天使の図書館ブログ

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動物たちの王国【第一部】-20-

2014-02-10 | 創作ノート
【荒れ模様の空の麦畑】フィンセント・ファン・ゴッホ


 今回は↓の本文について言い訳事項があるものの、前文で一回一回そういうことをぐだぐだ取り上げるのもなんか潔くないというか(笑)、結局最初にこの小説は「医学的知識のない人が書いてます☆」みたいに注意書きしてあるので、まあそのへんは飛ばそうかなと思ったり(^^;)

 でもそうなると今度は特に書くことが何もなかったり

 なのでまあ、書いても書かなくてもどっちでもいいようなことを、少し(笑)

 その、わたしが昔少しばかりいたことのある病院っていうのは、基本的に高齢の方のほうが多かったので、その平均年齢の高さっていうのは、ほんの時々若い方がやって来ることによって下がる……という感じでした。

 んで、まあ圧倒的に女性職員の多い職場なので、「介護は同性介助が原則」とか言われたとしても、「そんなの関係ねえ!!」(ヨシヲ?)という感じでトイレ介助などに当たることになります。

 ええと、確かそこの病院やめた頃くらいだったでしょうか。新聞だったか雑誌か何かで、「看護師さんにトイレ介助してもらうのが恥かしい」的な記事を読んだことがあって。

 そりゃまあ、逆の立場になってみればまったく同じように感じるのは物凄く理解できるんですけど――わたしがトイレ介助してる時って、目の前の患者さんのことを見てたり、世間話したりするのと同時に、ほぼまったく別のことを考えてることが多かったです。

「明日の休日は宮崎駿監督のアニメ見にいくんだ~。るんたった~♪」とかいうことではまるでなく、次は△号室の□□さんを検査室に下ろして、そんで次はあれやってこれやったら昼でしょ。んで、午後からは体位交換終わったら二時に手術室に○○さんを搬送するのを手伝って……とか、何かそんなよーなことなんですけど(^^;)

 んで、一日の仕事が終わって家に帰るという時、手のひらを見ると自分でももうなんの数値なのかさっぱりわからない数字や文字などがいっぱい書いてあったりします。

 つまり、助手程度の仕事量でそんな感じなので、看護師さんはそれ以上に同時並行で色んなことを考えてることが多いと思うんですよね。そしてそんな時にナースコールが鳴ってそれがトイレ介助だったりすると、看護師さんは表面上はにこやかだったり優しく世間話してたにしても、頭の中はやっぱり「次あれやってこれやって。そういえば□□さん、△△だっけ……」みたいなことがたぶん多いんじゃないかと思います。

 なのでまあ、看護師さんにトイレ介助してもらうのが恥かしいっていうのは当然気持ちとしてわかるんですけど、正直なところ介助する側では「細かいことは覚えていない」ということが多いんじゃないかなと思ったり(^^;)

 もちろん、(これはお年寄りの方ですけど)うんちが出るまでの間時間がかかって、その間トイレの中で五分か十分話したりとかいうのはあるんですけど(他に用事が詰まってる時には「また呼んでね~☆」とすぐに消える)、その時にした会話の内容なんかは覚えてるにしても、パンツの中身のことについてあれこれ思うことはまずないというか(笑)

 でも、患者さんの中でひとりだけいることにはいました。「看護師さんたちがチンポコ評議会を開いてたら、オラちっせえから恥かしい」みたいに言う方が……。

 いえ、頭を強く打ってて、時々変なことを口走る患者さんだったので、真に受ける必要はないんですけど、それでも「チンポコ評議会」という言葉があまりに斬新(?)で、いまだにその方のことは覚えていたり(笑)

 その後、かなり離れた場所に住んでる奥さんが病院にやって来て、転院することが決まったんですけど――その奥さんに何気なく「△△さん、宮尾すすむの物真似してくれるんですよね」って言ったら、「へえ~。そうやってあんた方はうちの主人のこと馬鹿にしてるんですか」と言われてしまい、いくら面白いことでも口に出して言わないほうがいいこともあるんだな……と思ったものでした。。。

