天使の図書館ブログ

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動物たちの王国【第一部】-2-

2014-01-15 | 創作ノート
【処女】グスタフ・クリムト


 まあ、言わなきゃ誰も気づかないだろうな~っていう程度のことではあるんですけど……このシリーズの最初の「カルテット」(詩神の呼ぶ声)っていうお話の中で翼が言ってたことと、↓のお話の中には若干違いがあるかと思います

 でもあの時、翼は酔ってたっていうのもあるし、自分に都合の悪いことを話す時って、なんていうかそういう話上の変化みたいなことが生じるかと思うんですよね

 なんとも苦しい言い訳ですけど(笑)、最初に書いた時には「大体こんなよーな話になる☆」と思っていたところ、実際書いてみたらちょっと違う点が出てきたという、要はそういう話です(^^;)

 でもまあ、話の大筋としてはそんなに変化ないので、わたしとしては「ま、そんくらいいいんじゃね?」とか思ってるんですけど(いーかげん☆)

 あとわたし、救命センターのことを少し調べはじめたのも、この「カルテット」っていうお話を書いた後なので……このお話の中では「緊急病棟」っていう言葉を使っています

 こちらも直せばいいんですけど、ある理由からそのまんまになってたり(^^;)

 ちなみに前回書いたこと同様、今回もまた医療的場面がこれで正しいかっていうのはまるで責任持てません

 え~と、でもまあわたし思うんですけど……これ医療小説じゃなくてあくまで恋愛小説ですんで、そこらへんは多少(あるいは多少どころじゃなく)、間違いがあってもいいかな~と自分では思ったりします(殴

 ただ、手負いの獣を書いた時にも思ったんですけど、病院内における人間関係的なものを書こうと思ったら、少しくらいはそういう場所を見て、雰囲気的なものを掴んでないとこういうお話を書くのは無理だな~とは思いました(^^;)

 う゛~んなんていうか、急患がやってきて手術することになって、その前に服とかジョキジョキ切って、血だらけのそれを片付けるとか、お医者さんが傷口を医療用のホチキスで止めてるのを横で見てるとか、看護師さんが患者さんの体にラシックス(利尿剤)を貼って、その上からマジックで日付書いてたりとか……なんかそういう断片的な記憶が残ってて、それで書くことが出来たような部分があるというか。

 もちろんそういう時にも、看護師さんが「本当は何をやってるか」なんて、まるでわかってなかったと思います。ただ言われたことを言われたとおりにやるっていうそれだけなので……でも流石に何度も同じことが繰り返されると、「こういう時にはこうするんだな」っていうことがわかるという、何かそんな感じだったでしょうか。

 んで、今ごろになって医療系の本とか読んで、「あれって実はこういうことだったんだ☆」ということがわかって、頭の中で記憶の回線が繋がるんですよね。その<繋がる>感じがあるから、そういう本は読んでて面白いし、ただ本だけ読んでたっていうのでは体験的には絶対繋がらないなとも思いました(^^;)

 なんにしても今回と次の回とは、実際は一繋がりの章なんですけど、文字制限の関係で入り切らなかったので、例によって二回に分けようと思いますm(_ _)m

 それではまた~!!



       動物たちの王国【第一部】-2-

(今日も、胃が痛い……)

 羽生唯は六時にセットされている目覚まし時計を止めると、「はあ」と重い溜息を着いた。

 朝食はいつも、紅茶かココア、それと近所の美味しいパン屋で買ったベーグルがひとつきりだった。寝ぼけ眼のまま、もぐもぐと何度もベーグルを咀嚼し、ココアでどうにか飲み下す。そして食事を終えると歯を磨いて顔を洗い、七分ほどで化粧をし、きのうの夜勉強したところをもう一度チェックしてからアパートを出ることになる。

 唯がこの四月から勤めることになった大学病院までは、地下鉄の駅を八つやりすごさねばならなかった。そしてうようよとした人の波に揉まれて、エスカレーター、あるいは階段を上りきったところで、今度は七分ほど歩くということになる。

 医師や看護師、その他理学療法士や放射線技師といった職員の更衣室は地下にあり――唯は地下へと続く湾曲した灰色のコンクリートの道を、この日もまた足取り重く歩いていった。

