天使の図書館ブログ

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動物たちの王国【第二部】-18-

2014-03-19 | 創作ノート
【最高のもの】キャロル・ロビンソン(オールポスターズの商品ページよりm(_ _)m)


 さて、今回の前文は前回の続きについてです♪(^^)


 >>マグブー婦人は、窓がなく、物音ひとつしない、蛍光灯で明るく照らされた手術室前の待機室でさらに二時間、空腹と不安に横になったまま耐えていた。
 時計の針がチクタク進む。時々、医療のなかにいると、まるで自分が巨大な城のなかにいつの間にか入り込んでいて、複雑な機械の気まぐれで歯車に巻き込まれてしまう、そんな錯覚に囚われる。
 他人を忖度しケアしたいという人の気持ち、人によりよいサービスを提供したいという努力が、医療をよくするだろうという考え方は絶望的なほどナイーブである。工夫はそのどちらでもない。
 マグブー婦人は、今晩手術をうけられるのかしら?と私に尋ねた。
「可能性は……」私は答えた、「だんだん小さくなってきている」。
 しかし、私はとても彼女を家に帰らせる気にはなれなかった。それで、まだしばらく私の指示に従って欲しいと話した。そして、午後八時ごろに、私の携帯にメールが着信した。
「患者さんを手術室29に入れて下さい」と書いてあった。ふたりの看護師が、手術室の状況を知って、超過勤務をすることを自分から申し出てくれたのだ。私が話しかけたら、ひとりは「いいのよ、別に家に帰ってもすることがなかったからよ」と答えてくれた。
 努力を続けていれば、時には努力しようという意欲ある人を他にも見つけることがあるのだ。
 メールを受け取って11分後に、マグブー婦人は手術台の上にいた。鎮静剤が腕に注射された。皮膚は消毒されて、体に手術用シーツがかけられた。乳がんは簡単に摘出できた。リンパ節には転移がなかった。手術はそれで終わりだった。
 切除した場所を処置している間に、彼女は静かに目覚めてきた。頭上にある無影灯を彼女が見つめているのがわかった。
「この灯りはまるで貝殻のようね」彼女はつぶやいた。

(「医師は最善を尽くしているか~医療現場の常識を変えた11のエピソード~」アトゥール・ガワンデ著、原井宏明さん訳/みすず書房刊)


 ――無影灯が貝殻に見えるなんて、なんだか素敵だなって思います

 というか、乳がんの手術を受けたばかりなのに、そんなふうに思えるマグブーさんの感性が素敵ということですけど(^^;)

 そして、ふたりの看護師さんが超過勤務を申し出てくれた……ということなんですが、これたぶん、実はガワンデ先生の人柄によるところが大きいんじゃないのかな~なんて、読者としては想像しました。

 いえ、「△△先生のオペだったら、超過勤務してもいいわ」とか、そういうのって絶対ありそうですよね(笑)

 んでもって、前回のお話の続きとしては……。。。


       香川大学医学部付属病院 材料部さまm(_ _)m


 医大病院など、規模の大きいところではこういう感じなんだろうな~なんて漠然と想像(妄想☆)するんですけど、普通の中規模総合病院だったらここまで凄くない(?)気がしたり(同じくらいだったらすみません^^;)

 でも手術室が42あって、常にどこかここかが稼動してるとなると、日本の医大病院のシステムすら超えて、材料部はもっと凄く大変なことになってるんじゃないかと思ったというか(@_@)←手術室42というのは、前回書いたガワンデ先生の勤めていた病院の。

 滅菌管理システムの紹介のところに、>>滅菌管理システムで手術セット(約500個)の所在管理を実施しています。 緊急手術に即対応できる体制です。ってあるんですけど、わたしがなんとな~くぼんやり記憶にあるのは、こういう手術セットの中に小さい紙みたいのが入ってて、何を何本揃えるとかそれに書いてあったことでしょうか。

 つまり、その紙を見て書いてあるとおりのものを揃えるんですけど、なんというか、その紙もまた滅菌に耐えられるコーティングをしてあるので、器材を揃えたらそれごと滅菌装置に入れちゃってOKみたいな?(^^;)

 でももしかしてほんの極々たま~に、ついうっかり☆みたいなことがあって、入っているべきはずの器材がない……なんていうことがあったりするのでしょうか??

