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動物たちの王国【第二部】-19-

2014-03-20 | 創作ノート


 今回は本文のほうが長めなので、前文のほうは短めにと思います

 というか、文字数的にあと1800文字くらいしか入らないので……さくっと短めにというと、逆に書くことが何もなかったり(^^;)

 ええと、去る2014年の1月20日に、世界的指揮者であるクラウディオ・アバド氏が亡くなられました

 訃報を聞いた時にはもちろん、「わたしにとっての生きた詩神であるアバちゃんが……」とショックを受けましたが、まあわたしとアバちゃんはそもそも四十以上年が離れてるので、いつかこういう日が訪れると思ってはいたものの。。。

 でも、詩神って結局、死なないからこそ詩神なのです(^^;)

 一曲の楽曲の中に<永遠>が生きているように、その<永遠>そのものを生きているのが詩神なわけですから、そういう意味でアバちゃんの魂はこれからも、数多くの人々の中で生き続けるだろうと思います。


 彼が死んだ時、医者は言ったらしい――
「残念ですが、たった今息をお引取りになられました」と

 けれど、詩神は決して死ぬことがない
 何故なら彼はもうずっと以前から、自分のどこからどこまでが<自分>で
 どこからどこまでが<詩神>なのか
 まるでわからないほどだったのだから……


 実際にはアバちゃんの最期がどんなものだったのかはわかりませんが(御家族の方に囲まれて、安らかに亡くなられたことと思います)、サイモン・ラトル氏の追悼などを読んで、そもそも以前手術した胃がんって、相当悪いものだったのかなって思ったり


 >>「我々は偉大な音楽家、そして惜しみない寛大さに溢れた人物を失いました。10年前には、我々の誰もが彼が病気に打ち勝つだろうかと自問しました。しかしその危惧を翻して、彼は素晴らしい人生の秋を迎えることができたのです。そこでは彼の芸術のあらゆる側面が、見事に花開いたのでした。我々は音楽家として、また聴衆として、それを享受することができたのです。
 数年前、彼は私に言いました。“私の病気は恐ろしかったけれど、その結果は悪いことばかりではなかった。私は今、体のなかから音楽が聴こえるような気がするのです。胃がなくなった代わりに、体の内側に耳ができたような…。これがどんなに素晴らしいことか、言葉にする術がありません。病気になった時、音楽が私を救ってくれた。それは間違いないことです”」
 彼は生涯にわたって偉大な指揮者でした。ここ数年の演奏は、何かこの世のものならぬ雰囲気を湛えていました。我々は皆、それを共に体験する幸運に恵まれました。私個人に対しては、彼はキャリアの最初から非常に優しく、鷹揚に接してくれました。ユーモアと暖かさに溢れた関係は、つい先週の金曜日に至るまで続いたのです。彼の思い出は、私の心に深く残ることでしょう」

(ベルリン・フィル・ラウンジ@HMV、第91号より)


 いえ、自分的にはなんとなく勝手に、胃の三分の一くらいを切除したのかなとか、そんなふうに思ってたんですけど、実は全摘だったのでしょうか

 病気の時、バッハを聴くのが好きだったというアバちゃん。それもなんだか妙にアバドらしいエピソードだと思うのは、わたしだけでしょうか。

 とりあえず個人的には、彼の冥福など祈りません(笑)

 何故なら、肉体という枷が外れた今こそ、アバちゃんはきっと空気のように音楽そのものとなって、生きている間は知りえなかった神秘のすべてに、<永遠の世界>で今ごろ出会っているだろうと思うので……。

 それではまた~!!



       動物たちの王国【第二部】-19-

 花原梓より、二か月間たっぷり師長としての仕事の引き継ぎを受けた瑞島は、十二月になって花原が退職したのち――オペ室の片隅にある師長室で、ようやくほっと安堵の吐息を着いていた。

 もちろん、その二か月間に花原から器械出しのことを含め、色々と教えを受けたことで、瑞島にしても相当助かってはいたものの、彼女とふたりきりになるとピンと張り詰めた空気感を感じ萎縮してしまうため、園田や江口らに仕事を教えてもらう時より数倍疲れてしまうのだ。

(でも今は、ここがすっかりわたしの領土)――などと思いつつ、瑞島は猫の足跡の描かれたマグにコーヒーを淹れ、束の間寛いだ。

 手術記録に目を通したり、オペ室内の物品関係の伝票を切ったりと、しなくてはならない書類仕事は山のようにあるが、十時ちょうどというこの時刻、一通りの朝の慌しさから解放されて、ほんの十分程度の休憩を瑞島は自分に許していた。

 実をいうと瑞島はほんのつい最近、失恋をした。相手は二年もの間思い続けてきた医師であり、彼のほうにも多少は脈がありそうに見えただけに……彼が自分とは別の看護師とつきあいはじめた時にはとてもショックだった。

(というより、わたしと同じような思いをしてるナースが、K病院内には少なからずいるわよね)

 イケメンドクターコンテストで、今年もぶっちぎり一位だった結城医師のことを思いだし、瑞島は少しばかり切なく、そして悲しい思いに囚われる。

 結城医師とK病院に来て間もない羽生唯は、特段お互いの事を隠すでもなく、かといってラブラブぶりを周囲に見せつけるでもなく、落ち着いた関係を保っている――といったように、瑞島の目には映っていた。

 正直なところ、瑞島にとって何よりも一番ショックだったのが、羽生唯という看護師がどこかタイプとして自分によく似ているということだった。背格好も似ているし、体つきが華奢なところや肌が色白なところも似ている気がする。そして性格のほうも、周囲との調和やバランスを第一にするという点において、瑞島は看護師のタイプとしても似ていると感じていたのである。

 ところが、Aという看護師とBという看護師がふたりいて、どちらも大体似た感じなのに――結城医師はAという看護師を選んだ……瑞島が一番ショックだったのは、もしかしたらその点だったかもしれない。