 あと、汚い話で申し訳ないんですけど、他にわたしが覚えてるのが、某有名歴史人物と名字が一緒のIさん(フルネームで名前まで覚えています・笑)。

 トイレ介助に連れていったら、おもむろに黄門様に指を突っ込み――ブリブリと排泄。なんでも、「自分はこの方法でこれまでの人生で便秘知らず☆」とのこと(しかも何故かいい笑顔

 高齢の方で、軽く痴呆の入ってる方だったんですけど、そのまま手も洗わず車椅子で進んでいこうとしたので、「Iさん、手洗おうよ、手!!」とすかさず言いました。

「え?手??」(何故そんなことをしなきゃいけないんだ、という顔☆)と不思議そうにされてるものの、とにかく強制的に手を洗ってもらって再び病室へ戻ることに。。。

 ↑の「看護師さんにトイレ介助してもらうのが恥かしい」と記事に書かれていた方は、結構若い男の人だったんですけど、まあ人っていうのは歳をとると、「野郎の介護士なんかより、若い看護師さんに介助してもらいたい」みたいに思うようになる方もいるようです(笑)

 それではまた~!!



       動物たちの王国【第一部】-20-

「えっ、そんな……どうしてですか!?」

 その五月も中旬となった、新緑の若葉が瑞々しく眩しいと感じた朝のこと、職場の空気がどこか憂鬱で暗いことに、唯は気づいていた。最初は昨晩の夜勤帯の時間に大きな事件でもあったのかと思ったのだが――そうではなく、結城医師が救急部を去っていくということに、みな衝撃を受けていたのである。

「はっきりしたことは、まだみんなにもわかんないのよ。今、鈴村主任がそれとなく探りを入れてるとこ。まあ、わたしたちが「結城先生、辞めないで!」って涙ながらに頼んだら留まってくれる……そんな理由だったらいいんだけどねえ」

 大島が昼休みに、食後のスイーツとして抹茶カステラを食べながら溜息を着いた。比較的軽度の交通事故で、無事退院することの出来た患者が置いていったものだった。

「で、リンリンさん。どんな具合だったの?」

 こちらはスイーツすら喉を通らないといった様子で、藤森奈々枝が聞いた。

「まあねえ。朝から昼にかけて、わたしたちも向こうも色々あって忙しいじゃない。だからあんまりゆっくり話は聞けなかったんだけど……「俺、バーンアウトシンドロームにかかっちゃって。しょんぼり」とか、嘘くさい顔で言ってたわ。今年も優勝する気満々の、サッカーチームを率いる監督みたいな顔でね」

「じゃ、なんだろう。実家でお父さんが倒れて急遽病院を継ぐことになったとか?」

 自分の不安な気持ちを誤魔化すために、やはり藤森は蜂蜜カステラに手を伸ばすことにする。

「さてね」と、鈴村がいつも通り、極道の姉御のように煙草の煙を吐きだして言った。「あいつの実家って下町で個人病院やってるらしいんだけど、そこを継ぎたいとか自分の裁量で大きくしたいみたいな気持ちはまったくないみたい。父親のほうでも自分の代で病院閉めてもいいくらいに考えてるんだって。随分前に聞いた話だけど」

「綾瀬の小僧のことが原因なのかしら」

 三枝美穂子が、オレンジのカステラケーキに手を伸ばして言う。

「あの悪たれ小僧、今度は結城先生がある一部の医師や研修医を贔屓にして、自分が気に入らない人間のことは粗野に扱うだなんて、院長に訴えたんですってね。とんでもない話だわ」

 ここで、休憩室にいた看護師たちはみな声を上げて笑った。何故といって普段、滅多なことでは人の悪口を言わない三枝が「悪たれ小僧」などと綾瀬真治のことを呼んだからである。

「まあ、結城の奴はそんなちみっちゃいことが原因で、ここを辞めようと思う奴じゃないでしょ。それとも、前から薄々辞めたいとは思ってたけど、中堅以上の、自分と同じく頭ひとつ分くらい飛び抜けた奴がいないから、嫌々ながらもずっと留まっていたのかもしれないしね。でも栢山先生が入ってきたから、それでようやく辞める決心がついたとか……」