 あと、人間の手で洗わなきゃいけないものとして、血がべっとり詰まった管とか、そんなのも色々ありそう……なんて漠然と想像(妄想☆)します。

 というのも、病棟でもそういうのはよく出てたので……んで、シリンジ(注射器)に水入れて血を出したりする時に、「♪あ~、楽しい」なんて思ってた昔が何やら懐かしいです(^^;)

 いえ、ただの看護助手としてなんの予備知識もなく病院に勤めたりすると――「針刺しの恐怖」とか「感染の恐怖」といった知識がまるでないので、なんとなーく頭の隅のほうにそういうのはあっても、あんまり深刻に考えないというか(笑)

 なので、病棟の医療ゴミ集めとか、他の介護士さんなどが何故嫌がったのか、今はなんとなくわかる気もします

 あれもわたしにとっては楽しい仕事で、最後に集めた医療ゴミを空きダンボールなんかに詰めて「医療ゴミ」シールを張って捨てるのですが、その時もそういえば思ってましたっけ。

 医療ゴミ捨てるのにもお金かかるけど、これ一個いくらで業者さんは引きとるんだろう……みたいに(^^;)

 なんにしても、医療資源だけじゃなく、それ捨てる時にもお金のかかる病院は、実際お金のかかる大変なところだという気がします(むしろ、これで赤字にならないほうがおかしいというか

 それではまた~!!



       動物たちの王国【第二部】-18-

「ネズ公の奴には実際、俺もあんまりいい思い出はねえなあ。というのも、ラットを使って色んな実験したりとかさ、祟られても仕方ねえような過去があるってーか……」

 翼はいつもどおり、唯のことを葵ヶ浜近くにあるアパートまで送っていきながら、どこかおちゃらけた口調で続けた。最近の翼にとってのマイブームは、唯の部屋へ遊びにいくことだといっても過言ではない。女性専用マンションということで、最初はなかなか彼を上げるのを唯は渋っていたのだが、流石に翼が切れかかっているのを見て部屋に入れるということにしたのである。

 以来、翼はそこの居心地がいいあまり、自分のマンションの部屋にいるよりもそちらへいたい気持ちのほうが強くなっていたかもしれない。

「ま、そんなに気にすんなよ。明日も明後日も明々後日も同じことが続いたってんならともかく――今回こっきりで終わるようなら、ただの嫌がらせってことだろうし」

「あの、わたし……思いだしたんです、慎ちゃんのこと」

 出し抜けに元彼の名前が出て、翼は若干不機嫌になった。もし一歩間違えば「あれ」を味わっていたのは湊慎之介のほうだったのだと想像すると、気分が悪くなる。

「アパートのポストのところに、ネズミの死骸が置いてあったことがあって……もし、あれ、あの人がやったんだとしたら……」

「いや、そりゃ流石にねえだろう。確かにまあ、おまえの足取りを辿って居場所を突き止めるってことまでは、やろうと思えば出来ないこともないのかもな。けど、職員玄関ってのは警備室のすぐ脇のところにあるから……」

 と、ここまで言いかけて、翼にしてもふと不安になった。唯の不安が伝染したということではなく、論理的に不可能ではないと思い至ったからである。職員玄関を使うのは何も、病院職員だけではなく、出入りの業者なども名簿に名前を書いて毎日何人となく出入りしている。もし湊慎之介がトラックの運転手から転職し、病院に出入りする仕事をしていたとしたら……。

(それ以前に、べつに普通の患者として外来の廊下からこっちへ来さえすればいいだけの話でもあるよな。まあ、あのへんは職員の更衣室とかそういうのがあるだけにしても、見舞い患者なんかが病院の案内を見てこっちのエレベーターを使ったりすることもある。警備員のおっさんたちも、玄関口に変な細工をする奴はいないと思って油断してることを思えば、ネズミの死骸をぶちこむくらいのことは簡単に出来るか?)

