天使の図書館ブログ

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動物たちの王国【第一部】-3-

2014-01-16 | 創作ノート
【ラザロの蘇生】(カラヴァッジョ)


 え~とですね、今回もまた前文ではテキトーに軽いことを書こうと思ってたんですけど、この小説結構長いので、どうせそのうち書くことなくなるだろ☆ということもあり……脳死について、わたしが最近思ったことをちょっと書いてみようと思います。

 なのでまあ、つっとばか真面目でお堅い話……になるかもしれないので、こうしたことに興味ない方は、本文だけ読むとか、何かそんな感じでお願いしますm(_ _)m

 今「脳死・臓器移植の本当の話」(小松美彦さん著/PHP新書)という本を読んでいて、まだちゃんと読み終わってはいないものの――なんというか、<脳死>というものについて読む前と読んだ後とで、考え方が変わってしまいました(^^;)

 なんていうかわたし、ドナーカードを常に携帯して持ってる人ではないんですけど、臓器移植ネットワークに登録してるので、たぶん交通事故にでも遭って脳死になったら「コンピューターに登録があります」ってことで、ドナーにされるんじゃないかと思います。

 微妙な言い方の違いですけど、↑の本を読む前まではわたし、自分が「ドナーになる」と思ってました。でも読み終わった今では……「ドナーにされる」といったように、考え方が変わってしまったというか

 いえ、もしドナーカード持ってると、最初から「移植ありき」で話を持っていかれる可能性がある、家族のほうで「移植は拒否します。それより出来る限りの治療をお願いします」と言ってその後実際元気になることもあるって……正直、「下手なホラーなんかよりよっぽと怖えよ☆」と思いました。

 なんにしても、今回もまた本文長いので、この「脳死」ということについては、ちょっとずつ前文で書いていくことにしたいと思います。

 今回のトップ絵は、カラヴァッジョの「ラザロの蘇生」なんですけど、脳死状態の方の中には「ラザロ徴候」というものを示す方がいらっしゃるということなんですよね。

 ラザロ徴候っていうのは、脳死患者さんが自発的に手足を動かしたり、手を上げて前で組み合わせ、祈るようなポーズを取ったりということを指すそうなんですけど……このラザロさんっていうのは聖書に出てくる人物で、イエスさまが死後四日経っていたところを甦らせたという方です。

 聖書では、キリストが死に打ち勝つことの予型であるとされているんですけど、ラザロっていうのはヘブライ語で「神が助け」という意味なので、そう考えると「ラザロ徴候」っていうのは、「神さまに助けを求めるポーズ」でもあるように思え、なんだか切ない気持ちになりました

 あの、一応誤解のないように最初に書いておくと、植物状態の方が「奇蹟的に意識が戻った」ことはあっても、「脳死状態」の方が蘇ったということは世界中で一例もないそうです。

 でもこの「植物状態」と「脳死状態」が混合されやすい理由として、交通事故や脳梗塞で倒れた患者家族の方などが、「このままいくともしかしたら植物状態……」といった医師の説明を受けて、その後患者さんが元気になった時に「うちの息子は医者に脳死を宣告されたのに、そこから生き返った!!」みたいに話を広めてしまうことがあるそうなんですよね。つまり、そうしたある種の誤解が一般に流布してしまった結果、という部分もあるというか

 もちろん今は、「脳死」と「植物状態」は違うということを知ってる方のほうが多いと思うんですけど、ここから先のお話についてはまた次回に回したいと思いますm(_ _)m

 それではまた~!!



