天使の図書館ブログ

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手負いの獣-19-

2013-03-19 | 創作ノート
【裸の真実】グスタフ・クリムト


 この間、ネットでちらほら色々検索していたら、入院していてこんな目にあった、術後の看護師さんの対応が冷淡だった……といったような記事に遭遇したんですけど、妙に気持ちがわかるなあと思ってしまいました(^^;)

 もちろん、忙しいだろうに、なんて細かいところまで気のつく優しい看護師さんなんだろう――っていう看護師さんがいる一方で、こっちは手術して大変なのに、この突き放され感は一体なんだろう、みたいなことって実際ありますよね。

 いえ、わたしが病院で働いてみて、患者・医療者の間で壁になってるのは、いわゆる<マニュアル化>みたいなことが原因なのかなって、随分あとになってから思いました。

 つまり、看護師さんとか医療者の側からしてみると、基本にあるマニュアルに沿って行動してくれる患者さんがいわゆる「いい患者」、「優等生な患者」というか(^^;)

 そして患者さん側に立ってみると、「自分がして欲しいと思うことをなるべく早くしてくれる人」、「こちらの意を汲んでくれる人」、「こっちが痒いと思ってる部分をドンピシャでかいてくれて、全然違うところをかいたりしない人」……が、医療者・介助者として本当に有難い存在なんだと思います。

 まあ、ある意味当たり前なことなんですけど、患者さんにはそれぞれ個別性というものがあるので、当然すべての患者さんをマニュアルに当てはめることは出来ないものの、それでも「こっちはこれだけ忙しいんだから、出来るだけマニュアルに沿って行動してくれないと困るの」っていう、医療者・看護者側にはそういう無言の圧力をかける人はいるんじゃないかなという気がしたり(^^;)

 そんで、わたしがこれまで読んだ闘病記などの医療者への文句として多いと思ったのが、術後に痛みを訴えても「我慢してください」って言われるケースだったでしょうか。患者さんの側としては「ここがこのように痛む。どうにかならないだろうか」と言った時に、期待通り痛みが除去されなかった、というか。

 そして翌日になって主治医や麻酔科医などがやって来て、痛みが除去されたのはいいが、何故前夜に痛みを訴えた時にすぐ対応してもらえなかったのだろうか、といったようなこと。

 これはあくまでもわたしが思うにっていうことなんですけど、お医者さんが勤務を終えて医局に行ってしまって、夜勤帯の看護師さんだけになったあとって、よっぽどのことがないとお医者さんを呼べないので、看護師さんはとにかく「不快感があっても我慢してください」とか「手術後なんですから、痛みがあるのは当然です」的対応しか出来ないんじゃないかな、なんて(^^;)

 前にどっかに書いたとおり、最初にナースコールに出るのは基本的に助手なので、そういう訴え的なものを看護師さんに伝えると、「どうにかなだめて」といったことしか夜勤帯は言われなかったりします。

 で、わたしのほうは「看護師さんに伝えたんですけど……」と、非常に言いにくいことを言って、申し訳なさそうな態度でいるしかないという(^^;)

 こういう時、患者さんが「チッ」という態度だった場合、わたしは内心「それが当たり前だよね。わたしが逆の立場でも絶対そう思うよ」って思うのですが、「あんたに余計な負担をかけて悪かったな(言われたとおり、我慢するよ)」っていう態度だと、余計になおのこと胸が痛みます。

 なんというかまあ、患者さんの立場に立った場合、「当たり前の訴えをしているだけなのに、何故その要望が叶えられないのか」っていうことなので、退院後に「入院中、こんなひどい目にあった☆」と患者さんがブログに書きたくなるのも無理はないと思うんですよね。

 でも、看護師さんの立場に立ってみると、マニュアル通りの手を打ったにも関わらずそれでも患者さんが痛みを訴えてきたら、「手術後なんだから、痛みがあるのは当たり前」とか、「男性の患者さんは手術後によくそう言うんですよね。でもあと少しの辛抱ですから」……みたいな態度しか取れないのも、見ていてわかるような気がします(^^;)

 実際、「そんなつまらん用件で、夜中に俺を呼ぶな」と怒りだすお医者さんもいるそうなので、お医者さんに来てもらえないとなると、看護師さんには出来ることが当然限られるし、せいぜいのところを言って、「いかにも申し訳なさそうな、ごめんなさい的態度」に免じて許してください、みたいにお願いすることになるのかなって、見ていて思いました。

 ただこの時に、「他人の痛みなど所詮人ごと☆」みたいな態度で冷淡に対応されると、当たり前なんですけど、患者さんはその分余計に頭にくると思います。まあ、本当に物は言いようというか(^^;)

