先日、部屋を掃除して、しまっていたダンボールの中からこの本を探しだしました♪(^^)
というのも、随分前に引越した時、ある程度本などを(泣く泣く☆)売ったりして、整理したんですけど――この石戸谷さんの本は他でもないアバドのインタビューが載ってるということで、ディキンスンの詩集やペソアの本、聖書などと一緒に持ってきたんですよね。
いえ、アバドのことを調べはじめた時、わたしがまずしたのが、彼の他のCDを探すということでした。
んで、地元で一番大きな本屋であるツ○ヤへ行き……どれだったかは忘れたんですけど、そこでアバドの姿を初めて見たというわけです(笑)
それ、たぶん40~50代くらいのものだったと思うんですけど、とにかくアバドがあんまり格好良かったので、「ええっ!?」とすごくびっくりしたというΣ(゜д゜)!!!
こんなに格好よくて、あんなに才能もあるなんて、絶対詐欺だろう……つーか、世の中どうかしてるぜ☆とすら思い、ふらふらしながら今度は本屋さんのコーナーへ。。。
んで、音楽関係の本が並んでたりするような棚の一隅に、この石戸谷さんのインタビュー集「マエストロに乾杯」を見つけたのです。でも、手にとった時は正直、全然何も期待してませんでした。マエストロって言っても、フルトヴェングラーとかカラヤンとかバーンスタインとかチェリビダッケとかバルビローリとか……彼らがいかに偉大な指揮者だったかについて書かれた本とか、そーゆーのかなと最初は思ったので。
と、ところが本の目次を見るとそこには、クラウディオ・アバドの名前が!!!
本屋で立ち読みするなどあまりに恐れおおいと思い、速攻レジまで本を持っていったのでした。
いえ、本当に「△△について知りたい」とか、すごい期待や希望を持ってると、そういう出会いのようなものが不思議と開かれたりって、ほんの時々ありますよね(^^;)
わたし、石戸谷さんのこの本は、アバドのところだけじゃなく、買ったその日から何日かかけて、本の隅から隅までかなり熱心に全部読みました。
というのも、家にあったCDの指揮者さんのパーソナリティーみたいなものに、初めて触れたようなものだったからなんですよ(笑)
それまではわたしにとってクラシックっていうのは、「耳に心地よければ、誰の演奏でも☆」というくらいな感じだったんですけど、やっぱり演奏が良ければ、それを弾いているヴァイオリニストやピアニストがどんな人なのかとか――知りたくなるのが人の情というものですよね(^^;)
なんにしても、石戸谷さんのこの本は、これからも折に触れて時々読み返したいと思う、わたしにとっては「一生もの」の、とても大切なインタビュー集です♪
それではまた~!!
カルテット。-11-
南沢湖滞在四日目、翼と要は互いにだるい体を起こすと、ルームサービスで食事を済ませるということに決めた。先に起きたのは要のほうで、ナイトテーブルにある時計の針が正午を過ぎていることに気づき――流石にそろそろ起きねばなるまいと意を決したのである。
その気配に気づいて、翼もまた体を起こしたのだったが、寝ぼけ眼をこすっている彼に対して、要は朝一番、いや昼一番の言葉としてこんなことを言った。
「おまえは好きなだけ寝てろよ。せっかく自分が寝たいだけいくらでも眠れる時が来たんだからさ――こういう機会でもないとおまえ、ぐっすり寝れることなんてこれからもないだろ。また病院勤務になったら、いつ携帯電話が鳴るかわからない、呼び戻されるかわからないっていう状態に逆戻りするんだろうしさ」