       動物たちの王国【第一部】-3-

「ねえ、師長。蜷川さんが来れないって本当!?」

 いの一番にビールを注文し、それをぷはーっと飲み干してから、鈴村が若干顔を赤らめてそう聞く。

「ええ。夜勤明けで具合が悪いらしいの」

「あーっら。じゃあ、今朝夜勤明けだったにも関わらず、無理して参上したわたしたち先輩は一体どうなるのよっ!?」

「まあまあ、姐さんたち。落ち着いて落ち着いて」

 幹事ということもあり、医師たちの中でひとりだけ先に派遣された大河内が、まるで荒馬をなだめるように「どうどう」などと言っている。

「じゃあ看護部の新人を代表して、羽生さんっ。さあ、前に出てきてっ」

 唯は思わずギクッとしたが、他ならぬ先輩看護師の命令である。仕方なく長方形のテーブルが四つ並ぶ一番前のほうへ出ていくことになった。

「さあさ、まずは一杯ぐいーっといっちゃいなさい!!で、救急部に来て今はどう思ってるのかをすべて吐きだすのよっ!!」

「えっと、みなさんとても心が温かくて……」

 唯はこれまで、アルコール類をほとんど飲んだことがない。けれどこれもいわゆる「大人のおつきあい」と諦め、コップ半分くらいのビールを一息で飲むということにした。途端、「大人しそうに見えて結構いけるじゃないの」などと、やんやの喝采が上がる。

「うっそつきなさんなって!!ここにいる一体誰の心が温かいの!?幸い今は結城先生もいないことだし、あいつに対しても言いたいことがあったらはっきり言っちまいなさいっ。「ちっくしょう。結城めえっ、今に見てろよお。ちょっと格好良くて手術の腕がいいからって天狗になってんじゃねーのか!?おまえなんかなあ、救急部だからなんとか勤まってるけど、他の科にでも行った日には上司から煙たがられて余り物にされるに決まってんだぞーっ。わかってんのか、ええ!?」……さあ、羽生さん。わたしに続いて今の言葉を復唱するのよっ」

「え、ええっ!?そ、そんな……」

 鈴村主任にそう促されても、唯としては決心がつきかねた。それでも周囲の人間の期待をこめた眼差しに耐えかねて、やはりその言葉を言わざるをえない。

「ち、ちっくしょうっ。結城めえっ。今に見てろよお。ちょっと格好良くて手術の腕がいいからって天狗になってんじゃねーのか!?おまえなんかなあ、救急部だからなんとか勤まってるけど、他の科にでも行った日には上司から煙たがられて余り物にされるに決まってんだぞーっ。わかってんのか、ええ!?」

 そして唯がちょうどそこまで言い終えた時――がやがやという声がして、うらぶれた焼肉屋の二階にある宴会席に、他でもない結城医師が姿を現したのだった。彼の後ろにいた後輩、あるいは研修医たちは何かをげらげらと笑いあっている。

「この俺に対してそこまで言えるとは、なかなかいい根性してるな、このアマ」

 当然、翼だけでなく、他の医師たちにも唯が先輩にけしかけられて「言わされた」のだということはわかりきっていただろう。けれど、翼はそれからも真顔で怒ったままの表情でいた。

(どうしよう。結城先生、本気で怒ってる……)

 鈴村や峰岸にしても、自分たちが狙っていたほど翼に受けなかったと思ったのだろうか。それからはそれぞれが小さなグループになって、日頃の看護生活の不満について、時に笑いを交えながら語りあうようになっていた。

 医師たちのグループは医師たちで固まり、よほど腹が空いていたのかどうか、次々と鉄板に肉をのせていき、「ホルモン、ホルモン」だの、「馬刺し、馬刺し」だの、自分たちの食べたいものを呪文のように唱えてばかりいる。

 そして看護師たちも医師たちもそれぞれがたらふく食べてお腹がくちくなった時――何故か研修医が腹芸を披露することになっており、白衣をバッ!!と広げてマジックで変な顔の描かれた胸や腹を見せはじめた。その姿はほとんど、公園で幼児に対し一物を見せる変態に限りなく近いものがあったかもしれない。

 この芸は看護師たちにも結構受けたのだが、その笑いの渦に唯は参加できなかった。いや、かろうじて笑う振り……苦笑いに近い顔の表情はしていたかもしれない。けれど、内心では早くこの場から消えてなくなりたいとしか思えなかった。

(飲みたくもないお酒を飲んで、くだらないことでゲラゲラギャハギャハ笑ったり……これが大人になるっていうことなのかしら)と、唯は本気で考えこんでいた。(わたしは看護師になったらもっといい未来が待ってると思っていたのに。患者さんに献身的に尽くして、まわりにいる人たちもみんな同じ気持ちで頑張って助け合って、そんなふうになれるものだと思っていたわ。それなのに……)

 両手に扇子を持って踊り狂う新米医師と研修医の姿を見て、唯は心の底からげんなりした。いや、幻滅したといってもいい。そしてその中心には、唯が医師としてではなく人間としてまるで尊敬できない男が「もっとやれ」とばかり囃し立てている姿が見える。

