日本は近隣諸国の為にも正しい主張をしなければならない。
凄く大雑把だけど、纏めてみました。
ダライ・ラマ法王日本代表部事務所のHPによると
元々仏教国家であったチベットは広大な国土を持つバチカンの様な存在だった。
〔モンゴル王チンギス・ハーンとその子孫は、ヨーロッパとアジアの広大な土地を征服し、太平洋からヨーロッパに至る、かつてない一大帝国を築き上げた。1207年、チベットに北接したタングート部はモンゴル軍の襲来によって崩壊し、続いて1271年、モンゴル帝国は帝国の東半分を治めるべく元朝の成立を宣言した。さらに1279年には南宋が滅び、元は中国統一を完成させた。中国は今日、元を正統王朝に位置づけることにより、モンゴルの征服地のうち少なくともその東半分を中国の領土だと主張している。〕
中国がチベットを自国領だと主張する根拠としているものはこの、「元を正統王朝に位置づけることにより、モンゴルの征服地のうち少なくともその東半分を中国の領土」と云うところにある。
〔1240年、チンギス・ハーンの孫にあたるゴダン・ハーンは、チベットに遠征隊を派遣し、チベットの指導的高僧サキャ・パンディタ・クンガ・ギェルツェン(1182~1251)をみずからの幕舎に招いた。チベット・モンゴル間の関係が、これによって開かれることになった。同時にこれが、「寺と壇家の関係」(チュ・ユン)の始まりとなる。〕
チベットは仏教国家なので「寺と壇家の関係」(チュ・ユン)はあったがモンゴル帝国に納税したこともないし、第一モンゴル帝国の継承者は現モンゴル国である。
〔私達が「チベット」という場合、すなわち、アムド、カム、そしてウ・ツァンの3つの州を含む伝統的チベットを意味します。中国はチベット侵略後、チベットを3つの行政区分に分轄してしまいました。
アムドの大部分は青海省、さらにカムとアムドの一部が雲南省、四川省、そして甘粛省内に合併され、ウ・ツァンと西カムの一部が「チベット自治区」として宣言されました。中国当局のチベットとはチベット自治区の地域のみを指します。この状況説明書では、「チベット」という用語はチベットの人々から認識されてきた全チベットを指します。〕
中国地図 チベットの概要 これを見るといかにチベットが広大な国かが解る。
中国国民党と共産党の内戦で共産党が勝利すると、共産中国はチベットに対し侵略を開始する。
〔以下は1949年の己丑年のチベット暦12月15日、国民議会(ツォンドゥ)によって代表団のために発行された信任状の摘要である。
雪の国チベットは、観音菩薩の化身によって代々統治されてきた平和を愛し、仏法への信仰篤き独立国である。中国の内戦中、わが国の平和は敗残兵の侵入に脅かされ、かき乱されてきた。チベットの外務局は己丑年9月12日、毛沢東主席に文書を送り、中国兵がチベット国境に侵入しないようにその権力を行使してほしいと要請した。しかるに中国はこの要請に対し何ら返答せず、かわりに、西寧と北京のラジオ放送がチベットを中国の1部と宣言し、チベットの解放を人々に対して扇動した。チベット問題に関する一切の全権を委任されたこの代表団は、以下の項目について交渉を行うものである。
1 チベット外務局より毛沢東主席宛ての、返答を得られなかった文書に関して
2 西寧と北京放送のおそるべき声明について
3 チベット領土保全の保障をとりつけること
4 チベット政府及び人民は、ダライ・ラマ継承制度に関していかなる介入も受けるつもりはなく、チベットの独立維持の意志を中国政府に通告する 〕
中国はチベットの解放などと云う言い掛かりを付けてチベットに侵攻した。
〔「我々チベット人にしてみれば、“チベットの解放”などという語句は精神的意味合いから言っても道徳的意味合いからいっても噴飯物もいいところである。自由からなる国家が侵略され、“解放”という口実のもとに占領されたのだ。いったい誰からの、何からの解放なのか?
