天使の図書館ブログ

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カルテット。-10-

2012-12-18 | 創作ノート
【ヒュラスとニンフたち】ジョン・ウォーターハウス


 最近また少しクラシックを聞いたり、クラシックに関連した本を読んだりしてたせいか……先週、夢の中にアバドが出てきました(笑)

 容姿的にはたぶん、60~70代くらいだったと思うんですけど、とにかくにこやかで、思ったとおりといった感じの人でした♪(^^)

 んで、横にいたマネージャーのような人がいなくなり、綺麗な池でアメンボ☆を捕まえようとするアバド。

 すごく上質なスーツを着てるように見えたので、池に落ちたりしたらどうしようwwとめっちゃ心配になるわたし。

 マネージャーらしき人は携帯で仕事に関することをしゃべってる様子だし、誰もアバドを止めてくれる人がいない。。。

 そんなわけで、池のまわりで思わずオロオロするんですけど、アバドはもうアメンボ☆を捕まえることしか頭にない様子。

 そこで目が覚めたんですけど――起きた瞬間に思ったのは、「どういうこっちゃ??」ということだったかもしれません(笑)

 まあ、イメージ的には、池の水が物凄く綺麗で、アメンボ☆を捕まえようとするアバドは、体のほうは老人でも、心は少年なのだな……といったところだったんですけど、「それにしても何故アメンボww」と、それから二、三日ずっと疑問だったのです。

 でもある瞬間にふと、「アメンボってようするに、音符のことじゃん!!」と気づき、妙に納得したという(^^;)

 なんともおかしな夢だったんですけど、夢の中とはいえアバドに会えて本当に嬉しかったです♪

 ではでは、なんかどうでもいいような話ですが(ほんとにな☆)、今回も本文長いのでこのへんで……。

 それではまた~!!
 


       カルテット。-10-

『あの男だけは絶対に駄目だ、美音。たとえば他の、真鍋守や有川進といった男とつきあうというのなら、俺も許す。だが、あいつだけは絶対に駄目だ。わかったな!?』

『で、でも先生……』

『でも、なんだ?』

 言い逆らうことは許さない――といったように、運転席のほうから睨みつけられ、美音は黙りこむしかなかった。彼女が西園寺圭という指揮者と出会って十年、俗にいう<愛人>と呼ばれる存在になって五年以上もの時が経過しているが、この間、美音が彼に何かのことで異を唱えたことは一度としてない。音楽のことに関しても、お互いのブライヴェートなつきあいのことに関しても、ずっとそうだった。

『あの、先生、わたし……これまでなんでも先生のお言いつけどおりにしてきました。ヴァイオリンの技術的なことでも、なんでも。でもあの人はちょっと違うんです。時司さんは、顔がっていうんじゃなくて、どこか雰囲気的が先生と似てるところがあって、それで、わたし……』

 そこまで言ってしまってから、美音は自分の言葉に初めて疑問を感じた。楽団員たちすべてから、恐怖政治を行う独裁者の如く恐れられている西園寺圭が、画家の時司要と似ている?そんなことはありえないと彼女は思った。何故といって、彼女が<先生>と慕う西園寺圭は専横的な愛し方しかしないが、時司要のほうは、そんな彼よりも遥かに優しい物腰で自分に接してくれるからである。

『だから駄目だというんだ』

 美音が言葉ですべて説明しなくても、西園寺圭には彼女の言わんとすることが理解できたようだった。彼と彼女の間の会話というのは、いつもそうだった。ヴァイオリンのことでも、音楽的にどう言葉で表現していいかわからない時――西園寺圭は常に美音が何を言いたいのかを察し、正しい方向性に導いてくれる。また、私生活のことで悩みがある時も、話す前から西園寺圭にはわかっていることが多かった。そういう時、彼はいつも『どうした?何かあったのか?』と美音に対して切りだす。そして彼女が悩みごとを打ち明けると、それを音楽にどう活かしたらいいのかを教え諭してくれるのだ。そうした彼のやり方が間違っていたことは、これまでにただの一度としてない。

 だからこの時も美音は、いつどおり<先生の正しいお言いつけ>を守るべきだと反射的に思った。それなのに何故、(ううん。今回のことでは先生は間違ってる)などと感じてしまうのか、心に疑問の波紋が広がるのを、彼女が持て余していた時――。