 その入口にある<職員玄関と霊安室はこちらから>という立札を見るたびに、この大学病院を設計した人たちは何を考えていたのだろうと、唯はつい思ってしまう。

(ううん。もちろんそれもあるけど……むしろ今のわたしの精神状態が霊安室に直行したいような気分だっていうことのほうが問題なんだわ。結城先生がもし日勤じゃなくて夜勤であってくれさえしたら、夕方まで胃が痛くなくて済むのに……)

 勤務表のほうは一か月ごとに予定が立てられるものなので、もちろん結城医師がいつ出勤で非番なのか、唯も知ろうと思えばいつでも知ることは出来る。

(でも、そんなことは直前まで知らないほうがむしろ幸せよね。明日は結城先生が日勤で一緒、その次は夜勤で一緒だなんてあらかじめわかっていたら……ストレスで円形脱毛症になりそうだもの)

 ほんの何日か前にも唯は、(今日は結城先生が夜勤か非番でありますように)と一心に神に祈りながら、この緩やかにカーブした灰色の道を地下へと下っていった。

 だが神というのは残酷なもので――唯が心の中でそんなことを祈っていると知ってか知らずか、その三秒後には唯の傍らを当の結城医師が颯爽とバイクで駆けていったのである。

 この地下道は、病院職員の駐車場にも通じており、そこには駐車許可をもらっている職員の車がズラリと並んでいた。だが、駐輪場のほうに止まっているのは、自転車を除けば二台のバイクとスクーターが三台だけのようである。

(げっ。結城先生)

 唯はその時、朝から不吉なものを見たとばかり、早足で職員玄関まで駆けていった。結城医師とは玄関口ですら絶対に顔を合わせたくない。ああ、それなのに……。

「お、おはようございます」

 足の歩幅の違いから、唯は玄関口で翼とバッタリかちあってしまっていた。いかに意地悪であるといえども、一応彼は救急部における自分の上司……そう思い、唯としてはあくまで義務的かつ社交辞令として挨拶したのである。

 ところが翼のほうでは、ただ顔をしかめ、向こうでも「朝から嫌なものを見ちまった」とばかり、プイと顔を背けていた。無論、唯が勇気をだして挨拶したことに対する返事はない。

 職員玄関では、他の科の医師や看護師などが行きかい、唯もまた相手が何科の誰かなど、名前すら知らずともいつも普通に挨拶している。

 そして翼もまた、同僚である唯のことは視界からその存在を消したにも関わらず、他の職員に対しては「はよーっす」などと、いつもどおり軽快に挨拶していた。

 もちろん唯にしても、自分の上司である比較的身近な人間が、挨拶すらしてくれない……などということで、いちいち傷つくほど繊細ではない。だが結城医師のやり口はあまりに開けっ広げか陰湿かのいずれかだった。唯が思うに、その災難は勤務初日からはじまっていたといえる。

 新人職員としての挨拶が済むか済まないかというところで、その日、身も凍るような電話のベルが鳴り響いたことを、唯は今も忘れることが出来ない。

(えっ!?いまだに黒電話って……)と、戸惑うのも束の間、交通事故の患者が二名運ばれてくることがわかり、周囲はにわかに慌しくなった。

 もちろん、唯にしてもいくら新米とはいえ悠長に構えているつもりはまるでなかった。その特殊な業務内容からいっても、仕事覚えが悪い人間は切り捨てられる――そのくらいの覚悟は当然あった。またそこについていくためには、看護師として並以上に努力しなければならないだろうということも……。

 けれど、唯は自分と一緒に入った同じ歳の新米看護師が、あんなにもすぐ仕事に慣れ、対応できるようになるとは思ってもみなかったのだ。

 唯が「おばあちゃんが救命センターで良くしていただいたことが、こちらへ来るきっかけになりました」といったような話をしたのち、同じ二十一歳の蜷川幸恵のほうはただ簡潔に――「看護学校の先生の薦めがあってこちらへ来ることになりました」と自己紹介していた。顔の表情だけを見ると、「そのせいで嫌々ながら仕方なく」といった態度だったが、唯の目から見ても彼女と自分のどちらがスタッフに好感を持たれたのかはすぐわかった。

 何故といって、自分が「おばあちゃんが救命センターの方に色々と良くしていただいたことが……」といったエピソードを話し終えるや否や、空気が一瞬凍りついたようになっていたからである。

(あれ?わたし何かまずいことを言ったかしら?)