「あー、そっかあ。結城先生、べつにうちじゃなくても、腕だけとったらどこ行ってもやってけるしねえ。朝比奈教授だったら、今からでもお父さんの友達ってこともあって、受け入れてくれるんじゃない?あの教授、結城先生が救急部を選んだ時、クマちゃんに言ったらしいね。『お気に入りのホステスを横から突然寝取られたような気分だ』って」

 テーブルを囲む八名ほどのナースたちはここで、互いにくすくすと笑った。

「でも結城先生は、救急部やめて上の階にあがるんじゃなくて、完全にこの医大病院を辞めちゃうんでしょ?」

 そう三枝が言うと、一同はまたずーんと沈みこんだような雰囲気になる。

「理由はともあれ、出会いと別れは救急部の必然だから、仕方ないかあ」

 ここで鈴村が、あたりの暗い雰囲気を吹き飛ばすように、煙草を揉み消して言った。バッグの中からコンパクトを取りだし、軽く化粧直しをはじめる。

「そういう意味じゃあたしなんてもう、満身創痍よ。若い時から、仲の良かった看護師が結婚で辞め、異動でいなくなりの繰り返しだからね。割と最近じゃ峰岸があの気違い師長のせいで去っていったし、クマちゃん先生がいなくなった時も口じゃ言い尽くせないくらい寂しかった。特にふたりとも、ずっとこのままここにいてくれるんじゃないかって錯覚しそうになるくらい、長く一緒に戦ってきた戦友だったからね。でもクマちゃんは結婚退職っていう、いわばおめでたい理由で去っていったわけだし、京子もね、子供のためを思えば今の内科の副師長っていう身分のほうが、時間が出来てずっといいのよ。だからあたしたちも結城先生のことは、「あんたがそれで幸せになるんなら」とでも思って、文句言わずに見送ってやるしかないわよね」

「やっぱり、それしかないかあ」

 休憩終了十分前となり、みなそれぞれ、歯を磨いたり、煙草の灰皿を片付けたり、化粧直しをしたりして、再び元の持ち場へと戻っていく。

 この日唯は救急病棟の106号室からはじまって110号室までの担当だった。意識不明の寝たきり患者や植物状態の患者ばかりが多いのだが、唯は初めてこの日の午後、物言わぬ患者の痰を吸引したり、オムツを交換したり、体位を換えるという作業に……一抹の虚しさを感じていた。

「どうしたんですか、先輩。なんだか元気ないですけど……」

「えっ!?べつにそんなことないわよ。それより、今日は新島さんがカルテに記録を取るんだから、見落としがないように気をつけてね」

 今日、新島弥生と唯の立場はいつもと逆だった。つまり、新島が主体となって動き、唯のほうがその助手としてサポートするという形である。

「じゃあわたし、ちょっとオムツの便の量を測ってくるから、次の患者さんのバイタルお願いね」

 そう言って唯は、経管栄養に下剤を混ぜたことでようやく排泄となった患者のオムツを抱えながら――汚物庫へ向かった。

 そこでオムツを秤にかけて便の量を測る間も、唯は結城医師のことを考えていた。以前もこれと似た状態だった時に彼が病室にやって来、「この部屋は全員フィーバーしてるのか」と笑っていたことを思いだす。

 けれど、その時と今で違うのは、今度の場合は病室の四人のうち、三人が下痢便を出していたことで、下剤を飲んでも排泄のなかったひとりに対しては、摘便(指で便をかき出すこと)するしかないだろうと唯はぼんやり思う。

 それから、すべてのオムツをくるくるまとめてポリバケツに捨て、ラテックスの手袋を医療用ゴミ箱に唯が投げ入れた時のことだった。

「羽生さんって、彼氏とかいるの?」

 ひょこっとドアの内側に綾瀬真治が顔を出した。(嫌な奴)と唯は反射的に思い、すぐに汚物庫という狭い密室から出ようとした。

「個人的なことですから、綾瀬先生には関係のないことです」

 そう言って唯がその場から立ち去ろうとすると、綾瀬は左手で唯の行く手を塞いだ。

「関係あるんだなあ、それが。僕と他の研修医たちとで、今ちょっと賭けをしててさ。僕が羽生さんを落とすことが出来たら、結城先生の横暴さについて、連署して院長に提出してもいいっていうんだ。今夜あたり、ホテルのラウンジで一杯飲むのなんてどうかな。君にとっても決して損なことではないと思うけど」

