天使の図書館ブログ

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手負いの獣-18-

2013-03-18 | 創作ノート
【医の女神ヒュギエイア】グスタフ・クリムト


 前回も書いたとおり、術後管理の書き方はこれでいいんだかどうだかな~と思います(^^;)

 それはそれとして、↓を書いてて思ったんですけど、そういえばわたし、機械浴って経験したことないなあとふと思いました。

 いえ、病院には一応機械浴室って呼ばれる場所があって、そこで寝たきりの方の体を洗ったりっていう経験はあるものの、リフト(機械)で患者さんを移動させて浴槽に入ってもらうっていうのは、自分では実際にやったことがないというか。

 以前、頚椎損傷で首から下が動かない方の自宅でお風呂介助したことがあったんですけど、その時も行うのは体を洗うっていうことだけだったんですよね。

 もちろん、毎週火曜と金曜は機械浴(特浴)の日、みたいに決まってるところは多いと思うんですけど、わたしが昔いたところでは「今日の午後の特浴、誰いく?」と言いつつ、リフトに移乗してもらって浴槽に入ってもらうっていうことは行ってませんでした(^^;)

 では、その特浴って呼んでるのはその病院の場合どういうことかっていうと、寝たきりの方を浴室専用のストレッチャーに移動して体を洗うっていうことだったんですよね。

 半身麻痺の車椅子の方などを介助して、お風呂に入ってもらうっていうのは別の階で普通に行われていたものの、わたしのいた病棟は重症の方・意識レベルの悪い方がほとんどだったので、お風呂に入れるくらい全身状態のいい方は少なかったというか。

 なので、わたしが↓で書いてることは、脳外病棟の看護師さんたちの怠慢とか、そういうことではまったくないです(笑)

 もちろん毎日清拭するとはいえ、それでも当然垢のほうは蓄積していくので、せめて手浴・足浴っていうことになると、ひどい場合には垢がボロッボロ出てくるんですよね(^^;)

 前に書いた鬼看(笑)のOさん&Pさんに感謝してるのは、もしかしたら何よりこの点かもしれません。

 素人(わたし☆)の一般的イメージだと、寝たきりの患者さんの体を拭く時には、生あったかいタオルで優しく……というイメージだったのですが、そんなことしてたら「意味ないよ!!」って怒られましたから(^^;)

 つまり、寝たきりのお年寄りの方で皮膚が弱くなってる場合とか、明らかな皮膚疾患でもない限りは、少し力を入れてごしごし清拭するくらいじゃないと、本当に「清拭をした」とは言えないということでした。

 で、お手本として「このくらい強くやっても全然大丈夫だから」っていうのを見せたもらったそのとおりにやると、本当に最後は息切れするくらいになります。自分で動けない方なので、右に転がったり左に転がったりしてもらいしながら病衣を脱がせてオムツを替えてっていうのをやると、結構大変というか。

 でも最初にそう教えてもらってからは、本当になるべく力を入れるように心がけるようになりました。

 いえ、OさんやPさんは「その仕事ぶりでは介護士や助手なんていらないよ」っていうくらい、厳しい方だったんですけど、その気持ちもすごくわかるなって実は思ってたんですよね(^^;)

 他の介護士さんの中には、わりとこうなあなあ☆で仕事をして、適当に色々くっちゃべりながら患者さんを右に転がしーの左に転がしーのして、「これで終了!!」みたいなことは割合あったと思うので(いえ、毎日のことなので、そういうこともあるというか

 そういうのを見てて看護師さんが「それであんたたち、本当に仕事した気になってるわけ?」って言いたい気持ちも、わからなくはなかったというか(^^;)

 でも個人的には、「怒ってもらえて良かったな」って思うことのほうが多かったかな~なんて思います。

 他の方の場合は、「仕事が大変な分、八つ当たりされてる☆」って感じるみたいだったんですけど、実際のところ「こいつには所詮何を言っても無駄だ」みたいになるよりは、怒ってもらえるだけ有難いもんだと思ってました(^^;)

 まあ、看護師さんの中には、本当にただ「意地悪なだけ」っていう方もいると聞いてるんですけど、OさんやPさんの厳しさっていうのは、そういうのとはまた別次元のものだったんじゃないかなって、個人的にはそう思っています。

 それではまた~!!



