天使の図書館ブログ

 オリジナル小説サイト「天使の図書館」の付属ブログです。

手負いの獣-20-

2013-03-21 | 創作ノート
【ダナエ】グスタフ・クリムト


 そういえば前回書き忘れてたんですけど、前回の19と今回の20、それと次回の21とは、もともとは一繋がりの章なんですよね(^^;)でも2回に分けても入り切らなかったので、3回に分けることになったという……前文を削除すれば入る時にはそうするんですけど、どう考えてもキリのいいところで終わらなかったので、こんな形になりました

 ええと、前回の前文では医療のマニュアル化がどーのといったことを書いた気がするんですけど、簡単にいうとすれば「病院の決まりとかマニュアルではそうであっても、もうちょっと融通をきかせれば患者さんの満足度はぐっと上がるんじゃなかろーか☆」ということでした。

 んでも、何ゆえにそのちょっとしたようなことが実現・実行できないのかっていうのは、病院の内側に入ってみるとわかる気がするというか(^^;)

 わたし、その病院で看護助手になってみるまでは、<医療>といったものに物凄く夢と理想を持っていたと思います。

 お医者さんと看護師さんは、もしかしたらたまに変な人がいたにしても、概ね立派で良い人ばかりであり、日々粉骨砕身して働いておられるのだろうと……いえ、この後半部の「粉骨砕身して」とかいうのは、まったくそのとおりであるにしても、「立派で良い人ばかり」かどうかという点には、ちょっと疑問符がつくというか(^^;)

 もちろん、そこの病院の看護師さんは平均して良い人ばかりというか、仕事ができて性格もいいとか、そういう傾向にある人のほうが多かったと思います。ただ、看護師さんの休憩室にあふれる<本音>の部分や、病棟で見せる顔との裏表……そういうのを一度見てしまうと、「オレ、絶対に病院になんか入院したくねえww」と思ったもんでした(笑)

 それでも病棟の看護師さんっていうのは毎日とても大変な仕事をされてるので、休憩室でちょっと患者さんの悪口言ったりとか、そういうのは罪のない噂話的なもんだなとは思うんですよね。それに、患者さんっていうのはある一定の期間で出たり入ったりするものなので、その時に何か「あの患者って△△じゃない?」、「だよね、だよね!!」、「マジ受ける~!!」なんて仮に話していたとしても――その人が退院した途端にパッと忘れてしまう程度のことなんですよね(^^;)

 そんでもって、以前は誰かのお見舞いなどで病院へいき、遠くからみて「大変なお仕事だな~」と思ってた看護師さんの仕事を割合近くで見てみると……「これ以上何かしろ☆」って言っても難しいくらい、内容が詰まっているように感じました。

 それと、24時間完全看護とかなんとか、今も言ってる病院があるかどうかはわからないのですが、「そんなものは幻想だな」ともつくづく思ったというか(^^;)

 いえ、<必要最低限>のことをするだけでもとても大変なので、そこに+αで何かしようと思ったら、それはもう担当看護師さんの性格や心意気的なものにかかってくるのだと思います。

 つまり、わたしが言ってる<医療のマニュアル化>って、そういうことなんですよね。マニュアルに書かれている必要最低限のことはすべてやる、でもそれ以上のことっていうのは、そのお医者さんとか看護師さんの道徳観や気持ち的なものによるところが大きいというか(^^;)

 なので、必要最低限のことだけはしてくれるっていう傾向の職員さんの多い病院・施設等は結果としてあまり評判のよくないそれとなり、マニュアル以上のことを+αでしてくれる傾向の強い職員さんがたくさんいる病院というのは自然評判が高くなる……つまり、そういうことなのかなって思いました。

 以前何かの本で、一般の人に医療の内側にどんどん入ってもらうということをしてもらったところ、「看護師さんの仕事がこんなに大変なものだとは思ってもみなかった」という意見がとても多かったということでした。いえ、前から「大変だろうな」とか「大変そう」とは漠然と思っていたものの、ここまでとは思わなかったっていうんでしょうか(^^;)