『美音、おまえ、まさか……』

 メルセデスの運転席から、力強い手が伸ばされ、美音の顎をぐいっと持ち上げて自分のほうへ向かせる。この時、西園寺圭が一体自分の瞳の中に何を見たのか、それは美音にはわからない。

 いずれにせよ、強引で奪うような口接けが終わったあと、助手席のシートが後ろへ倒された。場所は、湖の周囲を巡る道路から内側へ入った、林の中でのことで――コンサートホールからここに車が止まるまでの間、西園寺圭はむっつりと黙りこんだまま、美音に何か弁解することさえ許してはいなかったのである。

(先生。こんなところでなんて、嫌です)

 とは、この時も美音は言えなかった。それと同時に、いつもと同じようにそれで彼の気が済むのならとか、彼が怒るのをやめてくれるならと自分が思っていないことに、美音は戸惑った。けれど、もしここで拒めば、先生は本気で怒るか、長いつきあいのある自分より、知り合って間もない男のほうを選ぶつもりなのかと誤解するかもしれない――美音はそのことを恐れたために、西園寺圭がいつもより乱暴に自分のことを抱いても、そのすべてを受け容れるしかなかった。

<南沢湖クリスタルパレス>の駐車場まで送ってくれたあと、西園寺圭は湖のほとりにある別荘のほうへ引き返していった。そのあたりには丸太小屋タイプのバンガローがいくつも並んでおり、彼は夏に音楽祭でここへやって来た時には、いつもそこへ閉じこもり、演奏曲の総譜を見返して過ごすのであった。

 楽団員たちは全員、外面的にはどうあれ、西園寺圭が夫人とうまくいっていないことを知っている。また、気位の高い細君がそのことにほんの軽くでも触れられたくないということ、世間に対する「自分たち夫婦は色々あっても、仲が良い」というイメージを、死んでも守りたいと思っていることも知っていたし――ここ、南沢湖で音楽祭がはじまった最初の年、西園寺圭が妻と同じ部屋にいるのが我慢ならず、キャンプ場内にあるバンガローで寝泊りしはじめたということもよく知っていた。

 かといって美音は、西園寺圭がいずれは妻と別れて自分と結婚してくれるだろうなどと、そんな儚い夢を抱いたことは一度としてない。そもそも、彼女が彼のいわゆる<愛人>となるきっかけになったのは、美音自身のヴァイオリニストとしてのアイデンティティの問題だったかもしれない。

 その時彼女は、同じ楽団員の有川進と真鍋守に、ほぼ同時に交際を申し込まれていた。それは美音が二十二歳の時のことで、このチェリストとパーカッショニストとは、まだ初々しさの残る、楽団に入って間もない娘に対し、自分こそがある種の<指導員>になりたいと考えていたらしい。

 だが、美音の中ではすでに、音楽上の指導者ならばその五年も前から存在していた。十七歳の時に、若い青少年を育成することが目的の音楽祭で、美音は初めて西園寺圭に出会った。その後、彼は自分が日本におり、多少なりとも時間のある時には、美音のことを電話で呼びだし、稽古をつけてくれるようになったのである。

 もちろん、一応噂には聞いていた――西園寺圭は後進の育成に熱心な指導者で、特に自分が<これ>と思う逸材と出会った時には、個人的にレッスンしてくれるらしいということは。彼の後押しがあってソリストとしてデビューしたヴァイオリニストもいたし、のちに世界的名声を博するに至った若手ピアニストもいた。

(でも、まさか自分が……)という思いで西園寺圭の自宅までいってみると、そこは美音にとってほとんど拷問部屋といっていい場所と化した。その時に庭先などで、美しい夫人のことを見かけてもいたし、美音にとって西園寺圭というのはまさしく、雲の上の神のような存在でしかなかったといってよい。

 ギリシャ神話に例えるなら、西園寺圭は美音にとってジュピター、ゼウスであり、自分はその<神>に呼ばれてどういうわけか天上の世界を垣間見ることになったニンフという気がしていた。そして、この場合同じ楽団員の真鍋守と有川進は、太陽神アポロンでもなければ、ヒュドラを倒したというヘラクレスでもなく――せいぜいのところをいって、美音と同じニンフくらいな身分だったに違いない。しかも片方はひどく女癖の悪いことで評判のニンフで、もうひとりは微妙な感じのするナルシストだった。