       手負いの獣-18-

 傘がまるで利かないほどの暴風だったので、翼はレインコートの襟を半分かぶるようにして駐車場から職員玄関へ向かわねばならないほどだった。そしてこの時にふと――入口のところで半分寝ぼけたような顔の警備員と出会い、翼の頭の中にある考えが電球のように閃く。

(そうか。武藤のジジイの様子を見たあと、この警備員のおっさんにでも、事件の起きた夜のことを聞いてみるとしよう。たぶん、このおっさんがあの夜の担当でなかったとしても、同僚からなんかしら聞いてるだろうからな)

 そう思いながら翼は、一度医局の自分の部屋で白衣に着替えたのち、十三階へ向かった。その途中で偶然にも内科医の朝倉と廊下ですれ違い(彼はトイレに行くところだった)、「あ」と声をかけられる。

「今日の日直担当者は何やってんですか?朝倉先生も食堂で卓球やってる暇があったら、あのジジイのことを大人しくさせて欲しいんですけど」

「いやあ、悪い悪い。一応夏目ちゃんも、先に医局のほうに電話してきたんだよ。で、俺がいって色々なだめてみたんだけど、最終的に『結城先生を呼べっ!!』の一点張りになって。男の俺が電話しても、「そんなの日直の担当者がどうにかしろ」ってことで話終わっちゃうから、可愛い夏目ちゃんが結城先生の携帯に電話してみたらって言ったわけ。でもまさか本当に来てくださるとは……」

「べつに俺、あの夏目って子の可愛い声はどうでもいいんですよ。でも術後の経過が無事抜けるまで、あのおっさんの担当医は俺みたいなもんだから来たってだけの話。手術のほうにミスはなかったし、話で聞いた上では術後合併症の疑いもなし。体がしびれてるってわけでもなく、体幹部から頸部の握雪感があるわけでも呼吸苦があるわけでもない。詰まるところあの性格の悪いジジイは、いつもどおりメシが食えなかったり、体が不自由だってことで、周囲に我が儘を言って憂さを晴らしてるだけなんじゃないですかね」

 翼が重い溜息を着くと、朝倉は細い目をますます細め、「まあがんばって」と、肩にぽんと手を置いてきた。翼が最初からそうと予想していたとおり、十三階の十六号室では特に緊急性を要するほどのことは何もなく――縫合不全を疑うような性状もなければ、看護師から電話で聞いていたとおり、腹腔内ドレーンの色も正常だった。

「これといって特に異常所見といったものは見受けられないようですね、武藤さん。手術したばかりなんですから、痛みや不快感があるのは当然のことですし……鎮痛剤のほうも処方しておいたはずですが」

「結城先生、わしゃモルヒネを打ってもらいたいと、何度も看護婦さんたちに言ってるんですよ。さっきも他の科のなんとかいうボンクラな目の細い医者がやって来て、『それだけ元気なら、大丈夫ですよ』とかいい加減なことをほざきおった。先生、確かに今は薬が効いておるのでいいですが、これが夜になったらどうします?わしが夜中に突然痛みで目が覚めて、ナースコールを鳴らしても看護婦さんたちはすぐやって来ないことがありますからな。『また武藤さんがどうでもいい用件で呼んでる』としか思っとらんのかもしれません。で、ようやく看護婦さんがやって来ても、痛みの件についてはどうもできんでしょう。そこでまた当直の先生が呼ばれて、『そのくらい我慢しなさい』といったことを遠まわしに言い、それでおしまいといったところです。結城先生、わしがこれから夜ぐっすり眠れるように、モルヒネをこう一発、強力なのを打ってほしいんですよ。そこのところ、よろしゅう頼んます」

 腹部の傷口を隠すように、翼は武藤幸三のパジャマを閉じ、内心で(やれやれ)と重い溜息を着いた。手術を行う以前から、彼が<痛み>というものに対し、病的なほどの怯えと恐怖感を見せていたことは、当然翼も承知している。術後の疼痛管理としては、硬膜外麻酔でコントロールしているので、それでもどうにもならない場合だけ自分のことは呼びだしてほしいものだと、翼としてはそう感じる。

「武藤さん、現段階では、今以上に強い薬を処方しなくても大丈夫だと思いますよ。きのうは水しか飲めなかったでしょうが、今日は少し食事のほうも摂取できたでしょう?何も問題なければ、来週の火曜日あたりにでもこの邪魔なドレーンも抜けるでしょうし……あと一週間ほどの我慢と思ってください」

