今回は早速言い訳事項から
↑の本が↓の文章を書くにあたって、参考にさせていただいた本なんですけど……その、もう一回確かめようと思ったところ、引越しのどさくさに紛れて本のほうが見つからなくってですね
もちろんわたし、<本>っていう存在自体はすごく大切にするほうなので、粗末に扱ってるというわけでもなく、単純に「どのダンボールに入れたのかがわからない」というか
まあ、いつものわたしの癖として、最初は先入観なくよくわからないことはわからないままに、書き終わってから「?」っていう部分を調べるっていう感じなんですよね(^^;)
でもお茶のことはさっぱりわからないので、ここは一番最初に本を読んだ箇所だった気がします。もちろんこれ以外のお茶に関する本も手元にあるので、そっちで確認しろ☆っていう話ではあるんですけど……何分、
面倒くさい←
といったような事情がありまして
いえ、なんかもう気持ちは医療関係の本のほうに飛んでるので、お茶関係のことについてはちょっと今あんまり頭に入ってこないというか
もちろん好きなんです。千利休さんの話とか……もっと色々詳しく調べて知りたいなと思っています。まあでも結局のところ、「なんかもうこれでいいや☆」と思ってしちゃいますね(おまえは)
あとこれは、書き終わったあとに知ったことなんですけど、実際に茶室へ辿り着くまでの庭の構造といいますか。そのあたりのことも「しょうなんら~。それは書き直さねば」と思っていたはずなのに、なんかもうこちらについても「どうでもいいや☆」と思うようになってきまして(殴)
>>客は茶室に入るとまず、床前に進み、掛け物(軸)を拝見します。床の間の起源は、仏様を礼拝する場所としてできたといわれています。仏画をかけ、前に花、燭台、香炉などの具足を飾り、仏への祈りとしたのでしょう。時は移り桃山時代には、書院造りの一つとして、書や画を鑑賞する場所として定まり、さらにそれが茶室に取り入れられたといえましょう。
茶室に入る前、客は露地を渡ります。露地は単なる庭ではなく煩悩生活にとらわれた日常生活を脱却し、悟りを得る場といえます。
茶室に向かうまで、外腰掛待合、一歩一歩歩む飛石、中門、つくばい、刀掛け、にじり口と経て、それぞれが、自分自身の我を捨て、無の境地へと至らんとする行程を覚悟するのです。
(NHK趣味百科、茶の湯『道具の扱いと鑑賞』より)
お茶の世界って、ほんとにすごいですね
にも関わらず、そのあたりのことをすっ飛ばして楽してなんかものを書こうというわたしの根性がいけないんだと思います(^^;)
確か昔、お茶の家元の地位(財産)を競って、殺人事件が……みたいな二時間ドラマがあった気がするんですけど、そういうことを考える人はそもそもお茶とかやってないよねってつくづく思いました。
まあ、わたしの書いてることもそういう種類の何がしかなのだと思って、苦笑いしていただけると幸いです(笑)
それではまた~!!
Ray of light-2-
「あの、これなんていう香水の香りですか?」
萩や沈丁花や南天といった花木の植わった庭を歩き、玄関から廊下を歩いていく途中で、玲子は思いきってそう聞いてみた。
「えっと、特に名前はないんだけどね。フランスにいる調香師の知り合いが、『君をイメージした香水を作った』とか言って、送りつけてきたものなんだよ。僕も以前は男が香水なんて……と思ってたんだけど、この香りはなんとなく気に入って、以来ずっと使ってるんだ」
「ああ、それで、なんですね。きっとその調香師の方にもわかったんですよ。時司さんがこれまでどのくらい女性のことを泣かせてきたか……そういう涙を最後に一滴垂らして、きっとその香水は完成するんでしょうね」
「う~ん。君は意外に思っていたよりも鋭いねえ。前にも同じことを僕に言った女性がひとりだけいたよ。まあ、もうこの世にはいない人だけれど」
なんでもないことのようにそう言ってから要は、玲子のことをリビングへ通した。この頃、要は別の場所にアトリエを建設中であり、そちらが完成するまでは、祖父が彼に遺産として残した邸宅を住まいとしていたのである。
「とても素敵なおうちですね。和洋折衷型のモダンな建築っていうか……」
「この家は、元は僕の祖父の持ち物でね。明治初期に建てられたものらしい。でもその後、祖父の手に渡って増改築を繰り返しているうちに、なんだかおかしなことになってね。通り土間を上がった左右が両方とも洋間だったり、地下に撞球室を作ってみたり、秘密の地下通路の先になんのために作ったんだかわからない蔵があったり……とにかく、作りとしては変てこな屋敷だよ」
変てこ、と自分で言いながらも、現在別の場所に建設中の要のアトリエはといえば、さらに輪をかけて作りが複雑だった。小さな頃、要はいつでもこの祖父の家をあちこち探索するのが好きだった。その少年の好奇心を喜ばす作りのアトリエ兼住居をと思い、設計図を引いたのだが――やはり血というものは争えぬものらしい。
「でも、やっぱり素敵ですよ。フランス窓から紫陽花や百合の花が見えたり……この襖も、和と洋が見事に合体してるっていうか」
この時期、季節は六月だった。そして玲子はリビングとその奥のアトリエを仕切る金箔に竹の絵の描かれた襖絵をじっと見つめる。
「あの、これは要さんが描かれたものなんですか?」
「うん。前はもっと大人しめの装飾で、松の絵が描いてあったんだけど、癇癪持ちの祖父が何かのことで怒って杖で滅茶苦茶にしたらしい。で、そのかわりになるものを僕が用意したんだよ。今からもう何年も前の話だけれど」
「そうなんですか。へえ……」
どこか落ち着きなくきょろきょろしている玲子のことを、すぐにアトリエに通そうなどとは、要も思わなかった。というより、特に今のところ彼女を見ていて創作意欲をかきたてられるでもなく、今日のところは傘の返却と、差し障りのない世間話だけで終わるだろうと彼は見ていた。
