天使の図書館ブログ

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動物たちの王国【第二部】-20-

2014-03-22 | 創作ノート
リン・デイヴィーズ(オールポスターズの商品ページよりm(_ _)m)


 今回もまた何やら、描写のあやしい回です

 というか、手術室に来て間もなくで脳下の手術に回されるとか、実際かなりキツいですよね(^^;)

 んでもって、午前に脳動脈瘤の手術があって、午後からは神経膠腫(グリオーマ)の手術……気が抜けなくてとても疲れそうと思うのは、わたしだけじゃない気がしたり

 う゛~ん。この覚醒下手術って、実際とても大変なものみたいで……わたしに医学的知識がないせいで、軽く流す感じで書かれてますが(汗)、麻酔をかける→開頭する→患者さんに目覚めてもらう→「スイカの絵が見えますか?」、「この指が何本かわかりますか?」といったように、患者さんの認識を確かめながらする手術らしく。。。
 
 ちなみに↓の患者さんの場合は、悪性のグリオーマではなく、グレード2の神経膠腫という設定のつもりだったり(グリオーマの悪性と呼ばれるものはグレードの3や4ということなので)。

 まあ、わたしに細かいことを書く力がないので省かれてますが(失笑)、唯が器械出しに集中する間、外回りの園田は園田で、常に患者さんを気遣い、麻酔科医の先生ともども状況を細かくチェックしているものと思われます(^^;)

 本文のほうも長いので、前文も長くなると鬱陶しいかなと思いつつ……神経膠腫ではないのですが、同じ覚醒下手術の雰囲気(?)を伝えるものとして、またもやアトゥール・ガワンデさんの本から引用させていただくことにm(_ _)m


 >>レンツによると、最初のうちはすべて予定通りに進んだという。この手術は患者が覚醒した状態で行うため、レンツは患者に局所麻酔を投与し、ドリルでテーラーの頭蓋に小さな穴を開けた。
 次に、慎重な手つきで、細長い電気プローブを視床に到達するまで深く挿入した。レンツは始終テーラーに話しかけ、舌を突き出してください、手を動かして下さい、などと命じ、患者に問題が起こっていないことを確認した。
 この種の手術で一番危険なことは、間違った細胞を壊してしまうことである。震えに関わる視床細胞は、感覚と運動に必須な細胞から1ミリしか離れていない。このため、プローブで焼却する前に、微弱な電気パルスで刺激しながら正しい細胞を見つけださなければならない。
 レンツが「第19領域」と名付けたテーラーの視床部分にプローブを当て、低電圧で電気刺激を与えた。レンツはこれまで何度もこの部位の手術を手がけた経験から、その領域に電気を流すと患者の前腕がチクチク痛むのがふつうだと知っていた。
 果たして、テーラーも同じ痛みを感じた。次にレンツは、「第23領域」と名付けた隣の部位に電気刺激を与えた。
 この領域に電気を流すと、胸にヒリヒリと軽い痛みがあるはずだ。ところが、テーラーは、ふつうでは考えられないほどの激痛を訴えた。
 事実それは、パニック障害に陥ったときの胸の痛みと全く同じで、発作のときにいつも感じる呼吸困難と死への恐怖感まで伴っていた。
 テーラーは叫び声をあげ、手術台から逃げ出しそうになった。しかし、レンツが電気を止めると、叫び声はぴたりと止み、テーラーはたちまち冷静さを取り戻した。
 困惑しながらも、レンツは第23領域に再び電気を流した。すると、同じことが起こった。
 レンツは、いやな思いをさせて申し訳ない、とテーラーにあやまり、手の震えを制御する細胞を特定してから、それを焼却した。手術は成功だった。

(「コード・ブルー~外科研修医 救急コール~」アトゥール・ガワンデ著、小田嶋由美子さん訳/医学評論社)


 それと、覚醒下手術についてググってみてヒットしたのが、

       眠りと目覚めの間~麻酔科医のノート~

 のサイトさまm(_ _)m

 まあ、わたしの書き方だとなんとも微妙すぎ☆ですけど、「ほんとはこんな感じなんだよ!」ということで(^^;)

 それではまた~!! 