「先生、わしは一週間も我慢なんて出来ませんよ。今晩の当直は誰なのか知りませんが、看護婦がまた結城先生を呼びだしたら、すぐ来てくれるんでしょうな。先生がすぐ来てくださると約束してくださるのであれば、わしはむしろ逆に安心してぐっすり眠れるかもしれません」

(おまえはモンスター・ペイシェントか)と心の中で突っ込みつつ、とりあえずこの場は大人しく辞去しようと、そう翼は思った。

「なんにしても顔色のほうもいいようですし、安心しました。これだけ早い段階でガンを発見することが出来て、武藤さんは本当にラッキーだったと思いますよ。根治を目指して一緒にがんばりましょう」

「いやいや、これで病気のほうがすっかり治ったら、それは本当に結城先生のお陰ですわ。そのうち、うちのもんから餅入り最中を差し入れさしてもらいますから、是非遠慮なくお受け取りになってください」

「ええ。<最中だけ>、遠慮なくいただいておきますよ」

 翼はそう意味ありげに言って、武藤幸三の病室を後にした。最後に彼が、どこか満足そうな吐息をつく姿を見て、とりあえず自分がここへやって来た甲斐のようなものはあったらしいと、翼としてはそう感じる。

 何故といって、彼は単に担当の医師が自分の腹部を見て<異常はない>と直接言ってくれることに、高い価値を見出していたようだったからだ。これでまたロベルティエ製薬と高畑院長の間柄が、さながら悪性の病巣のように癒着が深まるのかどうかなど、翼には知ったことではない。

「あ、あの……結城先生。お休みのところ、本当にわざわざありがとうございました」

「ああ、べつに。イレウスでも起こしてのたうちまわってるところに来たっていうよりは、百倍いいだろうしな。あのジジイがまたブツブツ言うようだったら、ビタミン剤でも出しておけばいい。もしかしたらそのほうが、鎮痛剤を処方するより、意外に効くかもしれないから」

 夏目という小柄な、髪をおかっぱにしている看護師が、少し戸惑ったような顔をして言葉に詰まっていると――十三階にまでエレベーターが上がってきた。おそらく無人であろうと予測していた翼の想像に反し、そこには何故か雁夜潤一郎の姿があった。他に、見舞い客らしい中年の夫婦がふたり、彼よりも先に下りてくる。

(今はもう夕方の五時半か。ということは、雁夜先生も日直だったか、あるいはこれから当直に入るところなんだろうか?)

 まあ、そんなことはどうでもいいかと思いつつ、翼は一度六階で下り、自分の部屋で着替えてから、再びエレベーターで一階に下りた。レインコートのほうはずぶ濡れで、すでに使いものにならなかったため、翼は上にネイビーブルーのシャツ、下に黒のジーンズを履いているという格好だったのだが――外では暴風が吹き荒れており、(あーらら。こりゃどうしたもんかな)と、外の様子を眺めてあらためて思う。

「先生、随分な軽装ですね。そんなんじゃ家に帰り着く頃には水も滴るいい男も台無しって具合になってますよ」

「いやさ、ここに来る前までは一応、レインコートなんつーハイカラなもんを着てたんだけど、駐車場から歩いてくる間に、それがもう使いもんにならなくなっちまってな。まったく、せっかくの休みだってのに、気難しいジジイに呼び出されてこのザマっていったところ」

「ははは。そうでしたか。もし良かったら先生、こっちの警備室で少し休んでいかれませんか。ちょっとストーブにでも当たって、体を十分あっためてから、厳しい外の世界に適応されたほうが――多少は違うかもしれませんよ」

 警備室の窓越しにそう話しかけてきた男は、先ほど翼がここを通りすぎた時とはまた別の、若い男だった。さっきまでいた警備員はどう見ても六十過ぎで、白髪頭をさっぱりとスポーツ刈りにしているといった容貌だった。

