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心中宵庚申

2007-04-22 18:37:57 | TV/映画/舞台
さて、昨日の続きで午前の部の二つ目の出し物「心中宵庚申」について書きます。今回の公演はこの演目がメインといってよいのでは。箕助さんの得意演目であるだけでなく、昨年なくなった玉男さんの代表作の一つでもあるわけで、箕助さんと勘十郎さんが公演前に玉男さんのお墓参りをされて、成功を祈られたそうです。

4月文楽公演 第1部「心中宵庚申」のお千代・半兵衛が成功祈願

さて、心中物、お好きでしょうか。一緒に文楽通いをしている妹は、近松の心中物がかかるとぼやきます。アホ男を見ると腹がたつのだそうです。第106回文楽公演パンフレットには、作家の三浦しをんさんが「文楽とダメ男のマジック」という題で同じようなことを書かれています。

たしかに心中する(刑死する)近松の世話物のヒーローたちはあまりにもだらしない。1月公演の「冥途の飛脚」の忠兵衛なんて、目を覆わんばかり。友達の金を盗むわ、侍のお屋敷に届けなければならないお金を懐にしたままふらふらと恋人梅川のいる廓にでかけていって、友達が遊女をあいてに自分を笑いのねたにしているのに切れて、金を横領して梅川の身請け金にしちゃうんですから。武士の用金を横領したら死罪です。梅川を連れて逃げて、最後は追っ手につかまり死罪になる、というお粗末な結末。このうつけもの、というところ。まだ赤ちゃんで、おしめをしているころからお母さんがもっとビシバシ教育すべきだったとしかいいようがありません。実生活ではお目にかかりたくないタイプです。

ところが、舞台を見るとこのダメ男たちに同調しちゃう時があります。先ほど書いた忠兵衛にしたってそうでした。まず、お屋敷にいく途中で、魔がさして廓にいきたくなるところ、通称「羽織落とし」のところからその気分になってしまいました。綱太夫の語りで「行て退けうか、イヤ措いてくれう」という繰り返しのところなど、はらはら、どきどき。お人形で羽織がはらりと落ちるところも、なんともいえない雰囲気で。羽織が落ちた、行くことに決めた、ってのが必然のような気さえしてしまう。いや、本当は彼が弱いだけなんだけど、それならそれで、誰でも持っている人間の弱さっていうを一身に体現しているのが忠兵衛なのではないかとさえ思えてきたりしました。大事な仕事があっても、恋人の顔をちょっとだけ見たい、っていうのは、ほんの出来心です。本人にだってわかっているのです。ところがその出来心がついに自制心に勝ち、破滅への道を開いていく、っていうのはなんともリアルで身につまされまして、いつのまにやら忠兵衛と同調している自分がいたんですね。あんなダメダメ君と同一化しちゃうなんて、なんだったんだろう。芸の魔力にかかったとしかいいようがありませんでした。

近松の世話物のダメ男たち、性格はそれぞれちがうんですけど、共通しているのは妙な色気、可愛げ、優しさ、一途さ。生きていくために必要なバイタリティだの才覚だの、ずる賢さがすぽっと抜けているのでへまをやらずにはいられない。ギラギラしたところがまったくなくて、ひたすら不器用。破滅にむかう下降線の美の持ち主たち。

こういうのに取り付かれちゃった女たちは、生きている間ははらはらし、自分がいないとどうなることやら、と気が気でなくなり、努力の甲斐もなく相手がどうしようもないところまで自分を追い詰めてしまうと、こんなのを一人で死なせるのは忍びない、もういい、一緒に死んであげる、という気になってしまうのでしょう。女にとっては疫病神ですな、まさしく...

今回の文楽公演の「心中宵庚申」の半兵衛は、忠兵衛あたりにくらべれば、ダメ度は低いほう。多少の決断力はあるし、元武士らしくきっぱりとしたところもあります。しかしですねえ、このお方、やたらに義理堅く不器用。ホント、気の毒なぐらい。いくら長年世話になったといったって、義理の母親は嫁にも使用人にもつらくあたる鬼婆なんですからね。適当にあしらってほっておけばいいんです。まともに話をきいてやることはありますまいよ。出刃包丁で自殺するなんざ、単なる狂言でしょうよ。義理の父親を見習えばいいのです。義理の父が寺社通いにせいをだしてのんきにすごせるのも、運悪く鬼嫁をもらってしまったのにもめげず、それなりのサバイバル術を身に着けてハッピーに生きているからにほかありません。

ところが半兵衛ときたら、姑の狂言を真に受けて、親不孝をすまいと自分たちが死んじゃう。おみそがイマイチたらないというか、自己保存の精神が欠落しているというか...