       動物たちの王国【第二部】-20-

 唯は第一手術室であった館林医師の脳動脈瘤の手術が終わると、オペが無事成功したことにほっとすると同時、外回り担当であった辰巳笙子と目が合い、再び気持ちを引き締めなくてはならなかった。

 今回のオペで使われた器械類やガーゼ類を最後にカウントし、数に間違いがないかどうかを最後に確認しあうのだが、辰巳が外回りで自分が器械出し担当の時――そのうち「あら、おかしいわね」などと彼女が言い出すような気がして、唯はいつもヒヤリとする。

「そいじゃお疲れさん」と術場のみなを労って、館林医師がオペ室を出ていく。その後ろ姿を見て、唯はなんとなく照れたような気持ちになった。手術中、もちろん彼はこう聞いたりはしなかった。「おとつい、結城先生の部屋から出てきた時に会ったよね?」などということは。

 実際、エレベーターで一緒になった時、唯は館林医師にどう弁解したものかと思った。以前、「どうせ結婚するんだからそんなに根を詰めなくても」と言ってくれたのも、元はといえば自分を守るためにしてくれた善意の発言であったのに……唯はそのことについてもお礼を言いたい気がしたが、さりとて今の事態をどう説明したものか、いい言葉が何も浮かんでこなかった。

「あ、あのう……」

 一階へ到着したところで、唯はようやくそう声をかけたのだが、館林は彼女のことを邪魔にするように、ただ手を振っただけだった。

「いいよ、いいよ。べつにノロケはさ。僕ももう五十年以上も生きてきて、三十何年も医者やってんだからね、見てればわかるって。ただ、唯一わからなかったのは花原君と雁夜先生のことだけど。結婚するって聞いた時にはまさに寝耳に水っていう気がしたな。なんにしても、君たちも結婚式をするんだったら、引き出物には気をつけたほうがいい。動物が縁に立体的に彫られた皿なんかもらっても、あんまり実用的じゃないし置き場所に困るってみんな言ってたからね」

「はあ……」

 館林はそのまま売店の方角へ消えてしまったのだが、唯はただぼんやりした思いで、放射線科へ向かった。職員が受ける健康診断で、レントゲンの検査を受ける順番が回ってきたためである。

 十分とかからず検査が済み、唯がオペ室の休憩室へ戻ってみると、幸谷と今川がお弁当を広げて食事しているところだった。他に中材の看護助手たちもいるが、彼女たちはこのふたりの看護師を恐れるかのように、隅のほうで小さくなっている。

(仲村くんでもいれば、一緒にお話できたのにな)

 滅菌洗浄室で一緒に仕事をする時、何かわからないことを聞く以外では、みな大体無言だった。何かちょっとしたミスでも発覚すると、「余計なことをくっちゃべってるからだべ」と水原に叱られるせいだということなのだが、にも関わらず中材で水原のことを真に嫌っている職員はひとりもいないという話だった。

「不思議だけどね。もちろん、水原さんが休憩してる間はみんな色々しゃべったり、彼女のことをちょっと悪く言ったりはするんだけど、それもまあある種の親しみをこめて「気違い」って呼ぶ程度のことだから……変な話、水原さんがそういう損な役まわりにあることで、他のみんなが仲良く出来てるっていうところがあるんだよね」

 というのは、中材専従のナースマン、仲村哲史の言であったが、そんな彼もまた水原が最近元気がないのを見るにつけ、少し心配になっているという。

「いつもならここで叱り飛ばすっていうところで、なんにも言わなかったりして……みんな、なんとなくぞっと鳥肌が立つみたいに言ってる。まあ、僕はここに来てまだ一年くらいなんだけど、花原師長の前のオペ室師長に、水原さんは相当うるさく色々注意されてたらしい。以来、「自分よりも下の人間をどう扱うかでそいつの人間性がわかる」みたいな信念を水原さんは持ったらしいけど、そこに今度は花原さんがやって来たわけで。彼女、水原さんの仕事ぶりを徹底的に褒めちぎってね、それもそうすることで部下のやる気を奮起しようっていうマニュアル的な言い方じゃなく――羽生さんもわかるでしょ?花原師長に特有の、心からそう思ってる的な言い方で褒めちぎってね、以来ふたりは心の底から結ばれる感じになったわけ。でも今度来た瑞島師長は、水原さんにとって花原師長ほど極端に良くもなければ、その前にいた師長ほど悪くもなく……なんか張り合いがなくなっちゃったんじゃないかっていうのが、中材にいるみんなの意見」