 でも、この場合にも看護師さんはその方ひとりを見ているわけではないので、他に面倒なことがあってそちらを片付けてる最中に呼ばれたりすると、「そのくらい我慢してちょうだい」みたいになるのもわかるんですよね。

 また、お医者さんがよほど問題のある用件でもない限り(これはむしろ連絡しないとあとで問題になると看護師さんが判断した場合ともいう)、来てくれないのが何故なのかもわかるので、「それじゃあこれって一体誰が悪いのかな」っていうか(^^;)

 それでもやっぱり、初めての入院で夜中でも痛みを訴えたら必ず看護師さんなりお医者さんが絶対なんとかしてくれるって<信じている>患者さんにとっては、本当に「裏切られた」っていう気持ちになるんだろうなって思うので……こういうことについては誰がどうすれば良い方向に動いていくのかなって思ったりします

 なんにしても、とりあえず今回もまた文字制限に引っかかっちゃったので、この件についてはこのへんで。。。

 それではまた~!!



       手負いの獣-19-

 経理事務員の金井美香子が事務室で殺されたと翼が聞いたのは、月曜日の朝礼の場でのことだった。

 警察の鑑識の人間が、日曜の間にやって来てすべてのことを速やかに処理したため――医局事務室のほうは、特に業務に支障があるということはなかったが、それでも同僚たちの精神的ショックは大きく、事務長に至っては明らかに眠っていないことがわかる、青ざめた顔をして講壇の脇に立っていた。

「先々週の土曜日に、諏訪晶子先生が亡くなられたばかりだというのに、またしても悲劇的な殺人事件が起きてしまいました。事務員の金井さんのことは、おそらくみなさんの多くがご存知のことでしょう。彼女は病院の縁の下の力持ちでした。院内の経理的なことに関しては、必ず金井さんと事務長の目を通るといって過言でなかったと思います。また、みなさんも新しい白衣や制服を注文する際には、直接金井さんに頼んでいたことでしょう。院内のトイレットペーパーひとつに至るまで、請求書のすべては彼女がさばいていたといっていいくらいなのです。本当に我々は惜しい逸材を失いました。わたしたちは自身の仕事に追われるあまり、こうした金井さんのような裏方の人のことについては思いを致さないところがありますが、彼女は人柄的にも真面目で温厚な、感じのよい女性だったと思います。それなのに、そんな彼女が何故こんなことに……」

 ここで院長は喉を詰まらせると、数秒後に沈痛な顔を上げ、演壇のマイクの前で、何度か咳き込んだ。

「またマスコミがこぞってやって来て、根掘り葉掘り色々なことを聞いていくでしょうし、患者さんたちにも動揺があると思います。けれどもみなさんにおかれましては、なるべくいつもどおりの診療や看護を心がけるようにしてください。またくれぐれも、マスコミに余計なことを軽々しく洩らしたりしないよう、重ねてお願い致したく思います」

 翼は売店で見かけた週刊誌記事に――<院内のある看護師によれば>といった言葉に続く、諏訪晶子の普段の言動、患者の受け、医師としての腕前についての、まことしやかな文章をこの時脳裏に思いだしていた。「先生、それ、週刊誌の売れ残りの最後の一冊ですよ。患者さんたちがまあ、今週はあっという間に買っていかれました。それで、またK病院のことがのった雑誌があったら、とっておいてくれなんていう方もいるくらいで」……売店の店員が言っていた、そんな言葉までもが、連想記憶としてついでに思い起こされる。

「やれやれ。まったく大変なことになったな。諏訪先生とも金井さんとも、俺はほとんど話をしたことがないが……おまえ、あの刑事さんたちと知り合いなんだろう?何か聞いたりしてないのか」

「知り合いったって、そんな大した知り合いじゃないですよ。それにあの人たちは、知り合い程度の人間に捜査情報を洩らすような馬鹿でもないし」

 翼は七階分の階段を、茅野医師と一気に駆け下りながらそう答えたが、実際はかなりところ違っていた。実をいうと先週の土曜、翼は要に警備室で聞いたことを話し、さらにふたりで推理を推し進めた結果として――日曜日の朝一番に、赤城警部と連絡を取るということにしていた。

 そして、その日の午前中に赤城警部が白河刑事を連れて、海辺の貝の家へやって来たというわけである。

「『わたしの耳は貝の殻。海の響きを懐かしむ』……この窓からの景色を眺めていると、詩人が言っていたそんな言葉を思いだしますな」

 赤城警部はやって来るなり、窓からの海景色を眺望し、そんな感想を洩らしていた。

「ジャン・コクトーの言葉だったと思います」

 白河が極控え目にそう言い沿えると、赤城は黙って頷き、ソファの斜め横にある袖椅子に、どこか大儀そうに腰かけた。白河のほうは窓からの景色を、まるで魅入られでもしたようにじっと眺めたままでいる。