 唯はそう思ったが、今にして思えばそれが何故だったのかがよくわかる。

 おそらくあの時、ナースステーションに集まっていた救急部のスタッフたちはこう思ったに違いない。(やれやれ。そんなお高い理想はすぐにも木っ端微塵に打ち砕かれるんだぜ)とでも……。

 それよりも「嫌々ながらでも、来てしまった以上は頑張るしかない」といった態度の蜷川幸恵のほうが、すぐにも現実的な問題に対処できそうに見えたに違いない。

(そして実際、そのとおりだったのよね)と、唯は職員玄関のすのこの上でナースシューズに履き替えながら溜息を着く。

 蜷川幸恵が挨拶を終えると同時、黒電話のベルが鳴り響き、交通事故の患者が二名運び込まれることがわかったわけだが、唯はその患者が運ばれてくるなり、体が凍りついて動かなくなった。だが蜷川幸恵のほうはといえぱ、患者の顔が半分潰れて瀕死の状態であっても――実に対応のほうが素早かった。研修医がモニターを着けると、すぐに血圧を測定し、手で患者の脈に触れてその数値を報告していた。

「おい、そこのお嬢ちゃん。ぼやっと突っ立ってないでさっさと挿管しろ!!」

 唯がこの時「挿管」と聞いてすぐに思いついたのは、医師が行う気管挿管のことだった。つまり、ひとり目の患者にはすでに五~六名の医師や看護師が張りつき、若干遅れて運び込まれた患者に翼は取りかかっていたのだが――その気管挿管を手伝えと言われたと思ったのだ。

「あ、あの、喉頭鏡……」

 救急カートの上をがちゃがちゃ物を探し回っていると、すぐに翼の怒声が飛んだ。

「馬鹿野郎!!おまえ処女か!?もしそうじゃないんなら、さっさとキンタマに管を通しやがれ!!」

 流石に一瞬、この時ばかりはまわりもしんとなった。気のせいか、医療機器類までもがエラー音を一瞬出すのを忘れたかのようだった。

 ひとり目の患者がCT室に運び込まれることになり、一時的に手のあいた医師や看護師がふたり目の患者に対し群がりはじめる。

「わ、わたしにだって彼氏くらいいます!!」

 おそろしい手早さでさっさと気管挿管を終えた結城医師は、「はん。おまえに彼氏がいようといまいと俺の知ったことか」と言ってのけ、黙っていても次から次へと部下から報告が上がってくるのを聞いていた。

「左足開放骨折!!抗菌薬開始します!!」

「腹腔内に出血あり!!」

「先生!!血圧と心拍、落ちてきました!!」

 ……この時のことを思いだすと、唯は今も顔が真っ赤になり、穴があったら入りたいような衝動に駆られる。何故といってうまく尿道カテーテルを挿入できなかったせいで、ベテラン看護師の鈴村が「どきなさい。邪魔よ」と言って、唯のことを押しのけたからである。

 以来、唯は結城医師より、次から次へと罵声と嫌味を浴びせられるという光栄に浴すことになった。「俺は仕事の出来ない奴に用はねえ!」、「最近の看護システムってのはどうなってんだ?あんな仕事の出来ない奴は皮膚科か耳鼻科にでも行きゃいいんだ」、「今度俺の目の前でミスしてみろ。生きて救急部からは出ていけないものと思え!」……などなど、結城医師の唯に対する集中砲火は日を追うごとにどんどん激しくなっていった。

 そうなのだ。けれど、それだけだったらまだいいと唯は思う。何よりも唯自身が一番自己嫌悪を覚えているのは、他の医療スタッフよりも一拍(どころか時に五拍も十拍も)動作がトロく反応が鈍いということだけではない。

『わ、わたしにだって彼氏くらいいます!!』

(あーあ。どうしてわたし、咄嗟のこととはいえ、あんな嘘ついちゃったんだろ……)

 唯がこの日、大学病院に勤めはじめてから一か月ほどのことを振り返りつつ、ロッカー室で着替えを終え、階段を昇っていこうとすると――医師や理学療法士など、男性スタッフのロッカー室から翼が白衣を着て出てくるところだった。

(うげっ。結城先生、今日日勤なんだ……)

 今日もまた神に祈りが通じなかったと思いつつ、唯は微かに痛みを訴える胃袋を抱えながら、エレベーター待ちしている他の医療スタッフの中へコソコソ姿を隠すことにした。

(どうせ挨拶したって無視されるんだし、それだったらせめても存在に気づかれたくない……)