「まあ、そう言うなって。俺、今つっとばか、いい気分なんだよ、要。なんでかっていうとな、さっきまですんげえいい夢見てたんだ。おとつい、おまえと南沢湖で小っ恥かしい白鳥のボートに乗っただろ?夢の中で俺、ひとりぼっちでペダルを漕いでてさ、湖の中央付近であの時と同じく漕いでも漕いでも方向転換出来なくなって……けど、今は隣に要もいない。こんな場所で誰にも助けられなかったらどうしようって、流石の俺も焦った時のことだった。ふと湖面を眺めたら、あの時ウヨウヨ寄ってきたゾンビ魚どもが、口をパクパクさせながら「助けて、助けて」って言ってるんだよ。そしたら遠くのほうに、なんかネッシーみたいな生き物がいてさ。といっても、背後の山の景色と同化してるような感じで、この世の生き物って感じではなくってな。けど、なんかすごく幸せないい夢だったよ。そんで、「ああ、そうか。ネッシーって本当にいたんだなあ」って思ったところで目が覚めたっていうか」
「それで、そのゾンビ魚たちは、ネッシーから自分たちを救ってくれって言ってたわけなのか?」
「いや、それが違うんだな」
翼は浴衣の前身頃をかき合わせると、要とリビングのほうへ行き、シャッと勢いよくカーテンを開けた。そこからは美しくも神秘的な色をたたえた南沢湖が、快晴の下に見えてくる。
「まあ、話すとつっとばか長くなるから、まずは朝メシでも食おうぜ。<体にやさしい和食セット>っていうのと、<こだわりの洋食セット>とかいうの、要はどっちにする?」
「僕は和食セットにしとくよ。今はなんだか、人に優しくしてもらいたような気分でね」
右頬を押さえて、しかめ面になっている要に対し、翼はそんな彼のことを即座に笑い飛ばしていた。
「いやいや、まったく面白くなってきたぜ、要――俺はてっきり、こんなど田舎の湖くんだりまでやって来た日には、せいぜい三日くらいで何もかもに飽きるだろうって思ってたんだがな。滞在三日目にして死人は出るわ、おまえは自分とキャラの被った男にぶん殴られる、こんな楽しい休暇旅行は俺の人生史上ちょっとないくらいだな」
(人がひとり亡くなってるのに不謹慎だぞ)などとは、当然要は言わない。ただ、バスルームの鏡で自分の顔を眺め、きのう以上に殴られたあとが腫れ上がっているのを見、うんざりするのみである。
そして要が顔を洗って戻ってくると、翼は<体にやさしい和食セット>と<こだわりの洋食セット>というメニューをひとつずつ頼んでいるところだった。
「おまえはおとついと同じく、洋食セットにしたのか」
「うん。だって俺、朝はコーヒーとパンじゃなきゃ目が覚めてこないってタイプだからな。けど、あれって絶対バイキングの残りものの詰め合わせだよな。にも関わらず、適当にプレートにのせて部屋まで持って来たってだけで三千円もするのは――流石にぼったくりなんじゃないかね」
「ホテルってのは、どこもそんなもんだろ。いかにして全体の効率を良くして利益を上げるか……どこも大変だよ。客室係や厨房の料理人、ホテルマンたちの苦労を思うと、僕は涙がでるね」
「まったくよく言うぜ。おまえみたいなお坊ちゃまが。額に汗して働いたことなんか、要には一度もないだろ?」
「まあね。けど、ある程度人の苦労ってものは理解できると思うよ。ところで翼、さっきの夢の続きだけど、おまえ可哀想な小魚たちがネッシーを恐れて苦しんでるのに、そんな夢を見て幸せだと思ったわけか?」
「いや、そうじゃなくてさ」
翼はフィルターをセットして、そこへ挽いた豆を放りこむと、コーヒーメイカーのスイッチを入れた。そして再びリビングのほうへ戻ってくる。
「俺、病院を辞める前の夜だったかな……夢を見たんだ。水中の中で巨大なイカに襲われそうになるって夢。そのイカ野郎には人間と同じか、あるいは人間以上に賢い知能があって――向こうが接近してくると、何かこうおぞましい思念波みたいなものが伝わってくるわけ。あんなものに捕まっちゃ自分の人生終わりだと思った俺は、とにかくもう必死で逃げた。でも水中でこむらがえりを起こしちまってな。あとはもう深海の底の底へ沈みこむばかりっていう、なんとも不吉な夢だった。つまりさ、あの夢と今回の夢は繋がってるんだよ。理屈はともかくとして、俺にはそのことがわかった。魚たちが恐れていたのは、真ん中に青い眼の埋まった巨大イカであって、ネッシーのことじゃないんだよ。で、ネッシーのほうはとても善良ないい生き物なんだ。唯一あいつだけが巨大イカと戦って勝てるというわけ」