「あのさ、もしかして吉川さんって人、今日来てないかな」

「吉川さんなら、今そこにいますよ」

 紺色の警備服に身を包んだ男は、そう言って後ろの衝立のほうを指差す。

「今日は吉川さんが日勤で、僕が夜勤なんです。夕方の五時半がいつも交代時刻なもんですから、今警備日報を書かれてるところですよ」

「ああ。それじゃ俺、ちょっとそっちのほうに上がらせてもらおうかな」

 ネームプレートに<神奈崎>と名前のある男は、警備室のドアを開けると、そこに翼のことを通した。部屋の内側に入った途端、暖かい熱気のようなものが頬に触れる。

 衝立の向こう側は、周囲より一段高い畳み敷きとなっていて、そこはどうやら警備員たちの更衣室兼休憩室となっているようだった。

「やあ、どうもどうも、これは結城先生。イケメンドクターコンテスト第二位、おめでとうございます」

「いや、べつにあんなもん、なんかの間違いみたいなもんですよ。つーか、来年あたりになれば、まわりの人間も俺の性格が悪いことがわかって、誰も票なんか入れなくなるでしょうね。入ってきたばかりの医者に花をもたせたって奴だと思います」

「またまたご謙遜を」

 吉川は警備日報にサインして、最後にシャチハタで印を押すと、それをぱたんと閉じていた。それから体をひねり、後ろのストーブに乗っかっているやかんを手にとると、茶葉の入った急須に湯を注ぐ。

「ま、茶でも一杯飲んで温まってから、家には帰られたほうがいいですよ、先生。天気予報によると、今日と明日まではざんざん降りの風はびゅうびゅう状態らしいですからな。月曜からはまた、お天道さまが機嫌よく顔を出すらしいですが」

「その、突然やって来てなんなんですが……その警備日報って、見せてもらっても構いませんか?」

「ええ、どうぞどうぞ。といっても、大したことは何も書いてませんがね。大抵の場合は、何時にどこを見回りしたかとか、あとはその時に何も異常がなければ異常なしと書いてあるくらいのものです。あとはどっかの業者がやって来て水道を直したとか、電気工事をしていったとか、エレベーターの点検をしていったとか……そんな程度のことしか書いてない、先生がお読みになっても面白くもなんともないもんですよ」

 吉川がくるりと警備日報を反転させて、翼のほうに差しだす。翼は吉川と同じくテーブルの前であぐらをかいたまま、その日報をぺらぺらと捲っていった。例の夜の日付の箇所には、特にこれといっておかしなところは何もない。夜勤の担当者は、九時と零時、それに三時に見回りをした際、いずれも<異常なし>としか書き記していなかった。そして翌日の日曜日の日勤者はといえば、備考の欄に『大変なことになった。医局のバスルームで眼科医の諏訪先生が亡くなったらしい。昼の十二時半頃、警察の人たちや鑑識班の人たちがどやどや乗りこんできて、状況見分をしていった。案内をする際、医局のバスルームに<故障中>の貼り紙があるのを見て、ふと十一階の器械浴室のことを思いだし、そこに同じ貼り紙があるかどうかを確認しにいった。ところが、これがないのだ。ということは、諏訪先生はその貼り紙をわざわざバスルームのドアに貼りつけてから、自殺を図られたのだろうか……とにかく、大変なことになった』などという、珍しく長い文章がしたためられている。

「結城先生はもしかして、諏訪先生を殺した犯人を探しておられるのですかな?」

「いえ、べつにそういうわけでもないんだけどね」

 クッキーやマドレーヌののったお盆を勧められ、翼は貝の形をしたマドレーヌに手をつけた。ちなみに茶のほうは玄米茶だった。

「放っておいても捜査のほうは、刑事さんたちが熱心にやるだろうし……ただ俺、あの日当直だったんで、一応疑いのほうは俺にも数パーセントはかかってるはずなんですよ。そんなわけで、犯人がはっきりしないことには、なんかこう気分的にスッキリしないってーか、そんな気がして」

「ははは。私もあの日、当直だったんですよ。ライトを片手に決められた手順で一階から順番に見回りしておったんですが……特に不審な人物を見たとか、そういうことは一切ありませんでした。院内はいたっていつもどおり、普通どおりといって良かったと思います。日勤はそっちの神奈崎だったんですがね、土日は見舞い客がたくさんやって来るにしても――特にこれといってあやしげな人物を見たといったことはなかったようですよ。おーい、カンナ、そうだよな?」