1950年に中国に侵略されるまで、チベットは温情ある政府と心満ちた人民からなる幸せの国であったのだ。」〕
〔1950年10月7日、王其梅(おうきばい)政治委員[政治委員は、人民解放軍のポストのひとつ]に率いられた4万の軍隊が、東チベットの州都チャムド[昌都]に八方から攻撃を加えた。国軍と義勇兵からなるわずか8,000のチベット軍は敗退し、チャムドは2日で陥落した。州知事アポ・アワン・ジクメーは捕らえられ、この戦いで4,000人以上のチベット人闘士が落命した。
チベット国民議会は、同年10月に緊急会議を召集し、国家元首の地位を、当時わずか16歳だったダライ・ラマが引き継ぐよう要請した。また身の安全のため、ダライ・ラマはラサを離れてインド国境に近いドモ[中国名=亞東(ヤートン)]に行くことが求められた。チベット外務省は、このとき次のような声明を発表している。〕
〔チベットは、全権を引き継いだダライ・ラマの下に一丸となって団結している。(中略)私たちは、眼前の不当な侵略を平和的に仲裁してくれるよう、全世界に向けてアピールを行う。〕
こうして、ダライ・ラマ14世の永い国外での亡命生活が始まるのです。
こうして、チベットを手に入れた中国はその後チベットに中国人(漢族)を入植させて居り現在チベット自治区でも人口の半数以上は漢族とのこと。(多民族国家の中国では、人口の94%が漢族、他の55民族が少数民、少数民族は人口の僅か6%に過ぎないが、彼らの領域は中国全土の実に64%を占めている)
〔1949年の中国によるチベット侵略以来、チベットの不法占領、チベット人民に対する非人間的扱い、チベットの文化的遺産の組織的破壊に対して何百回とないデモや抗議行動が行われてきた。しかし、1987年9月27日の抗議行動は、当時大勢の外国人旅行者がラサに居合わせたお陰で、これまでにない国際的注目を浴びた。だがいつもの如く、中国当局者はその抗議行動を情け容赦無く弾圧しただけではなく、その事件全体を“外部からそそのかされた一握りの分裂主義者”によるものであると非難した。〕
ダライ・ラマ14世は世界へ平和を呼びかけて居るが未だに自らの故郷に帰ることが出来ない。
中国の歴史教科書にはチベット問題は何と書かれているんでしょうか、私の予想では史実を歪曲して得意のご都合主義で書かれていると思うんですが。
1989年12月10日ダライ・ラマ14世のノーベル平和賞受賞に於けるスピーチ
〔チベットと中国の関係が、いかなるものでも、平等、尊敬、信頼、互恵の原則に立つものでなければなりません。ということは、チベットと中国の賢明なる指導者たちが、西暦823年の昔に締結した条約の原則に立ち戻ることにもなります。その条件は、ラサにあるチベットで最も神聖な寺院であるチョカン寺院の正面に、今なお立っている石柱(唐藩会盟碑)に刻まれております。その中には、「チベット人はチベットの大地で幸福に暮すように。中国人は中国の大地で幸福に暮すように…」と記されているのです。
私たちの全て、抑圧者も友人も含め、全員のために、私は祈ります。
人間に対する理解と愛を通じて、より善き世界の建設に成功しますように。
そうすることにより、生きとし生けるものの苦痛を、
和らげることができますように・・・〕
さて今回はどんなお話しをなさるのでしょうか。
日本政府は中国に抗議出来ません、決してガンジーやダライ・ラマ法王の真似をしてる訳じゃ無いんです。腰抜けなんです、私が代わって抗議します。
ダライ・ラマ法王がなんと言おうと私しゃ言います。
中国はチベットをチベット人に帰せ、中国人は一刻も早くチベットから出て行け。
チベットの人権問題
亡命チベット人
チベットの核
環境問題
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凄く大雑把だけど、纏めてみました。