 とはいえ、これまでずっとヴァイオリン一筋でやって来た美音にとっては、ふたりの男性から同時に交際を申し込まれるなどといったことは、大きな恋愛事件だった。そのことで思い悩むあまり、集中力が乱れがちだった美音に対し――稽古が終わったあと、西園寺圭はこう言ったのである。

『どうした?何か他のことに気を取られているようだったが』

 美音にとって、その日のことで何より印象的だったのは、西園寺圭がいつもならボロクソに叱り飛ばす場面で、何も注意しなかったということだった。それゆえになお一層心が責められて、美音は泣きたいくらい惨めな気持ちでいっぱいだった。

『い、いいえ、先生。前みたいにお母さんが入院したっていうようなことじゃなく――わたしの悩みなんて、本当にどうでもいいような、つまらないことなんです。楽団員として、まだ勉強し尽くしてない楽曲がたくさんあるし、レパートリーも増やさなくちゃいけないのに、入団して一年にもならないうちに、こんなことで気を乱すなんて……』

『美音、一応言っておくが、本当におまえのためを思ってくれるような男なら、おまえのそうした状況を理解して、自分の気持ちだけを押しつけるようなことはしないだろう。そこのところをもう一度、よく考えてみることだ』

 この時も美音は(何も話さないうちから、どうして先生には事情のすべてがわかったのだろう)と思った。<事情のすべて>などといっても、同じ楽団員ふたりから同時に交際を申し込まれたといったことではない。とにかく、本質的な問題として彼にはすべてがわかっているのだと美音は感じていた。

 そしてその瞬間に、美音の中で(自分はどちらの男の手も取るまい。これからもわたしの恋人はヴァイオリンだけでいい)と心が決まった時のことだった。西園寺圭はケースにヴァイオリンをしまっていた美音のことを振り向かせると、力強い腕で彼女の腰を抱き寄せ、まるで楽曲に対し、ある種の指針を与えるように――彼女にキスしていた。

 そのことがあってから、美音と西園寺圭が恋人同士といって差し支えない関係を持つに至るのに、さして時間はかからなかった。もちろん、西園寺圭は公私混同するようなタイプの指揮者ではないので、その後も個人的なレッスンでは美音は絞られ通しだったといっていい。それこそ、ギュッと絞った雑巾から水滴が一滴も垂れてこないという以上に。

 また同時に、それでいて彼が師として以上に彼女のことを心にかけてきたのも事実であり、西園寺圭はその後、ふたりが特別な関係に入ったことを示すように、海外からでも頻繁に美音に対し電話をかけて寄こすようになった。飛行機代を出してやるから、モスクワまで来いと言われたこともあったし、同じようにパリやロンドンまで来いと命令されたこともあった。そして彼女はそのたびに、まるで御主人に呼ばれた犬ように、喜んで彼の言いつけに従ってきたのである。

 美音は不思議と、自分が西園寺圭と<不倫している>と感じたことがない。不倫というのは無論、倫理的に誤っている道ならぬ恋、ということだが、彼と肉体関係を結んでからのちも、美音にとって西園寺圭は<神>であり続けたという意味で――彼女の中の感覚としては、先生はヴァイオリンを弾くニンフのひとりを<神>として好きな時に呼びだしているだけに過ぎない……何かそうした感覚しか、心の内に感じたことはないのだった。

 けれど、その<神>の言いつけに、今美音は初めて背こうとしているのかもしれなかった。美音自身にもうまく説明はできないものの、彼女が美しいみずうみを前にしてヴァイオリンを弾いていると、そこへ太陽神アポロンが通りかかり、少しの間彼女に対して目を留めた……今、自分の身に起きていることは、何かそれに似た状況なのかもしれないと、美音はそんなふうに感じている。

「ねえ美音、これから岩盤浴へ行かない?」

「ううん、わたしはいいわ」

 部屋にふたつ並ぶベッドの片方に寝転がったまま、美音は無意識のうちに、甘く切ないような溜息を着いた。恋愛的なことに関してゆう子は勘が鋭かったが――この時、彼女がふたりの男のことで悩んでいるといったふうには、まるで思いもしなかった。

 というのも、美音はいつもコンサートが終わったあとは、まるでセックスが終わったあとでもあるかのように、愛の絶頂を味わって満足しているが、それでいて少し疲れている……何かそういった様子をしていることが多かったからである。

