天使の図書館ブログ

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カルテット。-12-

2012-12-21 | 創作ノート

 今回もまた、「マエストロに乾杯」(石戸谷結子さん著/光文社)より、といったところです♪(^^)

 クラウディオ・アバド、ゲオルグ・ショルティ、ウラディーミル・アシュケナージ、ロリン・マゼール、小澤征爾、ユーディ・メニューイン、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ、マルタ・アルゲリッチ、内田光子、アンネ=ゾフィー・ムター……などなど、インタビュー内容に若干の長短はあるものの、たくさんの指揮者・ピアニスト・ヴァイオリニスト・チェリスト・オペラ歌手の方々の、素敵な素顔が覗ける内容なんじゃないかな~と個人的には思います。

 んで、今回再読してみて、ふと気づいたことが。。。

 というのも、インタビューを受けた2~3人の方が、音楽性とパーソナリティということに触れられていたと思うんですね。

 たとえば、ピアニストのイーヴォ・ポゴレリチ。

 彼は、「何故いつまでも日本へ来なかったかって?いつまでもコンクール当時のことだけ話題にして、ポップスター並みの扱いを受けるから。私のことは音楽だけで理解してほしい」と言っています(※第10回ショパン・コンクールで、ポゴレリチは第3次予選で落選。マルタ・アルゲリッチはそのことに猛抗議し、「彼は天才よ!」と言って審査員を辞退。しかしながら、彼はこの事件を契機に有名になったといいます……超有名な話ではありますが、一応念のため☆^^;)

 ポゴレリチといえば、容姿的にも格好良かったので、それで余計女性ファンに騒がれるところがあったと思うんですけど――わたしの場合、そういうのである特定のヴァイオリニストやピアニストの方を好きになることはないんですよね。

 それは何故なのかと聞かれると困るんですけど、ヴァイオリニストの場合は特に、男性の名演奏と呼ばれるものと、女性の名演奏と呼ばれるものがあった場合、100%絶対的に女性の弾いたものを選びます(^^;)

 そしてオペラはテノール歌手じゃなくて、特に好きなのはソプラノ歌手という……まあ、だからそれがどーした☆という話ではあるんですけど、そんなよーなわけで、アバドにしても、若い頃の容姿が格好良かったから好きになったとか、そういうことではまったくないんですよね。

 ということは、じゃあ純粋に演奏の良し・悪しで選ぶわけだ、とか言われると、それもまた「う゛~ん」といったところかもしれず。。。

 なんていうか、ようするにフィーリングっていうんですか(笑)自分が聞きたいと思ってるものに、ちょうどピタッとくるか、それに近い演奏のものを好むとでも言ったらいいか……だからまあ、簡単に言えばそれはもう個人の趣向みたいなもんなんですよね。べつにわたし、クラシックを聞ける耳が自分に備わってるとも思ってないので、音楽評論家の方が「並の演奏☆」と評するものでも、十分素晴らしい!!と感じる可能性があるような気がしてます(^^;)

 まあ、何を言いたいかというと、それでも指揮者や演奏家のパーソナリティと演奏って、どうも切り離せないところがあるなあ……と、やっぱり思うというか。

 チェリストのヨー・ヨー・マがインタビューで、>>「先日のインタビューで『いま、演奏者のパーソナリティを非常に強調する傾向にある』という話が出ましたね。たしかにパーソナリティは、観客のために、音楽の扉を開く役割を果たしています。でも、音楽は三者から成り立っています。つまり、作曲家、演奏者、そして観客です。そのうちどの一つに力点を置きすぎても、この三者による自然な調和は保たれません。ですから、この三者のうちの、たとえば作曲家とか演奏者ばかりを崇拝することなしに、音楽を聴くという素晴らしい体験を持つことができれば、とても健全な形で音楽を楽しむことができると思うのです」

 と言ってるんですけど、この前段階として、インタビュアーの石戸谷さんが「マさんの演奏に東洋的なものを感じる」とおっしゃり、対してヨー・ヨー・マは「音楽というのはユニバーサルなもので、特に東洋的であろうとは意識していないはず」といったことを述べてるんですよね。

 う゛~ん。よく考えたら、本当にそうだなあ……なんて、ぼんやり思いました(^^;)

 というのも、相手の姿を見ずに本当にただ<演奏>だけを聞いた場合、演奏家の性別や年齢、性格、あるいは西洋人か東洋人かなんて――当てるのは相当難しいことですよね。でも先に、「綺麗な若い女性」ということがわかってると、自然演奏もそんなふうに聞こえたり、「格好いい男性が指揮してる」と思って聞くと、より演奏が優れて聞こえるとか、人間は絶対的にそうした視覚的情報から逃れられないんじゃないかなあと思ったり。

 ベルリン・フィルだったかウィーン・フィル、あるいは他の楽団だったかもしれないんですけど、入団テストの時には本当にただ<音>だけで審査するために、相手の姿を隠して演奏させ、それで誰にするか決めるっていいますよね。

 若くて綺麗な女性が演奏していた場合、純粋に演奏だけでなく、そうした+αな心理が働くし、格好いい男性が演奏してた場合、女性の審査員の点が高くなるかもしれない……何かそういったような配慮があるのだとか(^^;)

 わたしにしても、ダニエル・バレンボイムの名前を見ると、どうしてもジャクリーヌ・デュ・プレのことを思いだしてしまい、演奏自体はとても素晴らしくても、「奴のことはどうも好きになれないぜ☆」と感じる自分がいます(※これも有名な話なので、あらためて書くのもなんですが、バレンボイムは多発性硬化症になった妻のことを見捨てて、他の女性に走っていたといいます)。

 まあわたし、いい音楽を奏でるためには、人間的にも素晴らしくあるべき……なんてまるで思っていないのに、こんなふうに演奏とパーソナリティを切り離して考えられない場合もあるとこ見ると、やっぱりそのあたりのことっていうのは意外に大切なのかなあ、なんて思ったりもします(^^;)

 なんにしても、今回も本文のほうが長いので、とりあえずこの件についてはこのへんで。。。

 それではまた~!!