 翼はそれから、あまりに単純な事実に気づいた。というのも、玄関の靴入れには番号が書いてあるだけで名前まで入っているわけではないのだ。もちろん唯のナースシューズには、他の看護師のと間違われないために<羽生>と苗字が書かれているものの、やはりこれは内部の人間がやったことだろうという気がした。

「そんな心配そうな顔すんなって。朝と帰りは大体一緒になるんだし、おまえは結構警備が厳重なところに住んでるし、あれをやったのは慎ちゃんである可能性はやっぱ低いわけだし……おまえのことは、何があっても俺が守ってやるからさ、何も問題はねえって」

「そうですよね。わたし、なんか取り乱しちゃってごめんなさい。よく考えたら慎ちゃんなわけないのに、なんだか反射的にそう思ってしまって」

 助手席にいる唯が、気分を落ち着けるように深呼吸する姿を見て、翼も少し安心する。

「けど、そのかわり高いのが、病院の職員がやったっていうことだろうな。唯、おまえ、なんか心当たりある?表面上は普通に仕事していながらも、自分はこの人に好かれてないんじゃないかとか、そういうの」

「たとえば、辰巳さんとか?でもあの人はこういう陰湿なことをするタイプの人じゃないと思うの。性格のほうは確かに陰湿といえば陰湿なんだけど、辰巳さんはおもに噂話をするのが好きってだけで、実被害を誰かに加えるような人じゃないっていうか……むしろそういうことをしてくれれば、こっちもはっきり断罪できるにしても、あの人はそういう意味でなかなか人に尻尾をつかませない、狡賢い人なのよ」

 翼はもともと園田や江口らと親しいため――オペ室内のナースの人間関係についてはそれなりに把握しているつもりではあった。だがやはり、つきあっている女性の口から毎日職場での出来事を聞かされていると、誰がどういう性格なのかということがよりわかるようになる。

「オペ室内では他に、特に問題のある人はいないと思う。ただ、やっぱり辰巳さんかな。それと彼女と親しい今川さんや幸谷さんも要注意。なんでって、今川さんや幸谷さんが見聞きしたことは全部辰巳さんに筒抜けってことだし……だから彼女たちが外回りの時に器械出し担当だったりすると、少し気が重いの。でもこんなの、病棟でもよくあることよね。「あ~あ。今日は鬼のなんとかさんとICU担当だ~」とか、それと似たようなことだもの」

「まあなあ。看護師なんてやってると、自然と性格がキツくならねえと、もしかしたら生き残っていけないのかもな。今川さんと幸谷さんは言ってみればその典型つーか。辰巳さんは敵に回したらオペ室じゃ生きていけないって、他の病棟ナースたちが知ってるくらいの人だし」

「そうよ。だからね、先生。わたしも本当は彼女たちに潰されてた可能性、大なのよ。でも花原師長がわたしに目をかけてくれて、むしろ手厳しくしごいてくれたから、そんならわたしたちがうるさく言う必要はないわねっていう感じで、彼女たちからは見逃されたようなところがあるの。あとはわたしがえっちゃんの従姉妹だっていうのも大きいかも。えっちゃんは誰とでも仲良くしゃべってうまくやれるタイプでしょ?だからそのえっちゃんの従姉妹のことを大っぴらに悪くは言えないっていうのもあると思う」

「やれやれ。唯おまえ、実際あのまま十三階の特別病棟にいついてたほうが、今の百倍良かったかもな」

「自分の選択について、後悔はしてないけど……でも哲史君の気持ちは物凄くよくわかっちゃう。仕事そのものがどうこうっていうんじゃないのよ。仕事それ自体も大変なのに、そこに複雑で微妙な人間関係まで追加されたら、病気にならないほうがおかしいっていうか、うちのオペ室に関していえば業務内容がどうこうじゃないわ。そういうところで嫌になるから、人がいつかないんだと思うの」