「まあ、あんたも連日大変よね。一応は避暑地と称されるこんな場所へやって来ても、ほとんど遊ぶ暇なんかないんだもの。あたしは毎日ホテル内のスパやエステに行って、十分楽しんでるけど――美音、あんたもマッサージでも頼んで、少しくつろいだら?整体師ってピンキリだけど、ここのホテルのマッサージ師は結構うまかったと思うわよ」

「うん、いいのよ。わたし、前にもゆう子に言ったと思うけど、音楽祭が終わるまでは、結局頭や体のどこかでピンと神経が張りつめたままだと思うから……肩とか腰のコリを今ほぐすとね、むしろ逆に調子が狂っちゃうの。なんでなのかは自分でもわかんないんだけど、とにかくいつもそうだから、やめとく」

 この時も美音は、気心の知れた幼馴染みに対し、「わたしのことは気にしないで、ゆう子はゆう子で楽しんで」と、いつもと同じ科白を口にした。するとゆう子のほうでは、軽く溜息のようなものを着いている。

「ま、あたしも岩盤浴なんて実際、どーでもいいのよ。あんたが少し疲れてるように見えたから、気分転換にどうかなって誘ってみただけ。ところで美音、あんたあの画家先生とその後、何か進展あった?」

「……時司さんと?」

 心臓の鼓動が一瞬高鳴るあまり、美音はベッドの上に起き上がっていた。それからもぞもぞと背もたれのほうへ移動し、そこに寄りかかってナイトテーブルのジュースを手にする。

「進展っていうか、特にこれといったことは何もないけど、今日の夕方の室内楽のコンサートで、彼は前のほうで見てたの。それから楽屋のほうに来てくれて、「鳥肌が立つくらい感動した」みたいに褒めてくれたけど……」

 駐車場での一件のことは、美音はあえて伏せておくことにした。美音が自分の音楽の師である西園寺圭と愛人関係にあるということは、ゆう子も知らない事実だったからである。

「ふうん。鳥肌が立つくらいねえ。あたしもよくわかんないけど、あの先生の友達ってことなら、結構収入のほうもいいんでしょ?っていうか、時司グループっていったら有名だし、そこの次男坊ってことになると、今は画家なんていう水物の商売してても、来たるべき日には財産分与として、結構な額の遺産を相続するんじゃないかしらね」

「ゆう子、なんでそんなことまで知ってるの?」

 驚きのあまり、美音はストローで吸いあげたジュースを、ごくりと大きな音をさせて飲み干した。

「ネットで調べたのよ。もちろん、ここの部屋にネットの回線はないから、十六階にある<インターネット・ラウンジ>とかいう場所でね。それによると、会社のほうはお兄さんの時司馨が継ぐことになってるってことだけど――まあ、家族仲はそれなりに良いみたいだし、兄弟同士で遺産を巡って骨肉の争いを……なんていう心配はないみたいよ?」

「そうなの。じゃあ、彼の恋人になる人は大変だわね。それなりに家柄のきちんとした人で、教養もあって、その上……」

 美音はゆう子が意味ありげに笑っていることに気づくと、赤面した。再び下を向いて、ジュースをちるるる、とストローで吸いあげる。

「あの画家先生があんたを見る目……それなりに脈ありなんじゃないかなって、あたしは思ったけどな。画家の主人にヴァイオリニストの妻、なかなか絵になるふたりじゃないの」

「あたしのことなんかより、ゆう子はどうなのよ。えっと、あの、お医者さんの先生と」

 正直なところをいって、美音は結城翼という男のことが苦手だった。直接口を聞いたわけではないものの、最初に出会った瞬間にそう感じた。そして時司要という自分にとって<感じがいい>と思える男性が、医者というよりホストといった容貌の男と何故仲がいいのか――多少疑問でもあったのである。

「結城先生ねえ。どうかしら?今のところあたしの張った網に引っかかってこないところを見ると、あのふたりってもしかしてゲイなのかしらとも思うけどね」

「ゆう子ったら」と、美音は鈴の音のような、感じのいい声で笑った。「そんなこと言ったら、あたしたちだって女ふたりでツインルームを取ってて、まるでレズみたいってことになるじゃないの」