 医療と教育にはとかく理想を求める人が多いって言いますけど、それと似たようなことですよね、たぶん。

 自分が実際に学校の先生を一日やってみたら、「こんなに大変とは思わなかった」っていうのにも、似てる気がします。

 お医者さんも看護師さんも、「こんなに忙しかったら医療ミスって紙一重で絶対起きるよね?」とか「むしろ医療ミスが起きないほうがおかしいんじゃね?」っていう環境で働いてるように思うので、一般の人の中にその部分が<皮膚感覚>でわかる人が増えると、そこでもまた何かが少し変わってくるような気がします(^^;)

 ではでは、本文も長いのに、前文まで長くて鬱陶しいですけど(笑)、次回は医療ミスというかわたし個人のヒヤリハット事例と失敗談について書いてみたいと思います。。。

 それではまた~!!



       手負いの獣-20-

「あの、結城先生。今回の事件のことなんですけど……」

 珍しくどこか気後れがちに瑞島が追いかけてきたのを見て、翼は一体どうしたのだろうと不思議になった。というより、そうした態度を取られると、彼女が意外にも羽生唯に似ていると気づいて、翼としては一瞬ドキリとしたといったほうが正しいかもしれない。

「なんだ?また俺を女医の秘密の休憩室に連れてって、犯人は誰それだのっていう迷推理でも展開しようってことか?」

「いえ、そうじゃなくて……ただ物凄く嫌な予感がするんです。うまく言えないんですけど、結城先生、たぶん犯人は誰かっていうことに興味を持っているでしょう?だから、もし先生に何かあったらと思ったら、あたし……」

「ああ、そっか。余計なことに首を突っ込むあまり、いずれ誰かに俺も殺されるんじゃないかってこと?確かになあ、そう考えた場合、病院って場所は危険物がいっぱいだからな。人体に有害な毒物&てんこもりの凶器の山ってところか」

 エレベーターホールの前で、なかなかやって来ないエレベーターを待つ間、瑞島はやはり深刻な顔つきを崩さなかった。一階から六階に上がるまでの間、エレベーターに乗る他の患者の姿があったせいかどうか、ずっと押し黙ったままでいる。

「先生。ちょっと医療図書室までつきあってもらえませんか?」

「ああ。べつにいいけど……でもおまえだって、腹減るだろ?昼からは病棟で主任補佐の任務を果たさなきゃならんわけだし」

「その点はご心配なく。っていうか、本当はわたし、先生と話すつもりじゃなかったんです。昼休みに陽子ちゃんとお話しようと思って、朝会った時にお昼ごはんは彼女に預けておいたもんですから」

「そっか。それ、俺にも半分分けてくれると助かるけど。つーか、先にそう言ってくれれば売店でなんか買ったのにって話」

 翼と瑞島藍子は、医局から事務室へ続く廊下を歩く間、ぴたりと押し黙ることになった。事務室のほうからはどこか、通夜にも似た雰囲気が漂ってきており――流石の翼にも、ここで不謹慎な言葉を口にするようなことは憚られたのである。

「やっほう、陽子ちゃん!!」

 瑞島はあくまで小声でそう言い、俯いたままパソコンのキィボードを打っていた友人に向かい、にっこりと微笑みかけた。

「藍ちゃんと結城先生……あの、今は図書室に誰もいませんけど、もう少ししたらひとりふたり、誰か来られると思います。わたしはここを離れられないので、もし良かったら視聴覚室でふたりでお話してください。えっと、その――金井さんのことなら、家に帰ってから電話で話すことにしよう、藍ちゃん」

「うん、そうだね。じゃあわたしの物質(ものじち)、解放してもらってもいい?」

「はい、どうぞ。奥の視聴覚室にもし誰か人が来そうだったら、ビュッと走っていってノックするね。それじゃあごゆっくり」

 瑞島が<物質(ものじち)>と呼んだコンビニのビニール袋を受け取ると、翼と瑞島は図書室の奥まった場所にある視聴覚室に入っていった。足を踏み入れるなり、すぐ左に人体の模型図があって少し驚くが――そこはなんとも居心地のいいしつらえの場所で、リクライニングチェアふたつに、液晶テレビがその目の前に並んでいるといった具合の、秘密の隠れ家サイズの場所だった。