 そしてその当の水原芽衣子が、どこかぼんやりした顔をして休憩室にやって来た。休憩室の長方形のテーブルの前にどさりと座り、お弁当を広げて食べようとするが、箸でごはんをつまみ、口許まで持っていきかけて――その時にようやく、自分がマスクをしていると気づいたようである。

 この時、片手にジュースを持った辰巳がナースシューズを脱ぎ、休憩室の畳敷きの床に足をかけた。そんな水原の姿を見て、「ざまあないわね」といったようにほくそ笑むが、すぐに今川や幸谷らと別のことで談笑しはじめる。

「水原さん、ペットの写真見せてもらってもいいですか?」

 唯はお弁当を食べ終わると、自分もひとりだったせいもあり、そんなふうに彼女に話しかけてみた。

「ああ、べつにいいよ、羽生さん。無理してそんな、うちのペットに関心持った振りをしてもらわなくても……お嬢はね、あの子はまあ、特別だったから……」

 水原がどこかしんみりし、そのまま機械的に食事を続ける姿を、唯としてはただ黙って見守る以外になかった。ペットロス症候群ならぬ、花原師長ロス症候群だと、中材の面々は語っているらしいのだが――どうやら、自分が何を言っても慰めにはならないようだと思い、本棚から手術手技に関する本を取り出すと、唯はその本を読んで休憩の残り時間を過ごすことにした。

 だが、ここまでなら唯にとってもどうということもなかったといえる。午後からはまた、雁夜医師の代わりに入ってきた脳外科医による、神経膠腫(グリオーマ)の手術が入っている。何分新しく入ってきた先生なので、どういった性格なのか、手技に癖があるのかどうかなど、唯にもまったくわからない。ゆえに、万全を期すためにもグリオーマ手術について何度も復習していたのだが――手術準備のために休憩室から出ようという時、辰巳が最後にぼそりとこう言った。

「可哀想」

 辰巳はゴミ箱に缶ジュースを捨て、通りすがりざま、唯に対してそう言った。

(どういう意味だろう……)

 あまりにくだらないことではあるが、唯は器械台の上に器材を揃えて確認する間、そのことをやはりちらと考えずにはいられなかった。

(前みたいに、花原師長と水原さんの三人で和気藹々と出来なくて可哀想っていう意味かしら?それとも……)

 唯は、以前辰巳が言っていた、ティファニーとブルガリがどうのという話を思いだし、ここで首を振った。

(ううん、今はそんなことはどうだっていいわ。それに、えっちゃんも言ってたもの。それがあの人の陰湿なやり口なんだって。それで「今のどういう意味ですか?」って聞き返しても、「あなたに言ったんじゃないのよ」とか、「ただの独り言よ」みたいにしか言われないって。わたしも、気にしないことにしよう)

 唯がまだ誰もいない第一手術室で、用意した器材類の数などをあらためて数えていると園田がやって来た。午後からも辰巳が自分にピタリと張り付いていないというだけでも、唯は心底ほっとするものを感じる。

「おお、さっすが羽生さん。準備のほうはばっちりでんな」

 ひいふうみいと器材を数えて確認し、外回り看護師としての準備とチェックを済ませると、園田はまた第一オペ室から出ていった。「患者様のお迎えにいってまいりまーす!」などと、バスの添乗員のような裏声で……。

 やがて麻酔科医の倉本と検査技師のひとりがやって来、何やらブツブツ言いながらモニター類をチェックしはじめる。そして患者が到着すると、覚醒下手術になるといった、いくつもの説明と確認がなされてから、実際に麻酔をかけるということになる。

 雁夜医師の後任としてやって来たのは、元は慈鷲会系列の病院にいた関口五郎という三十七歳の医師であった。もっとも、慈鷲会病院でああした一連の事件が起きる以前より、こちらへ赴任することを希望していたらしいのだが――マスコミが騒いでいるように、慈鷲会病院の一部の医者が「ヤブ」とレッテルを貼られているのとは違い、関口は実に良い腕をした脳外科医であった。