 だが当の結城医師はといえば、不自然に階段から身を翻し、エレベーター前へ向かおうとした唯のことをこの時とばかり見咎めていた。

「おい、おまえ。今俺がそこのドアから出てくるのを見て、一瞬ギクッとしたな?」

「べ、べつにわたし、ギクッとなんかしてません!!」

「ふうん。だったらなんでわざわざ階段に向かう途中で進路を変えた?この朝のクソクソクソ忙しい時間帯、エレベーター待ちしてるスタッフなんか三十人も四十人もいるんだぞ。おまえの所属する救急部は何階にあるのか、今すぐ答えてみろ」

「い、一階です……」

 唯が消え入りそうな声でそう答えると、エレベーター前にいた医師や看護師、理学療法士といった医療スタッフたちが、好奇の目をこちらへ向けはじめる。

「他の人間の迷惑も顧みず、たったの一階分階段を昇ることがそんなに億劫か。大した横着者だな」

 唯は真っ赤になりながら、さっさと階段を昇りはじめた結城医師の後を追うように、薄暗い階段をゆっくり上がっていくことになる。後ろからは「やっぱり結城先生、格好いいわね~」だの、「ああ、あの子か。救急部でいじめられてるとかいう女の子」……といった声が聞こえ、唯はますます惨めな気持ちになった。

 基本的に病院内では、他の科のスタッフのことに関して、さして詳しいということはあまりない。ただ、結城医師は病院内であまりに有名人なので――彼がああしたとかこう言ったということに関しては、何故か医療スタッフ間で広まるのが速いのである。

 何よりそのことにびっくりしていたのは唯自身だったと言っても良い。何故といって生理検査室に検査の依頼表を置きにいっただけで、「がんばってね」などと同情の眼差しを検査技師に向けられ、それはレントゲン室やCT室などでもまったく同様だったからである。

 もし唯があまり芯の強いほうでなく、被害妄想の強い質だったとしたら、今ごろこう思っていただろう。「ほら、あの子処女らしいわよ」、「なんでも結城先生にそう言い当てられて、真っ赤になって俯いたんだって」……みんながそんな話ばかりしているとすっかり勘違いし、震える手で退職願いを総師長室へ持っていったかもしれない。

 けれど唯の胃が痛いのはそのことが原因ではなかった。「そうです。わたし、男の人とおつきあいなんてしたことありません。だって、看護学生時代は勉強と実習で忙しかったし、そんな暇なんてありませんでしたから」――実際、そう答えることを恥かしいとは唯は今も思っていない。にも関わらず、咄嗟のこととはいえ嘘をついてしまった自分を恥かしいと思うし、何より結城医師の考える看護師の習熟レベルと自分が程遠く、いつかそんな場所に辿り着けることが果たしてあるのかと思えること、それが唯の胃が痛む一番の理由なのだった。

「お、結城先生。唯ちゃんと同伴出勤とは、なかなか隅に置けませんな」

「アホ。それよりとっととカンファレンスおっぱじめるぞ。きのうの夜勤の按配はどんなもんだった?」

「フへへへへへ。酔っ払いの喧嘩に交通事故一件、後者は到着後間もなく死亡、その後明け方に自損患者が運び込まれて来たんですけど、患者があんまり暴れまわるんで、鎮静剤をブスッと打って、今は精神科ERの保科先生が話聞いてるとこっスよ」

 R医大病院の救急部のすぐ隣には、精神科ERがある。というのも、自殺患者がある一定の割合で運び込まれてくるため、そちらの精神的なフォローをするために大学病院の精神科医が毎晩待機することになっているのである。

「ふうん。で、おまえは今日が夜勤明けで明日が日勤であるにも関わらず――今晩ある焼肉大会には出席するんだな?」

「だって、結城先輩が俺に新入生の歓迎会の幹事やれって言って押しつけたんでしょーが!医学界における面倒なことはすべて後輩に押しつける……これを大学病院の古き悪しき伝統と言わずしてなんと言えば良いのでしょう!!」

 ペンライトをマイクに見立てて力説する後輩に対し、翼はただ冷めた眼差しを送るのみだった。

「大河内、いつも思うけど、おまえ聴診器で自分の脳と一度会話してみたほうがいいぞ。たぶん、なんか変な小人が住んでて、そいつがおまえにおかしなことを言わせるんだろうから」

「結城先輩に言われたくないっスね。ギャハフへへのゲロンパ!!」

 ナースステーションでは、三人の看護師が看護記録をとっているところだった。間もなく申し送りがはじまるので、三人のうちふたりは「ここ、こうだったわよね?」といったように軽く小声で確認しあっている。