 昨夜吹き荒れた嵐はこの時、大分小康状態となってはいたものの――それでも窓から見える景色は相当にうらぶれており、その切り取られた光景だけを眺めていると、まるで世界がきのう終わったとでもいうようだった。

 要が四人分のエスプレッソを入れて戻ってくると、四人の男たちはまるで膝を寄せ合うような格好で、今回起きた殺人事件について討議を開始した。

 まずは翼が、ワイルドストロベリーのカップを手にして、こう疑問を投げかける。

「赤城警部と白河さんもたぶん、知ってることだとは思うんだけど……諏訪晶子が死んだバスルームには<故障中>っていう貼り紙がしてあった。で、その貼り紙ってのは十一階の器械浴室にあったものなんだろ?この器械浴室ってのは、おもに寝たきりの病状の患者が看護師や介護福祉士に体を洗ってもらう場所なわけだけど、その貼り紙の存在を知ってる医師ってのは限られると思うんだ。まず、脳外科の医師たちは知っていておかしくない。何故といって、病室を回診した際に通りすがりに見ていておかしくない場所にあるからな。じゃあ、他の医師はどうかっていうと、何かの偶然によって知っていてもおかしくないって程度の確率になる。ちょっとこの点は、俺も確認してみなきゃわかんないんだけど……十一階にある浴室は結構大きくて、脳外の患者以外の他の階の患者も使ってたと思うんだ。でもまあ、その場合にしても、医者が浴室で患者の体を洗ったりすることはないから、そうなるとこれまたう~んといったことになるんだけど……」

 翼が微妙なところで言葉をフェイドアウトさせると、コーヒーにクリームと砂糖を入れながら、赤城警部が微かに笑った。

「そうですね。我々もその点については一応考えてみました。で、脳外科の先生たちの中で諏訪晶子と関係がありそうな先生ということで、ひとりひとり当たってみたのです。あ、こちらのほうはわたしと白河が、ではなく他の捜査員が聞き込みをしたということなんですがね。脳外で我々が色々と質問させていただいたのは、雁夜先生おひとりですから……で、佐波先生という現在三十二歳の先生が、以前彼女とおつきあいしていたことがあるとおっしゃっていました。諏訪先生がK病院に入局されたのが五年前で、先生が四国のほうから転勤になってこちらへ来たのと同時期だったそうです。同期のよしみというかなんといいますか、すぐそうした関係になったのは良かったものの、佐波先生には四国に残してきた恋人がいらっしゃったとかで、恋人のことを裏切っているという自責の念に耐え切れず、どこか煮え切らない態度の佐波先生を、諏訪先生はすぐ見限られたとか。で、その後色々な医師と浮名を流す彼女のことを見ていて――自分はすぐに諏訪晶子という女と手を切ることが出来て良かったと、そんなふうにお思いなったというお話でした。ちなみに、佐波先生に関しては立派なアリバイがありまして、その後四国から呼び寄せた女性と結婚し、今はお子さんもいて、その日は親子三人で遊園地へいっていたそうです。なんにしても我々は、この時点で貼り紙に関しては頭の隅に留める程度にして、一旦忘れることにしたのですよ。で、次の容疑者をピックアップしていくとですな、内科の池垣先生については、以前結城先生にお話したとおり――「大人の関係だった」、そして奥さんに愛人の存在がバレるとまずいと思っている、また彼についてはアリバイが曖昧だといったところでしょうか。池垣先生は立派なお屋敷に住んでおられ、自分専用の書斎をお持ちなんだそうですよ。で、あの土曜日はずっと夜遅くまで部屋に籠って論文の執筆に励んでおられたとか……これでは、家族が寝静まったあとに出かけたという可能性がまったくないとは言い切れない。そして次が精神科医の溝口先生。溝口先生は独身で、院長所有のマンションの三階に住んでおられるそうです。で、彼もまたその日は家でドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟を読んでいた、などとおっしゃる。といっても彼は、諏訪先生に対し、殺意などかけらもないと笑っておられましたが……諏訪先生が溝口先生と数回関係をお持ちになったのは、一種のボランティアだったそうです。というのも、溝口先生が見るからに堅苦しい、生き苦しいような様子をしているので、息抜きの方法を教えてあげようと、諏訪先生は親切にもお思いになったのですな。でもある日突然、電話にもメールにも応答しなくなって、溝口先生はその理由が知りたくてストーカーのように毎日何回も電話したり、メールを送ったりされたのだとか。そして最後に帰ってきた答えが『あれはただのボランティアよ』ということだったそうです」