 患者の覚醒下における手術であったため、職員間で何か軽い冗談が囁かれるでもなく、オペのほうは粛々と進み、やがて無事終了ということになった。関口は「じゃあまた病室のほうで」と、五十代前半の前川礼子という患者に一声かけると、ラテックスの手袋を外しながらオペ室を出ていった。

「ふうん。あれが関口先生かあ。キリッとした感じのスポーツマンだったわねえ。眉毛が太くて色黒で、ソース顔した濃い男って感じ」

 前川礼子を回復室まで送っていくと、戻ってくるなり園田がそんなことを言った。K病院では回復室に専属の看護師がいるため、手術の終わった患者は彼女たちの手に身柄を委ねられることになる。

「あの先生、慈鷲会系列の病院から来たんだろ?なんとも不幸な人だよなあ。昔はあそこ、理事長先生の名前がビッグネームってことで、頭の手術を受けるとしたら慈鷲会みたいに言われたこともあったのにさ。病院のランキング本でも常に上位をキープしてたのに」

 倉本は回復室での前川さんの様子を聞いたあとは、園田といつもしている術後の、あれやこれやの四方山話を開始した。園田のほうは記録についてはすでに完了しており、あとはこれをパソコンの手術室看護記録のほうへ打ち込めばいいだけである。

「だから、ランキング本なんてそもそもアテになんかならないんだっちゅーの。ある一時期いい先生ばっかり揃ってたとしても、その後転勤や開業なんかで医師の面子が変わったとしたら……それはそれでまたわからないってことになるんじゃない?」

「まあなあ。うちだって結城先生あたりがいなくなったら、病院のイメージとしてはガクッと下がるんじゃねえか?それじゃなくても雁夜先生が抜けたばっかっていうのもあるし、関口先生自身がどーのってんじゃなくさ、あの先生が前いたとこが慈鷲会だって患者が知ったら、「ちょっとどうしようかな」って不安になるよな。実際の手術の腕がどうこうじゃなく、あくまでも「イメージ」的にさ」

 手術が終わり、大体のところ片付けも終わった唯は、本来なら外回りの園田がすべき仕事も手伝いつつ、最後に洗浄室に使用済みの器材類を運んでいった。

「あいよ、ご苦労さん」と言って水原が受け取るが、この水原の「ご苦労さん」という言葉が気に入らないと、辰巳あたりはよく今川らと話しているらしい。何故といって、勤務年数が十二年だろうとなんだろうと、たかが看護助手という立場の者が看護師に聞いていい口ではないというのである。

 唯にとって、水原芽衣子の言葉遣いというのは実に好感の持てるものであった。元は秋田の出身で、秋田弁と標準語が混ざったような微妙に訛りのある話し方なのだが、「オラオラ、ぼさっとしてんでねえど。掃除、掃除!」などと急き立てられても――彼女の部下もまた、さほど腹など立てていないに違いなかった。

 唯は自販機の前で暫し迷ったのち、レモンスカッシュを飲んでさっぱりしようと思った。十三階の特別病棟を出る少し前、佐藤師長と今里主任から「オペ室は独特の緊張感があってガンリスクが高まるわよ~」などと脅されていた唯だったが、そういう部分も確かにあることにはある。けれど、今唯はとりあえずひとつの手術が終わったことの安心感と満足感、それに充実感を感じていたかもしれない。

(もちろん、術後の経過をつぶさに観察できるわけじゃないっていうのがなんなんだけど……そのあたりはまた、外回り担当になった時、申し送りに来たナースにでも聞くしかないものね。わたしにできるのはただ、「どうか良くなりますように」って祈るような気持ちで送りだすことくらいっていうか)

 休憩室に一時休憩を取っている今川と幸谷の姿があったため、唯は自販機が五台並んだほうのベンチで、そのまま一休みすることにした。すぐ隣がナース用の休憩室であるため、本来ここは医師たちが休むスペースとして、長居してはいけない場所だと言われている。