「ふうん。僕、いつも思うけど、翼の思考回路って一体どうなってるんだろうなって少し考えちまうな」
室内にコーヒーのふくよかな香りが漂いはじめたこの時、部屋のドアがノックされた。要はてっきり、客室係がワゴンに蓋を被せたプレートを持ってきたのだろうとばかり思ったが、そうではなく、ドアの向こうには花束を持った川原美音がいた。
「……どうかしたんですか、こんな朝早くに」
と言ってしまってから、要は内心で舌打ちした。実際にはもう、とっくに昼を過ぎている。どうやら自分はまだ相当寝ぼけているらしい。
「いえ、きのうあれからどうされたかなって、気になったものですから……すみませんでした、わたしのせいであんなことになって。本当は朝一番にあやまりにこようと思ったんですけど、今朝は十時から出番があったものですから」
「モーツァルトの交響曲第41番、ジュピターでしたっけ?」
きのうの夜、あんなことさえなければ、それは要が是非聴きたいと思っていたプログラムのひとつだった。今更ながら、寝坊したことがとても残念に感じられてくる。
この時、廊下の奥のほうから制服姿の客室係が現れて、要に向けて軽く会釈した。
「じゃあわたし、これで……」
お見舞いのつもりらしい、手に持った薔薇の花束を要に渡すと、美音は姿を消そうとした。最上階のスイートには、西園寺圭の奥方が宿泊しているというのは、楽団員であれば誰もが知っていることである。顔を鉢合わせる可能性は低いと思うものの、それでも美音はなるべく早くここから離れたいと感じていた。
「美音さん、待って」
ここで、部屋の奥のほうから「ウォッホン、ウォッホン」などという、どこか白々しいような咳が聞こえてきた。見ると、まだ顔も洗ってないはずの翼が、手に着替えを持ってこちらのほうへやって来る。
「その朝メシ、ふたりで食べれば?俺はちょっとひとっ風呂浴びてくるからさ。そのあとレストランでひとり寂しくメシでもかっ食らってくるわ。前から気になってたんだよな、当ホテルの限定メニュー、ミッシーの海鮮丼とかいうのが」
その言葉の言外に、「なんでもミッシーってつければいいってもんじゃねえだろ」という翼の疑問を感じるが、要はこの時、そのことをあえて深く突っ込まなかった。
「あの、でもわたし……」
「まあ、俺のことは気にしない、気にしない。たとえ今俺が寝起きでごはんも食べてなくて、顔に目やにのついた状態で十階の浴場まで行くんだとしてもね」
(いかがなさいますか?)と問いたげに自分のほうを見るボーイに対し、中にトレイを置いていくよう、要は視線で命じた。翼はといえば、タオルを肩にかけ、鼻歌らしきものを歌いながら、皺だらけの浴衣姿で廊下を大股に歩いていく。
「わたし、なんだかとても間の悪い時に来てしまったみたいで……」
「ああ、気にしなくていいよ。翼のことなら。あいつはいつでも臨機応変に、自分にとって楽しい状況を作りだそうとする奴だからね――今は今で、ああ見えてかなり上機嫌なんだよ」
「そうですか」
飾り暖炉の上の花瓶に、要が薔薇の花を飾りはじめるのを見て、(もしかして迷惑だっただろうか)と、美音はあらためて感じはじめる。何故といって、その前まで飾られていたかすみ草やラナンキュラスといった花束を抜いて、彼はそれを花瓶に活けていたから。
「それより、お昼ごはん食べた?」
「いいえ、まだ……」