「ははあ、なーる……」

 翼は隣に座っている要に対し、意味ありげな眼差しを投げた。溝口篤はおそらく、その時点で諏訪晶子のことは諦めたのだろう。そして、真剣におつきあいできそうな対象――医療図書室の司書、田中陽子と真面目に(おそらくは結婚を前提に)交際したいと思うようになったのではないだろうか?ところが彼女もまた、なかなかメールに返信することもなく、デートの誘いも断られてばかり……となると、自分には男として何かが欠けているのではないかと、溝口が自信を失うのも無理からぬことだったに違いない。

「おや、おふたりの間では何か、わたしの知らない取り決めごとでもあるのですかな?」

「いや、殺人事件の捜査の本筋とは、まるで関係のないことだから、大丈夫。それより、整形外科の辻先生はどうだったのかな。要の推理によると、彼が諏訪晶子が死んだと聞いて病院を欠勤したのは――おそらく彼女のことを本当に愛していたからだっていうことなんだけど。というか、辻先生はおそらく諏訪晶子の<本命>だったんじゃないかっていうかさ。でも彼女の奔放な素行が原因となって別れたか何かして、その後諏訪晶子はあてつけに小児科の君塚とつきあいはじめたんじゃないかっていう仮説を、俺らはきのう立ててたんだけど」

「もちろんこんなのは全部、退屈しのぎのちょっとした迷推理といったところなんですけどね」

 そう言って要は笑い、トレイの上のジャン=ポール・エヴァンのチョコレートケーキを、磁気皿に取り分けて、赤城警部と白河刑事、それに翼の順に渡していった。

「いやいや、そんなことはありませんぞ。実際かなりのところドンピシャといってもいいくらいですから」

(なあ、白河?)といったように、テーブルを挟んだ正面に座る白河刑事に対し、赤城警部は相槌を求める。

「そういえば時司さんは、K病院から絵の制作依頼を受けておられるんでしたよね?医局のホールに飾ってある『医の女神ヒュギエイア』の絵は僕も見たんですが……なんだか勿体ないようにも感じました。あそこには患者さんというのはまずやって来ないんでしょう?もっと多くの人に是非見てもらいたいような、そんな気がしたんですが……」

「いえ、あの絵は極最近までうちのギャラリーで埃を被っていたような絵なんですよ。ただ、院長先生から、院内のここに絵を飾りたいといった場所を案内していただく過程で――まあ、全体のバランスを考えて、医局にはあの絵をと直感したまでのことですから。それより、整形外科の辻先生とはどんなお話をされたんですか?」

「ええ、それがですな」と、赤城警部がコーヒーを飲みつつ、話の続きを再開する。「辻先生は数か月前に、諏訪先生にプロポーズされたのだとか。そして彼女のほうでもそれを受け、辻先生のご両親ともお会いになったそうですよ。ところが、ですな……お医者さんの奥さん同士というのは、色々なネットワークをお持ちのようで、それまでの諏訪先生の色々な素行が問題になったということでした。辻先生というのは、マザコンといってはなんですが、幾分そうした傾向がおありのようで、母親の言うことには逆らえないし、よしんば母親の反対を押し切って結婚したとて、諏訪先生と母親の間に挟まれて苦しむことがわかりきっていたとおっしゃっていましたな。で、この縁談はご破算ということになったわけですが――それでも辻先生は、あの時母親の反対を押し切ってでも諏訪先生と結婚していればと思い、悔恨の涙を一日中流していたそうです。まあ、彼女の性格の奔放さのことを考えると、我々には悪女といったようにしか思えんのですが、辻先生にとって諏訪晶子という女は『天使のような』存在だったということですよ」

「天使ねえ。悪魔の間違いなんじゃねえの?」

(まったく、どいつもこいつも)と思い、翼は思い切り溜息を着きたくなった。最初は翼も諏訪晶子のことを、あちこちの男の間を流れ歩く、とんでもない女といったように認識していたのだが――むしろ今では彼女がつきあった男たちにも、卑怯さ・ずるさ・だらしなさ・優柔不断さ、何かそうしたものが等分にあったように思えてならない。

「確かにまあ、人間は多面的な生き物だから、ある一面だけを見て裁くことは出来ないよ。諏訪晶子を殺した人物というのは、彼女にとっては最後、悪魔のように見えたかもしれない。けれど、もしかしたら他の人たちにとっては<天使>とまではいかなくても、ある程度人間の出来た人と評価されていてもおかしくないだろうし……」