(一体どこまで馬鹿な子なんだろう)

 こんな人間のことは相手にしても仕方ないと思い、唯が無理に汚物庫から押し出ようとした時のことだった。

「このクソガキ。俺の女に勝手に手なんか出してんじゃねえぞ」

 唯がハッとして見上げると、翼が研修医の綾瀬真治の茶色い髪を引っつかんでいるところだった。

「い、いてっ。何しやがる、この野蛮人め!!親父が近いうちに絶対おまえのことを医学界から追放してやるって言ってたぞっ。病院の倫理査問委員会にかけて……」

「アホ。寝言は寝てから言えと、いつも言ってるだろうが、この野猿め。いいから他の研修医に仕事押しつけてねえで、おまえも患者と向き合え。おまえはラッキーなんだぞ、綾瀬。消化器外科医としてすこぶる腕のいい俺や、脳外科医として脂ののりまくってるパンダに色々指導してもらえるなんてな。おまえが気に入ってる北島や時田の前で恥ぶっこきたくなきゃ、挿管くらい人並にうまく出来るようになるこった。こいつに手を出すなんざ、まだまだ二億四千万年は速いと思え」

「うるさいっ。僕はやれば出来るんだ。それをおまえが横でごちゃごちゃ言うから出来ないだけだ!!」

「そうだろうとも。おまえが「落ち着け、落ち着け」って言い聞かせながら、手の震えを押えてるのはこっちに丸わかりだからな。俺が言ってんのはな、出来なきゃ出来ないで頭を下げて教えを請えってことだ。それを先輩だから出来て当たり前、後輩に物を教えるのは当たり前だなんて抜かしやがるから、役に立たないペンペン草は引っこ抜かれることになるんだろうが」

「くそっ。また言ったな!!もう一度僕のことをペンペン草呼ばわりしたら……」

「ああもう、わかったら、おまえはすぐこの場から消えろ。見ててもうざいだけだからな」

 綾瀬真治が肩を怒らせて去っていく姿を、唯はただぽかんとして見送っていた。藤森奈々枝が以前、「むしろあそこまでだと笑いがこみ上げる」と言っていた理由が何故だったのか、初めて理解する。ただの偶然なのだが、唯は勤務のシフト的にこれまで彼と急患が運ばれるような場面で一緒になったことが、一度もなかったのである。

「おまえ、もし今度あのうすら馬鹿が何か言ってきたら、俺の内縁の妻だっていうことにでもしとけ」

「ええっ!?」

 唯が呆れて思わず真剣な顔をすると、その表情を見て翼が笑う。

「もちろん冗談だって。おまえがもしそんなこと言っても、うちの看護師たちは誰も本気になんかしねえだろ。「あー、ハイハイ」って言って笑って終わるさ。けど、まだ今年来たばっかの研修医どもには多少効果がある。あのどうしようもない野郎はどうにかして俺の弱味を握ってやろうとあちこちハイエナみたいに嗅ぎまわってるらしいからな。俺がめっぽう女にだらしないってことがわかれば、『巨人の星』の左門がそれこそ十人くらい集まって、「そうですたい!!」とか委員会を開くことになるんだろうよ」

 翼の言っている言葉の後半部分は唯にはよくわからなかった。そしてそんなことより、唯はこの場で彼に聞きいておきたいと思うことがあった。

「……先生、どうしてうちの救急部、やめちゃうんですか?」

「どうしてって、まあ色々あってな。そう御大層な理由ってわけじゃないんだが、あの馬鹿は除くとしても、中堅もそれなりに育って居ついてくれてるし、今なら俺が抜けてもなんとかなると思ってな。新しく栢山の奴も入ってきたことだし」

 救急処置室で翼の横に栢山医師がいると、彼がほとんど翼の右腕といっていい働きをすることに、唯は当然気づいていた。栢山は身長が百九十センチある大男で、威圧感があるのだが、顔が素朴な感じで優しく、話口調に至っては常に誰に対しても丁寧語という男だった。