 三人ともおそらくとても疲れきっているし、大河内医師の笑い方がおかしいのはいつものことなので、今ではピクリとも笑う気配がない。そして唯は先輩看護師たちに「おはようございます」と挨拶し、ナース専用の休憩室に鞄を置きにいった。

 ナースの休憩室では、仕事の終わった残りの夜勤看護師と、これから勤務のはじまる日勤看護師が交じりあって、何やら笑いさざめいている様子であった。

「ねえ、今日の焼肉大会、あんたも行くでしょ?」

「焼肉かあ。幹事が結城先生だって聞いてたから楽しみにしてたのに……蓋を開けてみれば大河内行きつけの焼肉屋とはね。先生曰く、「店内は小汚いけど、焼肉はうんめえぞう!!ギャヒヒ」だって。なんかもう今から行く気失せるんだけど」

「そうよねえ。前に結城先生が幹事やった時は、すごーく小洒落たイタリア料理店だったのよ。『あー、こいつはこういうところに女連れてきて口説いてんだな』って感じの店」

「えっ、美鈴さん。それ本当ですかあ!?わたしも行ってみたーい!!」

 ナースの休憩室は狭いので、唯はほんの片隅に自分の小さな鞄を置くと、ナーステーションへ出ることにした。他のナースたちは(それが古参であればあるほど)時間ギリギリまで出てこないが、唯自身は新米だし、ボードに書かれた連絡事項をメモしたりと、することが色々あったからである。

 そして唯は視界の端に同じく新米のナース、蜷川幸恵の姿を発見し、「何か手伝うことはない?」と声をかけてみることにした。彼女自身は経管栄養の終わった患者の容器を手にし、空になった薬剤の注射器をいくつか持っている。

「あの、夜勤お疲れさまです。何か手伝うことがあったら……」

「べつに、結構です」

 いつものことながら、この時もそうクールにいなされて、唯は言葉を失った。せっかくふたり一緒に同じ部署に配属されたのだから、もっと仲良くしたい――唯はこの一か月間、ずっとそう思い続けてきた。けれど「こういう時、どうしたらいいのかな?」といった唯の質問に対してさえ、「ご自分で考えたらどうですか?」といったように、蜷川の態度は常に硬質で冷たいままだった。

(わたしが落ちこぼれナースの烙印を結城先生に押されてるから、そんな人とはまともに話すらしたくないとか、そんなことじゃないわよねえ)

 唯はこの時も寂しい気持ちになりながら、看護助手ふたりを手伝って詰所まわりを整理整頓した。今、救急部で少なくともまともに自分を人間扱いしてくれるのは彼女たちだけだ――とすら、唯は時々思う。彼女たちはその名のとおり看護師を助けるのを仕事としており、一日の内にでる山のような汚れた医療器具を洗浄したり、夜の間に血だらけになった処置室の掃除をしたり、患者の血だらけ・ゲロまみれの病衣を漬けおき洗いしたりと、色々な雑用を任されている。

 つまりそんな彼女たちだったから、緊急の際、どこになんていう名前の医療器具がしまいこまれているかを熟知していた。たとえば結城医師が「ルンバールセット持って来い!!」と怒鳴った時に、唯が廊下のあたりをうろうろしていると、「これ持ってってください」とただ黙って差しだしてくれたりするのだ。

 そして唯としては、そんな彼女たちに対する「ありがとう」の気持ちをこめて、ちょっとした洗い物の手伝いなどを時間を見つけてはするようになっていた。とはいえこのような行為も結城医師の目には「ほほーう。お嬢ちゃんの適職はどうやら看護師じゃなくて看護助手のようだな」といったように映るらしいのだが。

「ねえ、今晩ある焼肉大会、羽生さんも来るでしょ!?」

「は、はあ……」

 朝の申し送りが終わると、最後に徳川看護師長が「今日の夜七時から救急部では焼肉大会を開く予定です。出席者は休憩室にある出席簿に丸をつけて、会費二千円をわたし徳川の元に持ってきてください」となんの抑揚もない声で最後に付け足していた。

 けれど、唯はなんとかしてこの焼肉大会を欠席したいとかねてより願っていた。何故といって、この一か月間、仕事以外のことでは同僚とほとんどまともに口を聞いていない環境に唯は置かれていたからだ。おそらくそこには特段、「いじめ」や「意地悪」といったことはなく、救急部という部署の特質がなせる業というのか、何かそうしたものによってクールでドライな距離感が生まれているのだと、唯はなんとか自分に信じこませようとしてきた。けれどこの日の朝、徳川師長に次ぐ地位にあり、救急部の中心人物といっていい鈴村にそう声をかけられると、正直いってそのまま廊下を百メートルほども走って逃げたい衝動に駆られる。