「羽生さん、そろそろわたしたちはお暇しましょうか」

 唯の隣で、「羽生さんは何が食べたいの?」などと小声で聞いてくれたり、ビールのかわりにウーロン茶を注文してくれた徳川師長がそう言った。

「いつものパターンでいくとね、そろそろ一次会はお開きになるでしょうから……帰るとしたら今しかないわ。二次会はカラオケ、それから三次会はまた別の場所で飲み直すっていうのがこの人たちの定番パターンなの。カラオケに行ったら絶対一曲だけでは帰してもらえないし、あの研修医たちのザマを見ても、この先ろくなことがないのはあなたにもわかるでしょう?わたしがいなくなったら、あなたを助けてくれる人はもうここには誰もいないわ」

 唯は小さな子供がいやいやをするように首を振り、徳川師長に縋りつくようにして小汚い宴会場をあとにすることにした。徳川師長が帰るとわかるなり、「えーっ!?師長もう帰っちゃうのー!?」だの、「カラオケで徳川師長の『妖怪人間ベム』を聞きたかったのにっ」といった声が次々と上がる。

 徳川師長はといえば、適当にそれらの声をあしらって、唯をこっそり連れだすようにしてその場を後にしていた。最後にすっかり酔ったらしい結城医師が「いえやすーっ、また明日なー!!」などと叫んでいる声が聞こえる。

「さあ、ここまで来ればもう安心よ。よく頑張ってあの人たちに耐えたわね」

 徳川師長は店の外でタクシーを拾うと、唯に対しそんなふうに言って慰めた。アルコールの力も手伝っていたせいか、唯はこの時妙に感傷的な気分になり(この人だけはわたし味方だわ)と、泣きたいような気分にさえなっていた。

「でも誤解しないでね。結城先生も鈴村さんも――本当は気のいい人たちなのよ。ただ、気質的に羽生さんとは水と油で合わないかもしれないけれど……」

「徳川師長は平気なんですか?わたしだったらもう耐えられない。また何かの行事で飲みにいったりしなきゃいけないんだとしたら……自分の居場所が針のむしろみたいに感じられるし。それって、さっきの場所だけじゃないんです。病院でもわたし、仕事できないのは自分が悪いせいだってわかってるけど、結城先生にあんなふうに目の仇にされたら……」

「ええ、そうね。あなたのことでは結城先生もちょっとどうかしてるんじゃないかってわたしも思うことがあるわ。むしろ当たるんなら、新人の医師か研修医にでもしておいたらいいのにって。でも彼の場合、口は悪いけど後輩の面倒見はいいほうだから……なんだかんだいって人がついてくるようなところがある。羽生さんも見ていてわかるでしょうけど、うちの救急部で長くやっていきたいと思ったら、鈴村主任とその親友の峰岸さん、それと結城先生に可愛がってもらうことよ。他に生き延びる道はないわね」

「そんなっ。仕事ってそんなふうに、誰かに贔屓してもらうとか、そんなことで成り立つものじゃないと思いますっ。特に看護っていう仕事はもっと……」

 車窓を流れていく夜の街の景色を眺めながら、徳川師長は長い溜息を着いた。まるで自分にも唯のように思っていたことがあった、というように。

「でもね、羽生さん。あなたにもいずれわかると思うけど……どんな仕事も結局は<人同士の繋がり>なのよ。正直なところを言って、わたしもあなたと同じく結城先生のことがあまり好きじゃなかったの。医者としての腕はいいとは思うわ。でも男性としては軽薄すぎるし、人間としても尊敬できないところがある。わたしもこれまで色々なタイプの先生を見てきたけど、あんなに自分と「合わない」と感じる人は他にいなかったくらい。だけどあの人、ある時わたしにこう言ってきたの。『おまえ、俺のこと嫌いだろ。なんでこんな奴と必死こいて同じ現場で仕事しなきゃなんないんだって、顔に書いてあるぞ』って。ちょっとびっくりしたわ。本当は内心そう思ってても、口にだす人なんて滅多にいないでしょう?だからわたし、思わず言葉に詰まっちゃってね。そしたら彼、こう言ったの。『べつにそれでいいんだ』って。『徳川は仕事が出来るし、仕事の出来る奴が俺は好きだから』って……べつにそう言われたからって、わたしの中で結城先生の好感度が上がったっていうこともないんだけどね。ああ、なんだ。わたしこの人のこと嫌いだけど、嫌いでも仕事だけ出来たらそれでいいのねって思ったら、なんだか気が楽になっちゃって」