「まったくそのとおりですな、時司先生。で、我々は次の容疑者たる麻酔科医の戸田先生にもお話を伺いました。彼もまた諏訪晶子賛美者のひとりといったところでしょうか。繰り返し何度も電話をかけたり、メールをしたのは、彼女のことが忘れられない――正確には、彼女の体のことが忘れられないからだとはっきりおっしゃっていましたね。『刑事さん、だから俺が晶子のことを殺すなんてありえないよ』と。『ついでに、他の男とも寝てようが俺にはあまり関係ないんだ。彼女がたまに気まぐれにでも振り向いて、シャネルのバッグと交換に自分ともそうしてくれたら、それだけで十分だったんだから』……病院の先生の倫理観というのは、意外にひどいもんですな、結城先生。また戸田先生にはギャンブルで借金があることもわかっています。つまり、我々には彼が犯人でもおかしくないように思えるということですよ。諏訪先生と関係を持つために、借金をしてまでブランド物のバッグや宝石を購入したにも関わらず、元が回収できずに負債だけが残ったと戸田先生が考えた場合――それが殺意に変わるということは、十分考えられうることです。ただし、あの土曜日彼は、市内の他の病院で麻酔科医としてアルバイトをしていたそうですな。アルバイトというかまあ、身分は非常勤ということのようですが……そして、その手術が終わったのが午後の四時頃ということでしたから、夜にはK病院へ赴いて殺人を犯したという可能性は当然ありえます。ただし、戸田先生曰く、『確かに俺にはアリバイなんてないよ。だって、仕事で帰ってくるなりバタンキューで寝てたんだから』ということでしたが」

「う~む。そんで次の日は競馬にいったりしてたんだとしたら……戸田先生は白っぽいな、なんとなく。大体戸田先生には、殺人を計画できるような精神的余裕はなかったんじゃないかって、俺も見てて思う。つーか、あの独語にも近い独り言は、俺なら別の病いを疑うね。躁鬱病の初期症状とか、ギャンブル依存症なんかをさ。言ってみれば、一種の悪循環なのかもしれないな。借金を返済するのに、べつの病院にも出向いて金を稼がなきゃならない……で、鬱積したストレスをギャンブルで解消する、元が取れずに負債だけがまた増えるっていう悪い循環。誰か、取り返しのつかないことになる前に、戸田先生にカウンセリングを受けさせたほうがいいんじゃないかと思うけど」

「その<取り返しのつかないこと>がもし殺人だったとしたら――我々は結城先生とは違い、戸田先生は果てしなく黒に近い灰色といったことになるんですがね」

 四人はここで何気なく、目の前の<灰色の光景>を暫し眺めやることになった。きのうの夕方まではなかった流木が何本も流れついており、その枯れきった、なんの役にも立たない様子が、なんともいえない寂寥感を醸しだしている。

「ま、なんにしても状況から判断するに、刑事さんたちが戸田先生を犯人候補の上位にあげたい気持ちは俺にもわかるよ。でもこの場合はとりあえず、他の犯人候補である君塚先生の話なんかも先に聞かないことには、ちょっと不公平かな」

「そうですね。君塚先生は大変ショックをお受けになっておられる様子で――よくあの状態で診察に差し障りがなかったものだと、わたしも白河も驚くほどでした。応接室に入ってくるなり、滂沱と涙を流されて、『あんなに綺麗な体をした若い娘が死ぬなんて、俺は本当に悔しいですよ』などとおっしゃるのですからな。一応、身体的な雰囲気としては、君塚先生は本当に諏訪先生の死を悲しんでおられるのだなと感じたのですが、言葉としては『そんな綺麗な体を持つ若い女と関係を持てなくなって残念だ』……わたしにはそう聞こえてならなかったと言いますか。なんにしても、わたしにとっても白河にとっても、君塚先生は<非常にわかりやすい人物>ということで、意見が一致しています。奥さまに至っては、ご主人の浮気というのは丸わかりだったそうです。というのも、ここ二か月ほどの間、なんとも言動がせわしなく、しょっちゅう日曜はゴルフのコンペだの、土曜の夜は接待だのという発言が増えていたそうですから。『あの態度で浮気を疑わない妻はひとりもいないでしょうね』というのが、君塚先生の奥様のご意見で……なんというんでしょうな、君塚先生の奥様の貴美江さんという方は、肝っ玉の座った女性のように見えましたよ。言葉は悪いですが、旦那さんのキンタマをしっかり握っておられるといった感じの方です。ご自宅にお話を伺いにいったところ、『うちの主人に愛人を殺すくらいの度胸があれば、むしろわたしは惚れ直しますよ』と笑っていたほどでした。つまり、奥さまがおっしゃるには、『主人は殺人を犯すには小心すぎる』ということで……また同時にそこがご主人の良いところでもあるのだとか。『だってそうでしょう、刑事さん?変に頭のいい男というのは、実に巧妙な嘘をつくもんですよ。でもうちの主人のはあまりにわかりやすすぎて、そこまでして浮気したいのかと、思わずわたしが笑ってしまうほどですもの』とおっしゃっておられましたな。また、『自分は疑われてもまったく構わない。というのも、邪魔な愛人を殺してくれた犯人には、心から感謝しているので』ともおっしゃっていて……いやはや、女性というのは恐ろしいもんですな。妊娠五か月の身の女性から、そのようなことを言われる側としては、ただもう黙って目を逸らし、頷くしかないといったところですよ」