(だって、結城先生はモデル並みに可愛い女性とか、相手が女優でもなければつきあわないんじゃないかっていうくらいに見える人だから……)

 そして瑞島は思った。この二年の間、実は自分にもチャンスがあったのではないかと。外科病棟の忘年会で、一度など、酔った彼を自宅のマンションまで送っていったこともあるし、もしかしたら羽生唯が現れる前に告白さえしていたら良かったかもしれないのである。

(そうよね。結城先生、あの時相当酔っ払ってたし、そこに便乗するようにして、上から乗っかれば良かったのかも……)

 そんなふうに思い、瑞島は少しだけ寂しい気持ちで笑った。もし仮に何かの間違いでもいいから、向こうから襲ってくれてさえいれば――自分はただその流れのまま、言うなりになっていただろうと、今もそう思う。

 最初に出会った時、瑞島は結城医師のことを「観察するには面白いけれども、まったく自分のタイプではない医師」だと感じていた。だから安心して「先生のこと狙い撃ちにしようだなんて思ってませんてば」といったようなことを平気で口にしていたのだ。けれど、その後どんどん彼に惹かれていき、顔や容姿がどうこうという以前にその性格が自分好みであることに気づいたのである。

(あの性格で、でも顔のほうは三枚目みたいな感じだったとしたら……わたしも結城先生に告白する勇気が持てただろうにな)

 だが、過ぎ去ってしまったことをあれこれ詮索しても仕方のないことである。とはいえ、自分と同時期にオペ室へ異動になった羽生唯が結城医師といい仲になると、最初からわかっていたとしたら――おそらく自分は手術室への異動はなんとしても見送っていたに違いないと、瑞島はそう思っていた。

 実をいうと、「可愛こちゃん」云々ということがオペ室のナースたちの口にのぼるより早く、瑞島は結城医師と羽生唯の微妙な関係性に気づいていた。そして驚いたのだ。当の可愛こちゃんのほうはといえば、彼のことをまるで歯牙にもかけないような態度でいることに。

(でも結城先生のほうはねえ。まるっきり恋をしてるって瞳で、あの子のことを見ちゃってるんだもの。わたしと話してる時には先生、あんな目でわたしを見たことなかった。二年もの時間がありながら、ああいう眼差しをさせられなかった時点で……わたしの負けっていうことかもしれないわね)

 それともうひとつ、瑞島には自分を慰めることの出来る理由があった。それは、仮に結城医師との関係が何かの弾みと勢いから恋愛に発展していたとしても――その後、羽生唯が現れたとすれば、今ごろ自分は常に落ち着かない嫉妬の情に染まっていたかもしれないということである。つまり、一度は諦めたはずの本命が目の前に現れて運命を感じるけれども、その傍らにはその間彼女の代わりとしたような女がすでにおり、結城医師が自分を捨てるべきか否かと思い悩む……もしそんな事態になっていたとしたら……。

(以前と同じまま、変わらぬ仲の良い同僚、気の合う友達でいたほうが、どれだけましかしれやしないわ)

 瑞島はそんなふうに思って自分を慰め、首の凝りをほぐすために肩を揉むと、「さて」と自分に一声かけて、目の前の手術記録ファイルに目を通しはじめた。

 そしてオペ室に所属するナースの名前が記されているのを見るうちに、園田や江口らから聞いたオペ室内の微妙な人間関係について、色々と思いを馳せることになる。

          

「辰巳さんかあ。一応、外科病棟で名前は聞いたことあるんだよね。ちょうど、わたしが外科病棟にくる少し前までいた人だから……なんでも、ちょっと性格に難ありってことで、オペ室送りになったとかって」

「そうなのよ。で、彼女と仲のいい幸谷さんや今川さんもその口なわけ。幸谷さんはずっと内科病棟にいたんだけど、あの人が内科病棟のガン病巣になってるってことでオペ室へ行くことになって、今川さんもまあ、同じような経緯だよね」

 万が一にも人に聞かれてはまずい話ということで、その日、園田と江口悦子、それに瑞島の三人は園田のマンションの一室に集まっていた。傍らでは仲村哲史がテーブルに何かと夕食の品を温めてはのせている。おでんにエビチリ、つくねや手羽先といった串類などなど……すべて、Kスーパーの惣菜コーナーでつい先ほど買ってきたばかりのものだった。

「内科病棟っていうと、江口さん、前に幸谷さんと一緒だったってこと?」

「まあね。でもわたしは彼女の標的になったりはしなかったから、そういうふうにさえならなければ、まあべつにどうってこともなくつきあえる人ではあるのよ。今オペ室に一緒にいたってそうでしょ?休憩室やなんかで顔を合わせれば、「広夢くん元気?」とか、「お宅の良太くんは?」とか言って、何かそんな感じ」

「幸谷さんの場合、同じシングルマザーとして悦子さんにシンパシー感じてるっていうのがあるんじゃない?」

 園田は早速とばかり、つくねを齧ってビールを飲みながら言った。

「そうねえ。幸谷さんは基本的に自分より立場の弱い人とか若い子に容赦ない感じよね。仕事は出来るし患者さんにも優しいのよ。でもそこで蓄積されたストレスを噂話や陰口で発散するタイプだから……まあ、これは辰巳さんや今川さんも一緒かな。もう十何年と看護師やってる人たちだし、仕事に関しては一定以上に優れた能力がある。でも自分につくか、他の誰かと仲良くするかで看護師内で派閥作ったりとか、辰巳さんあたりは本当に面倒な人だったらしいわ」

「その……これは前にちらっと小耳に挟んだことがあるってことなんだけど、辰巳さんって、自分はオペ室で師長になれるくらいの能力があると思ってて、今回の人事には納得のいかないものを持ってるって、ほんと?」

 おでんのはんぺんに箸を伸ばしつつ、瑞島がおそるおそるといったように聞いた。

「あったりきよお。だからあたしと悦子さんは、辰巳さんがオペ室の師長になったりしたらこの世の終わりだから、それで藍ちゃんにうちに来てもらったんじゃない!!」

(なんというはた迷惑な人選……)