       カルテット。-12-

「あーーーっ!!」

 翼は<殿>と書かれた紺色ののれんから、またゆう子のほうは<姫>と書かれた桃色ののれんから、ほぼ同時に出てきた時のことだった。

 思わず互いにそう叫んでしまい、どこか罰が悪そうに、ふたりはまた同時に黙りこむ。ゆう子のほうはといえば、すっぴんの顔を見られたのが気恥かしいせいもあり、翼のほうをなかなかまともに見ようとしない。

「そーいや俺、おまえに話があるんだったわ。ちょっくらメシでもつきあえや」

「何、それ。あんたそれであたしをナンパしてるつもり?ヨレヨレの浴衣にケロヨンの黄色い桶なんか小脇に抱えちゃって、ばっかみたい」

「ふん。おまえこそ、前のあの人を小馬鹿にしたような丁寧語はどうした?すっぴんになって分厚い化粧が剥がれたら、性格の化けの皮も同時に剥がれたか?」

「ムッカつくわね~!!あんた、どうせアレでしょ?救命救急医なんて言ったって、どうせヤブ医者かなんかじゃないの?それともアレかしら?女性の体を触診中にムラムラきちゃって、セクハラで訴えられて辞めたとか!?」

「はあ!?おまえ、何いって……」

 廊下に三台並ぶマッサージ機では、三人のジジ・ババがくつろぎながら、翼とゆう子の言い争いを見物しているところだった。しかも、どこか貫禄のあるババアのひとりが「じいさん、テレビ消しや。こっちのドラマのほうが面白いわい」などと、大声で命じている。

「とにかく、こっち来いよ。俺はおまえに興味なんか本当は全然ねーんだから。きのうダイヤ買ってやったのは、いわば手切れ金みたいなもん。つまり、今現在俺とおまえの間に貸し借りはゼロ。それでいいな?」

「……何よ、それ。あの日の夜、もともと言い寄ってきたのはあんたのほうなんだからねっ!!」

 ひっぱたいてやろうと思い、振り上げた手を止められて、ゆう子はますますカッとなった。もちろん、今言った言葉は嘘だ。他にも翼のことを狙っているハイエナ女どもがいる中で、ゆう子はかなり強引に彼のことを連れだしたというのが事実ではある。けれど、本当に酔っているのかと疑いたくなるくらい、ベッドに押し倒したあと、翼の手際が良かったというのも本当だった。

「俺は、自分に覚えのないことにまでは、責任は持てない。でもまあ状況的に見て、一応悪いとは思った。次の日の朝、かなりひどいこと言ったとも思う。だから反省もしてる。第一おまえ、ダイヤ一個だろうが一千万現金でもらおうが、結局満足なんかしねーんじゃねえの?だったらこれであいこだ。それでいいだろ?」

「ふん。あたしがアッタマに来てるのはね、あんたのその人を見下した態度よ。一回寝た程度のことで、「おまえ」呼ばわりしないでくれる?しかもその、「こんな程度の女とまたやっちまった」的な目つきも腹の立つ原因のひとつ。あんたにあたしの一体何がわかるっていうのよ!?それもたったの一回寝たっていう程度のことで、優越感に浸ってくれちゃって!!」

「落ち着けって。大体おまえだって、俺のこと「あんた」呼ばわりしてんだから、似たようなもんだろーよ。なんにしても俺、そういう面倒なことは一切抜きにして、ゆう子に聞きたいことがあるわけ。どぅゆーあんだすたん?」

「……何よ。まさかとは思うけど、きのう隣の部屋であった転落事件のことでも聞きたいってわけ?」

 ケロヨンの桶を小脇に抱えたまま、大股で歩く翼についていきながら、ゆう子は身内にわき起こるある種の悔しさを押し殺すことにした。もし翼のほうが自分の誘いに乗ってきたら――その時は自分のほうこそがこっぴどく振ってやろうという算段でいたのに、まったく計算違いもいいところだった。

「流石だな。勘の鋭い女は幸せになれないって言うけど、おまえってその典型なんじゃねーの?」

「うるさいわねっ!!それより、一体何を聞きたいのよ?」

 珍しくも<クリスタル・シャングリラ>がそば近くの階まで来ていたので、ふたりはさして時間もかけずに透明な箱に乗り、レストランやラウンジ、インターネットカフェのある十六階までやって来た。

「当然、あんたの奢りなんでしょうね?」

 不機嫌に腕組みしたままで、ゆう子が聞く。

「ああ。ミッシーの海鮮丼で良ければな」

(何よ、それ)と、口の中で呟きつつ、ミッシーが墨絵で描かれた<ミッシー亭>なる店ののれんをくぐって、ゆう子は翼と一番奥の座敷に向かいあって座った。堀ごたつになっているので、足をテーブルの下でぶらぶらさせられるが、翼のほうはあぐらをかいたまま、じっと真剣にメニューを見やっている。

