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えええ!親日国パラオの台風被害への支援が200万円分の現物支給だけ?これで援助したことになるの?

2013年11月23日 | 身辺雑記

第一次世界大戦以後、日本はパラオとの友好関係を常に大切にしてきた。
 今回の台風30号で大きな被害を受けたのはフィリピンだけではなかった!
http://ameblo.jp/fuuko-protector/entry-11697005268.html

オーストラリア・ネットワーク・ニュースが伝えるところによると、高潮での冠水で塩害が出ている様です。
悪天候はパラオの台風の回復を阻害

在パラオ日本大使館によると
台風30号の被害に対する緊急援助の実施
<11月15日、日本国政府は、パラオ共和国における台風30号の被害に対し、パラオ政府からの要請を受け、国際協力機構(JICA)を通じ,200万円相当の緊急援助物資の供与を実施することを決定しました。
緊急支援物資には、2.2kWの移動式発電機5基、コードリール5巻、スリーピングマット120枚、50メートルの防水シート20巻が含まれます。
これらの物資は11月22日にパラオ国際空港に到着し、カヤンゲル州でがれき撤去作業を続ける人々をはじめとした被災者のもとへ、パラオ政府により直ちに届けられます。>

200万円相当って、そうとう少なくないですか。
物資は昨日到着らしいがこれも遅くないですか。

先ほど外務省にメールを送りました。
<前略「台風30号の被害に対する緊急援助の実施」を拝見しました。古き良き日本の理解者パラオの人々が被害に遭われていると思うと悲しくなります。
そこへ我が国の援助が200万円程度とは悲しく腹立たしくてなりません。
人道的立場から更なる援助と自衛隊などによる人的応援もお考えいただきたいと思います。
東日本大震災の際には多くのパラオの方々からご支援をいただきました。今度は私たちがお返しする番でしょう。外務省の方々には、日本としてパラオの方々のお役に立てるご努力を願いたいと思います。>


「日本とパラオといえばこの話」ですよね!

 太平洋戦争当時、パラオにあるペリリュー島を守備していた日本軍のうち10695名の日本兵が戦死し、202名が捕虜になりました。
 アメリカ側も、、1794名が戦死し、8010名が負傷しました。
 ところが、ペリリュー島にいたはずの「パラオ人の死亡者はゼロ」なんですね。
 パラオ人たちは島の安全な場所に隠れていたのでしょうか?
 いいえ、その答えも間違っています。
 事実は、戦後になって判明しました。
 以下、船坂弘著『サクラサクラ ベリリュー島洞窟戦』から、その時の状況を見てみましょう。

遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。
 「あそこでみんな死んでいったんだ・・・・」
 沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。

 太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。
 老人は村の若者達と共にその作業に参加した。
 日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。

 やがて戦況は日本に不利となり、
 いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。

 仲間達と話し合った彼は代表数人と共に
 日本の守備隊長のもとを訪れた。自分達も一緒に戦わせて欲しい、と。
 それを聞くなり隊長は激高し叫んだという  
 「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」
 
 日本人は仲間だと思っていたのに・・・・・みせかけだったのか。
 裏切られた想いで、みな悔し涙を流した。

 船に乗って島を去る日 日本兵は誰一人見送りに来ない。
 村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。

 しかし船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に走り出てきた。

 そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。
 先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。

 その瞬間、彼らは悟ったという。
 あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと・・・・・。  

  『サクラサクラ  ベリリュー島洞窟戦』船坂弘著(1967年) より