「なるほどなあ」

 唯はここで、心に引っかかっているもうひとつのことを口にするかしまいかで躊躇する。けれど、翼が自分の話をせっかく共感的に聞いてくれたのに――そんな、わざわざ自分から不和の種を蒔くことをしても仕方がないと思った。

『わたし、前に見たことあるのよ。Kショッピングモールで、結城先生が凄く綺麗な女性とティファニーのアクセサリーを見てるところ。でね、どうやらティファニーはお気にめさなかったみたいで、今度はブルガリのお店の中に入っていったのよ。それで、暫くしてブルガリのショッピングバッグを手にしてそこから出てきたんだけど、すごいわよねえ。ブルガリなんてわたしたち小市民じゃとても手の出せないブランドですもの』

(どうしてああいうことを、休憩室でわざわざ聞こえよがしに言うのかしら)

 もちろん、唯にもわかってはいる。外科医で頭が良くて容姿端麗で――そんな男性が二十九になるまでまるっきり遊んでいないなどというのはありえないことだし、結城医師の場合は特に、以前酔って話していたとおり、その種の恋愛武勇伝をいくつも持っていると知っている。

『でも、そういうのとおまえとは丸っきり全然違うわけ。ま、おまえが信じたくないってんなら、信じないままでいてもいいんだけどさ。遊びとかじゃなくて、本気で真面目に結婚しようと考えたのなんか、唯が初めてっつーか』

 ――翼のこの言い方自体が実に軽いもので、むしろこの言葉を今まで何人の女に語ってきたか……と思わせるものであったにせよ、唯はやはり辰巳の言葉などよりも、彼自身の言葉のほうを信じることにした。

(だって、過去のことは過去のことで……結城先生は今、確かにわたしのことだけを見てくれてるんだから)

 ふたりはこの日も行きつけのスーパーで買い物をし、それから唯のアパートの701号室でのんびり寛いだ。スーパーでの支払いはすべて翼が受け持つため、自分の食卓が近ごろ随分豪華になったと唯は感じているが、翼がそのことに関してどうとも思ってないこともわかっている。

「おまえもさ、仕事で疲れてんだから、メシなんかべつに手抜きでいいんだって。それか毎日店屋物頼むとかさ。減塩がどーの、これすちろーるがどーの、俺、とりあえず健康診断で引っかかったことなんかねえし、数値も全部正常だからな。前に、自分のせいで何年か後に俺がガンになったら困るとか言ってたけど――味付けの薄いものばっか食って欲求不満になるよりは、濃いものばっか食ってガンガン仕事してそっちで労力発散したほうが、絶対健康にいいんだって」

 というのが翼の持論らしく、この日も高級マグロの刺身、それにこってりしたステーキを翼は野菜なしで食べていた。 

(でも、結城先生の食生活は、わたしがなんとかして少しずつ変えさせなきゃ)

 唯は毎日のようにそう思うのだが、そう思って以前工夫を凝らした魚料理と野菜ばかりを出してみたところ、翼のテンションは実に低かった。ところがこれが、なんでもいいから手軽に出来る肉料理にした途端、子供のように目が輝くのだから困ったものである。

(結局わたしも、結城先生の喜ぶ顔見たさに、毎日お肉料理のことばっかり考えちゃうし……でもこれは本当にどうにかしないと)

 翼は食事中に唯が溜息を着いているとも知らず、テレビのニュースで慈鷲会グループが段階的に病院を縮小・閉鎖することにしたという、記者会見の場面に見入っていた。

「この慈鷲会グループってさ、救急部に前いた綾瀬の父親が理事やってるとこだよな」

 今では唯も翼も、つい二か月ほど前、綾瀬真治が何者かに殺害されたという事件を当然知っていた。そしてその時に唯は、藤井聖也が右手の人差し指を切断される被害に遭ったということを彼に話したのだった。また、野田がそのことについて、「綾瀬の呪い」だと言っていたということも。