「親父さん、このミッシーの海鮮丼って、ほんとにうまいの?」

「まあまあですかね。いくらやうにやまぐろなんかを使って、うまくミッシーを真ん中に描いてるってだけの、丼ものともいいまさあ。支配人からホテルの目玉になるメニューを一品作れと言われて、苦しまぎれに作ったんですが、評判のほうは並といったところですかね」

「またまた、ごけんそーん!!」などと、訳のわからないことを口走りつつ、翼はミッシーの海鮮丼をふたつ注文している。

「ちょっと、どうせならあたしは、蕎麦か焼きうどんセットが良かったのに!!」

「べつにいーじゃん。俺だけ並の食事して、おまえが目の前でうまそうに蕎麦すすってたらムカつくからな。これは痛み分けって奴だ」

「一体それ、誰得よ?」

「俺得」

 ゆう子は一気に脱力すると、後ろの衝立てに向け、ひっくり返りたいような気分になった。この<ミッシー亭>という和食を専門としているらしいレストランでは、人が閑散としている。隣の<ミッシーのリボン>という喫茶店には、まばらながらも人がちらほらいるのだが――ホテルの大抵の宿泊客がバイキングで食事を済ませるため、ホテル内のレストランの利用率というのは、そもそもあまり需要が高くないに違いなかった。

 それでも、若干開いた和風の窓からは南沢湖が見渡せ、まるでカップルのようにお揃いの浴衣を着て堀ごたつの下で足をぶらぶらさせている……そのシチュエーションに、ゆう子は少しばかり満足を覚えていたのも確かだった。

 実際に<ミッシー丼>なるものが運ばれてくると、若干顔色が曇らずにはいられなかったとはいえ。

「おお!!これぞまさしく素晴らしい芸術品ですな、親父さん」

 パキっと音をさせて割箸を割り、菱形に置かれた丼の中の、ミッシーの顔あたりに翼は口をつけはじめる。

「それであんた、あたしに何を聞きたいって?」

 ♪みっしっしー、みっしっしっー、あたし可愛いミッシーちゃんよぉ!!などと、くだらない歌を歌いはじめる翼に対し、ゆう子は冷たく突き放すような視線を向けた。

 短いつきあいながらもだんだんに、どうやらこの男はいわゆるKY……空気の読めない自己中男なのだということが、ゆう子にもわかって来はじめていたからである。

「ああ。おまえの隣の部屋のベランダから落っこちた女性のことなんだけど……あの日、おまえ何か見なかったか?」

 湖に沈む夕陽に見立てられているいくらを箸ですくい、それを口許へ運びながら、翼は何気なくそう聞いた。ゆう子のほうでは一瞬ドキッとするあまり、箸の動きが止まってしまう。

「あ、その反応。間違いなく何か見たんだな!?」

「ち、違うわよっ!!ミッシーちゃんがあんまり可愛いから、どこから攻略しようか迷ってるっていう、それだけ」

「嘘つけ。おまえが「ミッシーちゃん」なんていう可愛い器か。一応忠告しておくとな、犯人のことを脅して金をゆすろうなんて考えるなよ。もしそんなことをすれば、明日あたりおまえも南沢湖で土左衛門として浮かんでるだろうよ。<謎のミッシー連続殺人事件>……ま、本にしてもまったく売れそうにないタイトルだな」

「何よ、それ。あんたあのけったくそ悪い女のこと、何か知ってるってわけ!?」

 ミッシー丼と一緒についてきた貝の吸い物をすすると、翼は次に茶碗蒸しに手をつけている。

「あ、しいたけ。俺、キライ」などと呟き、しいたけ達を仲間外れの刑に処しながら、再び翼は本題へ戻った。

「あの気の毒にも、十五階から心ならずも落っこちた女性――首藤朱鷺子ってのは、東京オーケストラの元楽団員だったらしい。俺の素晴らしく頭のいい相棒の推理によるとな、たぶん彼女が楽団員を辞めたことには指揮者の西園寺圭が関係してるんじゃないかって話だった。もちろんそれはまだ推測の域をでないことではあるんだが、そう仮定すると色々辻褄が合うってのも事実なんだ。首藤朱鷺子は西園寺圭に恨みを持っており、そこで週刊誌に彼の良からぬ噂についてすっぱ抜いたというわけだ。で、その西園寺氏の息子の麻薬事件に端を発したスキャンダルっていうのは、とっくの昔に収束してるわけだけど……おそらく首藤朱鷺子はさらに金が欲しくなって、西園寺圭の夫人を脅したんだと思う。もちろんまだ確証なんてものはまるでないにしても、あんな昼日中にか弱い女性をベランダから突き落とすくらいだ。よくある安手のドラマみたいに、相手を呼びだしたその場所で首を絞められ――みたいな最期、流石におまえもやだろ?」

「……あたしのこと、心配してくれてるってわけ?」

 ゆう子は翼が几帳面に取り除いたしいたけを、さっと箸で奪いとりながらそう聞いた。

「ちげーよ。誰がおまえの心配なんかするか。これはおまえまで死んだらさらに話がややこしくなるから、俺の推理の邪魔すんなっていう、そういう話」

「さようでございますか。でもあたし、確かに見たけど、何も見なかったわよ」

 もはやミッシーでもなんでもなくなった丼飯をかっ喰らう翼の手が、突然ピタリ止まる。

「コリン語を使うな。俺にもわかる言葉できちんと話せ」

「そもそもコリン語なんてあたし、使ってないでしょーよ!!とにかくね、あの文句たらたらの欲求不満女がベランダから落っこちた時――確かにあたし、ベランダに出てたのよ。ビール片手にね。で、その時美音はちょうど、夕方からの演奏会に備えて、シャワーを浴びてるところだったの。だからあの子は本当に何も知らないのよ。それにあたしと違って美音は繊細だから、動揺させるのもどうかと思って、あたしは自分も何も見なかったって警察の人には話してあるの。それに、見たなんて言っても、犯人の顔を見たとかなんとか、そんなわけじゃないのよ。あたしが見たのは<手>……風に翻るレースのカーテンの向こうに、強ばったような感じの犯人の手を見たっていう、たったのそれだけだもの」