また、女房のお千代には夫の破滅を食い止める力はまったくないんですよね。姉のおかるのようにしゃんとしたしっかり者であれば、亭主を丸め込んで、なんとか生活していくんでしょうが、これまで二度の離別という度重なる不幸にめげている上に、もともと、素直で流されてしまうタイプらしき彼女は、「去らぬ」という言葉に嬉々とし、言われるままに心中してしまう。義理堅く自分を追い詰めてしまう夫と、三回目の結婚でやっと心を通じ合わせ、何が何でも夫と添おうとする妻というカップルでは、破滅しか道はない、という性格悲劇となっています。

主人公がすかっとする性格の持ち主でないだけに、そのダメさに潜む不思議な魅力をひきだせるキャストでなければ、苛立ちのうちに話が終わってしまうことがおおいのでないかと思います。

今回はまちがいなく、「現時点でのベストメンバー」。太夫は上田村では住太夫さん。声はあまりでていなくて、調子はよくなかったにちがいないのですが、千代の父で頑固さと慈愛の同居する平右衛門はしみじみよかったです。八百屋では嶋太夫さんが時に軽妙に笑わせてくれたかと思うと、一気に緊張感を高めるという語りで味がありました。さすが、というところでしょう。

そして人形の主役二人がすごくよかった。箕助さんの女のお人形といえば、たいがいは細かく華やかに動くのですが、今回のお千代は動きが少なく地味です。ところが、おずおずとかごから降りて実家の戸口に立つ様や、ちょっとした肩の落とし方や斜めに座っているときの首の線など、最小の動きで薄幸の女性を表現してしまうマジックぶり。「また去られて」と、いうときの様子も、三度も離婚となったことを本当に苦にしているのがわかります。しかも今度はおなかに子供もおり、夫婦仲そのものはよいだけによけい苦痛なのでしょう。一転して、実家にやってきた半兵衛に「たとえ死んでも体も戻さぬ、尽未来まで、女夫」といわれ心の底から喜ぶ姿も、後の始末を知っているだけに、あわれです。箕助さんの人形はいつもにまして、妙にリアルでした。また、死んでしまった後も、ふつうは人形遣いはぬけていくはずなのに、箕助さんは人形を離しません。半兵衛が自害していくときもだまってじっとしています。半兵衛はお千代に重なるようにして死んでいくのですが、死んだ後もお千代は半兵衛が離れていかず、自分を抱きしめてくれるのを待っていたという表現なのでしょう。これにも参りました。なんとも切なくて

さて、ここまで女の人形にやられてしまうと、男の人形が食われてしまう危険があります。事実、箕助さんの人形は、忠臣蔵のおかるといい、夏祭浪花鑑のお辰といい、嫗山姥の八重桐といい、他を圧倒してしまう時があります。でてきたとたんに、箕助さんの人形に目が吸い寄せられてしまい、もう他は眼中にはいらなくなるのですそれだけ頭一つ、二つぬきんでた偉大な人形遣いなのですが、ある意味、たいへん困った存在なのかもしれません。 

今回の勘十郎さんは大健闘だったといえるでしょう。食われるどころか、悲劇へと突っ走っていく中心的存在としての存在感を示してくれたように思いますなんといっても心中物のヒーローらしいあやうい魅力があるのです。誠実で、なんとかしてくれそうに見えるし、本人も懸命に努力しようとするという善良な性格。だけど、それがなぜか負の方向に向いてしまうわけ。動けば動くほど、すぶすぶっとドツボにはまるのです。その不器用さがなんともよくてね(笑)行動的には不器用な反面、内面的には複数の要素が混合してくねくねしている優柔不断ぶりも面白い。それもすべて善意からきているときてます。舅の非難をじっと耐えている自虐性と誠実さの混合もよければ、心中を覚悟して、赤い毛氈に荷物を包むところなど、ためらいと覚悟がごったまぜの感じもよかったですねえ。心中するためお千代と待ち合わせてでていくところも破滅に向かって一直線というスリリングさがあって。心中の間際ですら、ためらいを見せたり、一気に覚悟を決めたりと、もろいのか、強いのかよくわからん人です。しかし、気になって見てしまう。最後はただもう哀れで気の毒で。せめて来世では二人そろって幸せになってね、と思ってしまいました

あいにく見逃してしまったですが、他のダメ男たち夫婦善哉の柳吉も、冥途の忠兵衛も評判がよかったようです。玉男さん亡き今、文楽の男の人口の約半分を占める()ダメ男の魅力を一番見せることができる人形遣いが勘十郎さんなのかもしれません。女形をやらせてもうまい人なので、近松の世話物の男のはんなりした色気を表現できるのかしら。この人がダメ男をやるときはこれからは見逃しますまいよ。いや、関西でやるときはどんな役でもみたいものです。前からファンだったのですが、今回、ますますひいきになったのでした。




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