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12月13日(月)鉢物の引越し

2010-12-13 10:35:34 | ★③(は)お父さんの閑話365日(転載)
12月13日(月)鉢物の引越し

昨日は懸案だった鉢植え植物の屋内取り込みをした。本格的寒波が来る前に引越しできてほっとしている。シンビジウムなどの場所ふさぎな大型鉢物を数年前に処分したので大分楽になったが、それでも老骨には堪える仕事である。

まず戸外から2階の越冬用棚に移動するのに、どうすればいちばん作業しやすいかを考えた。大きな鉢物は両手で抱えて一つしか運ぶことが出来ない。小ぶりのものは両手に1個ずつ持てる。小鉢に植えたものは水受けトレイに乗せれば一度に数鉢運べる。

そのように分類したうえで、大きい物から順に玄関のたたきに運んだ。戸外から2階へ直接持って上がったのでは、その都度履物を換えなければならないから面倒である。いったん全部たたきに集めてから2階へ運び上げ始めたが、大きな鉢だと足元が見えないので階段を上るのがおかなびっくりだ。

「よっこらさ」と棚に乗せて一息つく。息を整えないと次の動作に移れないとは情けない。そうして何度玄関と2階の間を往復したことだろう。いい運動にはなったが疲れる。途中でエネルギー補給のため甘いジュースを飲み休憩を挟んで運び終えるまで2時間ほどかかったろうか。

加齢とともにだんだん作業がきつくなる。2階へ移動しないで済むように1階に新たな受け入れ場所を整えなければならないだろう。夫婦だけの生活だから場所はいくらでもありそうなものだが、散らかし放しだから容易でない。

4種類のクリスマスカクタス(シャコバサボテン)が暖かい部屋に移されて今年も咲こうとしている。数年ごとに植え替えて長い付き合いの鉢植えだ。同じように愛着があるオンシジウム、何種類かのゼラニウム、アマリリスも枯らすことは出来ない。来年は彼らに安住の新居を見つけてやろう。

門松は冥土の旅の一里塚

2010-12-13 06:41:12 | ■⑪大事な言葉★観たい映画★
「門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」。これはご存知、一休宗純の「狂雲集」にある有名な句の一つである。そしてこれは一休さんらしいアイロニーでもあるが、さすがになるほどと思わせるうまい表現である。

私の年齢になるとこれからどう生きるかということももちろん大切だが、どんな死に方をすれば良いのかの方がむしろ気になってしまう。

正月から縁起でもないこととお叱りを受けるかも知れないが、昔は今のように満年齢を使うのではなく数え年を使ったので、正月になると誰でも一つ歳を取ったことになる。だからという訳でもないのだが、年の初めにあたって、歳をとることの意味、さらには生きることの意味、死ぬことの意味を、考えてもおかしくはないだろう。

誰でも歳をとることを返上することはできない。どんなに偉い人も、そうでない人も平等に歳をとる。金持ちも貧乏人も区別はない。さらに、生まれてきたときにすでに死ぬことが決まっているのであるから、じたばたしても始まらない。

私たちの生命というものはもともと与えられたものである。自分の意志でこの世に生まれ出でた人は一人もいないのである。気がついたらすでに生まれていたわけであるから、いくら生まれてこなければ良かったと思っても、もう遅いのである。つまり自分の意志というものは、自分の人生でありながら自分の生死については全く感知できないのである。

だとするならば、与えられた人生をいかに生きていくのか、どのような生き方が自分にとってふさわしいのか、さらにどのように死んでいったらいいのかなどを決めるのは、自分の意志によるのだから、このことに関しては、ありがたいことに自分に裁量権があるのである。

ここで勘違いしてはいけないことがある。人には生まれる、生まれないの自由はないが、生まれてしまったあと、自分の意志で死ぬことはできる。だから自殺するのは人の裁量権であると主張して、それを容認する人がいることである。過去10年、自殺者の数は3万人を超えているという。残念なことである。

よく人は、精神的に追い詰められると「こんなに辛いのなら死んだほうがましだ」という。長い人生には一度や二度ならず、そのように思ってしまうこともあるだろう。しかし、死んだ経験もないのに、どうして「死んだほうがましだ」といえるのだろうか。死んで生き返った人がいて、その人に死んだあとの世界の事を教えてもらったとでもいうのだろうか。

いや、そうではなくて、人が「死んだほうがましだ」と口にするときは、その人が死ぬことを人生最大の苦痛であると捉えているため、いま感じている辛さが、その死ぬことよりも辛いのだという心情を表現しているに過ぎないのである。

どの宗教も自殺については厳しく禁止している。わたしたちは人を殺してはならないように自分を殺してはならないのである。死後の世界がどのようなものであれ、現実の世界をないがしろにしてはならないのである。

自分の命は、自分が自分自身の意志で創り出したものではない、与えられたものである。ある時、偶然にも自分がこの世に存在しているのに気がつくのである。自分をこの世に送り出した存在とは、神といってもいい、創造主といってもいい、偉大な存在といってもいいが、わたしたちの五感では認知できない存在である。

もちろん、肉体は両親の遺伝子を受け継いで生まれてくるが、両親が最先端の科学技術を駆使して子どもを創り出したものではない。両親が子どもの遺伝子を創造したわけでもない。その両親もまた、さらにその両親から遺伝子を受け継ぎ生まれてきたのである。

わたしたちは生命、すなわち遺伝子というバトンを両親から受け取り、自分の人生を一生懸命走りぬいて、自分の子どもにそのバトンを渡して死んでいくのである。これは地球上に生命が始まってから現在に至るまで、営々と続けられている生命の営みである。わたしたちはそのように創られているのである。この現実を踏まえてから生きる意味を問わなければならない。

生きることの意味や死ぬことの意味は、人によって違うのは当たり前であるが、どのように生きるのか、どのような死を迎えるのか、自分なりの考えを持っていることは、とても大切なことである。

『たとえ明日世界が滅亡しようとも、今日わたしはりんごの木を植える。』

これは16世紀、宗教改革を行い、ルーテル教会を創設したマルチン・ルターの言葉である。理屈っぽい人からすると、明日世界が滅んでしまうのに、今日りんごの木を植えても意味がないということになる。

しかしそうではなく、りんごの木を植えるという作業は、将来に希望を持つことの象徴である。いまがどんな辛い状況であろうとも、将来に希望を持ち続けることが、いかに大切であるかを教えているのである。