 ゆう子の話をそこまで聞くと、翼は毒入りのミッシー丼を食べたとでもいうように、黒いテーブルに突っ伏している。

「な、何よ。あんたのその、やたら無駄の多いリアクションは」

「……つっかえねえな、おまえ。さっさとコリン星にでもとっとと帰れよ。おまえがもし犯人の顔見てたら、それで一気に事件解決とか思ってたのに――はあ~あ。なかなかうまくいえねえなあ」

「勝手なことばっかり言わないでよ。あたしだってこれでも一応不安なんだから!!こっちは相手の顔なんて見てないのに、向こうがもしレースのカーテンを透かしてでも、あたしのほうを見てたとしたら……本当はあたし、犯人の顔なんて見てないのに、向こうはそれを誤解して「見られた」って思ってるかもしれないでしょ。だからあたし、最終日のオペラ・ナイトまで雲隠れでもしようかと思ってたんだけど――美音のことが心配でね。あたしがいなくなって、何か誤解した犯人が、美音も自分のことを知ってるに違いないとか強迫観念にかられていたらと思うと……」

「しっかしおまえは、自己保身のみで生きてる女だな。だったらさっさと警察に言えばよかっただろ。犯人の顔は見てないけど、首藤朱鷺子さんを突き飛ばしたと思しき<手>だけは見ましたってさ」

「だって、怖かったんだもの。余計なことしゃべったら、もしかしたら次の犯人のターゲットにロックオン!なんてことになるかもしれないわけだし」

「じゃあ一応念のため、おまえと美音って子の周囲はそれとなく警護する必要があるってことだな。もしその網に犯人が引っかかったとしたら、逆に返り討ちに出来るかもしれん」

 翼は食事を終えると、袖の下に手を入れ、腕組みしながら言った。妙にうんうんと、ひとりで頷いてばかりいる。

「あ、今のあんたの言葉で思いだしたんだけど、あたしのことはともかくとして、美音のことをあの画家先生に守ってほしいっていうのは確かにあるかもしれない。そうすればふたりの間で愛が発生しやすくなるかもしれないでしょ?あの子って昔から奥手だから、誰かが後ろから突き飛ばしでもしない限り、恋の崖になんて絶対落ちっこないような子なのよ」

「で、おまえはどーするわけ?」

「べつにあたしはあんたに守ってもらう必要なんて、ない。っていうか、マジメな話、あんたに買ってもらったダイヤ、早く換金したくてしょうがないわけ。だから二、三日留守にして、ここから一番近い北央市のほうまで行ってくるわ。結城先生は宝石類になんてまるで御興味がなさそうだからわからないでしょうけど――あれ、百万だなんて安すぎよ。どう見たって三カラットはあるもの。換金するなんて言ってもね、お金にするのはなんて言っても東京へ戻ってからよ。とりあえずどの程度の値打ちがあるのか、早く鑑定結果を知りたくて堪らないわけ」

「大したもんだな」

 食後に出された茶を飲みながら、翼は耳の穴を小指でほじりつつ、感心したように言う。

「まあ、なんにしても気をつけろよ。とりあえず夜には出かけないことだ。ホラー映画なんかじゃ、ゾンビ男が後部席に隠れてて、バックミラーに向かって微笑むってことがあるからな。だから絶対出かけるのも戻ってくるのも昼間にしとけ」

「ふうん。でもそんなの変じゃない?あの女――首藤朱鷺子さんとやらは、白昼堂々と殺されたのよ?だとしたら、次の殺しも昼間行われるかもしれないじゃない」

「確かにそうだがな。ま、なんにしてもなんかあったら俺の携帯に電話しろ。死に水くらいはとってやるから」

「何よ、それ!!」

 ゆう子は憤りつつも、何気に翼が自分を心配してくれているらしいと知り、なんとはなし、少し嬉しくなった。向こうからは携帯電話の番号を教えてこず、すでにその番号は自分の携帯にインプット済みだという事実は、確かに多少癪ではある。けれど、ゆう子が最後に漬物を食べ終わるまで、ぼんやり湖の景色を眺める翼に対し、彼女は珍しくある種の感慨に捕われていた。

 夫の暴力にひたすら忍従し続けるという母親の姿を見て育ったゆう子は――自分の覚えている限り、中学二年の頃からすでに、<男>という生き物を本当の意味で信頼したことがない。そして彼らが自分の引っかけるトラップに躓くたび、(ほら、やっぱりね)と内心ほくそ笑んで生きてきた彼女にとって、男という生き物はカモかケダモノの二種類しか存在しなかった。

 今でも時々思いだす……顔面を殴られ、鼻血をだして倒れた母親に向かい、さらに高温のアイロンを容赦なく背中に押しつけた父の、ケダモノじみた顔つきを。あの時以来、男という生き物はすべて、表面的にはどれほど紳士的に見えようと、あのような本性を隠し持っているのだと、彼女は信じて疑わなくなった。