 何故といって、彼女と結城医師はとても仲が良く、しょっちゅう互いに軽口を叩きあっているという関係性なのだが――その鈴村主任があえて自分に声をかけてきたということは、おそらく今晩の焼肉大会ではろくなことがないだろうと想像されたからである。

「あのう、その、わたし……」

「何しろ、他でもない<新人>の歓迎会でしょ?羽生さんもあんまり救急部の環境に馴染んでないみたいだし、こういう時にこそみんなと心の距離を詰めておくって大切だと思うのよ。わかったら会費の二千円、徳川師長に払っておくのよ?出席簿のほうにはわたしが昼休みに丸をつけておいてあげるから」

 そう言って鈴村は最後に「うふふ」と意味ありげに笑って、自分が担当になった101号室から105号室のほうへ軽くスキップしながら歩いていく。

(もう、人のことだと思って……絶対面白がってるんだわ、あの人。わたしと結城先生のこと)
 
 正直なところをいって、唯の目には鈴村主任も結城医師も、「仕事のできる心の冷たい人たち」であるように映っていた。ふたりとも医師として看護師として、おそろしく頭が切れて仕事の出来る人たちではある。けれど、唯の目にはふたりとも、医療者として何かが欠けているような気がしてならなかった。

 たとえば鈴村主任は患者に対してほとんど感情移入することがない。そして<感情>や<心>といったものを出来るだけ排して患者と接しているからこそ――仕事が常に機能的で手早いのではないかと、唯はそんなふうに感じていた。

(でも、救急部にもう二十年もいて、生き字引きみたいに言われてる人だものね。わたしもここに十年もいたらきっと、交通事故で顔や内臓がぐちゃぐちゃの人を見ても、すっかり慣れっこになってどうとも思わなくなるのかしら。ううん、むしろそういうことから心や感情といったものをある程度引き離しておかないと……そういうコツみたいなものを学ばないと、ここでは長く勤めるなんて無理なんだわ)

 唯は自分が担当になった106号室の病室に入り、重い溜息を着きたくなった。病室にはベッドが四床あるが、その四人の患者は全員、意識不明の重症患者ばかりだった。

 交通事故が一名、脳梗塞が二名、それにホームにいた老人を助けようとして重態の状態で運びこまれた患者が一名。四人とも全員が人工呼吸器に繋がれ、ほとんど植物状態に近い意識レベルであり、最後の一名は死期が近かったため、ついきのうICUから出されたばかりだった。

「本当はなあ、名取さんを個室のほうに移してやりてえんだけど、何しろ病室が満床だからなあ」

 そう言って結城医師がガリガリとボールペンで頭をかいていたのを唯は覚えている。英雄的な行為をしたまだ二十九歳の青年と、「この老いぼれのために」と彼に縋りついて泣く八十二歳のおじいさん……そして「自分たちは息子のことを誇りに思います」と言い、毅然とした態度でいた両親。

 いつもなら、テレビのニュースでほんの束の間見るだけの事件が、今唯の目の前にあった。普通に考えたなら、八十二歳の老人が自分の過失によってそのまま電車に轢かれ、二十九歳の青年は助けたいと思ったが助けられなかった……そのほうが何か<平等>であったのかもしれない。

 けれど、実際は違っていた。彼の父親は「息子はこのために生まれたのかもしれません」と悲痛な表情で泣き、母親のほうでは「一日も長く生きてください。息子のために」と言って、おじいさんのことを慰め――あとのことは三人とも、何も言葉にならなかった。

(わたしなら、そんなふうに思えるだろうか。二十九年もかけて育てた子供がもし、それより先が短いように思える老人を庇って死んだとしたら……)

 唯がバイタルを測り、サクションチューブで患者の痰を取り除いていると、看護助手の阿部美希がドアを開けて入ってくる。

「体位交換、手伝いまーす」

 役職名は看護助手だが、介護福祉士の資格を持っている阿部は少し変わった性格の持ち主だった。というのも、介護士の専門学校を卒業後、老人福祉施設に勤めたものの――呆けていたり、性格に難のある老人の世話をするのが嫌になり、より刺激のありそうな救急部の看護助手を選んだという、彼女はそんな人物だった。