美音は真っ赤になると、自分の目の前に置かれた昼食のプレートに、はじめて目を落とした。イチゴジャムとクランベリージャムのついたフレンチトーストに、オムレツ、ナポリタン、ホワイトソースのペンネ、ブロッコリーのサラダなどなど……お腹のすいていた彼女は、それらをとても美味しそうだと感じる。
「もし和食のほうが良ければ、僕のと交換できるけど」
「いいえ、いいです。ちょうどパンにジャムを塗って食べたいと思ってたので……」
ふたりはそのあと、差し障りのない会話――今回の音楽祭のこと、これから彼女がでるプログラムの楽曲のことなどを話し、すっかり気分が落ち着いたところで、要は食後にコーヒーを出しながら、初めて美音に核心に触れることを聞いたのである。
「きのう、美音さんはあれから、西園寺氏に色々言われたんだろうね。大切な音楽祭の最中に、軽そうな男とつきあいを持ったりするなとかなんとか」
「軽そうだなんて、そんな……でも、確かにそうしたことは言われました。その、他の男の人であればともかく、時司さんだけは絶対駄目だみたいなこと。先生はいつも、最初はそうとわからないんですけど、最終的にはとても理にかなった方なんです。だからわたし、少し混乱してしまって。自分から男の人と話したいなんて思ったこと、わたし今までほとんどないのに。でも時司さんとは落ち着いて話せるし、音楽のことも色々しゃべれて楽しいのに、先生はどうしてあんなことを言われたのかなあって……」
「まあ、詩神の問題だろうね、それは」
「え?」
詩神を指針とばかり思った美音は、コーヒーを飲みながら一瞬混乱した。
「つまり、西園寺氏にとって美音さんは大切なミューズのひとりだということだよ。あのあと僕は、美音さんは随分彼に大切にされてるんだなって思った。もちろん彼は結婚していて、この部屋のすぐ隣には奥さんもいる。でも、問題はそういうことじゃなくて――チェスでクイーンを取られたら終わりみたいにね、西園寺氏にとって美音さんはそういう存在なんだろうと思うよ。クイーンっていうのは、将棋でいう飛車と角みたいなものだけど、チェスは将棋と違って消耗戦だから、戦いが進めば進むほど盤上に駒がなくなっていく。でも最後の最後までキングとクイーンは盤上に残っていることが多い。つまりはそういうことなんじゃないかと思って」
「そんな……あの、先生は奥さんやわたし以外にも、他に女性の方がいらっしゃるんです。だからわたし、自分もとか、これはそういうことじゃなくて、お友達として出来たら仲良くしていただけると嬉しいなって、そう思って……」
膝の上にコーヒーカップをのせ、顔を俯けて話す美音は、要の目から見てとても美しかった。長い黒髪を三つ編みにして後ろへ垂らし、つい先ほど舞台上で演奏していたままの、地味な紺のドレスを着ている。
「美音さんをモデルにして絵を描きたいなんて言ったら、たぶん僕は西園寺氏にまた殴られることになるんだろうな。君になら僕の言ってる言葉の意味が理解できるだろうと思って話すけど、問題はね、美音さんと僕がずっと友達でいるとかなんとか、そういうことじゃないんだよ。彼は自分にとってのお気に入りの詩神(ミューズ)を決して手放したくないんだと思う。でも、他の大抵の男には詩神なんていっても、意味がわからないだろう。西園寺氏は幼い頃<神童>と呼ばれていたとおり、随分早くに音楽を通して詩神の呼ぶ声を聴いたんだろうね。僕もそうだった。といっても僕の場合は、神童なんて誰も呼んでくれなかったにしても……彼は奥さんの中にも、君が他にもいるっていう愛人の中にも、ミューズが通り過ぎていく姿を見たんだと思うよ。僕も同じように感じて、これまで多くの女性をモデルにして来たけど――ようするに、西園寺氏と僕は似てるんだろうね、本質的な意味合いにおいて。魂の勘が鋭い彼にはそのことがすぐわかったし、それで美音さんに僕だけは絶対に駄目だと言ったんだと思う。何故なら、表面的にただ体の取りあいをするっていうのならともかく、詩神をとられたら芸術家としては終わりだからね」