「まあね。もちろん今のは冗談よ。それに結城先生とはあたし、とっくに一回寝てるもの」

 ええーっ!?と美音が大声で驚く姿を見返し、ゆう子はどこか愉快そうに微笑んだ。絹のキャミソールにサテンのパンティという格好のまま、彼女はどさりとベッドへ倒れこむ。

「よく行くクラブで飲んでたらね、あの先生、フロアの中央でロボットダンスみたいな、変な踊りをはじめたわけ。まわりの人間は最初、そんな彼に対して軽く引き気味だったんだけど……なんかだんだんそれが味があって面白いみたいになってきて、ちょっと盛り上がっちゃったな。で、ボックス席に座って、あの先生ったらそこにいる人間全員に酒を奢りはじめたわけ。医者だなんて知らないから、財布のほうは大丈夫なのかなって、あたし、心配になってきてね。それでそばにいって話しかけることにしたの――って言っても、この時点じゃべつにあたし、結城先生に対してどうとも思っちゃいなかったわ。ボックス席の隅に、あたしの知ってるタチの悪い男がいたから、たかられやしないかって心配だったっていうそれだけ。何しろその時点であの先生、相当出来上がってたから」

「それで、どうなったの?」

 ここでゆう子はくすりと、さも面白そうに笑ってみせた。

「あの先生ったら、おかしいのよ。軽いノリで仕事のことを聞いたら、自分はニートだっていうの。病的な社会不適応者だから、就職しても三か月と続いたことはないって……まわりの若い子たちは、実際そんなような子ばかりだったのか、妙に話が盛り上がって、彼はそういうみんなの仲間みたいな雰囲気になったわけ。でもあたし、すぐわかったわ――時計はジャガー・ルクルトだし、ベルトはヴェルサーチ、靴はボッテガの革靴だったから。ジャケットとジーンズはユニクロだったけど、この人たぶんどっかのお坊ちゃまなんじゃないかと思ったわけ。で、そこからがちょっと大変だったんだけど……あたしは他の女どもを押しのけて、先生をタクシーで送っていったのよ。あの先生、酔ってるくせに、自分の住所だけはしっかり覚えてて、運転手に自宅の場所を教えたわけ。まったく、呆れちゃうわよ。もしかして酔ってる振りをしてるだけなのかしらって一瞬思ったくらい。で、先生のマンションの寝室で一夜を過ごしたってわけ」

「でも、酔ってたんなら……」

「そうよ。先生は次の日、前の夜にあったことはまるで覚えちゃいなかったわ。でもあたし、こういうことには嗅覚の利くほうだから、先生と寝たあとにベッドを抜けだすと、リビングとか他の部屋を調べることにしたわけ。結構いい部屋ではあったけど、何しろ殺風景でね。たぶんあそこで暮らして何年かになるんでしょうけど、きのう引っ越してきたのかっていうくらい、あまり物がないのよ。でも、携帯とか色々チェックして、彼が救命救急医をしてるらしいってことがわかったわけ。まあ、次の日になったら結城先生は、すっかり人格が入れ替わってて、すぐそこから追いだされたけどね――まさかまた会うことになるだなんて、思ってもみなかったわ」

 美音はゆう子が、次のターゲットとして彼を狙っているらしいということが、この時はっきりとわかった。百万もするダイヤモンドを買ってもらったというのに、彼女はそれだけで済ませるつもりはないのだろうということも。

「そんな顔しないでったら、美音。今回はあたし、珍しくちょっと<本気>なのよ。あんたみたいに、音楽団員なんていう特殊な仕事をしてるとわかんないでしょうけど――世間じゃそりゃまあ、時の流れが速いのよ。あたしももう二十七だし、そろそろ落ち着いてもいいかなって、本気で思いはじめてるの」

「うん。ゆう子の幸せのためには、それが一番って思うけど……」

 ゆう子は唯一、幼馴染みの美音にだけは、自分がこれまで何人の男を騙し、金を巻き上げてきたのかを、話して聞かせていた。もちろん、自分がいかに男にモテるかを自慢したかったというわけではなく――(そんな汚らわしい人間と、これ以上おつきあいしたくないわ)とでも美音が思い、不愉快になればいいと、最初はそう感じてのことであった。

 だが、その度に美音は何故か共感的に話を聞き、なおかつまた忘れた頃に電話をかけてくるのだった。そしてそのうちにゆう子のほうでも、気づくことがあった。自分は世界の荒波に揉まれる孤独な存在だとゆう子は感じているが、実はそれは美音もまったく同じなのだということに。

