音楽の喜び フルートとともに

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1949年パリの空気

2023-04-07 21:29:00 | 近代
浅草の雷門を金曜日の夜に訪れました。
1番初めに来たのは祖母について来ました。
お琴の師範をしていた祖母は宮城会の理事もしていて、毎年一年に一度東京の評議員会に参加するために東京まで来ていたのでした。
母と来るはずだったのが、都合が悪くなり替わりに私と。
合間の時間で私は祖母と、はとバスツアーに参加しました。

その時でさえ時代遅れ感がありましたが、雷門から隅田川で船に乗って、東京タワーに登って雷門で解散。


お年寄りばかりで、「なんだか地味だなぁ~。」と思っていた私は若かった。

夫は雷門の側の人形焼き屋さんでアルバイトしていたそうで、ひょっとしたら、ニアピン遭遇していたのかも。

観音様、神々しい。

米久本店の提灯が!

そしてやっぱり桜。

スカイツリーと桜。

都会の川遊びといえば、セーヌ川のバトゥームッシュ。


エッフェル塔や、ノートルダム寺院
などパリの主だった名所を生演奏付き、お食事付きなどで見られるそう。
私は乗ったこと無いけど…。
夜、橋の上から見てにぎやかで、華やかで心が浮き立ったのをおもいだします。
バトゥームッシュが、運行したのは1949年。
恐ろしく、長い戦争が終わって「世界平和会議」が開かれたりした頃です。


ドアノーのパリ祭のラストワルツ1949年

ドアノーの流しのピエレット ドリオン1956年

ジョルジュ オーリック(1899〜1983年)フランス共和国ロデーヴ生まれ、フランスパリ没
15歳で最初に作品が出版されたほどの神童です。20歳になる前にいくつかの舞台公演のために音楽を作曲しました。
また、パリ音楽院に在学中の1920年にエリック サティ、ジャン コクトーを庇護者とする「フランス6人組」

ルイ・デュレ(Louis Durey, 1888年 - 1979年)アルテュール・オネゲル(Arthur Honegger, 1892年 - 1955年)ダリウス・ミヨー(Darius Milhaud, 1892年 - 1974年)ジェルメーヌ・タイユフェール (Germaine Tailleferre, 1892年 - 1983年)フランシス・プーランク(Francis Poulenc, 1899年 - 1963年)ジョルジュ・オーリック(George Auric, 1899年 - 1983年)
に参加し、アヴァンギャルド(前衛芸術、最先端に立つ人、革新的な試みや実験的な試みをする人)の一員とみなされました。

コクトーが1930年代初頭に動画の制作に取りかかると、映画音楽の作曲を始めます。フランス、イギリス、アメリカの映画産業に多くの楽曲を提供します。
単純明快で屈託のない表現とはっきりと民謡を連想させる旋律やリズム、生命力あふれるオーケストレーションが特徴的です。

1962年映画音楽の作曲をやめて、パリオペラ座の監督に就任し、のちにフランス音楽著作権協会の議長に就任しました。

オーリックの映画音楽
「自由を我らに」1931年
「シーザーとクレオパトラ」1945年
「オルフェ」1949年
「赤い風車」(ムーランルージュ)1952年
「ローマの休日」1953年
「悲しみをこんにちは」1957年
「さよならをもう一度」1961年などなど多数。

「オルフェ」は1949年
ジャン コクトー(1889-1963年)監督

でオルフェウスのギリシャ神話を現代に移した作品です。

詩人オルフェは夫を事故で亡くした女性に呼ばれ、死体を車に乗せます。
車がついた建物で女性は夫を生き返らせ鏡の中に消えます。
後を追ったオルフェは鏡にぶつかって気をうしないます。
目が覚めると建物は消え、妻のユリディスの待つ家に帰ります。
夢の中で女性は女王となりオルフェを呼びます。
ユリディスは夫の心が離れたと悲観しています。
次の日ユリディスはオートバイにはねられて亡くなります。
オルフェは王女の残していた手袋をはめることで鏡を通り抜け、死の国へ出かけます。

そこで裁判が開かれ、オルフェは2度と妻を見てはならぬという条件でユリディスを連れ帰ることを許されます。
しかし彼女は再び夫の愛を取り戻せないと悲観すると、わざと車のバックミラー越しにオルフェに自分の姿を見させて自ら姿を消します

その後、王女は入り口でオルフェを待っていましたが、自分の恋は生ある人に返すべきと悟ってオルフェとユリディスを再び元の世界へ送り返します。

映画「オルフェ」の予告編と組曲「オルフェ」の「オルフェウスと王女」