けれど、話の流れが少しばかり変わったのは、カウンターで玲子がローズティを飲んだあと、「庭を案内していただけませんか?」と言った時からだろうか。彼女が庭の太鼓橋の下に集まる錦鯉を見ながら、鹿おどしの音が聴こえることに気づいたのだ。
「わたし、茶道と華道が趣味なんですよ。ずっと師範の叔母について習ってたんですけど、この叔母が夫の転勤でニューヨークへ行くことになって……そのことをきっかけに辞めようかなとも思ったんですけど、結局今も続けています。でも、趣味はなんですかって聞かれて、茶道と華道だなんて、まるで明治の古い女みたいでしょ?だから人にそう聞かれた時にはスキューバダイビングとかスキーって答えることにしてるんです。実際、両方とも嫌いじゃないっていうか、好きっていうのもあるし……」
「っていうことは、玲子さん、お茶を点てたりできる?」
要は心底意外だ、といったように、どこか考え深げに聞いた。彼がしげしげと朱塗りの橋の上で玲子のことを見返していると、またここでひとつ、鹿おどしが鳴る。
「ええ、まあ。そのためにずっと習ってきたんですし……」
「じゃあ、茶室に案内するよ。そこで出来れば僕のためにお茶を点ててほしい」
「は、はあ……」
要は玲子の手を引くと、まるで「こっちだよ」というように、庭を川に沿って遡りはじめた。実際には人工物だが、まるで最初から自然にそこには小川が流れていたというように、庭の中央をせせらぎが流れている。
「ここには滅多に誰も入れないんだよ」
玲子は彼が案内する道すがら、どこか悪戯っぽい少年のような――あるいは彼女の気のせいでなければ悪魔のような――笑みを浮かべていることに気づいていた。人工の小さな滝の脇を横切り、山茶花の樹木がどこか寂しげに植わった道を通っていくと、要が突然地面に膝をつく。
「あの、ここは……」
「秘密の地下通路の入口なんだ。ここを通っていかないと、祖父お気に入りの茶室には辿りつけないように出来てるんだ」
入口は、神社の鳥居に似た掛け金によって封がなされているため、玲子も自分が重要な封を解いてしまったのではないかと、一瞬錯覚しそうになった。だがまるで、封を解いてしまったことの呪いはすべて自分が身に引き受けるとばかり、要が黒鉄の掛け金を外し、先に奥へ入っていく。「明かりをつけてくるから、ちょっと待っててくれ」と言い残して……。
玲子には随分長く感じられたが、三十秒ほどすると、暗黒の闇しかなかった穴の世界に明かりが灯った。玲子はほっとすると同時、その鉄の梯子を下りることに多少ためらいを感じてしまう。というのも、彼女はこの日、膝より若干上のスカートをはいていたからだった。
「大丈夫だよ。べつに見ないから」
下から、少し笑みを含んだような、そんなくぐもった声がして、玲子もまた思わず笑った。鉄の梯子を下りていってみると、どこかイスラム風の装飾が施された、白地に青い模様のタイルが壁一面に広がっているのがわかる。
「本当になんだか、秘密基地みたい」
ずっと奥の天井から、明かり採りと思しき光が差しこんでいるものの、それ以外には当然ながら窓もなく、空気の匂いもどこかカビ臭かった。
「茶室のある離れにはね、玄関というか、入口というものがないんだよ。まあ、窓があるからそこによじ登って入ればいいんだけど、祖父はそういう<ずる>を好まない変わった人でね……僕が何か悪さをすると、ここの地下の暗闇に閉じ込めてやるってよく言われたものだった」
「実際、そんな目にあったことがあるんですか?」
細く長い道を一緒に歩いていくうちに、玲子は突然要に抱きつきたいような衝動に駆られて、自分でも戸惑っていた。カビの匂いに混ざって、微かに例の香水の香りが鼻腔をくすぐって――まるでその香りの源を探りあてるために、彼に抱きつきたいような気持ちになる。
「いや、ここの地下通路に置きざりにされたってことはないけど……わざわざ嘘をついて茶の稽古をさぼった時にね、この先にある部屋の一室に閉じこめられたってことはある。窓のないやたら圧迫感のある部屋で――というのは、小学生の僕にはそう感じられたっていうことだけど――欄間に地獄の恐ろしい絵の描かれた、床の間には般若の面のかかった部屋なんだよ。子供にとってはおやつを抜きにされるより、よっぽど怖い刑だった」
再び神社の鳥居に似た掛け金のある扉の前まで来ると、要はそこを解放して先に立って歩き、電気を点けてから土間で靴を脱いだ。そして、やたらギシギシと音のしなる古めかしい階段を上がっていくと、突然光溢れる空間へと出る。
畳のひとつひとつが、微かに青味がかった緑色をした、とても美しい和室だった。玲子はいつもの癖で敷居を踏まずに歩いたが、注意してみると要もまったく同じようにしている。そしてそこで玲子は(これだったんだわ!)と、瞬間的に閃いていた。
つまり、自分が時司要という男に瞬時にして心を奪われた理由――それは彼がハンサムだからでもなく(もちろんそれもあるにしても)、お金持ちの御曹司だからでもなく、自分と共通の趣味を持っているからなのだろうという気がした。また彼の立ち居振る舞いや何気ない所作のひとつひとつに、どこか常人離れしたものがあると感じていたけれど、元を正せばその理由もそこにあったに違いない。
「そうそう、この部屋だよ」
広い和室の部屋を何室か抜けると、一番奥まったところに窓のない八畳ほどの和室があった。玲子が入ったあとに要が襖をすべて閉めると、確かにそこには独特の強い圧迫感がある。欄間には地獄の底で呻く罪人どもと、その罪人を虐げる鬼の姿が描かれており、その下の襖絵にはほとんど鬼にしか見えない風神と雷神の争う姿が描かれている……また、床の間に掛け軸はなく、そこには見るも恐ろしげな般若の面がひとつ飾られているのだった。
「あの、子供じゃなくて大人でも、ここに一晩いろって言われたら泣くと思います」
「そうだよなあ」
要は祖父の生きていた昔を懐かしむように目を細めると、彼特有の快い響きの声で笑った。
