
「あやふやな知識」として、
放射線を掛けると再建が困難になる。
もしくは、無理な事が多い。かなりのリスクで受けてくれる病院も少ない。
等々、放射線の後の再建の困難さだけが、インプットされていたのでした。

しかし、これは正確な知識とは言えなかった。
困難になるという事は確かにそのとおりなんだけど、どういう理由で困難になるのかという、困難の理由(何故)まで分かっていたわけではなかった。

それでは、正しい知識とは言えず、
この「何故」をきちんと受け止め、自分なりに勉強したとき、私の中で「再建」がグッと近づき、

光となった。



自分を愛するイコール再建へと、グラフの線が交差し一つになる瞬間へと向かう時が
その後、訪れたのです。



つづく


PS
放射線のリスク、このことはまた別に書きたいと思います。
無知であるって事は、色んな可能性をのがしてしまう事にもなるのだなと、
事、病気については、冷静に調べたりする時間はとても大切だ
という事を学んだ「乳がん体験」でもありました~~


アホ可愛い~~のキャラも捨てがたいんだけどね~~


充分アホとの声も聞こえるが・・・・・・










始めは・・・

2011年01月15日 23時55分01秒 | 乳房再建を決めるまで

始めは同時再建のつもりだった。

私が、乳がんの告知を受けた時、特に乳がんに対する知識が豊富にあったわけでもなく、
むしろ、周りに乳がんの人もいない中
(のちに、自分もそうだったという人がけっこう出現したのはびっくり!!)
だからこそ、けっこう悪くなるまで検診もせず、のほほんとしていたのだが・・・


話を戻すと、そんな状況の私でさえも、おぼろげに刷り込まれた知識として、
今の医学では乳房の形は残せる、つまり温存が当たり前なのだろうという知識があった。

そして、できるだけ、綺麗に治す方向に乳がんをとりまく医療は進歩している、
そんな事をぼんやりと知っていた。

本当に、ぼんやりと・・・・・。



だけど、現実には、病状によっては温存は無理な場合もあることなど、
だんだんに分かってきて、そこで、行きついた答えは、同時再建だった。


やはり、全摘といのは、癌という現実と引き換えても、まだどこかで抵抗があったのだと思う。

それと、「今」の医学の進歩を享受できるこの時代に乳がんになったんだ!
という
これをフルに利用しないでどないすんねん←なぜか関西弁!!
っていう「もったいな根性」のようなものがあって、
同時再建という、喪失感も無く、根治性にも叶う、方法に夢をいだき、
その名医も探し、手術の予約までした。


この段階で、私が見ていたのは、同時再建のみで、「再建」は私の中には無かった。

というか、あえて、切り捨てていた感じかなぁ~、今おもえば。
切り捨てた上での、同時再建の選択だったのだと思う。


ところが・・・・・

世の中、そううまくはいかないですね。

私の病状は、鎖骨の下の筋肉にまで転移がこまかくあるという事で、
全摘をして、尚且つ放射線もあて、さらに術後の病理の結果次第で必要であれば、
抗がん剤を続けるという、なんともまぁ~~

今でこそこうつらつら書けますが、当時はかなり落ち込む病状で、

同時再建どろではありません!!って現実がまっていました。

これが、抗がん剤の折り返しの頃に突きつけられた現実で、
その時、ブログ上で、再建経験者の方から、
きっと、今同時再建を諦めても、それが全てではない、といメッセージを頂いたりで、

・・・・・・・・・・

私が再建へと向かう、布石を投げて頂いたということかなぁ。

ただ、その頃の私は、とにかく命を守る事で頭がいっぱいで、
再建の本をみたり、勉強する気力はなく、私の中から、
「綺麗に治す」なんていう、まさに綺麗事は一旦影をひそめるのでした。

そんな感じの術前でした。

あの頃、自分がどうなるのか、意味も無く、涙が溢れたのが、
今では愛しい幻。

つづく・・・・

 

追記

ここで書いてる同時再建とは、温存したうえで取ってしまって足りなくなる分を広背筋
をもってきて完全な胸の形で残すという方法です。私の場合です。