「でも、そんなの変ですよ、先生。先生、前にお酒が入ってた時に言ってたでしょう?『自分ほど救急に向いてる奴はいない』って。それに、結城先生は途中でこんなふうに物事を投げだすようにして辞める方じゃないと思います。それなのに……」

 最後は若干八つ当たりのような口調になってしまい、唯も自分で戸惑った。そして翼はといえば、そんな彼女の頭をぽんと軽く叩いて笑う。

「ま、そういう込み入った話はまた今度な。おまえもだろうけど、俺も仕事がぎっしりこんと詰まってる身なんでな」

 そう言い残して去っていく翼の後を追うようにして、唯は106号室へ戻り、便の量を記入してから新島がいるであろう107号室へ向かった。そこではバイタルを取り終えた新島が、患者の痰を取る作業をしているところだった。

「対馬さんは、タッピングしたほうがいいみたいね」

「そうですね。昔、授業でタッピングのことを習った時は、背中を叩いたくらいでそんなに効果あるかなあと思ってたんですけど、やっぱり少しは違いますもんね」

 新島が少しずつ仕事に慣れ、この日若干の余裕が出来た唯は、伸びていた患者の爪を切ったり、お風呂に入れない患者の手浴や足浴をした。そしてその間も、患者に声かけをする場面以外では、翼のことをずっと考え続けていたのである。

 と、そこへ別の病室の作業をある程度終えた藤森が、クリーム色のカーテンの間から顔を覗かせる。

「よ、内縁の妻」

「内縁の妻って……あんなの、結城先生のいつもの冗談よ」

 そう言いながらも唯は、その言葉を口にすることに思った以上の恥かしさを感じた。

「そんなの、みんなわかってるってば。っていうか、結城先生声大きいから、ナースステーションまで丸聞こえ。困ったもんだね、あの野猿の悪たれ小僧にも」

「でも、なんだか少し安心しちゃった。綾瀬先生が他の研修医のことを扇動して結城先生に懐かないようにしてるなんて聞いたもんだから……これからおかしなことにならなければいいなって、ずっと思ってたの」

 お湯をはったたらいの中で、唯が高齢男性の足をマッサージしていると、不意に藤森が言った。

「話変わるけどさ、唯ちゃんもそんなに頑張ること、ないんじゃない?」

「わたしは……そんなに大して頑張ってないわ。というか、頑張ってないと思う。結城先生に比べたら……」

「あー、そういうことじゃなくってさ。大体、この人もう何日かで転院しちゃう人でしょ。看護師のあたしがこんなこと言うのもなんだけど、清拭の他に手を洗ったり足洗ったり、もちろん大切なことだとは思うよ。けど時々は今あたしがやってるみたいに、時間が余ったらみっちり患者さんに向き合うんじゃなくて、少しくらい油売ってもいいんじゃないかってこと。唯ちゃんのそういう真面目なとこ、もちろんあたしも好きだよ。でも比較対象でいうなら結城先生はそもそもお医者さんなんだし、根詰めすぎてそのうち唯ちゃんが疲れないといいなと思って」

 唯はその時一瞬ドキリとした。確かに自分が頑張ることに意味はある。意識不明の植物状態の患者でも、マッサージで血行の状態がよくなれば、意識が目覚めるきっかけにならないとも限らない。どんなに可能性が低くても、出来ることはすべてやってみるべきだと、いつも思ってはいる。けれど、やはり自分も看護師として五年六年とやっていくうちに、ある瞬間に思うのかもしれなかった。(こんなことをしてもなんにもならない)といった、虚しい気持ちに……。

「ありがとう、奈々ちゃん。わたしもそのこと、少し考えてみる」

 唯は奈々枝にそう答え、それから別の患者の物凄い巻き爪の状態を見せた。

「あれっ!?宮路さんって、こんな足してたっけ?気づかなかったなあ。っていうより、こんなに凄い巻き爪の患者さん、初めて見た。これじゃ詰所にある普通の爪切りじゃ切るの無理だよねえ。巻き爪専用の爪切りじゃないと……」

「わたしも、理学療法士の先生が機能訓練に来てた時に言われて気づいたの。『この爪、普通の爪切りじゃ切れませんよねえ』って。それで、百均とかで巻き爪用の爪切りがないかどうかと思ったんだけど、ああいうのってどこで売ってるのかしら」