「まあ、いいわよね。今は誰もいないし、人がきたら向こうにいけばいいんだから……」

 そう独り言をつぶやいてしまい、唯は思わず笑った。翼は思ったことをすぐ口に出す性格で、今朝も「歯磨き粉、出てこねえ、歯磨き粉!」だの言って、しきりにチューブを締めつけたり、「あ~あ、寝癖が直らんってことは今日はアンラッキーデーだな」と言って溜息を着いたり……特段それは唯に聞かせているわけではなく、ひとりでいる時も同じなのだろうと思って、唯はおかしくて仕方なかった。

「なんだ、唯。おまえ、何がおかしい?」

 翼が髪にドライヤーをかける姿を見ていた唯が笑うと、翼は鏡から彼女のほうに視線を移していた。

「ううん。昔、奈々ちゃんが言ってたことを思いだしちゃって。「先生くらい格好いいと、朝出てくる前に鏡の前で「今日の俺も決まってるぜ!」とか、親指立ててから出勤してくるんでしょうね」って」

「あ~あれか。だから俺、あいつに言ってやったんだ。だったらおまえは「今日のわたしもデブってて最高!」とか思いながら出勤してくんのかって」

 唯が思わずくすくすひとりで笑っていると、その当の本人である翼が入ってきた。こういう偶然は同じオペ室内にいても珍しいので、唯としても思わずドキリとする。

「なんだ、唯。おまえ、気持ち悪いな。こんなところで思い出し笑いなんかしやがって……」

 翼はオロナミンCを選んでボタンを押すと、それを自販機の受取口から拾いあげ、唯と同じベンチに腰掛けた。

「ううん、べつになんでもないの。それより、そっちのほうはどう?」

 どこか上機嫌そうに見える翼の表情から見て、<ダ・ヴィンチ>による手術は無事成功したのだろうと思うが、自分の思いだし笑いをごまかすために唯はそんなふうに聞いた。

「んー、まあ、まあまあってとこだろ。それよりおまえ、今日勉強会があるんだっけ?オペ看連中が集まって、手術のDVD見たりして術式を勉強するってやつ。終わるの大体何時ごろ?」

「えっと、たぶん八時近くなるかも……ちゃんと仕出し弁当のお夕飯なんかも出るんだけど、花原師長の時は手術のDVD見ながら食事させられたとかって」

「そりゃ新人ナースにはきっつい話だな」と、オロナミンCを飲みながら翼は笑った。「ま、なんにしても弁当出るだけでもいいと思ってがんばれ。俺さ、色々片付けなきゃなんない書類仕事もあるし、論文の続きもやっつけなきゃなんないしで、終わるまで待ってっから」

「う、うん」

 翼が途中まで飲んだ自分のレモンスカッシュを奪って飲みはじめたので、「それ、あげる」と一言いってから唯は休憩室を出た。途端、すぐ脇のほうで聞き耳を立てていた辰巳と出会い――唯は頬を赤く染めた。

 人に聞かれて困るような話をしていたわけではないものの、なんとなく気まずいものを感じて、唯はそそくさとその場から離れるということになる。

(ああいうのも、あの人には気に障るのよね、たぶん。気をつけなきゃ)

 その後、唯が若干の眠気を感じながらも、どうにか勉強会を終えて翼の元へ行ってみると、彼の部長室に翼の姿はなかった。トイレかどこかへ行っているのだろうかと思ったが、ソファ前のテーブルには一枚の書き置きが残されているだけだったのである。

<ちょっと大変なことになった。詳しいことはあとで話す。今日は気をつけて帰れよ>

 ほとんど殴り書きにも近いような翼の字を見て、唯は首を傾げた。「ちょっと大変なこと」というのは、外科病棟で患者が急変したことを差すのだろうか?それとも……。

 唯が鍵をどうしようと思ってそのメモを拾いあげると、裏にテープで部屋の鍵が貼ってあった。ということは、これで鍵をかけて帰ってくれということなのだろう。そう考えた場合、翼はすでに院外に出ていると思って間違いなさそうだった。

(お父さんやお母さんが倒れたとか、そういうことかしら?)