「なんにしても、二階へ案内するよ。そこから見る庭の景色がね、なんとも言えず絶景なんだ」
要は襖を開けて風神と雷神の姿を引き離すと、また先に立って歩いていった。玲子はといえば、目にするものすべてが珍しく、壁紙にびっしりと描かれた金のつる草模様や、床の間の掛け軸、その下に置かれた仏像など、そのひとつひとつをじっくり観察したいと思うほどだった。けれど、そうしたことは後まわしにして、とりあえずは要について階段を二階へのぼっていった。その階段の形や親柱、それに階段室にかけられた絵などが、玲子の心をさらに魅了する。
二階もすべて和室ではあったが、一部洋風の家具や調度品の置かれた部屋もあり、そこの部屋には鶴の絵や桜の絵などが壁に描かれていた。けれど、天井のランプやカーテンなどは完全に洋風で、そこからは日本の和の心を愛しながらも、洋のものにも惹かれる建築主の心が表れているようでもあった。
「そっちじゃなくて、こっちこっち」
つい好奇心の赴くがまま、玲子は奥の部屋を覗き見して歩いてしまったが、要に呼び戻されて、サンルーム風の場所へと顔をだした。
「母屋の二階から庭の全景を眺めるより、こっちのほうが僕は全然気に入っててね」
「……本当に、素敵ですね」
爽やかな風の音に混じって鳥の声が聞こえ、玲子は暫しの間庭の上空からの眺めを堪能した。まるで庭の全体が、ここから眺めるためだけに緻密に設計されたかのようだった。小川の配置しかり、石の配置しかり、樹木の配置しかり、瓢箪池にかかる橋の配置しかり……玲子がこれまで見てきた限りにおいて、楓など紅葉する樹木が多数あったことから、秋になるとまた別格の眺めが楽しめそうだった。
「秋に、またここからの景色を見せてくださいますか?」
「ああ。もちろん、いいよ」
この時、玲子はまるで、要がそう返事したことがまるで結婚の承諾でもあったかのように、頬を朱に染めた。庭からの眺めは確かに素晴らしいものではあったが、おそらく一般の人にはそれでも「まあまあ風流な景色」といったようにしか思われなかったかもしれない。けれど、この良さが本当にわかる男に対してであれば、玲子は一生ついていきたいといったように、瞬間的に感じ取っていたのである。
「さて、じゃあそろそろ本題へ戻ろうか」
暫くの間、ただ互いに黙って風に吹かれたあと、要が沈黙を破るようにそう言った。
「茶器類はそっちの水屋に全部あるから、適当に用意してもらえるかな。もしわからないことがあったら、なんでも聞いて」
「は、はい……」
果たして、要のお茶の点前は一体どのくらいのものなのだろう――玲子は突然、そんなことが気になった。小学生の時から習っているということは、そうした基本が今では自然にすべて体に染み込んでいるのだとしたら……。
玲子はお茶の先生の前で採点される時のような気持ちになるのと同時、(いいや、負けるものか)という相反する気持ちも生まれて、まずは道具畳に風炉を据え、釜をかけた。ふと見ると、要は<掬水月在手>と書かれた掛け軸の前で完璧な正座をしている。どこがどうとは説明できないものの、茶道を長くやっている玲子をして、そう思わせる静かな座り方をしていたということだった。
水指、棗や茶碗、建水など、必要な茶道具の準備をし終えると、玲子は作法にのっとって茶を点てはじめる。釜の湯を柄杓で汲んで茶碗に入れ、茶筅とおしをすると、茶碗をゆっくりまわして温め……お茶はあまり泡を立てないよう、茶の香の失せぬよう、玲子は細心の注意を払ったつもりだった。
けれど、要が玲子の作法をひとつも見逃すまいとするようにじっと注視していたために、玲子は実際に茶を点てはじめる以前に、極めて初歩的なミスを犯してしまっていた。どうにか誤魔化して取り繕ったものの、茶の事細かな決まり事を知っている彼の目には、すべてが丸わかりだったに違いない。
(やだわ。男の人に見られてるくらいのことで、こんなに動揺してしまうなんて……この場所に先生がいたらなんて言うかしら。「あなた、一体何年お茶を習ってるの!」って、叱られたに違いないわ)
こうしてようやく出来たお茶は、玲子としても人に差しだすのが恥かしいくらいの手前だった。それでも要は特に何も言わず、「最初からこうとわかっていれば、お茶菓子を用意しておいたのにな」などと、薄茶を飲みながら屈託なく笑っていたのだった。
「君……えっと、玲子さんは、次からもまたここにお茶を点てに来てくれる?」
言外に(僕のために)という言葉を感じとり、玲子は瞬時にして耳まで赤くなった。彼女がこれまで何年も茶道や華道を習ってきたのは、何も将来良い縁組に恵まれますように……との思惑があったからではまったくない。むしろ「お茶やお花が好き」などと相手に言ったとすれば、「へえ。君って随分つまらない女なんだね」と、マイナスポイントにすらなりかねないことだった。
けれど、そんな自分を初めて真っすぐに見つめ、「良い」と認めてもらえたということ――それが玲子にとっては単純に嬉しくてならないことだった。
「あ、あの……要さんのご迷惑でなければっていうか、言い訳するみたいなんですけど、いつもはわたしこんなじゃないんです。さっきもちょっと手順を間違えてしまったりして恥かしいんですけど、慣れればすぐいつもどおりのお手前でお茶を差し上げることが出来ると思うんですっ」
「うん。僕もあんまり急なことだったから……床の間に花も何も用意してなかったし、むしろ僕のほうが無作法だったよね。『水屋にある道具を使って適当にお茶を点ててくれないか?』なんて、軽い気持ちで言うなんて」
「そんなことありませんっ。要さんのお茶のいただき方は本当に完璧でした。作法どおりであるのと同時に、ゆったりとした余裕があって……人柄が滲みでていたと思います。お茶ってほんと、その人の人間性が全部でるんですよね。ただよくわからない型通りのことを繰り返してるんじゃなくて、同じお茶は二度ないって先生もよくおっしゃるのに、わたしは今日、本当に駄目ダメでした。だから、次回是非ともリベンジさせてくださいっ!!」