「あー、べつに唯ちゃんがお金だすことないって。鈴村主任経由で松村師長に頼めばいいんじゃない?あと、髭剃りのほうも詰所にあるやつ、なんとも剃りが悪くなってんだよね。あれもどーにかしてもらわないとなあ」

 そんな話をしながら唯と奈々枝がナースステーションに戻ると、カルテに記録を取っている看護師が全員、一緒に顔を見合わせて笑いはじめた。

「よ、内縁の妻」

 それからまた、輪をかけたようにげらげらと笑う。

「どうせなら、噂流しちゃえばいいんじゃないの?結城先生はA看護師にもB看護師にも手を出してる、ふしだら極まりない医者だって。そしてそれが嘘だとわかった時には、あの野猿の小僧が立ててる他の噂もみんな法螺だってことがわかりそうなもんでしょーが」

「まあ、綾瀬先生の言ってることは、まるで根拠がないデタラメってわけでもないってとこが、微妙にタチ悪いんだよね」

 大島の隣で自分もカルテを開きながら、藤森が言う。唯は新島がつけていたカルテの記載をチェックすることにした。

「確かに結城先生は、あたしのことデブって言ったりとか、患者さんに対しても仇名つけて呼んだりするよね。でも愛情があってそう呼ぶのと、丁寧な口調で優しいのに実は患者さんにまるで関心を持ってないっていうのとじゃ、まるで違うんだよ。あの悪タレはたぶん、そんなふうにこれまで誰も愛してくれたことがないんだろうね。気の毒に」

「藤森、あんたも軽い口調で随分残酷なこと言うわね。でもまあわたしも、結城先生がなんで綾瀬の奴に対して『おまえ、幼稚園からやり直せ』っていうのかは凄くわかるわよ。あれでもし脳外科医目指してるとか、親の病院継ぐとかじゃなければねえ、こう言っちゃなんだけど、皮膚科医にでもなればいいわけよ」

 鈴村の発言に対し、三枝が疑問を差し挟んだ。

「皮膚科医限定ですか?眼科とか耳鼻科でもいいような気も……」

「眼科も耳鼻科も手術があるもの。まあ、泌尿器科とかでもいいっちゃいいのよ。一次診療的なことだけやって、重症な患者のことは全部大学病院に紹介して手術してもらうとかね。その点皮膚科だったら、皮膚移植とか深刻な手術はほとんどないだろうし、何より適当に塗り薬だけだして、あとは「これ効きます」っていう注射をブスっと一本刺しとけばいいのよ。で、皮膚疾患って一度や二度の通院で劇的に治るってものでもないでしょ。なかなか治らない場合でも、「じゃあ次はこの薬……」っていう感じで、診断間違っても誤魔化しがききやすくていいんじゃない?」

 鈴村がそんな冗談を言っていると、ナースステーションのコーナーサイドで仕事をしていた研修医が、一斉に席を立ちはじめた。もしかしたら自分たちも皮膚科医になったほうがいいのだろうかと、そんな悩みを持っていたのかもしれない。

「なんか、今年入ってきた研修医の子たち、暗くて感じ悪いわよねえ。結城先生がいつも通りナチュラルに冗談言ってても笑わないし……わたしたちに対しても『仕事のこと以外で必要最低限口を聞かないでください』みたいな感じなのよね。せっかく若いんだから、もっとこう周囲にフレッシュな空気を与えてくれてもいいんじゃない?」

「ここだけの話、綾瀬先生にみんな何か弱味を握られてるみたいですよ」

 珍しく藤森が声を潜めてそう言った。

「けど、そんな彼らも心の中では結城先生を尊敬してるっぽいし、綾瀬先生がいない時は、みんな明るく笑ってたりするんですよ。『香油の中のハエ』ってたぶんこういうことを言うんでしょうね」

「何よ、フジモリ。その香油の中のハエって」

「つまり、とても純粋で質のいい香油を売ってる商人がいて、物凄く儲かってるんです。けど、そのことを妬んだ悪魔みたいな奴がやって来て、香油にぽとっとハエを一匹落っことすんですよ。で、儲かってる商人は評判を落とされて商売上がったりな状態になるんです。どんなに素晴らしい香油を持っていたとしても、ただ一匹のハエのために駄目になるっていう例え話」