 瑞島はそう思ったが、内心でついた溜息を実際に着いてみせたりはしなかった。

「だからね、わたしたちも藍ちゃんには悪いと思ってるのよ。だからこれからも定期的に集まって、人間関係的な微調整を行ったりとかさ、そういうことを三人でしていこうっていう、今回はその会合の第一回目ってとこ」

「そういうこと」と、江口もまたビールを飲みながら言った。ちなみにすでに二本目である。「とりあえず、藍ちゃんと一緒に入った唯のことは、まあ数に入れなくていいわよ。あの子は真面目で一生懸命なのだけが取り柄っていう、少女漫画の主人公みたいな子だから、放っておいても仕事をコツコツ覚えて頑張ってくと思う。あとは誰かからいじめられるのからさえ守ってやればそれでいいのよ」

「悦子さんの従姉妹ちゃんなんですよね、確か?」

「ま、顔も性格も全然似てないけどね。あの子が小さい頃から結構仲がいいっていうか」

(じゃあ、結城先生との間のことも詳しく――)と言いかけて、瑞島は園田と江口の会話に挟まるのを一瞬止めた。糸こんにゃくやちくわぶをふうふうやるのに時間がかかるという振りをしながら。

「ほら、哲史くん。あなたも一緒にこっち来て食べなさいよ。お腹すいたでしょ?」

「ああ、僕はあとからで……ちょっと勉強したいこともあるんで、みなさんは遠慮せずなんでも話してください。ここで聞いたことを僕はあとからオペ室の誰かに話したりはしないんで」

 そう言って哲史は襖を閉め、八畳ほどの和室に閉じこもった。手には菓子パンを持っていたので、それでとりあえずは空腹を満たすつもりなのだろう。

「悦子さん、哲史くんのことは気になくて大丈夫。整体師の資格取ったまでは良かったんだけど、まだまだ勉強したいことがたくさんあるとかで、毎日あんな感じなの」

「そうなの。感心ねえ」

 それから三人は、皿のものを一通り片付けるまでの間――ほとんど世間話やお互いのことなどを話し、お腹がくちくなって食後のお茶を飲むあたりでようやく、本題へ戻ってきた。

「粗茶でございます」

 などと丁寧に言いながら、キッチンで緑茶を淹れた園田が、江口と瑞島に湯飲みを差し出す。

「さてっと、そろそろ本題に入りやすか。辰巳さんと幸谷さんと今川さんのカッコーの餌食とならないためには、どうしたらいいのか……」

「カッコーの餌食?なんだか格好の発音がおかしい気がするけど……」

「これはね、悦子さんとわたしの間の暗号みたいなものなの。『ちょっとカッコーのことで話が……』なんていう場合、あの三人のうちの誰かのことを指してるってわけ」

「そうそう。今まではね、オペ室はそれなりに人間関係的にバランスが取れてたのよ。花原師長は頭がおかしいから、辰巳さんがどんなに重箱の隅をつついてもどうにもならないような人だったでしょ?で、流石の彼女も諦めて、「あの気違い師長の動物好きにも困ったものね」というくらいで済んでいたの。けど、花原師長がまさかのまさかで結婚退職することになったから、辰巳さんも同じ独身者としてすごくショックだったみたい。花原師長はあんなに美人なのに、その花を枯らす形でだんだん容貌のほうも衰えていくだろう……なんて思っていたでしょうからね。あの人がちょっと変わってるのは、そういうふうに人の幸せに嫉妬することかもしれないわ。しかも、その嫉妬の症状が人の悪口や陰口、それに意地悪として表れてるって、本人が気づいてればいいんだけど」

 ここで園田から、オペ室の人間関係図について軽く説明があった。辰巳・幸谷・今川は<悪口三人組>、他にまあまあ仕事のできる中堅ナース十数人、そして江口や園田がいて、他に新人の羽生唯、師長として就任することになった瑞島藍子がいるといった図式である。

「まあ、ここの中堅ナースたちについてはあまり問題ないのよ」

 そう言って園田は、いらなくなったファックス用紙に書いた図式の中の、<中堅看護師>のところを丸でぐるぐる囲った。

「もちろん彼女たちの中にも、誰それと特に仲いいとか、それほどでもないとか、そういうのはあるんだけど、みんな神経まともだし、一生懸命仕事に取り組んでるっていうそれだけだから。ただ、中堅ナースたちの間でも問題なのは辰巳さんたちなのよ。彼女たちの陰口の対象にならないように気を配るとか、何かそんな感じかな。オペ室じゃみんな、「花原師長は仕事が完璧すぎて狂ってる」とか「動物狂いの気違い」とか「あの人頭おかしい」っていうのが合言葉みたいになってるんだけど……内心ではね、本当は辰巳さんとか幸谷さんのほうが実は一見普通そうに見えて異常なんじゃないかってみんな思ってると思う。花原師長は行く先々の病棟で伝説を作ってきた人だけど、ここのオペ室にも色々あるのよ。そのひとつが、「あの辰巳さんを怒鳴って黙らせ事件」」

 瑞島は、自分が脳外科にいた時にも花原師長が伝説を作っていると知っているだけに――この時おかしくて仕方なくなった。

「うちの手術室はどこかの病棟で問題あった人が懲らしめ的に流されることが時たまあるんだけど、辰巳さんと花原師長じゃ島流しにされた理由が全然違うのよね。辰巳さんは悪口好きであることによって力を持ち、人間関係を操作する癌病巣みたいな人。で、花原師長は自分の完璧な仕事に他のナースたちを従わせようとする気違いなわけで……けど、花原師長は人の悪口とか大っ嫌いなわけよ。で、ここに来た頃、花原師長はまだオペ室の空気を全然読めてなくて、辰巳さんがその場にいない人の陰口を例によってはじめたわけね。そしたら花原師長、飛びかからんばかりに辰巳さんの元までいって、「あなた、そんな話をして人間として恥かしくないのっ!!」とか言っちゃって。そのあとも説教が長く続いたのよ。「自分が逆の立場だったらどう感じるか、よく考えてごらんなさいっ」とかなんとか……あれには流石の辰巳さんもびっくりして、口をあんぐり開けてたっけ」