「いや、真面目な話、ああいうところで老人の世話ばっか見てると心が先に老いてくるんですよ。それよりわたし、まだ若いし、こういうところで働いてたほうが心にエキサイティングな刺激があっていいと思うんですよね」

「そうかしら。わたしなんてここに来てまだ一か月だけど、もう心が折れそうになってるわ。来た場所を間違ったんだって、毎日出勤するたびに思うくらい」

 患者の体を右や左に動かして、清拭をし、病衣交換を終えると、背中や手足に枕を挟めたのち、次の病室である107号室へ唯と美希は向かう。107号室も状態としては106号室と似たり寄ったりであり――先ほどとほぼ同じ手順が繰り返されることになる。

「でも、羽生さんが来た場所間違ったっていうのは、なんとなくわかりますよ。ほら、羽生さんは優しいから……結城先生が言ってたみたいに、救急じゃなくて他の部署のほうが向いてるのかも。普通に内科とか整形の一般病棟とか、そっちのほうが」

「ううん、そもそもわたし、看護師なんて向いてなかったのよ。看護学校を出るまでに奨学金を使ってるから――それを返済し終えるまでは、なんとか頑張るしかないと思って毎日ここに来てるっていう、今はただそれだけだもの」

 ここで徳川師長が病室のドアを開け、108号室の新見さんを検査室へ連れていくようにと指示があった。唯は時計を見、ぐずぐずしてはいられないとばかり、仕事の手を早め、美希に手伝ってもらい108号室の患者をベッドごと検査室へ連れていくことになる。

 途中、酸素ボンベの酸素量が間もなく切れることがわかり、美希に取ってきてもらうという場面もあり、「ごめんなさい、ほんとに。こんなだからわたし、結城先生にウスノロとかウスボンヤリって言われるのよね」と、唯は溜息を着きたくなった。

「そんなことないですよ。前にも似たようなことありましたし……でも一番怖いのは酸素ボンベを取りにいったらどのボンベも酸素がゼロだったことかも。救急部にあるまじき自殺行為って、大河内先生が眩暈を起こした振りをしてましたっけ」

「えっ!?じゃあその時、一体どうしたの?」

「いえ、助手の真田さんがすぐ気づいて徳川師長に報告して――で、すぐに業者の人に持ってきてもらったんです。それで事なきを得たんですけど、なんでそんなことになったのか、原因を究明することになって。そしたら、脳外科の人たちが自分たちのところの酸素ボンベがなくなったから、一時的に貸してくれって来てたんですって。で、鈴村主任が何気なく「ツケとくから、あとでお礼持って来なさいよ」って言って貸しだして……まあ、鈴村さん的には一本か二本持ってったくらいに思ってたらしいんです。ところがあの人たち、八本くらいごそっと持ってったんですよ。で、どのボンベもメーターがゼロだってことに真田さんが気づいて徳川師長に報告したっていう」

「でも、普通に考えたらわかりそうなものじゃない?一度に八本も酸素ボンベを持ってかれたら、救急で使う時にこっちが困るってことくらい……」

「いや~、そこが伝達ミスってものの恐ろしいとこなんじゃないですかね。脳外科の人たちは「持ってっていい」って言われて、自分たちの必要な分どころじゃなく持っていって、救急では他の場所にも酸素ボンベを保管してあるんだろうくらいに思ってたらしいですよ」

 108号室に戻ってきて、唯は再び前の仕事の続きに取りかかりながら――美希の話を聞いていて、まるで我が事のようにゾッとした。いや、酸素ボンベがないというくらいの話なら、まだ全然可愛いものだといえる。それこそ、鈴村主任あたりなら、看護助手の誰かを叱りつけ「内科でも外科でもどこでもいいから、マッハの勢いで走って借りてきなさい!!」と怒鳴るだろう。

(でもわたしの場合は……「馬鹿野郎!!だから俺はいつかおまえのせいで患者が死ぬと思ってたんだ。だから辞めさせようとしたってのに、なんてザマだ!!」とかって叱られるんだわ。どうしよう。もし本当にそんなことになったら……)

 正直なところをいって唯は、この救急部に来てから「チーム医療」という言葉を信じられないようになっていた。何故といって、他の人々はチーム医療を行っているのに、自分はそこに参加しているという充実感を感じたことがほとんどないからだ。