うん、いいよ、などと返事するかわりに、要はただ鷹揚ににっこりと微笑んでいた。襖を全開にした窓からそよ風が入って来、色濃い庭の緑の香りと抹茶の緑の香りが混ざりあって、ついそちら側に顔が向いてしまう。
「薫風って、こういう感じの風を言うんだろうね」
同じように外の庭を眺め、まったく同じ二文字を思い浮かべていたということに――玲子は思わず心が震えた。そのことを必死に眼差しで伝えようとするものの、庭の観照に夢中なあまり、要はそんな彼女の視線には少しも気づかない。
(ああ、びっくりした。ああ、びっくりした……)
ブラウスの胸の奥で心臓がどきどきと脈打ち、玲子は今にもそれが止まるのじゃないかとすら思った。もちろん、そんな救急車が出動する事態は避けられたものの、茶器類の片付けをする間、茶碗の銘や言われなどを説明してもらう過程で玲子はまたさらに驚いた。何故といって、数百万円以上もする値打ちものばかりだったからである。
「わたし、本当に恥かしいです。こんなに上等な茶器を扱えるくらいのお手前じゃ全然なくて……ほんと、お茶碗にも茶杓にも悪いことをしました」
玲子が青ざめたような顔すらして、しゅんと落ち込む姿を見て、要はまた笑った。本当に可愛い子だなと、あらためてそう思った。
「我が家にはこういう種類のガラクタが結構多くてね。全部祖父が蒐集したものなんだけど……中にはあとから贋作とわかって、おじいさんは鑑定士の胸ぐらを掴みそうになってたこともあったよ。古美術集めっていうのは、そういう博打みたいなところがあるよね。自分で身銭を切ってそうやって学ぶしかないっていうかさ」
「あの、わたしもそういうお茶碗のわびとかさびがわかるってわけじゃ全然ないんです。でも、茶会ではとても高級な棗や茶入れがたくさん出てくるでしょう?それで銘を聞いて「ああ、なるほど」と思ったり、お茶碗があんまり手にしっくりくるから、「流石だな」って感じたりはするんですけど……あの中のうち、どれかが実は贋作でしたなんて後から聞かされても、やっぱりわからない気がするんです」
「うん。僕もね、画家なんていう仕事をしてるから、さぞや鑑識眼がおありに……みたいに思われてるけど、実際は全然なんだよ。仮にうちの隣がルーブル美術館で、毎日そこに通って名作と呼ばれる作品を見ていたとしても――そのうちのどれかが精巧な贋作と架け替えられてたら、瞬時に気づくかどうかなんて疑問だなって思うね」
お片付けは自分がやります、と玲子が申し出たのを断り、要は彼女の隣で布巾で丁寧に茶器類を拭いたりして、あるべき場所にすべてのものをきちんと片していった。最初にリビングで紅茶を出してもらった時にも思ったのだが、そういう要の仕種を見て、(手馴れてるなあ)と玲子は思わず感じ入る。
たかがローズティ一杯を入れただけではあるにしても、台所に立っているそうした彼の姿を見ているだけで、料理のほうも手際よくこなしそうな印象を玲子は持っていた。
そこで、また元の地下通路を通って戻る途中、「要さんは普段お食事はどうされてるんですか?」と玲子はつい聞いてしまった。
「まあ、適当だね。絵を描くのに夢中になってる間は、気分転換以外では自分では作らないから……お手伝いさんがそこらへんのことをよくわかってて、色々なものを冷蔵庫に作り置きしていってくれるんだ。でも時々は自分でもきちんとしたものを作るよ」
「そう、なんですか……」
(それがどうかした?)と、あまりに自然な眼差しで問いかけられ、玲子は狼狽した。そんなつもりではなかったのに、次の瞬間(誰かそうした女性が……)という考えが浮かび、なんとなく気恥かしくなったのである。
母屋へ戻ると、要は普段ほとんど他の人間に対してはしないことをした――つまり、母屋の和室のいくつかに玲子のことを通し、祖父の如月光太郎が生涯をかけて蒐集したコレクションを彼女に見せることにしたのである。
玲子はその扇子のコレクションの素晴らしさに惚れぼれとし、秘蔵の茶碗や棗などの茶器類に食い入るようにして見入っていた。あらゆる角度からためつすがめつして利休好みの茶碗に見入っていると、要が思わずくすりと笑う。
「あ、あの、わたし今、何かおかしかったですか?」
「ううん。君くらいの年の子が、そんな渋い茶碗をそこまで真剣に見入るだなんて、ちょっとないことなんじゃないかっていう気がしてね」
「そうですか?今時茶道を習ってる若い女の子なんて、数としては少ないかもしれませんけど……でも、茶会やお稽古ではみんなこんなふうにしてますよ」
「まあね。そうなんだけれどね」
要はまた、彼にしかわからないような含み笑いをしてみせた。それは決して感じの悪い笑い方ではなく、むしろ自分を微笑ましく見守っているといった種類のものであったため――玲子は特段気にしなかったし、彼が惜しげもなく秘蔵のコレクションを見せてくれたことに対し、心から感謝してもいたのだった。
そのあと、ちょっと外へ食事に出ないかという話運びになり、老舗の日本料理店に玲子は連れていってもらった。そのお店はきのう突然予約を入れて座敷を用意してもらえる……といった格式の低い店ではまるでなかったが、要が女将と思しき女性に対し、「突然無理をいってすみませんでした」と言っていたあたり、玲子がいない間に電話をかけたとしか思えなかった。
「いえいえ、光太郎さんとは長いおつきあいでしたからねえ。わたし、要さんのことはこーんなお小さい時から知ってますもの」
六十代半ばと思しき、素敵な大島紬を着た女将はそう言ってけらけらと笑った。
「それに今飲食業界はどこも不景気でしょう?うちも例外ではないってこともあって、昔からのおつきあいの方のご無理は、いくらでもお聞きしませんとね」
塵ひとつなく磨かれた板の廊下を歩いていくと、最後に女将はスッと障子の襖をあけ、「どうぞ、こちらでございます」と頭を下げた。
(す、素敵……!!)