(でも、この先生は違うかもしれない)と一瞬思いかけて――ゆう子はやはり心の中で首を振った。そして、結城翼というこの男の場合は「ケダモノですが、それが何か?」と、開き直っている点が他の男とは違うだけなのだと、結論づける。

「さて、と。それじゃあ俺もそろそろ部屋に戻るとするべか。美音ちゃんのことについては、要の奴によく言っておくことにするよ。あと、最後にもうひとつだけ聞いておきたいんだけどさ、おまえ、首藤朱鷺子のことを最初にけったくそ悪い女って言ってたろ?あれ、どういう意味だ?」

「どういう意味もこういう意味も、そのままの意味よ。彼女はね、そもそもあたしたちの部屋の隣の住人じゃなかったのよ。最初はもっと下の階の、シングルの部屋にいたみたい。でも、ベランダに毛虫が出ただの、水道から赤錆の水がどうのとか言って、他に空いてるワンランク上の部屋にしてもらったんじゃない?その手のことで支配人と揉めてる場面を偶然見て以来――ある意味、あたし以上に大した女だわね、と思って呆れて見てたわけ。もしかしたら、あれが彼女の常套手段なのかもね。どこのホテルに泊まる時でも、何かにつけわめき散らして、いい部屋に泊まれるようにするっていうのが」

「なるほどな……サンキュー。今のおまえの言葉は、確かに参考になったわ。あと、彼女の元に誰か訪ねてきてたかどうかとか、わからないか?」

「さあね。流石にそこまではわかんないわ。あんたも知ってのとおり、あたしは病的な自己中女ですからね――部屋にいる時は大体テレビ見ながら好きなもの食べてたり、あとはスパへ行ったりするのに忙しくて、隣の部屋の様子なんて、気にかけたこともなかったし。唯一記憶にあるのは、部屋のドア口でホテルの従業員にしょっちゅう文句を言ってたっていうことだけ。たぶん彼女、自分の人生があんまりうまくいってなかったんじゃない?だから、自分より立場の弱い人間に当たるっていう典型よ、あれは。それともあんまり男日照りが長くて欲求不満だったのか、あるいは若年性更年期障害でも患ってたのかって感じ」

 翼がくっくと笑いだし、最後にぶはっ!!と吹きだすと、<クリスタル・シャングリラ>が上ってくるのを待っていた宿泊客たちが、一斉に彼のことを見返してくる。

「なんにしてもおまえ、普段の超厚塗り化粧より、すっぴんのほうが可愛いんじゃないか?」

「…………………!!」

 ピン、とエレベーターが鳴り、透明な扉が左右に開いた。ゆう子がそこに乗りこんでも、翼は<クリスタル・シャングリラ>には乗りこまず、「じゃあな~」と手を振るのみだった。

 翼は三基並ぶエレベーターのほうへ向かうと、そのうちの一基が上ってくるのを待ち、その間ずっと、さらにはエレベーターに乗りこみ、そこから下りて廊下を歩く間も、あるひとつのことを考え続けていた。

(自分がもし犯人だとすれば、「見られたかもしれない」という程度のことでは、そう危険な行為にすぐ走ったりはしないだろう。何故といってこれは、間違いなく殺しの素人の犯行だろうから。つまり、ホテルの従業員にでさえ、ゆう子が驚くほどの剣幕で怒鳴り散らしていたわけだ。その口調がもし、弱味を握った相手に向けられたとしたら、どれだけ相手がカッとなるか……これはおそらくそういう種類の殺人なんだろう。また、ゆう子が言っていた<人生がうまくいってない>というのも当たってそうだ。そこで、自分より弱い立場の人間にたかって、再び甘い汁をすすろうとしたことが、おそらく首藤朱鷺子が死ぬことになった原因という気がするな)

 翼は2002号室の前まで行き着くと、ドアストッパーのかかっている室内へ、なんとはなしそっと入っていった。籐のカウチの上では要が、スケッチブックを手にして一心不乱に手を動かしているのがわかる。

「なんだよ。帰ってきたんなら、「ただいま」くらい言えよ」

「いえ、大画伯様のお仕事のお邪魔をしてはと思い……つーか、あのミオンって子帰っちゃったの?俺、もしかしたらベッドが乱れてるかも、どっきん!!とか思ってたのにさ」

「たぶん翼がそんなことを考えてるだろうと思って、わざと部屋のドアは開けっぱなしにしておいたんだよ。それより、ミッシー丼は美味しかったのか?」

 相も変わらず、シャッシャッと小気味のいい音をさせながら線を引きつつ、要が聞いた。

「まあ、それなりってとこ。ミッシーの形にこだわらなくていいってんなら、他のところで海鮮丼食ったほうが、断然お得だね。それより、水上ゆう子からつっとばか面白い情報を仕入れてきたぜ、俺」

 えっへん!!と威張るようにして、籐の安楽椅子に腰かけながら、翼が胸を張る。

「あの、首藤朱鷺子が自分の部屋から転落した日――ゆう子の奴、ベランダから彼女のことを突き飛ばす犯人の<手>を見たんだと」

 流石に、この時点で要の絵を描く手が一瞬止まった。

「……そのこと、警察には?」

「言ってないってさ。何しろ、<手>しか見てないってのがなんともビミョ~だよな。これで他殺路線は確定したも同然だと思うけど、率直なところを言ってさ、要は彼女を殺した犯人、誰だと思う?直感でさ」

「わからないよ。それより、ドアを閉めろ。僕はテラスのほうの窓を閉めるから」

 翼は今の話を誰かに聞かれていなかったかどうか、一応廊下を確認してから、ドアストッパーを外して閉めた。要のほうは心地のいい風の入ってきていたフランス窓を閉め、エアコンのスイッチを入れている。