「まったくだねえ。そんな話ばっか聞かされちゃ、初心な俺たち若い男としては、ますます婚期が遠ざかるよ」

 翼と要は、互いに目配せし合ってから、おかしくて仕方ないといったように、暫くの間笑いあっていた。

「あとさ、雁夜先生や朝倉先生が犯人っていう可能性は、実際どのくらいのパーセンテージになるのかな。他に、俺はきのう警備の人たちにあの土曜日は眼科の小石川先生や耳鼻咽喉科の高野先生、泌尿器科の宮本先生、内科の岡崎先生なんかが医局に麻雀しに来てたって聞いたんだけど……あと、高畑先生と雁夜先生の顔も見たって。雁夜先生の場合はたぶん、当直のはじまる時間より早くやって来て、十三階の恩師っていう人のことを見舞ってたってことなのかなって思うけど。あれだけ華々しい経歴の人が、こんな地方の病院をなんでわざわざ選んでやって来たんだろうとは思ってたんだけどさ、おそらくそこらへんに理由があんのかなって思う。赤城警部はもしかして、なんか聞いてたりしない?そのへんのことについて」

「ああ、いや、そのですな……」と、赤城警部は何故かここで、どこか罰が悪そうに頭をかいていた。向かいの椅子に腰かけ、ケーキを食べていた白河刑事もまた、少しばかり苦笑している。「我々としてもこう、捜査情報のすべてをお話しするというわけにもいかず、個人のプライヴェートな事柄については特に、守秘義務といったこともあり……結城先生、他の捜査情報についてもですが、このことも絶対に他言しないと、誓ってお約束していただけますか?」

「もちろん。つーか、俺は赤城警部たちに協力して、なるべく早く犯人をあげてほしいと思ってるから、今日もこうして話をしてるわけで……捜査の妨害になるようなことは絶対しないって、約束するよ」

「我々はですな、病院専用の携帯電話のほうにある、海外からの着信記録に注目したのですよ。もちろん、捜査にはまったく関係のないことかもしれないのですが、あまりに頻繁にかかって来すぎている番号でしたのでな。ちなみに、諏訪先生がお亡くなりになった夜にも、何度となく電話が来ていたらしく……これはどなたの番号ですかとお聞きしたのです。そしたら、『婚約破棄した婚約者の番号です』とおっしゃる。自分個人の携帯の番号には色々な人から電話がかかって来るため、ついうっかり出てしまう可能性があるから、元婚約者の方には病院から支給された携帯の番号をお教えになったのだとか。そうすれば、海外からかかって来た番号には一切出なければいいということになると……まあ、事件とは直接関係ないと思いながらも、我々も『差し支えなければ』という前提で、何故お別れになったのですかと聞いたのです。そしたら、『警部さん。きのうまで自分が女だと思っていた存在が、実はフィメールでなかったと判明したら、どうされますか?』と、苦笑しながらおっしゃいまして。『結婚する数日前にそのことを告白されて、私は混乱したんですよ。嘘をついているのはフェアじゃないと思ったと彼女……いや、彼といったほうがいいのかな。とにかく彼女はそう言ったんです。そこで私は、婚約は一度白紙に戻そうと言いました。こんな心理状態のまま結婚することは出来ないからと。その日から、私がこれまで経験したこともないような地獄の日々がはじまりました。「女とか男とか、そんな性別上のことがそんなに大切なの!?」ということにはじまって、お互いに目を瞑ってきたそれぞれの性格や肉体的欠点をあげつらい、まったく醜い言い争いをするようになったんです。私は、これはもう結婚は無理だと思いました。キャサリン……いや、この名前もおそらく本名ではなかったんでしょうね。普段、わたしが愛称でケイトと呼んでいた彼女は、私にとって男とか女とかそんなことは一切関係なく、もうなんの魅力もない存在に変わり果てていました。そこで、逃げるように日本へ帰国し、恩師を訪ねようと思ったところ、認知症であると知って驚きました。そこでこちらのK病院に勤務することを決めたのです』……まあ、大体こんなようなお話でしたな。十三階の5号室におられる澤龍一郎という先生は、現役時代は相当な手術の腕を持つ、第一線で活躍された脳外科医だったとか。それほどの方が認知症になって、とても愛しておられた奥様に八つ当たりする姿を見た時に、物凄くショックを受けたそうです。自分もまた、患者の利益に務めて生涯を全うしようとも、同じ末路が待っているとも限らないと、そのように感じられたそうですよ」