庭には紫陽花の花が見え、その青い花が今は可憐に日本庭園の主役の役割を務めていた。向こうに見える池からはカエルの鳴く声が聞こえ、ただそれだけのことに玲子は鳥肌が立つほどの悦びを感じてしまう。
「とても風流だよね。このお店の庭は、四季それぞれに色々な花が咲くよう工夫されてるから……通された座敷によっては、いつ来ても違う場所に招かれたような錯覚を覚えるんだよ」
玲子はハァハァと怪しげな息遣いさえさせて、まるで魅せられたように庭を一望し、それから掛け軸に描かれた飛び跳ねる魚と、満々と水のたたえられた水瓶に浮かぶ蓮の花を眺め――最後に屏風の不如帰の絵にも目を奪われた。
「なんていうか、心にすごく清涼感を感じます。まるで蓮の水の中から今魚が跳び上がって、掛け軸に封印されたかのような……屏風絵もとても素敵。『水無月の虚空に涼し時鳥』っていう子規の俳句が、不如帰の絵に添えてあって……」
「そうだね。特に昔はエアコンなんていうものがなかったから、こうやって目と心を通じて夏には涼感を味わったりっていう、そういう部分がきっと大きかったんだろうね」
玲子は要の話を聞いているのかいないのか、この時もまた首をぐっと下まで曲げて、床の間の香合を斜めから見たり、じろじろとあらゆる角度からためつすがめつした。思わずよだれが垂れそうになって、彼女は慌てて手の甲で拭いている。
「……君って変わってるねって、時々言われたりすることはない?」
要は杉の一枚板のテーブルの前で、肘掛けに軽くよりかかると、笑いながらそう聞いた。すると、玲子が真っ赤になってしきりとかぶりを振る。
「違います、違いますっ!!普段はわたし、こんなアブノーマルな人じゃないんですっ!!みんな言ってますよ、鹿沼さんは大人しくてつまらないっていうか、真面目すぎて面白みのない人よね……みたいに。仲のいい友達も、わたしが茶道とか華道を習ってるってことは知ってるんですけど、でも実際は茶道がなんなのかとか、具体的にお茶をどうするのかっていうことは全然知らないんです。でも、そういうお話を普通に出来るのって、外の人ではわたし、本当に要さんが初めてで……」
「うん、わかるよ。僕も自分の祖父からお茶を習ってるなんて、誰にも言ったことがないからね。男のくせになよなよしてるとか、そんなふうに思われるのも嫌だったし……さっき、玲子さんがうちで茶器類を眺める目を見てたら、祖父のことを思いだした。おじいさんもよくそんなふうに、目の色を変える人だったから。僕も小さい時には『何回見たって同じ器なのに、変な人だな』としか思わなかったけど、古美術ってものに恋をしちゃうとねえ……何回見ても、いいものはいいってなるんだろうね。おじいさんはもともと資産家ではあったにしても、一時期そういうものにお金を使いすぎるあまり、家が抵当に入ったり借金があったりして、おばあさんにそれがバレた時には大変だったらしい」
「えっ!?それで、一体どうしたんですか?」
ここで、着物姿の女性の従業員が来て、輪島塗の蒔絵の碗やお造りののった古染付けの皿などを並べていく。
「わあ~、すごく美味しそう!!お味噌汁は水無月豆腐ですね。お造りのほうは鱧かしら……それとも鮎?」
「それはまあ、食べてのお楽しみといったところかな」
要が杉の箸を手にして笑ったので、玲子も同じようにして「いただきます」と一礼した。お酒が出てきたあとに玲子は刺身に手をつけたのだが、正解は鱧だった。その美味しさのあまり、玲子は胸がキュンとなり、柚子酒の力も手伝ってか、頬が一瞬朱に染まる。
飯器から盛られる白米もとても美味しいもので、玲子が普段家で食べているのとは明らかに違う別物だった。やがて煮物椀、焼き物と食事が進み、玲子は一品食事が追加されるごと、歓喜の声を上げて瞳を輝かせた。柚子酒のほうは最初の一杯のみだったのだが、次に出てきた冷酒よりも、玲子は最初の柚子酒のほうを飲みたがり、その点については珍しく我を押し通していた。
「要さん、誤解しないでくださいねっ。わたし、普段はお酒なんてあまり飲まないんです。でも、こんな紫陽花の綺麗なお庭が見えて、カエルが可愛く鳴いてる声を聴きながらお酒を飲むなんて……こんな贅沢、他には滅多にありませんてばっ!!」
「そうかもしれないね」
それからも、進め肴、箸洗い、八寸……と料理の品が運ばれて来るたび、玲子は「あ~、美味しい!!」だの「もう、幸せっ!!」といった言葉を連発しながら、箸を順に進めていった。そして最後に、
「ああもう、お腹いっぱいっ!!」
と言って、畳敷きの和室にほとんど倒れかかりそうになりながら香の物を食していた。要としては、女性と食事をしてこんなに楽しかったことは、もしかしたら他にないくらいだったかもしれない。何故といって玲子は、蛙の声のリズムに合わせて食事をしているようなところがあり、カエルの声が聞こえなくなった途端、「どうしたのかしら?」というように、いちいち箸を止め、庭を眺めていたからである。
「そんなに、蛙のことが好き?」
最後にデザートの和菓子を食べている時に、要がつい笑ってそう聞いた。