 江口もその時のことを思いだしたのか、食後に一服とばかり、煙草を吸いながら笑っていた。園田の部屋には灰皿がないので、ビールの空缶を灰皿がわりにしている。

「あ~、でもそれ、すごくわかるかも」と、瑞島は食後のスイーツとして出されたショートケーキを食べながら言った。「脳外科にいた時も、花原師長はそんな感じでしたもん。夜勤の時とかやっぱり、他の誰それがあーだとか、あの時こーだったとか、そういうことは割合話にのぼるじゃないですか。でも花原さんはそういうのを受け付けないで動物の話ばっかりするっていうのは、ナースの間でも有名な話だったし。そういうことを知らない人がついうっかり噂話をはじめると、「そんな本当かどうかもわからないことで、あれこれ言うのはよくないわ」とか、説教がはじまるんですよね。あと、わたしがいた時に有名な伝説として残ってるのが……」

 瑞島がここで笑いだしたのを見て、園田と江口が興味津々な顔をしてみせる。

「<アイシャドウ落としてこい事件>ですかね。当時わたし二十三くらいだったんですけど、わたしと同い年の子に相川ゆかりって子がいて。わたし、大抵の同年代の子とは馴染んで仕事してたんですけど、その子はちょっと苦手だったんですよ。なんでかっていうと、何かっていうと彼氏の話とか男関係の話ばっかりしたがる子だったので……べつに嫉妬してるってわけじゃないんですけど、そういう態度が仕事に出る子って時々いるでしょう?で、その子はモロにそのタイプだったんですよ。わたし、今もよく覚えてるんですけど、その日はちょうど日曜日で、いつもより人手が少なかったんですよね。看護師が四人と看護助手が二人。で、そのうち看護師が花原さん、わたしとその相川っていう子ともうひとりいて……相川さん、朝にめちゃめちゃ濃いメイクで「おはようございまーす!」ってやって来た途端に、花原さんの逆鱗に触れちゃったんですよ。「まああ、あなた、何考えてるのっ!看護師の仕事を水商売と間違えてるんじゃないでしょうね!?その水色の濃いアイシャドウ、今すぐ落としてきなさいっ!!」て怒鳴られて……その子、おいおい泣いちゃったんですよ。で、わたしの他にもうひとりいたナースが、事情を聞いて慰めて。なんでも、「仕事帰りに彼氏と会う約束があるから気合入れてメイクしてきただけなのに」とかなんとか。でも花原さんは「あんなに濃いメイクで患者さんと接するなんてありえない、看護師に相応しい化粧に直すまでは仕事はさせない」の一点張りでした。それで……」

「それで?」と、江口と園田が笑いながら先を促す。なんとも花原師長らしいエピソードだと、ふたりにとってはそうとしか思えない。

「涙でどろどろになった顔のまま、相川さんは帰っちゃったんですよ。で、花原さんはそんな彼女を見てますます怒るだけでした。「仕事を途中で放りだして帰るなんて、看護師としての自覚が足りないわっ!!」て。元は自分のせいだろうよと思う人もいるかもしれないけど、わたしは花原さんの意見に賛成でした。だって、そうでしょ?仕事が終わったあとに彼氏と会う予定があるんなら、仕事が終わったあとに濃いメイクすればいいんですよ。わたしと一緒だったもうひとりのナースも呆れてました。「流石にあのアイシャドウとパキョパキョの睫毛はないわねえ」って。これがもし平日に起きたことだったらまだいいんですけど、日曜で人が足りない時だったので、花原さんはリーダーとしてすぐ師長に電話入れてました。誰か代わりの人を至急寄越してくださいって。それが……」

「それが?」と、園田と江口がさらに話の先を促す。

「今川さんだったんですよ。休日の時に突然出勤してこいなんて言っても、なかなか誰も出てこないじゃないですか。でもそこは師長、流石にわかってますよ。誰かが具合悪くて急に休んだなんて言ったら、絶対今川さんも来なかったと思います。でも彼女の大のご馳走のそんな楽しい話を振舞ったもんだから、今川さん、喜んで出勤してきちゃって。「まあ、そんなことが?」とか、「そりゃ相川さんがどうかしてるわねえ」とか言って一から十まで話を聞いて、翌日にはもう病棟中のナースがこの話を知ってるって具合でした」

 江口と園田はおかしくて仕方ないといったように、座布団の上に転がって笑っていた。

「花原師長、らしすぎっ!」

「今川さん、その時からもうそんな感じだったのねえ。で、その相川って子、その後どうなったの?」

「その後間もなく辞めちゃいましたよ」と、瑞島は肩を竦めて言った。「べつに花原師長に叱られたからどうこうっていうことじゃなく、もともとその彼氏さんと結婚することが決まってたみたいで……でも話を聞いてると、なんか変な感じでしたね。その子、花原さんは男性とおつきあいしたことがないから、それで自分を叱ったんだろうなんて言うんですよ。まあ、この手の類いの子には何を言っても無駄と思って、わたしもただ黙って聞いてましたけど」

「なるほどねえ。でも、花原師長も自分が完璧に仕事できるからって、それを他の人にも押し付けるっていうのが、あの人の異常なところではあるのよね。内科病棟にいた時もそうだったもの。ベッドメイクの仕方にはじまって、点滴の針の刺し方とか、「教科書にこう書いてあるの、あなた学校で習わなかった!?」とか、異常どころじゃない完璧主義。しかも、記録なんかもピシッと綺麗な字で過不足なくポイントを押さえて書いてあるしね。しかもやたらどの仕事も速いし……その上あの美貌でしょ。で、最後にはオペ室に島流しにされたわけだけど、トータルで考えたらあの人の人生はうまくいってるんじゃない?最後はエリート脳外科医と結ばれてめでたくゴールインだもの。花原さんがあのキャラで人に嫌われることがないのは、あの人に嘘がないからだと思う。誰かが彼氏がどうこう言ったり、花原さんは好きな人とかいないんですかって聞かれる時でも、あの人はただ一言「わたし、殿方になんて興味ありませんもの」とか澄ました顔で言うのよね。あと、「理想とする男性は、わたしのお父さまです」って、真顔で言う感じ」