「まあ確かに、雁夜先生の気持ちはすごくわかる」

 心から愛した女性だと思っていた存在が、実は男だった――そこに一抹の滑稽さを見るのは簡単だったかもしれない。だが、翼としてはその点はさして重要ではなく、雁夜潤一郎という男が思っていた以上にいい人間であるように思われ、今では独断と偏見によって嫌っていた自分のほうこそが、極めて狭量であったように感じられてならなかった。

「その澤先生って人は、自分の検査結果の資料を見ては、誰か他の患者のものだと思って、色々講釈しはじめるって話だったから……六十五くらいまで医者やって定年で退職するのと同時にボケたりしたらさ、そりゃショックだよな。いいことばかりしてきた人間が言われもない罰を受けて、悪人は健康元気でピンピンしてるっていう理不尽ささえ感じるぜ。そっか、じゃあまあやっぱり、雁夜先生は百パーセントとまではいかなくても、限りなく白に近いってことだよな」

「あと、朝倉先生が卓球をやる傍ら、諏訪晶子先生を殺したというのも、かなり無理があるのではないかと我々は考えています。むしろそうではなく、ピンポンいう卓球の玉の音――それを耳を澄ましながら微かに聞くことで、朝倉先生はこっちへまだ来ないということを、犯人は確かめていたのではないでしょうか。結城先生と雁夜先生は部長室のほうでお休みなので、午前零時を過ぎた頃にはもう、医局に顔をだすこともないと犯人は判断し、君塚先生がいなくなり、朝倉先生はまだ暫くピンポンに夢中だろうと考えた隙に、諏訪先生の殺害をはかった……というのが、現段階で我々が立てている、もっとも可能性の高い推理です」

「あと、一応あのことも話しておいたほうがいいんじゃないか、翼」

 院内関係の人間を直接知っているというわけではないので――要は大体のところ聞き役に徹していたのだが、ここで補足としてひとつ不足している部分があるのを指摘した。

「あのことって?」

「つまり、犯人は諏訪晶子と関係を持っていたとは限らないっていうことさ。医局内で彼女のことを高嶺の花と感じつつ、諏訪晶子が気まぐれにでも自分に振り向いてくれないかと夢想してた人間が犯人である可能性もあるってこと。それから、犯人は何故わざわざ殺人がバレる可能性の高い方法を取って、諏訪晶子を殺したのかっていう矛盾もある。単に殺すだけなら医局なんていう危険な場所を選ぶ必要はない。事実、翼でも雁夜先生でも、何かの拍子にひょいっと顔を見せたら、犯人がバスルームに諏訪晶子を引きずっていくところだった……そういう可能性は高くもあったわけだろう?だから逆に考えた場合、犯人はそもそも、<医局で騒ぎが起きることが目的で殺人を犯した>という可能性がある。この場合、もしかしたら犯人には、殺害相手は誰でも良かったのかもしれない。ただ、医師として倫理観が低いように思われる女性を、晒し者のような形で殺害すれば――マスコミが<美人女医殺害事件>などと騒ぎ立てて、ちょうどいいだろうと思ったのかもしれないし。この説を取る場合、犯人はK病院に深い恨みがある、あるいは病院が竣工した時から今に至るまで病院長である高畑院長に対し、怨恨を抱いているということになるんじゃないだろうか」

「ああ、その話な……って、待てよ」

 赤城警部と白河刑事が、「なるほど」と頷いて、深く何かを考えこむようにしている間――翼は翼で、何かが脳裏に引っかかるものを感じていた。内科の内藤から聞いた、高畑院長が愛人の息子に肺ガンの手術を受けたという話を不意に思いだしたのだ。そして、自分の娘がもしその手術をしていたとしたら、自分はおそらく術中死していただろうと……呼吸器外科の専門医、飯島将馬のことなら、翼も一応知っている。今年のイケメンドクターコンテストでは何故か十位以内にすら入っていないものの、去年などは第二位だったくらいの、才気煥発な顔立ちの男だった。