「えっと、その……蛙って、わたしも昔はあまり好きじゃなかったんです。こう、ちょっとヌラヌラしてて、意地悪な男の子が好きな女の子の机にこっそり入れるみたいな……まあ、今はそんな古典的なことをする子はいないでしょうけれど、わたし、カエルの声が好きなんです。カエルの声ってすごく不思議なんですよ。自分が元気な時に聞くと、『人生は素晴らしい。俺も楽しく人生を謳歌してるぜ』みたいに聴こえるんですけど、自分が落ち込んでたりつらい時に聞くと『そんなにがっかりすることないさ』とか『元気だせよ。俺たちだってこんなにがんばって生きてるんだから』って言ってるみたいに聴こえるんです。もちろんこんなの全部、受けとるわたしの側の幻聴みたいなものなんですけど」
「じゃあ、今日の彼らの声はどんなふうに聴こえる?」
宝石のように美しい小さな池に、金魚が泳いでいるという水羊羹を食べながら、要がそう聞いた。玲子は自分が和菓子という名の小宇宙、目と口で食べる芸術品を見るような思いでいっぱいだった。
「あの、なんだか現金みたいなんですけど……『我が人生に一片の悔いなし』とか、『もし明日死んでも、今日精一杯生きたから十分満足だ』って言ってるような気がします」
ここで要はたまらず、「ぶふっ!!」と吹きだすようにして笑っていた。
「あ、ひどいです、要さんっ。わたしだってこう見えて、悩む時には悩むし、落ち込む時にはズドーンと落ち込むんですからっ。でもそういうことがない時には、人生を精一杯謳歌しなくちゃもったいないじゃないですかっ」
「うん、そうだね。確かに君の言ってることは正しい」
(ああ、この金魚さんを口に入れたら、もうこの目でその美しい姿を見られないんだわ)……というジレンマを覚えつつ、玲子は水羊羹に菓子切り楊枝を少しずつ入れていった。そしてふと、食事のはじまる前の会話が中途であったことを思い出し、その話を何気なく要に振ったのである。
「ああ、おじいさんが古美術の蒐集に狂って、屋敷を抵当に入れたっていう話ね……まあ実際は借金なんていっても、財産を食い潰したっていうのとは少し違っててね。おばあさんに内緒にしてそういうものを買おうと思ったら、別口のルートを使わざるをえなくて、それで借金が出来たっていうことだったんだよ。でもまあ、最後にはおじいさんのほうが逆ギレしちゃって、『なんだこんなものっ!!』と言いながら、名工の手になる壺をいくつか杖で叩き割ってね。危うくおばあさんにも手をあげかねない勢いだったらしい。でもなんとかおじいさんがその衝動を堪える姿を見てて――おばあさんはちょっと惚れ直しちゃったんだって。もちろんそんなことはおくびにも出さないし、腹の底では相変わらず炭火が燃えてもいたらしい。けど、おじいさんが腹いせに自分の大切な壺を叩きわって、妻にはぎりぎりのところで手をあげなかったのを見て、『この人のこういうところに自分は惚れちゃったんだから仕方ない』って、妙に納得したっていう話」
「へえ……素敵なご夫婦ですねえ」
「いや、そうでもないよ。あくまでも断片的にこういうふうに話すとそう聞こえるってだけの話でね。おじいさんは気の短い癇癪持ちだったし、おばあさんは理性一徹というか、そういうちょっと冷たいところのある人だったから……もちろん僕は孫だから、目に入れても痛くないっていうくらい可愛がってもらったし、おばあさんに関してはいい思い出しか残ってない。けど、祖父母の夫婦関係っていうのは、孫の僕の目から見ても少し奇妙なものだった。広い屋敷の中にずっと一緒にいるにも関わらず、ひとりは東の外れ、もうひとりは西の外れにいるみたいな感じでね。食事時以外は顔を合わせるでもなく、その食卓の席でも僕のことをだしに使って色々話すっていうだけで、夫婦の会話なんて何ひとつなかった。大人になった今では、『夫婦なんてそんなものだ』っていうことが僕にもわかるけど……小さい頃はとにかくそのことが不思議でね。それで、ある時思いきってこう聞いちゃったんだよ。『ふたりは愛しあって結婚したはずなのに、どうして寝室も別々なら、朝起きてきてもろくに挨拶すらしないの?』って。そしたら、おじいさんもおばあさんも大笑いしちゃって。『子はかすがいと言うが、孫はそれ以上のもんだ』って、おじいさんはそんなことを言ってたっけ」
「じゃあ、要さんはおじいちゃん・おばあちゃん子だったんですか?」
自分の好きな異性が幼い頃のことを話してくれるのが、なんだか心を許してくれている証しのような気がして、玲子は思わず嬉しくなる。
「そうだね。僕の母親っていう人が、悪い意味で言うんじゃなくて、本当にいい意味で自立性のない人でね。子育てのことで、『あれがわからない』とか『これがわからない』ってなると、赤ん坊の頃からすぐに祖父母の家に僕を連れていって色々聞いてたらしい。『これはどうしたらいいの、あれはどうしたらいいの?』って、おばあさんに半分は丸投げしてたらしいから……そういう意味でも色々、祖父母の記憶っていうのは僕の中でとても深いものがあるのかもしれない。高校生になる前までずっと、祖父母の邸宅で暮らしてたし、子供に必要な最低限のしつけみたいなものはこのふたりから僕は受けたようなものだったかな。でも変にべたべたした関係っていうんでもなく、あの通りやたら部屋数の多い屋敷だから、物凄く個人主義的なものが守られてて……今も時々思うよ。もしあんなふうに立派な祖父や祖母がいなかったら、果たして自分は今どんなふうだったかなって。もっといびつで嫌な奴になってたんじゃないかっていうことは、今も時々思う」