「ほんとよねえ」と、園田がたい焼きにかじりつきながら言った。「わたしがもしこの顔で、「殿方になんて興味ありませんもの」なんて言ったら、何ぶっこいたもんだって感じだけど、花原さんのあの美貌で言われると、なんか説得力あるもんね。でもさ、花原さんのお父さんって有名な動物学者として時々テレビに出てるけど、最初に見た時びっくりしたわよ。斜視っていうせいもあるけど、この人、もしかして人間とカメレオンの間に生まれたのかなっていうような、一種独特な顔立ちだもんね。どうやってあの人からあんなに綺麗な娘が生まれたんだろうっていうか……」

「お母さんのほうに似たんじゃない?それか、隔世遺伝とか……って、わたしたちもこんなことくっちゃべってる場合じゃないわね」

 江口は壁の時計を見、そして急いで煙草をビール缶の上で揉み消した。

「えっと、なんだっけ?その花原師長が辞めたあとのことよね。オペ室の人間関係の分布図が今後どう変わるかっていうか」

「そうだった!え~と、だからようするにアレよ。これまで休憩室で囁かれることは、大体花原師長のことである場合が多かったわけ。もうほとんど挨拶がわりみたいなもんよね。「花原師長は頭おかしい」、「きのうテレビで親父さんがバッタの佃煮食べてた」とか、もうそんな話はほとんど聞かれなくなるだろうから……そうなると人って、今度は他の何かを求めるものなのよね」

 ここで園田がはーっと溜息を着いて、茶をごくりと飲む。

「あの、例の可愛こちゃんの件ですか?」

 瑞島がおそるおそるといったように聞いてみると、江口が驚いた顔をして瑞島のことを振り返る。江口は午後からオペ室を手伝っている関係もあり、それで情報の入りが遅くなるということが時たまあるのだった。

「あ、わたしまだ、悦子さんに言ってませんでしたっけ?あの悦子さんの従姉妹ちゃん、外科系医師たちに意味ありげに可愛こちゃんなんて呼ばれてるんですよ」

「えーっ!?わたしの従姉妹と知っててそんなこと言うんですかって今度チクっと刺して締めてやんなきゃ。でもあの子、なんでそんなこと言われるようになったわけ?」

 園田と瑞島は、どこか言いにくそうに顔を見合わせたのち、

「結城先生ですよ」と、園田のほうが先に言った。「なんか結城先生、悦子さんの従姉妹ちゃんのことが好きなんですって。で、結城先生が「おまえら、俺の狙ってる可愛こちゃんに手を出すな」って言って、麻酔科医や自分の部下たちに釘刺して歩いたって。わたしもまだよくはわからないんですけどね、結城先生にとっては結城先生なりの事情があってしたことらしいですよ。もちろんその裏には、「近いうちに必ず落としてみせる」っていう自信あってのことなんでしょうけど、従姉妹ちゃんのほうでは「可愛こちゃん」なんて呼ばれる原因を作ったのが結城先生だって知って、つんけんして口も聞かないらしくて……」

「へええ。そんな面白いことになってるの」

 再びセーラムライトを一本取り出すと、江口は結城医師がなんでもないように装って自分から色々聞きだしたことを思いだし、おかしくてたまらなくなった。

(なんかおかしいなとは、あの時も思ったのよね。そのうち喫煙室で会ったら、全部白状させてやんなきゃ)

「で、これからは「花原師長は頭がおかしい」って言ってみんなが挨拶するかわりに、唯がカッコーどもの餌食になるんじゃないかってこと?そりゃ確かにマズいわね」

「まあ、これからの話の流れによりけりですけどね、それも。羽生さんが花原師長にくっついて歩いて、まるで彼女の二世みたいにツンケンしてるから、ある意味みんな感心してはいるんですよ。あの結城先生が本気になって落とせない女性はそうはいないだろうってみんな思ってるから、もしこのままいって結城先生が振られでもしたら……ある意味彼女、ジャンヌ・ダルクだと思われるかもしれませんし」

「ジャンヌ・ダルクねえ。まあそこらへんのことは、わたしもそのうち唯に聞いてみるわ。なんにしても、一番肝要なのは瑞島新師長」と、江口は瑞島に話の矛先を向けた。「異動希望裏リストにはこれからも辰巳・今川・幸谷さんの名前をずっと書き続けてほしいっていうことなのよ。まずはひとり、どっかの病棟にでも異動になってくれたら、彼女たちの勢力はそがれることになる。で、またもうひとりどこか別の部署にいなくなってくれれば、残ったのが今川さんか幸谷さんでありさえすれば、もう特にこれといって問題はなくなるもの」

「そうそう。辰巳さんはねー、ドラクエⅢじゃないんだけど『マンドリルは仲間を呼んだ!』みたいにすぐなる人だから。でも今川さんと幸谷さんはまだ比較的まともなほう。でも三人集まると救いようがなくなるっていうか、何かそんな感じなのよね」

「あの……だったら、花原師長はどうだったんですか?もしかして、公平の志を貫くあまり、裏リストには誰の名前も書かなかったとか?」

<異動希望裏リスト>なるものが存在することは、瑞島も外科病棟の主任補佐だった頃から知っている。この裏リストに対する「表」に当たるものとして、どこそこの科に異動したい理由などを書いた届出用の紙がどこの病棟にもそれぞれ置いてあり、師長の印が押されたのち、最後には総師長の元まで上がるということも。