「向こうのテラスで話してることが、時々こっちにも聞こえることがあるだろ?だからたぶんこっちで話してることも、同じだと思うんだ。まあ、もしかしたら風向きにもよるかもしれないけどね」

「まあ確かに、用心するに越したことはないよな。何しろ隣のVIPルームの住人が、他でもない殺人犯かもしれないわけだし」

「おまえはそう思うのか?西園寺夫人が犯人だって」

 翼は新品のスケッチブックの一ページ目から七ページ目まで、すべて川原美音の姿で埋め尽くされているのを見、ニヤリと気味悪く笑っている。

「要の場合、典型的だよな。まず好きな女が出来ると、あらゆる角度から相手のことを描いて――その相手の<中身>を全部抽出し終えるまでその作業が続くっていうかさ」

「いや、今はそのことはいいよ。それより僕は、西園寺紗江子が誰かに脅されてたとしたら、その相手は<首藤朱鷺子>だったんじゃないかと思ってるんだ。だとしたら、夫人が首藤朱鷺子を殺したんじゃなかったとしても、とりあえず西園寺夫人には彼女を殺す動機があったといえる。そしてこれはたぶん、西園寺圭とその息子にも当てはまることなんじゃないか?」

「っていうと?」

 胸ぐりの大きくあいたドレスを着ている川原美音の姿を見、翼は微かに違和感を覚える。ヴァイオリンが手に握られているが、たぶん彼女はここまでエロティックな姿で公衆の面前に現れることはないだろうと、そんな気がしてならない。

「西園寺紗江子は気位が高く、自分と自分の家族のイメージを守るためなら、なんでもするタイプの女性だろう。だとすれば、金でケリがつくのならと考え、首藤朱鷺子の部屋へ直接出向く可能性はある。そこで殺すつもりはなかったのに、首藤朱鷺子からカッとなるような発言を浴びせられ、彼女を殺害するに至った……まあ、あまりに短絡的だけど、一応可能性として10%くらいはあるかもしれない。そして西園寺圭も、もしかしたら連日そのことで夫人と言い争いになってたとも考えられるんじゃないかと、僕は思ったりするわけだ。これもまた10%より低い確率だけどね――西園寺圭自身が首藤朱鷺子をカッとなって殺したっていう可能性もなくはない」

「ふむ。その場合、氏のアリバイを調べる必要がありそうだね、ワトソン君」

「茶化すなって」と、要は長い足を組み替えながら苦笑する。「もちろん僕は、彼に突然殴られたことを根に持ってるってわけじゃないよ。けど、あの時からこう考えるようになったんだよな……確かに西園寺圭は性格的にカッとなりやすい質ではあるって。それから最後に夫妻の息子の翔君か。出所して麻薬から立ち直ったあとは、舞台美術の勉強をしてたらしく、僕も彼が演出した<蝶々夫人>を見たことがあるけど、なかなかのものだったよ。<蝶々夫人>ってのは、恋人のピンカートンに捨てられて、ラストで自殺しちまうんだけど、あの演出方法は日本人ならではという気がした。そんなふうにようやく立ち直ったにも関わらず、目の前に昔のことをほじくり返す女が再び現れたとしたらどうだろう?とりあえず、殺すかどうかはともかくして、この場合彼にも同じように首藤朱鷺子を殺害する<動機>のみは存在することになるんじゃないかな」

「なーるほど。ところでこの西園寺家のご子息ってのは、どんな人物なんだ?」

「あの激情家の親ふたりから生まれたとは思えないくらい、温厚なことで知られてるらしいよ。もし彼が首藤朱鷺子を殺したんじゃないかなんて言っても、まあまず誰も信じないだろうね。つまり僕はとりあえず、<可能性>の話のみに焦点を絞って話してるってことなんだけど」

「そうかあ」

 翼はキッチンで、スイッチが切られ、ぬるくなったコーヒーを発見すると、氷を入れたタンブラーにそれを注ぐことにした。

「ほい。アイスコーヒー」

 そう言って要に手渡し、再び絵を描きはじめた彼の隣で、翼は話を続ける。

「確かに、可能性っていうことでいえば、あんまり文句を言われすぎてカッとなったホテルの従業員が……ってことにはじまって、色々考えられるわな。俺、さっきゆう子の話を聞いてて思ったんだけど、首藤朱鷺子は金に困ってたんじゃないかっていう気がするんだ。あとで田沼支配人に確認してみようと思うんだけど、彼女が最初にとってた部屋っていうのが、下の階のシングルルームらしいんだ。俺の勘によればおそらく、このホテル内で一番安い部屋なんじゃないかって気がする。それをあれこれ難癖をつけることで、もっと上階のいい部屋に変更してもらったんだろう。俺が思うにはね――なんでそこまでする必要があるのかってこと。たぶん彼女は物凄い見栄っぱりでプライドの高い女性なんだろうな。昔の音楽仲間とも顔を合わせることがしょっちゅうあることも考えると、自分は楽団を辞めたあと、こんなにもジャーナリストとして成功してるってところを見せたくもあるだろうし……でも実質的には金銭的な余裕はなかったんじゃないだろうか。俺も、その道について詳しくはないけどね、フリーのジャーナリストっていうのは記事を書いたあとじゃないと、それが金になるかどうかわからないんだろ?最初から物凄い特ダネ記事になるってわかってる、西園寺圭の身辺についてのことなら、気前よく前金なんかを貰えたにしても……そう考えてたら、なんか俺、急に虚しくなってきてな。結局、首藤朱鷺子の死ってのは、自業自得だったっていうことなんじゃないだろうか」