「ま、近くに人が来た場合、話の内容聞かれちゃうんで、声量には注意が必要なんですけど……っていうわけで、先生にはポカリ汗の清涼飲料水」

「ポカリ汗とかいうな、おまえ。それより、そのエビの突き刺さったにぎり飯寄こせ。医者には消費する体力の分、カロリーが必要なんだから」

「これは駄目ですよ、先生。かわりに納豆巻きあげますから、それで我慢してください。ナットウキナーゼが大腸に最高いいってのは、当然結城先生もご存じでしょう?何しろ消化器外科医なんだから」

(やれやれ)と思いつつ、ここでも翼はまた譲歩した。何故こうも看護師という人種は、自分の上司たる医師のことを黙らせて、思いどおりにするのがうまいのだろう。

「で、俺に話ってなんだ?」

「わたし、実は先生のことが……ウルウルとかいう話だったら良かったんですけど、残念ながらそうじゃないんです」

「べつに残念じゃねえよ」と言いつつ、納豆巻きをむしるようにして翼は食べた。

「いえ、今回は流石にこの瑞島藍子も真面目ですよ、先生。何しろこんな短期間の間に、人がふたりも殺されてるんですから……先生はお医者さんだから当然、事務員の金井さんのことは何もご存知ないでしょう?」

「そんなこと言ったらおまえだって、ただの看護師なんだから、一経理事務員のことなんか、知るはずないんじゃねーの?でも一応俺も、彼女がちょっと意地悪な女らしいってことくらいは知ってるぜ。そんで、俺の可愛いサニーちゃんのことを時々いびったりするんだろ?」

「先生、『地雷よりも花をください』って絵本知ってます?……って、また話逸れちゃった。ええと、そうじゃなくて、金井さんは<事務室の女ボス>と呼ばれる存在だったっていうことです。つまり、院内で流れる大きなお金の流れについては、大体把握してるってことなんですよ。で、彼女のことは事務長でさえどうかすることは出来ないって、そういう噂があるんです」

「<事務室の女ボス?>」

 翼が鸚鵡返しに聞くと、瑞島はえび天おにぎりに齧りつきながら、何度も繰り返し頷いていた。そしてその片手には爽健美茶が握られている。

「彼女、確か三十八歳くらいだったと思うんですけど……この病院が出来た十年前からずっと、K病院の事務室にいるらしいです。そしてそれは事務長も一緒で、経理部長の駒沢さんもそうだと聞いています。うちは医事課が一階にあって、レセプト関係の処理は当然そちらで行っています。で、六階の医局の事務室っていうのは、ようするに総務課なんですね。医師や看護師やその他病院の職員全般のお給料のこととか、院内の物品については今朝院長が言っていたとおり、トイレットペーパーひとつに至るまで管理してるっていう、金井さんはそういう経理全般の担当者だったらしいです。わたしが思うに、あの時院長が言いたかったのは、一億とか三億する病院の精密検査の機械から、トイレットペーパー一個二十円っていうそのすべてを彼女は管理してたっていう、そういうことなんじゃないかと思って。あ、ちなみにこの一個二十円っていうのは、わたしの勝手な想像ですけど……業者に一括で注文したものが物品庫にぎっしり詰まってるのを見て、きっと安く買いつけてるんじゃないかなって思ったもんですから。なんにしても、病院に置いてあるもののことなら、金井さんはなんでも値段を知ってたってことです。電気メスの値段がいくらとか、人工呼吸器が一台いくらとか、果ては万能つぼやサクションチューブ、インスピロンの値段などなど……薬局は薬局で、また管理が別になるらしいんですけど、それでも最終的にありとあらゆる伝票は最後、金井さんの元に上がってくるわけですからね。医療機器メーカーとの不透明なやりとりなんていうことも、もしかしたら金井さんは昔からずっと知っていたのかもしれません」

「つまり、おまえは金井さんが死んだのはそうしたことのせいなんじゃないかって言いたいわけか?」

 ここで瑞島はしーっ!と、口許に指を立てている。

「先生、声が大きいです。まあ、結城先生があの美形の画家先生を図書室に送りこんでから、昼休みにはほとんど人が来なくなったって、陽子ちゃんは言ってましたけどね。あの画家先生も、なんというイチゴみるく男子……って、そうじゃなくて、諏訪先生はともかく、金井さんに関してはそのへんが匂うなあってわたしは思うってだけの話なんですけど」