「もちろん花原師長もあの三名の名前は書いてたんだけどね」と、溜息を着いて江口。「総師長がそろそろオペ室から他の病棟にでも異動しないかって言っても、三人ともそれぞれ頑として聞かなかったって。まあ、ある意味そりゃそうよねって話。なんでって、三人とももうすでにアラフォー世代だし、病棟勤務は夜勤もあるし、人間関係も一から築かなきゃなんないし……辰巳さんなんか特に、昔と同じように権勢を振るえるとは限らないものね。行く部署によっては彼女に恨みを持ってる人がまだ残ってるか、その人物が主任か師長になってて肩身の狭い思いをするかもわからないじゃない?」

「なるほど。じゃあわたしが裏リストに名前を書き続けても、三人のうちの誰かがバシルーラよろしく飛ばされる可能性はこれからも低いってことですよね?」

「藍ちゃん、今のうまい!」と言いながら、園田がケーキを食べ終わった瑞島に、たい焼きを一尾勧める。「でもまあ、唯一の救いはね、総師長がそういうオペ室の事情をわかってて、あの三婆のことはどうにかしなきゃって思ってるってこと。なんでかっていうとね、オペ室はそもそもが人の居つきにくいセクションなのに、あの三婆のせいで人がすぐ辞めちゃったりとか、弊害が大きいからなの。なんにしても藍ちゃん、これから師長として頼みまっせ。辰巳さんあたりはたぶん、今度の師長は外科病棟上がりなのに、オペ室の仕事が何もわかってないとか、色々言うかもしれないけど……あの三人以外の他の看護師はね、藍ちゃんが器械出しの業務に就かなくても「まあ、仕方ないか」って感じだと思う。それに、花原師長並みに仕事が出来なくてもどうとも思わないっていうか、あの人が異常すぎるのは、みんなわかってることだから」

「わたし、その点でも少し落ちこんじゃうんですよね。花原師長がわたしじゃなくて、羽生さんにみっちり仕事を教えてくれるお陰で――自分は色々厳しく言われて恥をかいたりしなくて良かったと思う反面、器械出しに関して目をかけられてるのは羽生さんのほうだってことですし。結局、師長の業務以外のことで彼女がわたしに付いたのは一度だけだったんですよ。で、そのあとすぐ「あなたは園田さんか江口さんにでも器械出しを教わってね。わたしは羽生さんに色々教えたいことがあるから。あの子、なかなかどうして見どころがあるわ」みたいに言って……なんかわたし、見どころがまるでないみたいに判断された気がして、プチショックを受けたっていうか」

「あ~でも、それはわたしが先に花原師長に言ったせいもあるかも」と、園田がすかさずフォローする。「だって花原師長、人にものを教える時、まるで自分のコピー人間を作ろうとするかのように厳しいでしょ?だから先に言っておいたの。師長が瑞島さんを厳しく叱責してるのを他の人が見たらどう思いますって。花原師長がいなくなったあとに、あれだけ元の師長に叱られたのに仕事を覚えられなかった人とか、辰巳さんたちに永久に言われることになるんですよ。それだったらわたしや江口さんできっちり器械出しと外回りに関して教えますから、師長は師長の業務だけ藍ちゃんに教えてくださいって先に釘刺しておいたの」

「そうだったんですか。でも、羽生さんに比べたらわたしに才能ないのは事実だなって思います。羽生さん、わたしより年下なのに、物覚えもずっと早いし……」

「べつに、藍ちゃんが唯のことを気にする必要はないわよ。だってあの子、藍ちゃんみたいに通常業務をこなし終わったあと、さらに師長の仕事まで引き継いでたわけじゃないでしょ。だからその分家に帰ってから勉強する時間もあったと思うのよね。けど藍ちゃんの場合は、師長の仕事の引継ぎだけじゃなく、頭おかしい花原師長に「このDVD、明日までに見ておいてね」とか、手術記録を山のように渡されたりしたんでしょ?」

「あ~あれ……」と言って、瑞島は苦笑いする。「わたし、家に帰ってから見たりしませんでしたよ、ほとんど。もう疲れ切っててそんな気力もないし、たまたまテレビつけたらやってた医療ドラマの手術シーンですら見たくなかったですもん。なんかこう、脳味噌が仕事モードになって、まるで家に帰ってきてからまで仕事してるように錯覚しちゃうんですよね」

「そうそう、だからそのくらいの手抜き感があるほうがいいっていうか、むしろそのくらいでまともなのよ。藍ちゃんには藍ちゃんのいいところがたくさんあるし、あの気違いの花原さんと自分を比べる必要なんか、実際全然ないんだから」


 ――そんなふうに、江口と園田に慰めてもらった瑞島だったが、実をいうと瑞島が内心隠れたコンプレックスを持っているのは羽生唯に対してだった。恋愛でも破れ、仕事でも負けている……何かそうした漠然としたイメージが心につきまとい、辰巳らが言っていたように自分は結局オペ室の名ばかり師長なのではないかと、そんなふうに感じることすらある。

 実をいうと瑞島は、誰か他人に対して<嫉妬>という感情を覚えたことが、これまであまりない。ゆえに、誰か他の看護師がちょっとしたことで同僚に嫉妬したりヒステリックになる姿を見るたびに、(え?そんなことくらいで?)と戸惑うことのほうが多かった。

 たとえば、回診時のちょっとした時に、「今度入ってきたAさんは可愛いね」と、某医師がある看護師を評して言ったとしよう。すると、そのことを耳にした先輩看護師の誰かが新人いじめを開始するというのは、ままあることだった。「あの、この場合はどうしたら……」、「そんなこと、学校で習ったでしょ?」、「自分で考えたら?」といった具合に。

 そして瑞島はといえば、途方に暮れているそうした新人看護師の駆け込み寺のような役割を果たすことがとても多かったのである。また、そうした先輩と後輩の間に挟まって、人間関係が丸く収まるようクッションの機能を果たすこともあれば、仲の悪いAという局看護師とBという超局看護師の間を行ったり来たりし、無事夜勤を乗り切ったというようなこともあった。