「じゃあ、じゃあ、仕事の出来ないど新人のわたしはどうしたらいいんですか!?」

 唯はタクシーの後部席で、縋りつくような眼差しで隣の徳川師長を見上げる。

「そうねえ……羽生さんに今日の焼肉大会はきっと苦痛だったでしょうけど、これで少し流れが変わるところがあるって、わたしはそう思うのよ。まあ、すぐに効果は出ないかもしれないけれど、とりあえずひとつのことははっきりしたわ。まず第一に、鈴村主任と峰岸さんは、あなたと同じ新人の蜷川さんをあまり快く思っていない。でも何故か彼女、結城先生には受けがいいでしょ?たぶん、そのことが面白くないんだと思うの。こんな言い方、羽生さんにはなんだかおかしく聞こえるでしょうけど――鈴村さんと峰岸さん、それに結城先生の間には男女関係的な感情はもちろんないのよ。ただ、結城先生と彼女たちの間では、「あの新米看護師はすぐ辞めるだろう」とか「あの新人医師はまるで使いものにならない」っていう意見がほとんどぴったり一致してるの。で、彼らや彼女たちが退職したり別の部署へ移るたびにこう言うのね。「ほら、自分たちの言うとおりだった」みたいに……でも今回、羽生さんと蜷川さんのことでは、初めて意見が割れたみたい。鈴村主任と峰岸さんは、心をまったく開かないけど仕事の出来る新米看護師を可愛げがないと思い、そのくらいだったら仕事が出来なくても一生懸命やってる羽生さんのほうが可愛いと思ってると思う。けど、結城先生があんなにあなたを攻撃するから、どうしたものかと迷ってるのよ」

「そ、そうでしょうか。わたし、仕事で何かミスするたびに、鈴村さんや峰岸さんが呆れてるようにしか見えないんですけど……」

「羽生さんの場合、そこまでひどくもないとわたしは思うわ。というより、みんなそんなふうにして仕事を覚えてきたんだし、鈴村さんも峰岸さんもどちらかというとおっちょこちょいタイプだから、あなたの気持ちのほうがよくわかるのよ。それよりも異常なのはむしろ蜷川さんのほう。誰に教わらなくても脳内ドレーンや胸腔ドレーンの管理方法を詳しく知っていたりとか――家に帰ってよほど勉強してるのか、それとも家族に医者でもいるのかどうか……蜷川さんのことはわたしもよくわからないわね。そういう意味でわたしが師長として心配してるのは、羽生さんよりも彼女のほうだと言ってもいいくらいよ」

「…………………」

 この時唯は、外の暗い闇の中に一筋の光明を見る思いがした。もちろんこんなふうに思うのは、蜷川幸恵に悪いと唯も思いはした。けれど、鈴村主任と峰岸京子と結城医師は水面下で結託してるものとばかり思っていたのに、自分が思い込んでいるほどふたりの先輩看護師に嫌われているわけではないのだと、今初めてわかったのである。

「まあ、あともう少しの辛抱と思って頑張りなさいね。鈴村さんは一見チャランポランでいい加減な人に見えるかもしれないけど、あれでもあの人は一応<主任>ですからね。見てるところはきちんと見て、仮に失敗が多くても一生懸命やってる看護師のことは手厚く守ろうとしてくれるわ。ただ、彼女の場合結城先生とあんまり仲が良すぎるから……羽生さんの処遇のことでは、もう少し様子を見ようと思ってるんだと思うのよ。で、彼女の中で仮にもし、羽生さんにはさして落ち度がないのに結城先生があなたのことを攻撃するのは不当だっていう結論が出たら、必ず助けてくれるようになると思う。だから羽生さんのほうでは決して早とちりしないことよ。鈴村さんのことを心の冷たい嫌な人だと思って避けたりしないことが大切ね。今日のことだって、羽生さんはただ嫌なことを言わされたと思ったかもしれないけど――あれもあの人なりの優しさなのよ。ただ彼女が思ったようにはうまくいかなかったみたいだけどね」