「あ、あの、わたし……」
美音はそれ以上のことは言葉で説明できなかった。もちろんこういう時、西園寺圭であれば自分の言わんとすることを先まわりして理解してくれる。そして美音は彼のそういうところが好きだった。けれど、時司要には彼女が<先生>として慕う男とは、似ていながらまったく別の側面があった。それは「自分を傷つけるようなことをこの人は決してしないだろう」という絶対の安心感であり、また何を話しても彼ならば受け止めてくれるという優しさを感じるという点だった。
美音はそのことを言葉で説明しようとして、うまくそう出来ない自分にもどかしさを感じつつも、思いきって顔を上げた時に、要の表情の中に<すべてわかっている>という受容の色を見、ほっと安堵した。
「まあ、きのう今日出会ったばかりっていうんじゃ、当然友達からはじめるしかないんだろうね。でも、西園寺氏は僕が車のトランクから画架やキャンバスなんかを取りだしてきて、君をモデルに絵を描きはじめたりしたら――その現場を見てもいないのに、たぶんそのことに気づくだろう。それで、横から小賢しく盗みを働く盗人を見るような目で、僕のことを批難するだろうね。僕が心配なのは、つまりはそういうことで彼からかかるプレッシャーに、美音さんは耐えられないだろうっていうこと」
「でもわたし……先生にとってはたぶん、そんなに凄い存在じゃないんです。ヴァイオリニストとしても、上から数えて十何番目とか、あるいはもっと下かもしれないし……」
「本当に純粋な人というのは、自分がそうであることに気づかないものだと思うよ。もうひとつ付け加えるとしたら、美音さんの持つそうした純粋さを他の男が壊すかもしれないことが、西園寺氏には耐えられないんだと思う」
「……………」
美音は暫くの間、ただ黙ってコーヒーを飲んでいた。手に持つコーヒーカップが震えだすのを止めるだけで、本当に精一杯だった。「この人は出会って間もないのに、何故自分のことをわかってくれるんだろう」と思うのと同時に、不安にもなる。結局のところ自分は、先生の手を離すことが出来ないと美音にはわかっている。それなのに、もうひとり別の男性の手も取ろうとするだなんて、それはやはり都合のいいことではないのだろうか?
「まあ、なんにしてもゆっくりやっていこう。きのう西園寺氏から殴られたことも含めて、僕は今の状況を実は結構楽しんでるんだ。美音さんは彼にとって自分は大した存在じゃないみたいに言ったけど――僕の目から見る限り、決してそんなことはないんじゃないかな。なんなら、試してみたっていい。僕のほうから美音さんにしつこく言い寄るような振りをして、君は拒みたいながらもあからさまに邪険にも出来ないっていう態度をとればいい。僕が思うにはね、それで西園寺圭がある決断をするならそうしたほうがいいっていう、これはそういう話。氏はきのうも夫人と激しく何かを言い合っていた。だから、このことをきっかけに真剣に離婚することを考えて、美音さんのことをこれから大切にしてくれればいいんだよ」
「わたし、そんなこと望んでません」
突然、キッとしたような視線で見返され、要は(おや)と感じた。川原美音は一見、気が優しく大人しいように見えるが、ヴァイオリンを弾く時と同じく、性格のある部分は情熱的で我が儘なのだろう――要は自分が初めてそこに触れたように感じ、嬉しい気持ちになった。
「あの、わたしは先生と奥様が別れればいいなんて思ったこと、一度もありません。先生はその、なんていうか……わたしのことはわたしのことで大切にしてくださいますし、他の女性に対してもおそらくみんなそうなんです。もちろん、頭の中では何度も想像しました。先生がわたしのことだけ見てくださって、たとえば一緒に同じ部屋に暮らして、ごはんを作って彼が帰ってくるのを待ったりとか、そうしたことは何度も……でも、先生はとても器の大きな方だから、わたしひとりでは決して満足されないこともわかってるんです。だから、わたし……」