 けれど今、瑞島は<嫉妬>という感情が及ぼす苦い気持ちをよく味わっていたかもしれない。むしろ、これまで他人に対して嫉妬の情を覚えたことがあまりないだけに……瑞島は自分が羽生唯に対し、どう接したらいいのかわからないところがあった。

(最初に休憩室で会った時は、仲良くできそうな予感のする、感じのいい子だなってそう思ったはずなんだけど……)

 瑞島はノートパソコンのキィボードを叩く手を止めると、首を右や左に動かしたのち、もう一杯コーヒーを飲むということにした。

 実際には、自分と同日にオペ室へ異動になった羽生唯とは、表面上同僚として普通に接してはいる。けれど彼女の姿をオペ室内のどこかで見かけるたび、瑞島は自分の失恋の思いが甦ってくるあまり、胸が苦しくなるのだった。

 そして、嫉妬どころかそれ以上の暗い気持ちを自分が隠し持っていると気づき、瑞島は自身の心の奥深くに潜むものにギクリとした。つまり、これから自分の耳にもし羽生唯が何かでミスをしたとか、某医師にこっぴどく叱られたであるとか、そうした情報が入ってきた場合――おそらく自分は表面上はともかく、内心ではそのことに対しほくそ笑むのではないかという気がした。

(やれやれ。こんなんじゃわたしも、あの辰巳さんや今川さんたちと何も変わらないかもしれないわね)

 ノートパソコンのモニター画面に見入りつつ、そんなふうに自嘲しながら瑞島がコーヒーを飲んでいると、トントンと師長室のドアをノックする音が聞こえた。姿を現したのは、オペ室へ来て三年目のナース、美森七恵である。

 瑞島が何気なく時計に目をやると、すでに時刻は十一時半であった。

「あら、どうしたの?」

 美森は確か、十時から加瀬医師の、胆嚢摘出術のオペに入っていたはず……そんなふうに思いながら、瑞島は今日の手術予定表をファイルの下から探した。

「あのう……わたし、ここでお昼を食べても構いませんか?」

「えっと、べつにいいけど?」

(この子、午後の一時からもまた、別の手術が入ってるんだわ)

 そんなふうに確認し、それでは大いに労う必要があるだろうと瑞島は判断した。それに、わざわざ師長室へやって来たということは、何か特別に話したいことがあるのかもしれない。

 というのも、ひとつのオペが終わって記録も済んだのち、看護師たちがちょっとした愚痴や不満をこぼしに師長室へやって来るということが、これまでに何度となくあったからである。

「瑞島師長はお仕事のほう、どうですか?」

「どうってそうねえ。まだ慣れないことのほうが多いけど、でも花原師長が何かと引き継いでくれたから、まあどうにかなりそうってところかしら」

 勝手知ったるなんとやらというのだろうか、花原師長時代もよくそうしていたというように、美森は急須にお茶の葉を入れると、ポットからお湯を注いでいた。

「この間あった花原師長の結婚式、すごかったですよね」

 美森はお弁当を開くと、瑞島が仕事をしているのも構わず、ぱくぱくとごはんやアスパラのベーコン巻きを口に運んで言った。

「あ、わたしのことは気にしないでください。オペ室って結局、何時間も手術室に拘束されたりして、休憩時間がいつもまちまちじゃないですか。だからわたし、休憩室に辰巳さんとか、自分と気の合わないメンツが揃ってる時には、今みたいに師長室にお邪魔したりするんですよ。あとはごはん食べるだけなら、院内の食堂に行ってみたりとか」

「そうなの」

 全部で三十名以上にもなるオペ看のうち、そのすべての人物像が瑞島の中に叩きこまれているというわけではなかった。もちろん、花原よりそれぞれの性格の癖や特に得意とする手術の器械出し、相性のいい医師についてなど、詳しく知らされてはいたのだが、瑞島は美森七恵についてはまだあまりよく知らなかった。

「水原さんなんて、わたしたちよりもずっといい前のほうの席に、宮原総師長と一緒に座ってましたよね。わたし思うんですけど、ふたりともあんなにおいおい泣いて……何も知らない人がみたら、絶対花原師長の母親とその姉妹みたいな感じじゃなかったですか?花原師長が辞めて以来、みんな水原さんが元気ないって言ってますよ。ご主人がいなくなったあと、ペットが病気にかかったような状態に似てるって。外来あたりの、水原さんに敵意を抱いてるナースもみんな言ってますね。『あの憎らしい白ブタ、今日は何も文句言わなかったけど、どうしちゃったのかしら?』って」

「…………………」

 水原芽衣子は、オペ室にとってとても重要な瑞島の部下である。その彼女に対する悪口とも取れる発言に対し、瑞島はどう答えいいかわからなかった。自分が美森と同じただの一オペ看であれば、一緒になって「あれはおかしかったわよね」とでもなんとでも言える。だが、看護師長としてはどうすべきなのか……。

「あ、大丈夫ですよ、師長。わたしは今川さんみたいに、「瑞島師長にこう言ったら彼女、ああ言ったわよ」なんていうタイプじゃないんで。というより、わたしいつも師長室に来て、自分の言いたいことだけくっちゃべって持ち場につく感じなんですよね。休憩室にいるのは、たまたま仲のいい面子と顔を合わせた時だけ。で、器械出しにしても外回りにしても結構ストレス溜まるじゃないですか。そのストレスを辰巳さんたちみたいに人の悪口で発散するのは嫌なんで、時々師長室にやって来ては、花原師長の許容範囲内のことを話したりするんですよ。でも今度来た新しい師長さんは彼女よりも砕けた話が出来そうだと思って、わたし、楽しみにしてたんです」