 唯がどこか不安な気持ちのまま、部屋の電気を消し、鍵をかけて部長室を出ると、オペ室のところで帰り仕度を済ませた瑞島と、ちょうどばったりと会う。

「勉強会、お疲れさまでした」

 唯のほうから何気なく声をかけられ、瑞島は内心複雑な気持ちになったが、それはある意味二重の複雑さだった。ひとつ目は、二年もの間片思いを続けた相手の恋人に対する気まずさ、またもうひとつ目は今しがたあった勉強会のことである。この二か月以上もの間、瑞島なりに研究し、勉強したことを踏まえて作ったプログラムであったが、やはり経験値の少ない人間の作ったマニュアル的な部分が多いため、幸谷らベテラン勢の質問攻めにあい、瑞島はうまく切り返すことが出来なかったのである。

 もちろん、半分以上寝ていた園田・江口らに援護射撃してもらってどうにか事なきをえたものの、これからも彼女たちは勉強会のたびに自分の面子を潰しにかかるのだろうと思うと、瑞島は心が重くなっていたのであった。

 そして唯一の救いといえば、辰巳笙子がその場で何も言わなかったことであるが――そのことには理由があった。彼女は何も、自分の言いたいことを今川や幸谷に言わせていたのではなく、勉強会のはじまる少し前に、師長室へ苦情を申し立てに来ていたのだ。自分は今日、自販機のある場所で羽生さんと結城医師が仲良くベタついているところを見た。だが、ああいうことは勤務中にすべきでないし、結城医師もまったくどうかしている、と……そこで即刻羽生さんに注意を促すよう、まるで彼女のほうが師長であるかように言われ、瑞島としてはまったく立つ瀬がなかった。

「今日の勉強会、とてもためになりました。今回は消化器外科の手術が中心でしたけど、そのうち脳外科領域の手術についても、重点的に教えてもらえると助かります。わたし、花原師長にずっとついてもらってたせいか、どうしても脳外科系の手術の器械出し担当になることが多くて……」

「そ、そうね。わたしも頑張って勉強して、どうにかするわ」

(うっ、脳外科か~。前に病棟にいたとはいえ、苦手な手術領域だわ)

 幸谷らとは違い、唯の言葉にはまったく棘がなかったため、瑞島には彼女が嫌味ではなくただ思ったことを口にしただけなのだとわかっていた。そしてあらためてこうして並んでみると、唯が小顔でリスのように可愛らしい顔立ちをしているとわかり、胸がズキリと痛む。

(結城先生、本当はこういう子がタイプだったんだ。好きなタイプは黒木メイサとアンジェリーナ・ジョリーって言ってたから、てっきり少し悪女っぽい女性が好きなのかなと思ってたけど。善意の旗印を掲げて、地味だけど真面目に一生懸命コツコツとっていうタイプよね、羽生さんて。お医者さんでいったら、斎木先生と大体似たようなタイプっていうか……)

 まるで会話が弾まないので、瑞島はいつもの自分らしく「話題、話題」と頭の中を探ったが、こういう時に限って何も思い浮かんでこなかった。そしてどこか互いに気まずいまま、下駄箱の並ぶ場所へ辿り着き――ようやくそこで瑞島は話すべきことを発見して、ほっとした。

「あら。わたしと羽生さんの下駄箱って結構近かったのね。同じ並びの二列違いだなんて」

「そうだったんですね。わたし、てっきり下駄箱って外科のナースは外科のナースで固まって並んでるのかと思……」

 唯がそこまで言いかけた時、木製の取っ手を開けた途端、ザザッという音とともに、白く四角いものが大量に落ちてきた。廊下は電灯の光量が落とされているため、薄暗い。そのせいもあってそれがなんなのか、瑞島にも唯にも最初まるでわからなかった。

「えっ!?ちょっとこれ……」

 瑞島が先にひとつ拾い上げ、すぐに手を放す。それは色々な種類のコンドームだった。おそらく五十個以上はあるかと思われる。

 唯もそれがなんであるかに気づくなり、ハッとして顔を赤くした。瑞島としても、ここまでの陰湿な嫌がらせに対しては、義憤に近い思いがこみあげ、自分のバッグの中にそれを入れて始末しようと思った。

「あ、誤解しないでね、羽生さん。何もわたし、こんなの使いたいわけでも使う予定があるわけでもないんだけど――だからって、このままにしておくってわけにもいかないし、警備のおじさんにかくかくしかじかでどうにかしておいてって言うのもなんだし、家に帰って捨てる以外、他にどうしようもないじゃないの」