 そんな唯にとって唯一の心の慰めは、看護助手の何人かが気を遣って声をかけたり優しくしてくれることと、患者との一方的な心のコミュニケーションだっただろうか。

 何故患者とのコミュニケーションが一方的なのかというと、意識不明の重態患者が多いために、サクションチューブで痰を取ったり体位交換を何度となく繰り返したところで――相手からはなんの返答も得られないからである。

(看護師って、こんなに孤独な職業だったのかしら)と、他の看護師同士が記録がてら仲良くしているのを見るたびに、唯はつい思ってしまう。

 看護助手たちが自分に対し何かと気遣ってくれるのは――唯がこれまでに何回か、汚物庫で泣いていたのを彼女たちに見られてしまったという経緯があってのことだった。助手の中で一番の古株の真田などは、結城医師を評して「本当は心の温かいいい人なんですけどねえ。きっとそのうち羽生さんにもそのことがわかりますよ」と慰めてくれたが、唯はその時(あんな冷血漢の鬼のどこがいい人なのよ!)としか思えなかった。

 けれど、結城医師が何故人気があって人に好かれるのかは、唯にも一応理由がわかっている。性格と口は悪くてもルックスがいいし、何よりしょっちゅう冗談ばかり言って人を笑わせるので、人気があるのだろう。

(でも、結城先生のわたしの嫌い方は明らかに理不尽だわ。わたしだって、これでも自分なりに一生懸命頑張ってるのに……)

 その日の午後、五階にある外科や七階にある脳外科に上がることが決まった患者の申し送りをしたり、転院先の決まった患者を送りだしたりと、忙しい時間を過ごしているうちに唯はすっかり忘れていたが――鈴村主任と峰岸看護師が夕方の申し送りが終わるなり、「焼っきにく、焼っきにく!!」とはしゃぎはじめたのを見て、思わずハッとした。

「羽生さん、あなた会費の二千円、まだ払ってないんじゃなくて?」

「は、はあ……」

 もはや逃げられない運命として、唯はすべてを諦めることにした。「あ、わたし二千円ありません!」なんて、財布を見ながら演技したところで――師長か主任のどちらかに立て替えられるだけの話だとも思った。

(わたし、なんだか今日、とても具合が悪くって……)という言葉も喉まで出かかったものの、結局唯はどこか青い顔をしたまま、救急部の日勤看護師たちのあとを追うようにして、とぼとぼ近くの焼肉屋まで歩いていくことになったのである。

「あの、<新人>の歓迎会っていうことは、蜷川さんも来ますよね?今日夜勤明けだったみたいですけど……」

「ああ、蜷川さんね。彼女は今日来ないらしいわ。会費のほうも何日か前に支払い済みだったんだけど……夜勤明けでどうにも体がだるいらしくって。すみませんが欠席させてくださいっていう電話がさっきあったの。まあ、無理もないわね。夜勤明けの夕方に焼肉大会なんて、わたしでも遠慮したいもの」

 十名ほどの看護師の一番後ろを歩きながら、徳川師長はいつもの落ち着いた声でそう言った。徳川師長は一種独特の雰囲気のある、不思議な人だと唯は思っている。一言で彼女の印象を言うとしたら、それはクールビューティという言葉に尽きるだろうとも。何故といって、どこか人を寄せつけないような美人でありつつ、常に冷静沈着で看護師としての能力には比類ないものがあったからである。

(わたしもいつか、徳川師長みたいになれるかしら……)

 看護助手の数名を除いたとすれば、唯が看護師たちの中で一番話をしたことがあるのは、この徳川美咲だけだったかもしれない。もちろん救急部看護師の長として、どんな未熟な新人のことも責任を持って面倒をみなければならない――そうした面もあったに違いないが、彼女は唯が処置室でどうしていいかわからない時など、時々後ろで何をすればいいかを教えてくれるのだった。それも、他の誰にもわからないような小さな声で。

(絶対にわたし、部屋の隅っこの目立たないところにいよう。それが駄目ならせめて、徳川師長の隣とか……)

 救急部医師の一団は、まだ仕事が残っているので若干遅れての到着になるということだった。そのことを聞いて唯は、心底ほっとする。こういう考え方はどうかと思うものの、勤務時間が終了しても、緊急の患者が担ぎ込まれて来た場合――結城医師は夜勤のメンバーの面子によっては、そのまま手術や処置に当たることがよくある。そうした事態が今ごろ起きていて、自分が帰ったあとの二次会にでも結城先生が顔を出してくれたらと、唯としては一心にそのことを願うのみだった。



 >>続く。





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