(そう、だったんだ……)

 唯は急に自分が、自己中心的で我が儘で嫌な人間であるように思えてきた。まわりの人は困ったことがあっても助けてくれないし、自分は孤独な被害者だとさえ思っていた気がする。でもよく考えてみたら、まだ救急部で仕事をはじめて一か月にしかならないのだ。きっとこれから、挽回できるチャンスはいくらもあるに違いない。

「あの、徳川師長、今日はありがとうございました。なんていうか、今日だけじゃなくて……いつも、要所要所でさり気なく助けてくださって……」

 唯はタクシーから降りる時、そう自分の上司である看護師長にお礼を言った。すると徳川師長のほうでは、いつものどこか冷たく、感情の読めない顔に戻っていたのだった。

「べつにいいのよ。師長という立場上、部下を励ますこともわたしの仕事だから。それに救急部は慢性的に人手が足りない上に人気がないのよ。だからここであなたに逃げられると、またどこかから新人を捕まえてきて一からものを教えなきゃならないでしょ?それよりは羽生さんがいてくれたほうがずっといいっていうだけの話」

 唯がタクシー代を支払おうとすると、徳川は彼女の手を押し留めた。

「わたしの奢りじゃないから、恩に着る必要はないわ。病院のタクシーチケットがあるからそれを使えばいいの。じゃあ、羽生さんは明日夜勤でしょ?今日は何も考えないでぐっすりお眠りなさい。とりあえずわたしの助言としてはね、まずは三か月がんばることよ。そしたら必ずどこかで風向きが変わるから」

「は、はい……!!」

 徳川師長が「じゃあね」と手を振る姿を、唯は何度となく頭を下げて見送った。何故だろう……心がほっこりと温かくなった気がするのは、間違いなくアルコールの力によってではないと、唯にはよくわかっていた。

 暗い、7.5畳のワンルームの電灯を点けると、そのままベッドの上へ寝転がり――唯は天井の水色の空に浮かぶメルヘンチックな雲を見上げた。この部屋の壁紙はすべて白一色だったものの、何故か天井だけが入居した時からそのような模様をしているのだった。

(外は暗闇でも、わたしの部屋の中はまるで真昼みたいだわ)

 そんなふうに思いながら、唯は再び考えごとを続ける。この一か月の間、病院から帰ってくるたび、疲れきって今のように横になったことが何回あっただろう。けれど今日は初めて、その疲れの中に快い何かが入り混じっている気がした。

(徳川師長はわたしが思っていた以上にずっと素晴らしい人だわ。人の上に立つには、やっぱりあのくらい器が大きくないと駄目っていう感じの……わたしがもし徳川師長のような立場だったら、同じようになんて出来たかしら?たぶん、出来ないわよね。わたしは器が小さいから、いかにも部下に優しくものを教えるいい人みたいにしちゃいそう。あんなふうに恩着せがましくなく、さり気なく人に優しく出来る人間に、いつかわたしもなれたらいいのに……それに、鈴村主任。たぶん、徳川師長の最後の一言がなかったら、わたしはやっぱり主任のことを「心の冷たい嫌な人」だと思っていたかもしれない。でもそうじゃなくて、あれもあの人なりの優しさなんだ……) 

 それから結城先生、と唯は最後に思う。

(徳川師長が言ってたみたいに、わたしもやっぱり結城先生のことは好きじゃない。ソーダで割ったお酒に馬刺しを突っ込んで、「俺の作った馬刺しソーダが飲めねえのか!?」とか、部下を脅迫するだなんて最低だもの。でも仕事以外のことであんなふうにコミュニケーションを取ってるから、先生は人気があるんだろうなっていうのはわかる気がする)

 唯は枕をぎゅっと抱きしめると、今日あったことの総体として、こんな結論を下した。

(ようするに鈴村主任や峰岸さん、結城先生のような人たちは――裏表とか、本音と建前のあるような人たちが嫌いなんだわ。だから今日みたいな場を借りて、そういう人の本性みたいなものを引っぺがしたくなるのかも……救急車で運ばれてくる患者さんやその家族がすべてのことをさらけだすみたいに、何かそこに偽善的なものが挟まってるのが我慢ならないんじゃないかしら)