この時要は、玲子がただひたすらに自分のことを尊敬の眼差しで見つめる瞳の中に、ある特殊なものを感じとっていた。ほとんど初対面にも近い関係なのに、ここまでのことを要から聞き出せる人間は、数として本当に少ない。それと、要には懐石料理に誘える女性など、身近にそれほど多くいなかった。というのも、作法のことなどを気にして戸惑う場合が多いし、逆に相手を緊張させ疲れさせては悪いとの心遣いから――この料亭には要はひとりで来ることが多かった。けれど、玲子はあくまで自然に身についたものとして作法通り振る舞い、少し大袈裟に言うとすれば、箸の使い方や食べ方などが川の流れのようにとても綺麗だった。
(まあ、ようするにいいところのお嬢さんっていうことなんだろうな。うちの近くに実家があるっていうことから察してみても……)
要は、カエルの声を聴くと胸がキュンとするという風変わりな娘のことを、このまま家まで連れ帰りたくもあったが、「か、要さん。この車、もしかしてぽるしぇとか言うのですか?」と彼女がじっと見ていた車に玲子のことを乗せ、その日は最後にまた会うという約束だけをして、別れるということになった。
この時点で要には、玲子のことをモデルにした絵の具体的なイメージが浮かんでいたというわけではない。ただ、彼女のことをモデルにしたとすれば、それはいい絵になるだろうという、漠然とした<予感>のようなものがあるというだけだった。そしてそうした<予感>のようものを感じさせる女性だけが、自分にいい絵を描かせてくれるということを、要は経験上よく知っていたのである。
ゆえに、その自分が満足のいく絵を完成するに至るまでには、ゆっくりと時間をかけなければいけない……このこともまた、要の中では鉄則として存在している。だから翌週の金曜日に玲子が再びやって来ると、要は母屋に付属した茶室に彼女のことを通し、そこでまた茶を点ててもらうことにした。
今回は水屋の茶器類などもすべて要が自分で厳選したものを用意し、掛け軸や屏風、床の間の花も、季節に応じたものをそれぞれ準備しておいた。その日、玲子は薄青色をした単衣の着物を着て現れ、絽の帯を締めていた。その着物の色は紫陽花の青を連想させるものだったし、帯の色合いはなんとなく要にかたつむりを思いださせたかもしれない。
「玲子さんは、そういう青系の着物より――たぶん桜色とか橙色とか赤色系のもののほうが似合うんじゃないかな」
自分の心が通じたことを喜ぶように、玲子は茶を点てたあと、紫陽花のきんとんを食べていたが、そう要から聞くなりがっかりするあまり、すぐしゅんとした。まるで、ナメクジが塩を食らった時のように。
「やっぱり、そうですよね。わたしもまわりの人みんなからよく言われるんです。桜色とか山吹色とか、そういうお着物を着てるとよく褒められるんですけど、これが他の色となるとてんでさっぱり……やっぱり、お着物ってそれを着て様になる年齢とか貫禄っていうのがあるんですよね。今日もわたし、本当は迷ったんです。普段人から褒めてもらってるお着物にしようかどうしようかなって。でも、先週要さんと見たあじさいのことを思いだして、思いきって青いのか、ピンク色のあじさいに似た色のほうのどっちかにしようと思ったんですけど……わたし、あじさいは青い花のほうが好きなもんですから」
「うん。僕もあじさいは青いののほうが好きだよ」
要はそう言って、玲子のことを励ますように笑った。ちなみに要のほうでは和服を着用するでもなく、ワイシャツにズボンという格好だった。茶の席では必ず着物を着なくてはいけないという決まりはないが、この日要は玲子と会う約束のある時間まで、ちょっとした商用の打ち合わせがあったのである。
「本当ですか!?」
ぱっと再び元気を回復させたように、玲子は頬の色を紅潮させた。
「一言にあじさいって言っても、色々種類があるけど……花言葉は心変わりだっけ?まあ、色が変わりやすくて実を結ばない花であることから、そう言われるんだろうけど、土壌が酸性なら青、アルカリ性なら赤っていうだけの話でもあるよね。うちの死んだおじいさんも紫陽花が好きで、よく牛糞を肥料として与えてたよ。小さい頃にその肥料作りをやらされた時は、次の日に学校へ行きたくなかった。なんでって、牛の糞の匂いが体中に染みついてて、お風呂に入っても落ちない気がしたからね」
「えっ、もしかしてここのお庭って、要さんのおじいさんが作ったものなんですか!?」
玲子は屏風の竹林とカエルを振り返り、それから掛け軸に書かれた<清風>の二文字をもう一度読み返した。ここからは池近くに多く植わっている紫陽花は見えないにしても、鹿おどしのある庭には蛍袋や友禅菊、花魁草や笹百合の花などが清楚に、そしてどこか秘めやかに咲き誇っていた。屏風には『雨ふりてこのさめが井はにごるとも浮世の中はなどかにごらじ』との和歌が書かれている。
「基本的にはね。昔からつきあいのある頑固な庭師の友人に手伝ってもらって、毎日あーでもないこーでもないって言いながら作ったものらしいよ。で、ある程度それが完成してからは、定期的に庭師の人たちに来てもらう以外では毎日庭を歩きがてら手入れするのがおじいさんの日課だった。で、僕に茶を教える前には床の間の花を飾るのにどんな花がいいかとか、まるで禅問答のような質問をするわけ。『どうしてその花を選んだんだ?』とか、『何故その組み合わせなんだ?』といったようなことをね。ある時あんまり腹が立って、庭の花を意味もなくたくさん鋏みで切ってやったら――おじいさん、すっかり激怒しちゃってね。杖で背中を殴られた揚げ句、例の鬼の住む部屋まで連れてかれて、泣きながら過ごすはめになった」