「おまえらしくもないな。もしそうなら、このまま彼女の<死>は自殺ってことで片付けられも仕方ないって、翼はそう思ってるってことか?」

「そうは言わないさ」

 翼はアイスコーヒーにガムシロップを入れようと思い、キッチンのほうへいくと、砂糖と水を1:1の割合で混ぜたものを作り、どろりとした液体の入ったコップを手にして戻ってくる。

「僕はいいよ。それより、素人探偵ってのは思ったよりもかなり面倒なもんだね。この件に関して警察がどの程度のことを把握してるのかっていうことがわからないことには、動きようがないっていう部分もあるし」

「まあなあ。けど俺、あの黒部巡査部長と青木巡査って奴は別としても――司法解剖をする監察医ってのは、そこまで無能じゃないと思うんだよな。法医学に詳しくない俺がこんなこと言うのもなんだけど、遺体を調べれば彼女が自殺じゃないってことはわかる気がするんだ。事故でもない限りは、人が背面から飛び下りて自殺するってことはまずほとんどないだろう。それでも血中のアルコール濃度が高ければ、自殺ってことに片付いちまうのか……よくわからんけど、この南沢町ってところは、ここから百キロくろい離れたところにある北央市の管轄区域になるらしい。そこにある警察署本部のほうから、あのどっか間抜け面した黒部部長のところに連絡があった場合、奴はどう答えるつもりでいるんだろうと思ったりするわけだ。検屍の結果、絞殺痕がもし仮に出たとしたら――言うまでもなくこれは他殺ってことになるんだろうけど」

「それに、首藤朱鷺子はただの旅行客だから、自殺と決めるにしても、その場合は東京の彼女の身辺にいる人間に対して、聞き込みを行う必要があるんじゃないか?なんにしても、僕も警察がそこまで間抜けじゃないことを願いたいよ。ところでさ、翼。1526号室にいた水上ゆう子がベランダから落ちたところを見たってことは、1528号室の人間はどうだったんだろう?そこの住人が犯人の顔を見たって可能性はないか?あるいは、そこの宿泊客が留守にしていたとしても、1529号室の人間が……とか」

「それはたぶん、可能性低いんじゃね?1529号室の宿泊客は、ルカ・ドナウティ・ミサワ氏だけど――当然顔を見ていたら、警察にでもとっくに言ってるだろうし」

「いや、どうかな」と、再びスケッチブックに鉛筆を走らせる手を止めて、要はアイスコーヒーを飲んだ。「これもまた5%にも満たない可能性だけど……もし、首藤朱鷺子を殺したのが西園寺紗江子だったとしたら、ルカ・ドナウティはすぐに警察へは訴え出ずに、黙ったままでいるかもしれないよ」

「なるほど。じゃあ俺、1528号室にその時、誰が宿泊してたのかって、あとで田沼支配人にでも聞いてみるわ。なんにしてもほんと、要の言うとおり素人探偵ってのは骨が折れるもんだな。こういう時、今時の小説に出てくる探偵ってのは、素早くホテルのコンピューターにアクセスしたり出来るもんなんだぜ?俺もハッキングの技術を、暇な時にでも勉強しとけば良かったかなあ」

 そう言ってから翼は、寝室からタブレット型端末を手にして戻ってくる。

「なんだ?今からハッキングについての勉強をネットでしようっていうのか?」

「うんにゃ。俺がこれからしようとしてるのは、首藤朱鷺子の書いた本の続きを読むってことさ。あと、今日の夕方から最終日のオペラ・ナイトまで――眠かろうとなんだろうと、とにかく毎日出来るだけ多くのプログラムを見ることにするよ。そこにやってきた人間どもを観察してるうちに、もしかしたらわかることがあるかもしれないからな。それと要はさ、あのミオンって子からなるべく目を離さないようにしてほしいんだ。ゆう子が言うには、犯人の<手>を見たのは自分だけど、「顔を見られた」って向こうが勘違いして、同室の彼女にもそのことを話したんじゃないかって、犯人が疑心暗鬼になってる可能性もあるんじゃないかって話だったから……俺の言ってる意味、要なら当然わかるよな?」

「ま、翼に言われなくても、最初からそのつもりではあったよ」と、要は軽く肩を竦め、溜息を着いている。「なんにしても、スーツを二着しか持ってこなかったのは失敗だったかな。最終日のオペラ・ナイトでは唯一ドレス・コードが存在してて――どの演目を見るにしても、男性はスーツ、女性はドレスを着用ってことになってるから、それで用意してきたものだったんだけどね。夕方のプログラムには結構、そうした格好をしてきてる人が多いみたいだ。まさか、わざわざ北央市のほうまで出かけていって、服だけ買ってくるってのも面倒な話だし」

「そうだなあ。俺と要って服のサイズが大体一緒だから、俺の持ってるスーツ二着とおまえの二着を合わせて、時々取り替えっこすることにしようぜ。それともゆう子にサイズだけいって、適当なのを見繕ってもらってくるとか……」

 翼は『オペラ、あ・ら・かると』なるタイトルの本をざっと斜め読みしながら、ぼんやりそんなことを言った。

「そういえば、僕に美音さんから目を離すな、なんて言っておいて――犯人の手を見たとかいう水上ゆう子本人はどうするんだ?もしかしたら、今この瞬間にも彼女は、犯人に背後から襲われてるかもしれないぞ」