「ええ、そうですね」

 衝立の向こうからひょいと顔を出して、神奈崎は頷いた。

「まあ、今回の事件を契機に院長は防犯カメラを取り付けるとおっしゃってましたけど……もっと早くにそうすべきだったんですよね。そしたら土日の人の出入りをくまなくチェックできたのに。院長はなんとしても、院内に犯人がいるのではなく、外部から不審者がやって来て諏訪先生を殺したのだということにしたいらしいです。でも、流石にそれは無理がありますよね……何も僕は、先生たちのことを疑いたいわけじゃないんですけど」

「いやあ、院長からは警備の責任者である金沢が、みっちり絞られましてな。院長先生のご推理によりますと、見舞い客を装った犯人が病院のドアが閉まる八時以降も院内に潜伏し、諏訪先生を殺す機会を窺っていたということになるらしいです。眼科を受診した際に、諏訪先生に偏執的な感情を抱いた患者が、ストーカー行為の揚げ句に今回のような凶行に至ったのではないかと」

「確かにそりゃ、随分と素晴らしい名推理ですね」

 不謹慎とは思いつつも、翼はやはり、笑わずにはいられなかった。

「そのさ、俺としても同じ医者仲間である同僚を疑いたいわけじゃないんだけど……やっぱり、医局で諏訪先生がああした形で死んだ以上、犯人は内部にいるとしたほうが自然な気がするわけ。あの日当直だったのは、俺と内科の朝倉先生と小児科の君塚先生と脳外の雁夜先生の四人。でも俺が思うに、あの人のいい卓球狂いの朝倉先生が、食堂でピンポンする傍ら、諏訪先生を計画的に殺すなんて、絶対無理っぽい気がするわけ。君塚先生は諏訪先生と深いおつきあいにあったようだけど、痴情のもつれで殺すにしても、わざわざ自分が当直の夜に医局で殺人を犯すだなんて、そこまで知能指数の低い馬鹿ではないと思うし……雁夜先生は俺同様、ここに来たばっかで、諏訪先生を殺す動機がない。じゃあ、誰が殺したのかって言ったら、医局の中のことに詳しい人間しかいないわけだ。ということは、医局員のうちの誰かが、院内のどこかに潜んでいて、諏訪先生を殺したとなる……そこで聞きたいんだけどさ、土曜の日勤帯に、勤務日でもないのにやって来た先生って誰かいなかったかなって思うんだけど」

「そうですねえ。一応警備室のほうには、当直の先生のお名前や土日祝日の際の日勤の先生の勤務表があるんですが、僕はいつもそれと照らし合わせて、朝会った時に挨拶したりしてます。で、僕の記憶力の悪い頭が覚えている限り……あの日は、耳鼻咽喉科の高野先生と内科の岡崎先生、眼科の小石川先生、泌尿器科の宮本先生、外科の高畑先生、脳外の雁夜先生のことなんかを見かけた記憶がありますね。高野先生や岡崎先生、小石川先生や宮本先生は四人とも麻雀狂なので、食堂でジャラジャラやっておられるのを土曜や日曜に時折お見かけします。高畑先生や雁夜先生はこう、どこか独特の孤高の人といった雰囲気があるでしょう?それで強く印象に残ってるんですけど……他の先生については、特にこれといって記憶にないかなあ。僕もずっと警備室にへばりついてるってわけじゃなく、見回りに行ったりもしますから、その間に誰かがやって来ても気づかない可能性がありますし……」

「俺が聞きたいのはさ、やって来たところは見たけど、帰った姿は見なかったっていう先生はいないかなってことなんだけど……」

 緑色の、ゼリーの砂糖菓子を口に放りこんで、翼は衝立の横に立っている神奈川のことを見返した。神奈川は年の頃は翼と同じくらいで、背の高いどこかインテリ風の顔をした男だった。警備員というよりは、田舎の警察署の人のいい巡査といったような雰囲気がある。

「う~ん。流石にそこまでのことを思いだすのは難しいですね。来たところは見なかったけど、帰るところは見たとか、どっちがどっちだったんだか、記憶のほうがちょっと曖昧で、はっきりしたことは言えない気がします。でも僕は先生方の中に犯人がいるといったようには、どうしても思えないんですよ。先生はみなさん、警備員なんていてもいなくても、どうでもいい存在だっていうんじゃなくて、感じよく挨拶してくれる方ばかりですし……あと、雁夜先生は休みの日によく病院へ来られてますよ。確か、今日もそうなんじゃないでしょうか」