ダライ・ラマ法王日本代表部事務所のHPによると
元々仏教国家であったチベットは広大な国土を持つバチカンの様な存在だった。
〔モンゴル王チンギス・ハーンとその子孫は、ヨーロッパとアジアの広大な土地を征服し、太平洋からヨーロッパに至る、かつてない一大帝国を築き上げた。1207年、チベットに北接したタングート部はモンゴル軍の襲来によって崩壊し、続いて1271年、モンゴル帝国は帝国の東半分を治めるべく元朝の成立を宣言した。さらに1279年には南宋が滅び、元は中国統一を完成させた。中国は今日、元を正統王朝に位置づけることにより、モンゴルの征服地のうち少なくともその東半分を中国の領土だと主張している。〕
中国がチベットを自国領だと主張する根拠としているものはこの、「元を正統王朝に位置づけることにより、モンゴルの征服地のうち少なくともその東半分を中国の領土」と云うところにある。
〔1240年、チンギス・ハーンの孫にあたるゴダン・ハーンは、チベットに遠征隊を派遣し、チベットの指導的高僧サキャ・パンディタ・クンガ・ギェルツェン(1182~1251)をみずからの幕舎に招いた。チベット・モンゴル間の関係が、これによって開かれることになった。同時にこれが、「寺と壇家の関係」(チュ・ユン)の始まりとなる。〕
チベットは仏教国家なので「寺と壇家の関係」(チュ・ユン)はあったがモンゴル帝国に納税したこともないし、第一モンゴル帝国の継承者は現モンゴル国である。
〔私達が「チベット」という場合、すなわち、アムド、カム、そしてウ・ツァンの3つの州を含む伝統的チベットを意味します。中国はチベット侵略後、チベットを3つの行政区分に分轄してしまいました。
アムドの大部分は青海省、さらにカムとアムドの一部が雲南省、四川省、そして甘粛省内に合併され、ウ・ツァンと西カムの一部が「チベット自治区」として宣言されました。中国当局のチベットとはチベット自治区の地域のみを指します。この状況説明書では、「チベット」という用語はチベットの人々から認識されてきた全チベットを指します。〕
中国地図 チベットの概要 これを見るといかにチベットが広大な国かが解る。
中国国民党と共産党の内戦で共産党が勝利すると、共産中国はチベットに対し侵略を開始する。
〔以下は1949年の己丑年のチベット暦12月15日、国民議会(ツォンドゥ)によって代表団のために発行された信任状の摘要である。
雪の国チベットは、観音菩薩の化身によって代々統治されてきた平和を愛し、仏法への信仰篤き独立国である。中国の内戦中、わが国の平和は敗残兵の侵入に脅かされ、かき乱されてきた。チベットの外務局は己丑年9月12日、毛沢東主席に文書を送り、中国兵がチベット国境に侵入しないようにその権力を行使してほしいと要請した。しかるに中国はこの要請に対し何ら返答せず、かわりに、西寧と北京のラジオ放送がチベットを中国の1部と宣言し、チベットの解放を人々に対して扇動した。チベット問題に関する一切の全権を委任されたこの代表団は、以下の項目について交渉を行うものである。
1 チベット外務局より毛沢東主席宛ての、返答を得られなかった文書に関して
2 西寧と北京放送のおそるべき声明について
3 チベット領土保全の保障をとりつけること
4 チベット政府及び人民は、ダライ・ラマ継承制度に関していかなる介入も受けるつもりはなく、チベットの独立維持の意志を中国政府に通告する 〕
中国はチベットの解放などと云う言い掛かりを付けてチベットに侵攻した。
〔「我々チベット人にしてみれば、“チベットの解放”などという語句は精神的意味合いから言っても道徳的意味合いからいっても噴飯物もいいところである。自由からなる国家が侵略され、“解放”という口実のもとに占領されたのだ。いったい誰からの、何からの解放なのか?