「ふうん。老人ホームに優先的に入所できるために、職員が金もらってたってか。でもそれを理事長など、病院の幹部職員はまったく知らなかった……うっそくせえなあ、おい。唯これ、どう思う?」

 唯もまた、慈鷲会グループの病院長や事務局長らがマスコミの会見で深々と頭を下げる姿を眺めやる(ちなみに、同グループの理事長である綾瀬真治の父親の姿はない)。

「どうって……なんていうか、正直ちょっと馬鹿みたいっていうか。そんなことしてたら、いずれ絶対バレるに決まってるのに、もっと早くにどうにか出来なかったのかなっていうか」

「ま、そこが汚職系の問題の根深いとこなのかもな。一度そういう種類のことをして金が転がりこんでくると、ちょっと良心が麻痺しちゃうわけ。で、どんどん金額がでかくなっていって、取り返しがつかないところまで来ないとハッと目が覚めねえんだろうよ」

 慈鷲会グループが運営する老人ホームのひとつで起きた収賄事件では、優先して施設に入所できるよう、入所金の他に個人的な金銭を職員が受け取ったことが問題になっていた。最初は十万だったものが次に二十万、三十万円となり……五十万円にまで膨らんだところで、今回の事件が発覚したのである。

「けど、なんとも言えず皮肉だよな。慈鷲会グループの抱えるこういう問題が発覚したのって、全部綾瀬の奴が殺されたことが契機になってるんだもんな」

「綾瀬先生が亡くなっただなんて、今もまだ嘘みたい。最初の報道では『真面目に勤める一勤務医が一体何者によって殺されたのか』みたいな感じだったけど、そのうち……」

「だよなあ。実際あいつ、思ってた以上にろくてねえ野郎だったってことだもんな。父親が病院の理事であるのをいいことに、看護師の乳は揉むべし、医療過誤事件は起こすべし、揚げ句の果てに怨みを買った患者の家族に刺されて死ぬなんてな。で、そっから自分もあの病院ではひどい目に遭ったっていう患者が何人も出てきて騒ぎになって……次に、人工呼吸器をつけてる患者のコードが抜かれてたっていうのでまた一悶着。それからさらに今回の事件が発覚したってわけだ」

 慈鷲会グループの報道はここで終わり、テレビでは次にスポーツニュースが流れはじめた。

「でもわたし、なんだか少し変だなっていう気もするんです。綾瀬先生に対してはわたしもいい印象を持ってないけど……それでも、変にプライドの高い、ただの気弱なお坊ちゃんっていうイメージしかなくて。お父さんが大きな病院の理事長先生で、お医者さんになるよう過剰な期待をかけられてたのはわかるけど、本人次第でお医者さんになる以外の道もあったんじゃないかなって」

「まあそこらへん、唯にはわかんねえかもなあ。俺の家も小さいながらも親父の代で三代目みたいな個人病院やってるからわかるけど、とにかく母親の言うことは「医者になれ」の一言なわけ。そういう環境下で育てられるとな、レールを外れるとしたら思いっきり外れて医者になる以上のもんを目指すしかねえんだけど、それが見つからなかったら医者になるしか道はねえっつーか」

 ここで唯はふと、「ファッションデザイナーになる!」と言って家を出ていった姉のことを思いだした。「そんな海のものとも山のものとも知れねえもんに金なんか出せるか!」と言った父と姉の攻防のことを思いだすと、翼の言っていることも少しわかる気がする(ちなみにこの姉からは今、家族にまったく連絡がない)。