「ああ、そういや俺もさっき、十三階で雁夜先生に会ったっけ」

「雁夜先生は確か、十三階に恩師の先生が入院しておられると話していたことがありましたっけ。それで、休日にお見舞いにやって来られるのだとか」

「そうか、なるほど」

 吉川の何気ない一言で、翼の中であるひとつの事実が噛み合う。もっともそれは、諏訪晶子殺害事件とはまったく関係のないことで――十三階には元脳外科医で認知症の、少し気難しいじいさんがいるという話を、翼は小耳に挟んだことがあったのである。

 今は病気で引退しているとはいえ、元医者なので、自分の検査結果の資料をしょっちゅう要求するらしいのだが、それを見ながら誰か赤の他人のものだと思い、これからの措置をどう講ずるべきか、真面目に検討しだしたりするということだった。

(ということは、雁夜先生がアメリカから日本に帰国したことの理由は、大体そこらへんにあったりすんのかな)

「あ、あとさ、この警備日報に書いてある、機械浴室って、具体的にどこにあるかわかる?」

 機械浴室というのは、一般の浴槽で座位を保つのが困難な患者などが、リフトを使って浴槽に入ってもらうという、特別浴室のことだった。

「十一階の、ナースステーションや病室の並びというか、その奥のほうにあると思いますよ。まあ、機械室が使えなくても、もうひとつの浴場のほうでは、半身麻痺の方などがお風呂に入られてますし……脳外の看護師さんの話では、機械浴室を使えるくらい全身状態のいい患者さんというのは、今少ないそうですね。それと、体のほうを洗いたければ、シャワー室か別の浴場でも十分間に合うということで、修理の人が来るのが少し遅れているようです」

「そこに貼ってあった紙って、手書きだったのかな。それとも、パソコンから印字したようなやつ?」

「確か、ミスプリントしたA4くらいの紙に、マジックで手書きしてありましたよね、吉川さん」

「ああ、そうだ。たぶん、脳外病棟の看護師さんか介護福祉士さんあたりがテープで貼ったんじゃないかと思うが……」

「ふう~ん。なるほど」

 翼が腕を組んで、何か深く考えこむ姿を見て――吉川と神奈川とは、自分たち警備員では知りえない他の事実と今の事柄を結びつけ、結城医師の中では興味深い推理が成り立っているに違いないと、そう感じたようだった。

 といっても、実際には翼には、犯人の目星などまるでついてはいなかった。ただ、諏訪晶子の眼科における上司である小石川があの日、医局へ来ていたというのは、なかなか面白い新情報だという気がしただけである。

(ま、そのへんについてはすでに、赤城警部が情報を掴んで、動いているだろうしな)と、翼はそうも思った。当然、彼には諏訪晶子の普段の勤務態度についてなど、上司としての意見を警察は訊いているに違いなかったからである。

「うまい玄米茶を、どうもごっそーさん。そろそろ体のほうもあったまったし、大雨の中をどうにかして帰るとしようかな」

 翼が重い腰を上げると、とっくに退勤時刻を過ぎていた吉川は、警備服を脱いで着替えはじめていた。並んでいるロッカーが四つあるということは、おそらくたったの四人でローテーションを組み、夜勤と日勤をそれぞれこなしているのだろうなと、翼は漠然と想像する。

「じゃあ、神奈川さんも夜勤がんばって」

「先生も、お休みのところ、お疲れさまでした」

 外は相変わらずのざんざん降りではあったが、翼は警備室で得た情報が思いの他貴重であったため、雨の冷たさ、濡れた衣服の不快さのことなどはほとんど頭になかったといってよい。

 それでも、車に辿り着いた時には体がすっかり冷え切っており、すぐさまエンジンをかけて暖をとると、暫くそこでガチガチ震えるということにはなったのだが……。

「さ~てっと、要んちに戻ったら、早速この興味深い話を聞かせてやらねば。そんで、パエリアをあっため直して、サンテミリオンの飲みかけも全部いただくとしよう」

 フロントガラスの油膜を、ダッシュボードの中の布で拭くと、翼はなおも考えごとに耽りながら、海辺にある貝の家までの道のりを、スピードを落とした車で戻っていったのだった。

 そしてこの、大嵐が吹き荒れた夜――まさか第二の殺人がまたしても医局のある六階で起きていようなどとは、当然のことながら翼には、想像してもみないことだったのである。



 >>続く……。





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