「ふうん。あんたデブのくせに物知りねえ」

 鈴村がそう言って笑うと、テーブルを囲っていた看護師たちが声を揃えて笑う。

「主任~、デブは余計ですってば~」

 唯もまた新島に電子カルテのつけ方を教えつつ、一緒になって笑っていた。けれど、それと同時に何かがとても心配だった。あの綾瀬真治という医師の、どこか気味の悪い目つき……おそらく顔の造作ということでいったとしたら、結城医師ほどではないにしても、かなり格好いいほうではあるのだろう。だが、中に詰まっているものがあまりにお粗末という気がした。

(わたしが綾瀬先生に落とされたら、結城先生が窮地に陥るだなんて……そんなことにわたしが協力なんてするはずないじゃないの)

 唯はそう思っていたが、その後再び綾瀬真治が自分が帰る時を待ち設けて、フェラーリを玄関口に横づけした時――やはり一言いってやるということにしたのである。

「ごめんなさいね、綾瀬先生。わたし、実は結城先生の内縁の妻なんです」

「なんだよ、そんなバレバレの嘘」

 綾瀬は車から降りてくると、早足で歩く唯の後ろを追いかけてきた。

「僕は一晩のデート代にキャッシュで五十万も百万も使えるような男なんだぞ。べつに君じゃなくても、相手なんか他にいくらでもいるんだからな!!」

「申し訳ないけどわたし、結城先生のファンなの。彼とだったら、一円もお金を積まれなくても寝たっていいわ。それが綾瀬先生と結城先生の一番の違いね。それじゃあ」

 唯はゆるやかに蛇行して続く、コンクリートの道を無表情にスタスタ歩いていった。綾瀬真治はもう追いかけてはこない。そのことを確認してから唯は、自分が彼に対して取った行動を思い返して、吹き出しそうになった。

(わたしにあんなことが言えるなんて!!)

 唯は医大のキャンパスであると同時に、普段患者や患者の家族、それに一般人が近道をするために通る中庭の道を、ひとりで笑いながら歩いていった。ここから地下鉄の駅まで七分ほど歩いていかなければならないが、唯は通りすぎる人が怪訝な顔をするのも構わず、笑い続けた。

(そっか、こういうことなのね。鈴村主任や結城先生はこんなふうに人を騙したり面白いことを言ったりすることで……一種のストレス解消をしてるんだわ)

 唯は満員の電車に揺られる間、去年の今ごろの自分にタイムスリップして教えてあげたいような気がしていた。唯は今でもよく覚えている。満員電車に揺られ、果たして自分はこんな生活をあとどのくらい続けられるだろうかと、精神的に痩せ細った気持ちでいた時のことを……そして手のひらだけでなく、手首にまでもびっしり書かれた様々な検査数値のことを思いだし、その上に涙を流したことがあったということも。

(まあ、それは今もあまり変わらないのだけれど)

 そう思いながら唯は、左手の手のひらにボールペンで書かれたバイタルの数値や今日絶対に忘れてはいけない重要事項などを見て、くすりと笑った。

(あの時はまさか、今みたいに自分の手ひらの数字を見て笑える日が来るなんて……心にゆとりを持てる時が来るなんて、思ってもみなかったわ)

 仮に綾瀬真治が今日自分が言ったことを他の研修医に話したり、あるいはそのことが結城医師の耳に入ったとしても、唯は全然構わないと思っていた。むしろ彼ならばそのことを面白がり「おい、おまえ。俺と寝たいんだってな」と、こちらをからかってくるに違いない。

(でもまあ、わたしの修行の足りないところは、結城先生の前だといまだに少し上がっちゃうってことよね。明日、もし先生がふざけてきたら、鈴村主任や奈々ちゃんがいつもしてるみたいに、ふざけ返すことが出来るといいんだけど……)

 だが、そんなことを唯が心配する必要は一切なかった。何故といって、自分が振られたことに憤慨していた綾瀬真治は、そのことを誰にも告げたりはしなかったからである。



 >>続く。





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