「先生も、大変だったのね」

「そうだとも、大変だったさ」

 唯が共感の意を示すと、翼が突然嬉しそうな顔をしたのを見て、唯は少し不思議になる。そして食事の片付けをしていると、彼が最初の時と同じように後ろから抱きついてきた。

「あの、先生、わたし……もうちょっと後にして欲しいっていうか……」

「そっか、しょうがないな。じゃあこっち来いって。どうせ明日は土曜で休みなんだから、片付けなんか明日でいいだろ」

「…………………」

 翼は唯の手を引くと、居間の狭いソファに彼女のことを座らせ、それから自分が隣に陣取るということにした。そのままの格好で唯の腰やら肩やらにしょっちゅうベタベタ触り、テレビを見て芸能人の悪口を言ったり、時折仕事の話をする――というのが、食後に見られる翼の典型的な行動パターンだった。

 唯はもちろん、片付けをしたりお風呂に入ったり、オペに関することで勉強したいこともあるので、最近では適当に翼にベタベタ触らせておき、話の相槌を打ち、その傍らで本を読むなど、自分のしたいことをするようになっていたかもしれない。

 というのも、翼自身が最初に「俺の言ってることは大概が独り言だと思って、適当に聞き流してくれればいいから」と言っていたからである。そして実際、この独り言に類するものが翼にはとても多いのだが、それでも相槌があんまりいい加減すぎると「唯、おまえ人の話聞いてねーだろ」と言ってくるので、その時にはきちんと相手をしなくてはいけない――翼と唯の関係性というのは、概ねのところそんな感じだったかもしれない。

 この日も翼は、唯がお風呂から上がってくるなり「はやくはやく、こっちこっち」と、ほとんど子供のようにベッドの上をばしばし叩いていた。というのも、月曜から金曜は仕事があるため、そうしたことというのは金曜の夜、あるいは土曜か日曜だけにして欲しいと唯が頼んでいたので、金曜の夜ともなると、翼は少し頭がおかしくなるのだった。

「俺さ、ほーんと、医者になるまで大変だったんだって。なってからも大変だったけどさ。でも人間真面目に生きてると、いいことってあるもんなんだなって最近思う。唯が俺のものになってくれたし、仕事とか人間関係の面でも恵まれてるほうだと思うし……」

 セックスのあと、あるいはセックスのあるなしに関わらず、翼は唯の体を抱いたまま、夜はベッドの中でよくこうした種類のことを話す。自分は母親との関係が悪いので、結婚しても姑の問題で頭を悩ませる必要はないこと、子供は何人欲しいかといったことや、将来建てる家のこと、そのためにもこれからますます仕事に精を出さなければいけないことなど……。

「俺、結婚とか馬鹿にしてた派だったはずなんだけどなあ。唯のせいですっかり人生計画狂っちまった気がするな」

 その日の夜は、この言葉を最後に翼は深い眠りに落ちていった。唯は大体が彼の聞き役に回っていることが多く、今ではつきあいはじめた最初の頃に抱いていた不安はすっかり払拭されていた。つまり、彼がすぐ自分に飽きてしまうのではないかといったことや、都合良く利用されて捨てられるのではないかという不安からは解放されていたといっていい。

(こんなもので良かったら、最初からいくらでもあげたのに……)

 唯は胸の間に翼の形のいい頭を抱きしめたまま、いつもそんなことを思う。というのも、翼が夜眠る前に自分に聞かせる話をすべて繋げて思うに、簡単に言えば<ちょっとした安らぎや癒しのようなもの>が欲しいという、翼の欲求というのはそこに収束していたからである。
   
 もちろん、唯にしても「ちょっとした安らぎや癒しが欲しいから、自分と寝てくれねえか」などとドストレートに言われていたとすれば、確かに引いていただろう。けれどそのことがはっきりわかって以来、翼が最初の夜に「愛している」と言った言葉は本当なのだと、疑いなく信じることが出来た。

 とはいえ、唯は彼との恋には苦しい側面がつきまとうこともよく理解していた。人からあれこれ噂されやすいことや、今日あったように下駄箱にネズミを放りこまれることもある……といったことではない。そうしたことは内側に孕む問題に比べたら、極めて外面的な処理しやすい問題ともいえた。そうではなく、唯は「このままどこまでも彼への想いに流されてしまいたい」という強い恋情に対抗して、翼と出来うる限り対等でいるためにあらゆる手を尽くさなくてはならなかったのである。