「あの、床の間に飾る花って、シンプルに見えてこれが意外に結構難しいんですよ。わたしも長く生け花をやってるんですけど、いまだに物凄く悩みます。それを小学生くらいの子に教養として身に着けさせるっていうのは無理があるっていうか……」
「うん。僕もね、正直いっておじいさんが僕に何をさせたいのかがよくわからなかった。でもそういうことって、最初に何か<目的ありき>じゃないんだよ。特におじいさんにとっては、子供の感性磨きがどうのといった教育目的では絶対なかった。もし親が『ためになる百科事典』なんていうのを一揃い買ってきたら、子供には大体わかるよね。自分が読みもしないのに、子供には教養を身に着けさせようとしてるんだなってことが。でもおじいさんはただ単に、自分の好きな茶や古美術、花の世界といったものを、愛する孫と共有したかっただけなんだと思う。簡単に言うとすれば、それでついカッとなって本気で怒るっていうかね。『どうしておまえにはこの良さがわからないんだ』といったふうに」
「素敵なおじいさんですねえ。でもそんなおじいさんの気持ちを理解してつきあってあげてた要さんもすごいと思います」
「そうでもないよ。というより、僕がおじいさんに与えたものより、おじいさんが僕に遺してくれたもののほうが、遺産としてあまりに大きいっていうか……たとえば花を切る時、そこで一度命を殺すことになるわけだけど、その命を花瓶に生けるということは、限りある命を活かすということだとか、子供の時はおじいさんが何を言ってるのかさっぱりわからなかった。でも大人になってからしみじみと、『ああ、そういうことか』ってわかることが多かったからね」
鹿おどしがまたカコーンと鳴り、ピィチチチと、鳥が鳴きながら庭を低く横切っていく。お茶の時間が終わると、玲子はまたもおねだりをして、要におじいさんの掛け軸や屏風、花瓶のコレクションなどを見せてもらうことにした。そしてちょっとした話の流れで、要が昔からずっと描き溜めている花のスケッチを見せてもらうことになり――その膨大な量と描かれた花の緻密さとに、玲子はひたすら圧倒されるばかりだった。
「凄いです、要さん!!春夏秋冬、色々な種類の花がよく特徴や色彩を捉えて表現されてるっていうか……あの、要さんの絵って、背後の植物が本当に細かく描かれてるでしょう?ああいうのもやっぱり、こういうたくさんのスケッチがあってこそ成立するんでしょうね」
「かもしれないね。でもまあ、このスケッチブックの山を築いていた時には、あんまりそういうことは考えてなかったよ。あとでこれが何か役に立つとか思ってたわけじゃなくて……おじいさんが花について言ってる言葉がわかってから、<本質を絵の中に写し取る>っていうのがどういうことなのかがよくわかってね。一度それがわかるともう、指が勝手に動いて止まらないというか、それが面白いから寝食を忘れて描く、ただもうそれだけだったと思う」
「そうなんですか。きっとそれが要さんが画家になる原点だったのかなって思うと、なんだかとても興味深いです!!」
玲子はひたすら感心してそう頷き、茶器を見たりカエルの声にキュンとする時と同じ瞳で、要の絵を次から次へと眺めていった。
「えっと、これはくちなしでしょう、こっちが鉄線っていうかクレマチス、それから萩に撫子、姫女苑……」
「随分色々な花の名前を知ってるねえ」
「だって、もう何年も華道をやってますもの。生け花って古くさいって思われがちですけど、色々な花の種類を覚えられるってだけでも、わたしにはすごく面白いんです」
「ふうん。そっか」
この時要は玲子の着物を脱がせたくなって少し困ったのだが、彼女に優秀なモデルになってもらうためにはそういうわけにもいかず、この日はその話を最後に持ち出して終わることとなった。そして要が極控えめな態度で「もし良かったら絵のモデルになってほしいんだけど……」と持ちかけると、玲子もまた大抵の女性と同じく「そんなの無理ですよ!」と、何度も首を振っていた。
「もちろん、無理強い出来ないことはわかってる。でもこれからもし――長くここへ通ううちに、そうなってもいいなって思うことがあったら、そう言ってくれないかな。もしいつまでもそういう気持ちにならないようなら、僕も諦めるから」
玲子にはこの時の要の視線が何を言っているのかよくわかっていた。最初はそうは言っても、最後にはきっと僕の言うとおりになる……何かそうした予感めいた顔つきを彼がしていたから。
と同時に、反射的に断りはしたものの、玲子にとって要のそうした申し出はとても嬉しいものでもあった。何より、要がそう言ってくれたことで、彼が自分のことをきちんと<女>として見てくれていることがわかったし、また同時に彼の望むことならなんでもしたいという願いが、もともと自分の内にはあるということに気づいてもいた。
結局玲子は、その翌週も翌々週も要の屋敷へと出向き、茶を点て、おじいさん秘蔵のコレクションを見せてもらう内に、要が時々自分のことを意味ありげに見つめる視線に耐えきれなくなった。彼はそういう時、間違いなくこう言っていた――「僕たちの関係がもう一段上のものになるためには、そのことがどうしても必要なんだよ」と。
そこで、心の奥底では(ちょっとずるい)と思う気持ちがありつつも、玲子は「あのお話なんですけど……」と、最後には要の要望を叶えるということにしたのである。
>>続く。
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