「す、すみません。入ってたのはわたしの下駄箱なのに、師長にまでそんな……」

 唯もまた一生懸命床からコンドームを拾い上げては、自分のバッグの中へ入れた。幸い、今日の勉強会のための勉強道具を入れるのに、少し大きめのバッグを持ってきたのが良かった。こうしてふたりは避妊具を始末すると、警備室の警備員に挨拶し、外へ出た。

「今日は勉強会があったから、結城先生が一緒じゃないんでしょ。だったら送ってくわ。わたしの家があるのもちょうど葵ヶ浜のほうだし」

「そんな、いいです、師長。少し待ってればバスが来ますから……」

「べつにいいのよ。それに、あんなことがあったあとであなたをひとりで帰したら、危ないじゃない。これは師長としての命令として言うんだけど、一緒に車に乗って帰りなさい」

 唯は瑞島に礼を言うと、彼女と一緒に駐車場まで歩いていき、瑞島の乗るルビーレッドのワゴンRに乗りこんだ。それからのふたりの会話はスムーズだったかもしれない。唯が少し前にもネズミの死骸が下駄箱に放り込まれていたことを話すと、瑞島は「信じられない!」と言って憤慨した。

「それは絶対に犯人を捕まえないといけないわね。わたしにいい考えがあるわ。来週の月曜日、わたしが総師長に言って羽生さんの下駄箱をまずは別のところに移してもらうことにする。で、ここからはちょっとお金のかかることなんだけど……まあ、そこらへんはリッチな結城先生に出資してもらうことにして、と」

「あの、今回のことはわたし、先生には黙っておこうかと思って……変に心配かけるだけで、何か解決になるとも思えないし……」

 唯は翼が残していった、例のメモのことが気になっていた。筆跡の乱れからして、相当急いでいたようだし、無意味な心理的負担を彼にかけたくないとも思っていた。

「駄目よ、そんなの羽生さん。大体ね、あなた、なんで自分が今こんなことになってるかわかってる?すべては結城先生とあなたがつきあってることが原因なのよ。だったら、彼にも応分の負担を負ってもらわなきゃ」

 瑞島は自分がこう言っても、遠慮がちに黙っている唯のことを見て――少し不思議になった。学校や職場では大人しいのに、家へ帰った途端おしゃべりになる……羽生唯はそうしたタイプにもあまり見えず、性格のほうにさして裏表がないように見えた。果たしてこんな彼女と、あれだけキレのいい会話をする結城医師が普段どんな会話をしているのか、想像がつかなかったのである。

(まあ、もちろん部外者のわたしには関係ないことだけれど)

 そう思いながら、瑞島は助手席に座る唯のことを通りこして、闇の中に沈む海岸線を眺めやった。白いガードレールと街路灯の向こうは一面の闇であり、このあたりを夜うろつくのはアベックか変質者くらいのものだろうと言われているが、実際のところはどうなのだろうと彼女は思う。

 小さな湾をいくつも抱え込んだ葵ヶ浜の埠頭のあたり――漁船がいくつも停泊している明るい場所が見えるあたりで瑞島は左折し、唯に説明されるがまま「次、右でお願いします」と言われて坂道を登りきったところで右折した。そしてピンク色の八階建てマンションの前で彼女のことを下ろすと、「じゃあまた月曜にね」と言って、瑞島は唯と別れた。

 上がっていって、お茶でも一杯どうかと誘われたものの、瑞島は断っていた。何故といって、今日はなんと言っても花の金曜日である。結城医師がふらりとやって来て、自分がお邪魔虫になりでもしたら惨めなこと極まりないと、そんなふうに予感したからだった。

(なんにしても、あんな卑劣なことをする奴は、絶対に踏ん捕まえてやるわ)

 帰り道、瑞島は自分が奇妙な義憤に燃えていることに対し、少しだけ冷静になって自嘲した。随分と自分もお人好しだなと、そう感じはするものの――失恋の傷が大分癒えていることに対して、寂しい満足感に近い思いを、この時瑞島は覚えてもいたのである。



 >>続く。





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