「ふうん、そっか。でもそうなると、犯人は大分絞りこまれてくるぜ。そこらへんの金の癒着のことで彼女が何気に脅すことが出来る人物といえば、院長とか事務長とか、そのあたりの人間ってことになる。けど、今回もまた院内で犯人は殺人を犯してるんだぜ?仮に院長や事務長が犯人だとしたら――わざわざそんなことをする必要性がまるで感じられない。最低でも別の場所に彼女を呼びだして、夜の内に病院の裏の林にでも埋めたってんならまだわかるにしても……諏訪晶子殺しの犯人と金井美香子殺しの犯人が同一犯なのかどうかさえ、俺にはさっぱりわかんねえな」

 翼が率直にそう意見を述べると、瑞島はまるで飼い犬にエサでも与えるように、魚肉ソーセージを彼に手渡していた。

「ああ、良かった。結城先生、まだそんなに事件の核心的なところにまでは到達されてなかったんですね。わたし、もしかしたら先生がかなり際どいところにまで捜査の手を伸ばしつつあるんじゃないかと思ったもんですから……犯人に目をつけられて、次の当直の時にでも殺されるんじゃないかっていうくらい。でも良かった。その程度のボンクラ推理なら馬鹿でも出来ますからね。先生、それでももし、犯人にカマをかけてふん捕まえようっていう時には、是非その前にわたしに一声かけてください。先生が死んだことで犯人がわかった、なんていう事態になる前に、もしかしたらなんとか出来るかもしれませんから」

「なんだ、おまえ。さっきから人を馬鹿にしたような物言いばっかしやがって」と、翼は魚肉ソーセージのフィルムをはがしながら言った。「ま、いいけどな。実際犯人が誰かなんて、俺にはさっぱりわかんねえってだけじゃなく、目星さえついてないような状態なわけだから。それよか、こんなしけた魚肉ソーセージなんかより、もっと他になんかないのか。『そうです、先生。わたしが欲しかったのはこういうものです』的な何か」

「チェッ。しょうがないなあ。結城先生はまったく我が儘なんだから。だったら食後のスイーツに、餅入りドラ焼き、略して餅ドラなんてどうです?」

「何が『チェッ』だ。それに、いちいち略する意味がわかんねーし。とにかく、なんでもいいから早く寄こせ。俺は昼から胃カメラの検査があんだから。また看護師の奴に『次に遅刻したら許しませんよ』って小言を言われないためにも、早く胃で消化して栄養価にしちまわねえと。それにしてもおまえのコンビニにおけるチョイスは最悪だな。普段一体何食って生きてんだとすら思うぜ」

「ひっどーい。せっかく人が自分の分の貴重な栄養価をただで譲ってあげてるっていうのに……なんにしても、今日の内視鏡付きの看護師はうちの田所ですから、ちょっとくらい遅れたって、『患者さんが可哀想』ってボソッと呟く程度だと思いますよ」

「やれやれ。たったのこれだけじゃ、夕方には腹がすきまくってしょうがねえだろうな。しかも、食っても食わなくても三百円は給料から差し引かれるってわけだ」

 翼が溜息をついてドラ焼きに齧りついていると、瑞島はふと思いだしたというように、魚肉ソーセージを食べながら言った。

「先生のお給料から三百円くらい差し引かれたって、蚊か蠅が顔にションベンしたっていう程度でしょうよ。それより、食堂のことと関連してふと思いだしたんですけど……うちの人事がどんなふうになってるかって、結城先生は知ってます?」

「いや、知らんよ」

(こりゃ、ドラちゃんもびっくりってくらいの、なかなかうまいドラ焼きだな)などと思いつつ、翼はもぐもぐ口を動かして言った。

「お医者さんやわたしたち看護師なんかは、院長先生や総師長、それに各科の担当の部長先生や事務長なんかが面接するんですけど――たとえば看護助手ですとか、食堂の蛯原さん、あと手術室の滅菌担当者などは結構、人材派遣会社が仲介してるらしいんですよ。で、三か月くらいうちで働いてもらって、向こうもうちの職場を気に入ってこっちも異存なしってことになると、K病院が直接雇用するらしいんです。あと、わたしが小耳に挟んだところによると、医療事務員さんなんかも、わりと派遣で来る場合が多いみたいなんですよね。まあ、そんなに何人もってことはないでしょうけど……その人材派遣会社っていうのが、ロベルティエ製薬の子会社みたいなところらしいんです」