 瑞島はそのまま書類仕事を続けても良かったのだが、なんとなく美森と真っ直ぐに向きあって話したほうがいい気がして、革張りのソファのほうへ移動することにした。

 花原の残していったオペ室人物ファイルによると、<美森七恵=二十五歳。オペ室勤務三年目。冷静沈着で、周囲の動きを終始よく見て行動することが出来る。コマネズミの如くよく働くが、一匹オオカミのような気質の持ち主>とある。

「午前中の仕事はどうでした?」

 美森がオペ室内の人間関係についてあれこれ喋りたいのはわかっていたが、とりあえず瑞島は師長として差しさわりのない会話からはじめることにする。

「そうですねえ。加瀬先生の手術だったんですけど、麻酔科医が戸田の奴ですよ。ま、外回りは貝塚さんだったから、べつにいいんですけどね。師長、加瀬先生についてはどう思います?」

「どうって……」

 ここも返答が要注意なところだと、瑞島は気を引き締める。まだよく知らないナースの口車に乗って、色々と喋ったところ翌日には病棟中にその噂がばらまかれていた――というケースを、瑞島はよく知っている。

「大丈夫ですよ、師長。そんなにガードを堅くしなくても……ま、そのうち慣れたら呼吸がわかると思いますけどね。あいつとそいつとこいつの前では滅多なことは言えないけど、あたしや園りんあたりにはなんでも思ったこと言っちゃえみたいに、そのうちなると思いますから」

「美森さん、園田さんと親しかったりするの?」

「ええ、まあ。だってわたしと園りんは同じ一匹オオカミタイプのナースですもん。群れるのが嫌で、女同士のぐちゃごちゃした感じにも「うえっ」てなるタイプ。だからすごく気が合うんです」

(じゃあ、わたしとも気が合いそうだ)

 瑞島はそう思い、なんとなくほっとして笑顔になった。

「そうですよ、師長。そんなに難しく考えることないんですって。オペ室のガンは辰巳と幸谷と今川さんだっていうのは、麻酔科医たちでも知ってることですし……あの三人がいなくなったらオペ室も相当風通しがよくなるだろうなあってみんな言ってます。それで、加瀬先生なんですけどね、結城先生になんか雰囲気似てるって、師長、思いませんでした?」

 結城先生、と聞いて瑞島は一瞬心が震えた。けれど、表面上はなんでもないふうを装って、「そうだったかしら?」と返答する。

「機会があったら、今度よく観察してみてくださいよ。加瀬先生、結城先生を尊敬するあまり、髪型とか立ち居振る舞いとか色々、真似てるんですから。結城先生も加瀬先生に言ってましたもん。「おまえ、俺の出来の悪いコピー人形みたいでキモいぞ」って。まあ、一番似なきゃいけないのは手術の腕なんですけどねー、加瀬先生、腕はいいんだけど、手術中、時々発作的におかしくなるんですよ。体を左右に揺らしながら足を踏み鳴らしてみたり……結城先生は「加瀬の奴、多動症なんじゃねえかなあ」なんて、冗談で言ってましたけど。そういう時の加瀬先生って、今手術に全然関係ない動脈なんかに突然切りこんでいくんじゃないかと思って、見てるこっちまで一瞬ヒヤッとするんですよ。まあ実際にはそんなことないんですけど、この間なんて自分では「えっさほいさ」って言ってるつもりなのかどうか、最後の締めのほうで「ウッホウッホ」なんて言いだすもんだから、「オメーはゴリラか」って思わず突っ込みそうになりました。もちろん、お偉い先生にそんなこと言うわけにいかないんですけど、でもオペが終わったら速攻誰かにこのこと話したいとか、おしゃべりなわたしとしては思うわけですよ」

「それはおかしいわね」

 瑞島はここでは遠慮なく大笑いした。テーブルの上にはまだ花原が残していった動物クッキーがあり――何故そんなものが常時置いてあるのかを理解した瑞島は、自分も今度何か茶菓子を持ってこようと心に決める。

「そうっすよ。加瀬先生、あれでもし医者じゃなかったらただのアブナイ人だよねって、時々みんな言ってる感じ。まあ、みんな好きなんですけどね、加瀬先生の術場は。ちょうど斎木先生と加瀬先生って性格が真逆じゃないですか。斎木先生は加瀬先生ほどのスピードはないけど、慎重かつ丁寧かつ真面目にコツコツ退屈に……なんて言っちゃ失礼なんですけど、何かそんな感じ。結城先生は前まで、クマちゃん先生と部長室をふたりで使ってて、そのクマちゃんが一年くらい前にいなくなっちゃったでしょう?それで、「部長室に次に机を入れてもいいのは僕だ俺だ」で加瀬先生と斎木先生の間で喧嘩になって……結局結城先生、喧嘩両成敗ってことで、ひとりで部長室を広々と使うことにしたみたいですね」

 加瀬医師と斎木医師の兄弟喧嘩のような椅子の取り合い合戦については、もちろん瑞島もよく知っている。だが、とりあえずは知らないようなふりをして、笑いながら美森の話を聞いた。やがて昼時となり、今日は外回り担当だった園田が加わると、一時から午後の業務を開始するまで、師長室は楽しい語らいと笑いで満ち溢れることになった。そして、一時になるかなり前から準備のためにふたりが部屋から出ていくと――瑞島は午後から<魔女の巣窟>こと看護師長室である会議に参加するため、資料を小脇に抱えて、オペ室をあとにした。

 本日の魔女会議の議題は、近頃他の病院で事故が続き、マスコミと世間を騒がせている人工呼吸器管理のことであった。植物状態の患者に繋がれた人工呼吸器が、コードを抜かれたまま放置されている事態に医療者が気づかなかった……そのことを受けてK病院でも、人工呼吸器に関するリスクマネジメント委員会が設置されるということになったのである。

 なんにせよ瑞島はこの時、美森や園田とオペ室内部のことを色々話しあったことで、心が晴れ晴れする思いで満ちていた。手術室の看護師長としてどうにかやっていけそうだと、瑞島が強い確信の思いを抱くに至ったのは、もしかしたらこの時であったかもしれない。



 >>続く。





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