「『今のまま、都合のいい愛人でもいい』ってこと?じゃあ、僕のことはどう?僕は西園寺氏と違って独身だし、今は特にこれといった恋人もいない。彼と別れられないっていう美音さんの気持ちもわかるけど、普通に考えたら君と西園寺氏の関係っていうのはいわゆる<不倫>と呼ばれるものだよね?だったら美音さんにも、他の男との将来を考える選択肢が当然あっていいんじゃないかな。僕が言ってるのはつまり――僕のほうがしつこく美音さんにアタックして、それを見て西園寺氏がどうするかっていうことなんだ。それで彼が苦渋の決断をして、最愛の娘を手放すような気持ちで君の手を放すなら僕がその手を取りたいと思うし、でも僕が想像するにはね、西園寺氏はおそらくあの夫人よりも美音さんのことを選ぶだろうっていうこと。僕は自分がそのためのきっかけを作れればいいと思っているし、まあその報酬として、一枚か二枚いい絵を描かせてもらえれば十分だっていう、これはそういう話なんだよ」
「でもわたし、絵のモデルなんて、とても……」
美音が再び、謙虚で控え目な態度に戻るのを見て、(なるほど。これだな)と要は感じる。つまり、西園寺圭が川原美音という自分より二十歳も若い女性を手放したくない理由が、おそらくはこの性格のギャップなのだろうということだった。それと同時に、自分の息子と同年代の、こんな年若い娘を愛人にするだなんて――という、嫉妬深いヘラの声についてもまた、要は察することが出来る気がしていた。
「いや、突然今日とか明日どうこうっていうことじゃなんだよ。当然美音さんも、音楽祭の演目で忙しいと思うし……とりあえず今は、僕がスケッチブックにでも君を素描することくらいは許してほしいっていう段階かな。で、西園寺氏のお許しがでるなら、僕は本格的に美音さんのことをモデルにして絵を描きたいって思うし――言うなればこれは双方向の取引みたいなことなんだ。そうしたことを通して、もしかしたら美音さんはヴァイオリンの演奏に幅がでるかもしれないし、僕は僕で、余りある報酬を勝手にもらうつもりでいるってこと。それで恋愛的なことも多少発展するといいんだけど、とりあえず美音さんは、僕のことを<利用する>くらいの気持ちでいればいいんだよ。そして僕も同程度に勝手ながら一方的に得をする……これは完全にギブ&テイクの関係なんだ。だから、美音さんが良心に呵責のようなものを覚える必要はない。ついでに、僕はいつも女性のことを都合よく利用してばかりいるから――君はそんな男に対して、罪悪感を抱く必要は一切ないんだよ」
「えっと、でも……」
美音がそっと目を上げて見ると、要がどこか瞳を輝かせながら、不敵に微笑っていることに気づく。(やっぱりこの人は、ギリシャ神話で性格類型するとしたら、アポロンなんだわ)などと思い、美音もまた少しだけ微笑んだ。
「じゃあ、これで商談は成立だね」
「はい」
果たしてこんなことくらいで、自分の敬愛する<先生>が、何か態度に変化を見せるものかどうか――昨晩の駐車場での一件があるにも関わらず、やはり美音は半信半疑なままだった。
けれど、音楽の美神に仕えるニンフである美音としては、全能神ジュピターに対してだけでなく、やはりアポロン神にも逆らえぬ強烈な魅力を感じてしまうのだった。そして自分がもし彼の愛したダフネであったならと、美音は束の間であるとはいえ、夢想せずにはいられなかったのである。
>>続く……。
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