「どうだかな。あいつ、俺がクレジットで百万支払ったダイヤを鑑定してもらうために、二、三日こっちを留守にして北央市まで行ってくるんだと。そのことの内には、犯人の目を逃れたいって思惑もあるらしい。もちろん、俺が犯人で顔を見られたかもしれないゆう子を殺したいと思ったら、確かにこれは絶好のチャンスだ。けど、やっぱり可能性としては低いと思うよ。犯人がもし仮に今、『ひとり殺すもふたり殺すも同じこと』っていうような心理状態であったにしても――プロの殺し屋ってわけじゃない以上、実際には今、ひとり殺したことでかなり動揺してるはずだ。それと、要もそう思ってると思うけど、首藤朱鷺子を殺したのは音楽関係者である可能性が高い。彼女はもしかしたら、脅しのネタリストみたいなものを持っていて、西園寺紗江子でなくても、自分の知ってるクラシック音楽に関係した誰かを、強迫していたのかもしれない。彼女のせいで一時期、西園寺圭はマスコミにこてんぱんにのされたことを知る人間なら、誰でも彼の二の舞になるのはごめんだろうからな」

「だよな。そして首藤朱鷺子を殺したのが、クラシック音楽に関係した誰かなら、当然音楽祭の間はここ南沢町から離れることは出来ないってことになる。大した女狐だな、あの水上ゆう子って女も。おまえには百万もの金でダイヤを買わせ、しかも指輪にでも加工するのかと思いきや、とっとと売って金にしちまおうって腹なんだろ?」

 要はスケッチブック上に、川原美音が椅子に座り、大切な部分だけをヴァイオリンで隠しているという絵を描いている最中だった。もちろん要は彼女の裸を見たことはない――ゆえに、体の線については、水着を着ていた時のことを思いだして描いているのではあったが。

「つまりはそういうこと。あの女のことは、俺たちが心配するには及ばないよ。それにしても、人間ってのはまったくわからんもんだな。俺、この首藤朱鷺子って書いた女の本だけ読んでたとしたら、彼女のことをなんていうエレガントで素晴らしい女性なんだろう!みたいに勘違いしてたかもしれん」

「ま、本なんて所詮はそんなものさ。おまえも前に言ってたことがあるだろう?自分の上司が病院の小ネタ話を集めたような本を出版して、それを読んでみたところ、まるで別人が書いた本かと思った、みたいにさ」

「ああ。昔、そんなこともあったっけな」

 翼は画面をスクロールして本の続きを読みながら、思いだし笑いをするようにくっくと喉を鳴らした。

「いや、書いてあること自体はさ、みんな本当のことなんだよ。けど、俺自身はここまで厚顔無恥にはなれんと思ったね。手術が成功して患者から感謝されたなんてこと、医者やってればそりゃ何回となくあるさ。でもその部分だけをとりわけ強調して書くなんて、俺にはやっぱりできんよ。ある程度自分の失敗談とか、大事には至らなかったにしても、小っ恥かしいミスをしたってこととか――俺にはどっちかっていうと、そっちのほうが大事だって気がする。つまり、本人が本に書かなかったこと、あるいは書けなかったことのほうが、本来はより重要な意味を持つってことなんだよ」

「同感だな」

 要はそう短く答えてから、うっとりと音楽の詩神に耳をすます美音の姿を描くことに没頭し――翼はといえば、『オペラ、あ・ら・かると』なる本の内容を頭の中に入れることに専念していた。

 こうしてふたりの男は夕方までの時間を過ごし、要がそろそろ美音のことをエスコートしつつ、音楽ホールまで行こうと思い顔を上げると、隣では翼が相も変わらずタブレット型端末に夢中になっているところだった。

 昔からこの親友は、ひとつのことに熱中しはじめると、そのことしか頭にない傾向にあることを要はよく知っている。当然、友人として翼の部屋へ遊びにいったことが要は何回となくあるが、そこが極めて殺風景な場所であり、必要最低限の生活用品がある以外は、机上に医学関連の論文ばかりが積んであることも知っていた。

 ようするに、要の目から見て友人の結城翼という男は、根が不器用でストイックだということだった。一応表面だけを見ると、女遊びが激しく、ストイックなどとは程遠いように見えるものの――それ以外では金銭欲・物欲といったものに乏しいだけでなく、病院内における出世・権力闘争といったものにもまるで興味がないのだった。

 月に数回(本人の申告によると二、三回)、正体がわからなくなるほど酒を飲んだり、あるいは女性と寝たりする以外は、休日は家で勉強をして過ごし、あとは気分転換にたまにジムへ行くといった生活なのらしい。

(まったく、僕の目から見ればおまえは、社会不適応者どころか、とても立派ないい人間だと思うよ)

 自分に今時間があれば、<最新型タブレット端末に夢中になる友人の図>とでも題して、絵を一枚描いておきたいくらいだ――そんなふうに思いながら、要はスケッチブックを閉じ、籐のカウチから腰を上げた。

「じゃあ、そろそろ僕は出かける用意をするけど、翼も夕方の公演を今日は見るんだろ?どこで落ち合うことにする?」

「音楽ホールのロビーでいいんじゃねえ?おまえの描いた絵が額に飾ってあるその前とか」

「うん、わかった」

 要はこの日、シルバーグレーのヴェルサーチのスーツを着て出かけ、同じようにドレスアップした美音のことを迎えに行ったのだが――まさか、自分の大作といっていい絵が音楽堂の中央ロビーからすでに外されているとは、この時の彼はまるで想像してもいなかったのだった。



 >>続く……。





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