「まあ、百万もするダイヤを買ってやったんだから、またやらせろっていう感じで、そのうち直接部屋に来るか、電話でもしてくるかしらと思いきや……あの先生、なかなかやって来ないとこみると、なかなかだっていう気もするわね」

「ゆう子ったら」

 それからふたりの女は、美音は疲れのために、またゆう子は温泉に入ってリンパマッサージをしてもらった心地好さのゆえに――話の途中で、そのままどちらからともなく、眠りの世界へと漂っていった。

 そしてその後ゆう子は、夜中にふと目が覚めると、冷蔵庫の中からボルヴィックを取りだして飲んだ。客室係が毎日、<南沢湖のおいしい水>なる飲料水を補充していくのだが、ゆう子はなんとなく自分の体と合わない気がして、あえてそれを飲まないことにしている。

 隣のベッドでは、薄暗がりの中、彼女にとって唯一<友達>と呼べる美音が安らかな寝息を立てている。明日は十時から、野外音楽堂のほうで出番があるという彼女は、アラームを七時にセットしてから眠りについていた。

(やれやれ。何も悩みなんかないっていうような顔しちゃって、まったく憎らしいわね)

 そんなふうに思いながら、ゆう子は美音のことを見返し、ベッドの背もたれに体を預けたまま、ごくりと水を飲み干した。

 ゆう子は枕が変わると眠れないといったような、繊細なタイプではなかったけれど――あまりに目と頭が冴え渡っていて、このまま暫く寝付けそうにないと感じていた。

(やっぱり<あんなもの>を見ちゃった、その影響なのかしらね。あの時美音はシャワーを浴びてて、あたしはベランダでビールを飲んでた。そしたら……)

 隣の1527号室のほうから、窓を開ける音と女の話し声が聞こえてきたのだ。何を話していたのか、会話の内容までは聞き取れなかったにしても――とにかく、その後間もなく隣室の宿泊客はベランダから姿を消した。部屋の中へもう一度引っ込んだのではなく、十五階下へ転落したのである。

 その時ゆう子は(あーらら)と一瞬思い、そしてすぐ事の重大さに気づいた。あまりに信じられないことが目の前で起きたために、本当は今何が起きたのか、現実的な判断が遅れてしまったのかもしれない。そして彼女が隣のベランダのほうにあらためて目をやると、窓からはカーテンが風に翻るばかりで、すでに他の人間の気配はなかったのである。

 もし彼女が普通より好奇心が旺盛か、あるいは正義感に燃えるタイプの人間だったとしたら、すぐにドアを開けて廊下へ出、犯人の顔を確かめようとしたことだろう。だが、ゆう子が見たのは結局のところ<犯人の手>だけだった。白いレースのカーテンの向こうに、隣室の宿泊客を乱暴に突き飛ばす、<犯人の手>を見たというだけに過ぎない。

 それに、今となってはそれすらも、本当に<見た>と言えるほど確かなことだったかどうか……ゆえにゆう子はその後、地元の警察官が「何か見たり聞いたりしなかったか」と聞きにきた時も、「何も見なかったし、特にこれといった物音もなかったと思う」と答えた。

 それは、美音がすっかり身仕度を整え、ヴァイオリンのケースを片手に部屋から出ていったあとのことで、大切な音楽祭の期間中に<友人>の気を乱したくないと思ったゆう子は、同室者はその時入浴中だったということを、当然伝えるのを忘れなかった。

(やれやれ。あたしも随分人間が丸くなったもんね。美音と同じくかなりのところお人好しっていうか……なんにしても、飛び下り自殺の隣の部屋なんて嫌だから、別のところに移りたいって支配人にでも言ってみようかしら?もちろんあたしはあれが自殺じゃないって、わかってるわけだけど……)

 ゆう子が恐れているのは、自分は犯人の顔を見ていないというのに、もしかしたら犯人がこちらのほうを見ていて、自分の顔を知っているのではないかということだった。もしそうなら、今ごろ犯人はかなりのところ疑心暗鬼になっていることだろう。このままずっと黙っていたとしても、いずれ喋るのではないかと恐れるあまり……近いうちに南沢湖で女の変死体が浮かぶことになったらどうしようと、ゆう子は今、かなりのところ不安になっている。

(冗談じゃないわよ、まったく。こちとら、犯人の顔なんて見ていもしないのに……相手の顔さえわかれば用心のしようがあるにしても、それさえ出来ないなんて、こんな危険なことはないじゃないの)