1950年に中国に侵略されるまで、チベットは温情ある政府と心満ちた人民からなる幸せの国であったのだ。」〕
〔1950年10月7日、王其梅(おうきばい)政治委員[政治委員は、人民解放軍のポストのひとつ]に率いられた4万の軍隊が、東チベットの州都チャムド[昌都]に八方から攻撃を加えた。国軍と義勇兵からなるわずか8,000のチベット軍は敗退し、チャムドは2日で陥落した。州知事アポ・アワン・ジクメーは捕らえられ、この戦いで4,000人以上のチベット人闘士が落命した。
チベット国民議会は、同年10月に緊急会議を召集し、国家元首の地位を、当時わずか16歳だったダライ・ラマが引き継ぐよう要請した。また身の安全のため、ダライ・ラマはラサを離れてインド国境に近いドモ[中国名=亞東(ヤートン)]に行くことが求められた。チベット外務省は、このとき次のような声明を発表している。〕
〔チベットは、全権を引き継いだダライ・ラマの下に一丸となって団結している。(中略)私たちは、眼前の不当な侵略を平和的に仲裁してくれるよう、全世界に向けてアピールを行う。〕
こうして、ダライ・ラマ14世の永い国外での亡命生活が始まるのです。
こうして、チベットを手に入れた中国はその後チベットに中国人(漢族)を入植させて居り現在チベット自治区でも人口の半数以上は漢族とのこと。(多民族国家の中国では、人口の94%が漢族、他の55民族が少数民、少数民族は人口の僅か6%に過ぎないが、彼らの領域は中国全土の実に64%を占めている)
〔1949年の中国によるチベット侵略以来、チベットの不法占領、チベット人民に対する非人間的扱い、チベットの文化的遺産の組織的破壊に対して何百回とないデモや抗議行動が行われてきた。しかし、1987年9月27日の抗議行動は、当時大勢の外国人旅行者がラサに居合わせたお陰で、これまでにない国際的注目を浴びた。だがいつもの如く、中国当局者はその抗議行動を情け容赦無く弾圧しただけではなく、その事件全体を“外部からそそのかされた一握りの分裂主義者”によるものであると非難した。〕
ダライ・ラマ14世は世界へ平和を呼びかけて居るが未だに自らの故郷に帰ることが出来ない。
中国の歴史教科書にはチベット問題は何と書かれているんでしょうか、私の予想では史実を歪曲して得意のご都合主義で書かれていると思うんですが。
1989年12月10日ダライ・ラマ14世のノーベル平和賞受賞に於けるスピーチ
〔チベットと中国の関係が、いかなるものでも、平等、尊敬、信頼、互恵の原則に立つものでなければなりません。ということは、チベットと中国の賢明なる指導者たちが、西暦823年の昔に締結した条約の原則に立ち戻ることにもなります。その条件は、ラサにあるチベットで最も神聖な寺院であるチョカン寺院の正面に、今なお立っている石柱(唐藩会盟碑)に刻まれております。その中には、「チベット人はチベットの大地で幸福に暮すように。中国人は中国の大地で幸福に暮すように…」と記されているのです。
私たちの全て、抑圧者も友人も含め、全員のために、私は祈ります。
人間に対する理解と愛を通じて、より善き世界の建設に成功しますように。
そうすることにより、生きとし生けるものの苦痛を、
和らげることができますように・・・〕
さて今回はどんなお話しをなさるのでしょうか。
日本政府は中国に抗議出来ません、決してガンジーやダライ・ラマ法王の真似をしてる訳じゃ無いんです。腰抜けなんです、私が代わって抗議します。
ダライ・ラマ法王がなんと言おうと私しゃ言います。
中国はチベットをチベット人に帰せ、中国人は一刻も早くチベットから出て行け。
チベットの人権問題
亡命チベット人
チベットの核
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