 救命救急センターにはそれこそ、色々な年齢・性別(第三の性を含む)・階級の人々が担ぎこまれてくる。救急処置室では心臓発作を起こしたホームレスも脳梗塞の会社社長も、等しく同じ扱いを受けるのだ。そこにはどこか奇妙な<平等性>のようなものがあり、家族が駆けつけた時には(あるいは誰とも連絡がつかない時にも)、その患者がどのような人間なのかが医療者たちにはっきりと明らかになる。

(そうした環境にずっと身を置いていたら、わたしみたいな「いい人間だと思われたい」とか、「いい看護師として認められたい」みたいな人間は……結城先生の偽善センサーみたいなものに引っかかってしまうのかもしれないわね。そんなことのために仕事をしないで、本当の看護師の仕事をしろって、結城先生はそう言いたいのかもしれない)

 もちろん唯は自分のことを偽善者だとは思っていない。けれど、若干その傾向があるというのは、自分でも認めるところだった。今日、「ちっくしょう、結城めえっ。(以下略)」と唯が言ったことに対しては、彼はなんとも思っていないか、明日には忘れているに違いない。仮に覚えていたにしても、「きのうは言ってくれたな、お嬢ちゃん」と軽く嫌味を言ってくる程度だろう。

(そうだわ。わたしも結城先生の言う小さなことなんていちいち気にしてちゃ駄目なんだ。鈴村主任はもしかしたら、そのことを伝えようとしていたのかも……)

 唯はすべてのことをそのように良いほうに解釈し、一度深呼吸をして体を起こすと、テーブルの前でノートパソコンと向き合った。その横には<月間救急ナース>という雑誌のバックナンバーが積んであったが、今日は勉強以外のことのためにパソコンを開いていた。

 実をいうと唯は少し前から、婚活なるものをはじめている。救急部のナースとしての仕事がキツく、上司である医師のイビリがつらいので、そうした道へ逃げたいということではない。

 単に「わたしにだってつきあってる彼氏くらいいますっ!!」などというつまらない嘘を清算するためだけに――本当の彼氏を作る努力をしていたのだった。

 唯がその発言をした翌日、鈴村から「ねえ、彼氏の写真見せてよ」などと言われ、携帯を横から覗きこまれたということがある。「あの、全然格好良くないし、パッとしない人なので……」ととりあえず誤魔化しておいたものの、唯にはこの嘘をいつまでも貫き通すという自信がまるでなかった。

 唯自身が「ここなら信頼が置けそうだ」と感じ、登録した婚活サイトには、毎日びっくりするくらいのメールや書き込みが届く。唯にはそれらすべてをチェックする余裕はないのだが、「仕事が忙しくてお返事できなくてごめんなさい」とブログに書くと、大抵の人が「看護師さんって大変だね」といったように同情的で優しい返信をしてくれるのだった。

 唯はその中で、年収が一千万の弁護士であるとか、同じ医療従事者ですといった人にはあまり目をくれなかった。唯自身が求めているのは、あくまでも「自分の身の丈に合った人」であったため――高収入の人とは住む世界が違いすぎて話が合わないだろうとしか思わなかった。それと、医療従事者に対しては「どこの病院に勤めてるの?」といったように、詳しいことを聞かれたくなかったのである。

(えっと、年収三百万円のトラックの運転手さんかあ)

 年齢のほうは、唯より六つ年上の二十七歳だった。唯自身は顔写真を載せていないのだが、彼のほうは写真映りをまるで気にしていない素朴なものを婚活サイトのほうに載せていた。

(趣味は釣りだけど、基本的にはインドア派で漫画や映画のDVD鑑賞が好き……うん、このへんとかわたしと話が合いそう)

 釣りに関しては唯はさっぱりだったものの、この湊慎之介という男性のさり気ない書き込みの文面などが気に入り、唯はとうとう彼に会ってみることにした。

 そして一か月後には晴れて、彼と正式におつきあいすることになり――携帯にも彼と写っている写真を何枚かゲットすることが出来た。不自然な動機による恋愛のはじまりかもしれなくても、唯はやがて自分が慎ちゃんと呼ぶ彼氏とそうした関係になれて良かったと思うようになった。

 何故といって、夜の遅くまで職場の愚痴を彼が聞いてくれたり、優しく慰めの言葉をかけてくれるということが、唯にとっては何よりの心の支えになることだったからである。



 >>続く。





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