 そしてその際たるものが、器械出しの手技に関することだったかもしれない。花原梓から瑞島藍子にオペ室の師長が代変わりし、その結果、瑞島師長より唯は最初にこう聞かれていた。
 
「花原師長からは以前、羽生さんは前にいた病院で結城先生と色々あって、それで結城先生のオペには入らないことになってるって聞いたわ。でも、今は……その、おつきあいしてるのよね?だったら逆に親しすぎて彼の手術で器械出しはしたくないっていうことになるのかしら。どの手術に誰を器械出しにして、外回りに当たらせるかは羽生さんも知ってのとおり、師長が決めることだから……そのへん、どうなのか最初に聞いておこうと思って」

 正直なところを言って、唯は翼のオペでは外回りならいいけれども、器械出しでは入りたくないと、その時直感的に思っていた。無論、結城医師はそういう時に公私混同する人間ではなく、むしろ親しい人間であればこそ、ちょっとのミスでも叱り飛ばしてくるような男ではある。そして、唯にとってはそういうことも含めて「やりずらい」との思いがあった。けれど、花原師長が雁夜医師との手術である種の超越した均衡と調和を保っていたように――お互いに完全なプロフェッショナルとして仕事する姿を思いだし、(わたしもそのくらいにならなくては)と、唯は翼がオペの時にも器械出し担当にしてくれて構わないと、瑞島に返答したのだった。

(あ~あ。むしろあんなこと、言わないほうが良かったのかな)と、唯はその後思わぬでもなかったが、プライヴェートで消化器外科のオペに関することをあれこれ聞けるというのは、唯にとって大きなプラスとなることでもあったといえる。

「ふふっ。結城先生の頭、やっぱり恐竜の卵みたい」

 唯は翼の髪の毛を何度か指で梳くと、昔と違って黒々としているその髪の匂いをかいだ。そしてそれが自分と同じ髪の匂いであることが、なんとなく不思議になる。

 実をいうと、翼が唯の部屋に初めて上げてもらった時――彼が真っ先にしたのが、浴室を覗くということだった。特にこれといっていやらしい動機があったわけではなく、なんのシャンプーを使っているのかを知りたかったというのである。

「あー、そうだそうだ。これだよ、これ!R医大の救急部にいた時、建物の外でしゃべったってことが何度かあったろ?そん時にさ、外の冬の匂いに混ざって変な匂いがすると思ったことがあったわけ。変な匂いって言っても、文字通りにとるなよ。おまえさ、雪の匂いってわかる?」

「雪の匂い?」

「そ。俺、昔っからなんでか、雪が降りそうだってなると、その雪の匂いって奴がなんとなくわかる。で、今日は降りそうだなとかなんとか直感でピンと来るわけ。あと雨の匂いってのもわかるな。今日は空気に雨の匂いが濃いから降りだすなとか、結構わかる。けど、なんでかそう思って人に言っちまうと駄目なんだよな。そういう時だけは何故か降ってきやがらねえ。唯はまあ、そんなもんただの思い込みだって思うかもしんないけど、なんにしてもさ、その雪の匂いに混ざってこのシャンプーの匂いがしたわけ。えっと、カモミール&ハニーサックル?でもその時は冬だったからさ、それが俺にはすごい違和感だったっつーか。で、その次におまえのことを抱きしめた時にも同じ匂いがして……でもそん時は確か五月くらいだったからな。変な話、その時には違和感が全然なかった」

 ――唯はその日の夜、翼との間にあった色々な思い出のことを反芻し、そしてとても幸せな思いに抱かれて眠った。こんなふうに毎日が幸せに続いていけばいいと願う反面、いつこの幸福が終わるのだろうという恐怖と不安の狭間で、唯は「恐竜の卵に似ている」と感じる恋人の頭を胸の間に抱きしめていた。



 >>続く。





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