 ゆう子は背筋が総毛立って寒くなり、エアコンの温度をリモコンで上げることにした。そしてふと、隣の部屋の女性が、エアコンの効きが悪いだのなんだのと文句を言っていたのを思いだす。

 夜に見ていたニュースによれば、首藤朱鷺子という名前らしいこの女性は――もともと、1527号室に宿泊する予定ではなかったようなのだ。これもまた初日に、首藤朱鷺子と田沼支配人が廊下でやりあうのを見て、彼女が知ったことである。もちろん、やりあうなどといっても、客の側が一方的に怒鳴り、もう片方が平謝りに謝るという図式ではあったのだが。

『まったく、部屋に小さな毛虫が出るだなんて、最低よ――おまけに、水の出は悪いし、ようやく思いきり出たかと思えば、赤錆が混ざってるだなんて。あたし、旅行誌なんかにも記事を書いてますけどね、こんなホテルがどうやってミシュランからふたつも星を貰えたのか疑問に感じるって、何かの機会に書いてやったっていいのよ』

『申し訳ございません、お客さま。ただ今当ホテルは大変こみあっておりまして……手配できる部屋が限られているものですから、何卒こちらのお部屋で我慢していただけませんでしょうか?』

 この時もゆう子は、首藤朱鷺子の激しい剣幕を見ていて(あーらら)と思った。おそらく年は三十代後半くらいだろうか。その昔流行ったソバージュヘアに、グラスコードのついた赤い縁の眼鏡……ゆう子の見たところ、彼女は何に対しても決して満足できない質の女ではないだろうかという気がした。

 おそらく、十六種類もある温泉にすらケチをつけ、七十四種類あるバイキングの美味しい料理にも文句をいい、そうすることで自分が一流だと認識するような、そうした手合いの女性であるように見えた。

(それでいて結局、ボルドーワインを安いチリ産ワインと取り替えておいても、グラスの中味に気づかないっていうようなタイプよ)

 この時、ゆう子にとって首藤朱鷺子と支配人の間の揉めごとというのは、結局のところただの他人ごとだった。そして彼女が何者かによって死に至ったということも、所詮他人ごと以外の何ものでもないとゆう子は感じている。

(あたしが思うにたぶん彼女は、誰かゆすってでもいたんでしょうね。あの口調で責められれば、誰だってついカッとしても無理ないわ……むしろ、事情によっては犯人に対してこそ、あたしは同情するかもしれない。触らぬ神ならぬ、触らぬ犯人に祟りなしってあたしは思ってるけど――何か危険な目にあいそうだったら、こんなホテルとっととチェックアウトするに限るわね)

 そう思うのと同時に、ゆう子にとって何より気がかりなのは、美音のことだった。顔を見られたかもしれない自分が消えれば、不審に思った犯人は情報を得ようとして美音に近づくかもしれない……そう思うと、安易にここから出ていくというわけにもいかない。

(でも、なるべく早く結城先生のダイヤを現金に換金したいしな。まあ、ここから百キロくらい離れた北央市っていう少し大きな町にも、そうした換金ショップはあるみたいだけど……)

 さて、どうしたものかと思案した揚げ句――あぐらをかいて腕組みしていたゆう子の頭に、あるひとつの妙案が浮かんだ。

(そうだわ。あの画家先生に美音のことをそれとなくお願いするっていう手があるわね。美音は奥手なほうだから、向こうから話しかけられでもしない限り、自分から行動なんて起こすはずないし……よし、ここはひとつ、親友のあたしが一肌脱いでやろうかしらね)

 そう思うのと同時に、ゆう子は<親友>という言葉の響きに、ある種の奇妙さ、滑稽さのようなものを感じる。ゆう子は自分でも自分が、いかに自己中心的で我が儘な人間かということを熟知しているつもりだった。他でもないその自分が、恋のキューピッド役を買ってでようとするだなんて、これまでの彼女の人生の中で、こんな経験は一度としてないといっていい。

「美音、これでもしあの画家先生とあんたがうまくいったら――思う存分たからせてもらう予定だから、覚悟すんのよ」

 ゆう子はこの日の夜、そんなことを思いながら再びベッドの中へ潜りこみ、なんの夢も見ずに眠った。彼女はほとんど夢を見たことがない。いや、おそらく見てはいるのだろうけれど、朝起きてから覚えていたことなど、ほとんどないに等しいのだった。



 >>続く……。





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