(愛人……愛人の息子と同じ職場で働くことの苦痛、そんなものがもし高畑先生にあったとしたら……いや、それとも、飯島将馬のほうにこそ院長に恨みがある可能性がなくもないか?もちろん、高畑院長本人を何かの理由で憎んでいたとしたら――そもそも手術自体引き受けていないだろう。それどころか腹違いの姉がいるのと同じ病院で働くこと自体、拒絶したはずだ。にも関わらず、そんな場所で飯島先生が働き続けるメリットは……)

 翼がそこまで考え、自分のそうした推理の断片を口に出すか出すまいかと逡巡していると、不意に赤城警部の携帯がヴーヴーと鳴った。「ちょっと失礼」と言って立ち上がり、赤城警部は窓際まで歩いていった。灰色の海の前を犬を連れた婦人が通りかかり、透明な窓を介したキャンバスの、束の間の登場人物となっている。

「なんだと!?それは本当か!?」

 赤城警部の声の音量が尋常でなかったため、翼も要も白河刑事も、ほとんど同時に顔を上げていた。雨はその時、大分小止みとなってはいたが、それでも犬にカッパを着せて歩くには、飼い主にとって犬の体調が少々心配に感じられるような大気の状態である。

 これで嵐は去った――そう思っていた一同にとって、赤城警部の様子はまるで、雷の衝撃にも近い、独特の不穏感を与えるに十分だったといってよい。

「どうしたんですか、警部」

 白河刑事が、どこか不安そうに眉根を寄せて、そう上司に問うた。

「詳しいことは、車の中で話すよ。結城先生と時司先生にもいずれすぐお耳に入ることでしょうから――とりあえず我々はこれにて、今回は一旦引き上げることにします。貴重な情報をありがとうございました」

 ……今にして思えば、あの電話は「K病院の事務員、金井美香子が事務室で殺された」という連絡の電話だったのだろうなと、翼はそう見当をつける。朝出勤してきた時、医局内が騒然としているのを翼は感じとっていたが、情報収集のために彼らの話に耳を傾けようとまでは思わなかった。

 朝礼がはじまるまで時間が間もないこともあり、急いで着替えなければならないそのせいでもあったのだが――朝礼の場で「事務員の金井美香子が殺された」と聞いた瞬間から、翼の頭の中は<経理関係のことで金井美香子は邪魔になって殺された>のではないかと、そのようにしか考えられなくなっていた。その場合、諏訪晶子の死と金井美香子の死はまったく無関係であり、第一の殺人に触発され、諏訪晶子殺しの犯人に金井美香子の死も便乗させられると考えた犯人の犯行……ということになるだろうかと、翼はそんなふうに思ったのである。

 とはいえ、患者のひとり目の名前が診察室の外で呼ばれると、翼はほとんど雑念といっていいそうした思考の一切を頭の外へ放逐した。診察室にいる時と手術室にいる間だけは、私生活でどんな煩わしいことがあろうとも、患者のことにだけ翼は想念を集中させることが出来る。

 ゆえに、診察室の時計の針が十二時半を指した頃――翼は新患の外来患者から解放されると同時に、再び頭の中が諏訪晶子殺しと金井美香子殺しのことで半分埋められるような心理状態に戻っていたといってよい。

「相変わらず、先生の診察方法は機械のように血が通っていませんね。山田先生から少しくらい、患者とのコミュニュケーション術でも学ばれたらいかがですか?」

 お陰で、そんな永井主任の溜息付きの嫌味にも、翼はまるで動じることはなかった。

「どうせ俺は手術オタクの手術ロボットみたいなもんですよ。でもロボットでも、他のドクターをアシストするくらいの能力はある。血の通った医師が他にふたりいて、俺は血は通ってなくてもそれなりに患者をさばくくらいの能力はありますし」

「急性期医療の現場では、それでよろしかったかもしれません。でも先生、山田先生と仲がおよろしいんでしたら、先生から患者とのコミュニケーション術を是非積極的に学んだほうがいいですよ」

「へいへい」

(やれやれ。午後からは患者の胃に内視鏡ぶっこまなきゃならないってのに、ババアの小言なんかいちいち聞いてられるか)と思いつつ――翼は首を捻ってコキコキ鳴らし、いかにも億劫そうに頭上で腕ストレッチをしてから、第三診察室を出ていった。



 >>続く……。





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