「へえ……」

 翼はもうあまり時間がなかったので、それ以上自分から何か説明することはなく、ポカリスエットを飲んで水分補給を完了すると、このままここで眠っていたいようなリクライニングチェアから、意を決して起き上がった。

「そいじゃまあ、おかしなチョイスの昼飯をごっそーさん。あと、瑞島から聞いたことは何かと色々参考になった。サンキューな」

 そう言い残して、ゴミの後片付けを押しつけると、翼は視聴覚室からそっと出た。瑞島藍子はといえば、すぐあとについて来るでもなく、何か面白いものでも見るように、テレビの横に置かれたヘッドホンをいじったり、壁に並ぶDVDをぐるりと見渡したりしている。

 おそらく、ふたり一緒に視聴覚室から出てきたところを見られた場合――外科の主任補佐と結城先生はちょっとした仲らしい、といったように噂されると彼女は用心したのかもしれない。なんにしても翼は、視聴覚室からこっそり出ると、ふたりほどしか医師のいない図書室を出て、急いで一階へ向かうことにした。

「サニーちゃん。要の奴がよろしくってさ」

「そ、そうですか。あの、わたしも絵の完成を楽しみにしてますって、そうお伝えいただけると嬉しいです」

(それにしても少し、不思議な子だな)

 翼としてはやはり、そう感じざるをえない。自分がもし女なら――という想像は、翼には少し難しいのだが、それでもやはり年収の高い医者という職業の男には、多少なりとも心惹かれるものがあったように思われるからだ。そしてそういう可能性をバッサリ切るようなことをして、本当に正しかったのだろうかと、今さらながら思わないでもなかったのである。

 午後からは翼は内視鏡検査室に籠ったのち、またしても気の重くなる宣告を患者にしなければならなかったあとで――五階の病室へ顔をだしてから、医局の自分の部屋へ戻った。

 そこには術着姿の茅野がどこか、半ば放心したような態で腕を組んでおり、翼はすぐに術後の経過が思わしくない患者のことでも彼が考えているのだろうと想像した。

「どうしたんスか、御大。もしかして今日はクマのメスさばきにどこか、曇りでもあったとか?」

「馬鹿いえ。クマ五郎の手術の冴えは今日も絶好調だったぞ……って、そんなことではなくな、金井さんのことを発見した時のことを思いだすと、なんとなく気分が暗くなるというか、そんな気がしてな」

「えっ!?金井さんの第一発見者ってもしかして、茅野さんだったんですか?」

 今朝、彼らしくもなく「警察から何か聞いて知ってるんじゃないか」と聞いてきたのは、それが原因だったのだと、翼は今更ながら思い至って驚いた。

「ああ。きのう俺は、日直の担当に当たっていたからな。会議室の横のホールにある、おまえの友人が描いたという絵を見ようと思って、事務室の前を通りかかったんだ。ああいうのを、もしかして虫の知らせっていうのかどうかわからんが、俺は事務室のドアが開いてないのがおかしいとその時思った。普段は、土曜や日曜でも事務室と医療図書室のドアは開きっぱなしになっている。というのも、事務室の貴重品は土・日には事務長室にある金庫に全部しまいこまれていて、事務長が自分の部屋の鍵をかけて帰ることになってるからなんだな。俺はその時、もしかしたら誰か人がいるのかもしれないって思った。諏訪先生の件で連日電話が鳴りっぱなしだった結果として、事務方はみんな残業してたから、休みの日にも仕事にくるはめになったのかもしれないと思ってな……で、ちょっと労いの声でもかけようかと思ったら、そこに金井さんの倒れている姿があったわけだ。もうすでに亡くなっていることを確認したのち、俺は事務室から警察にすぐ電話した。まあ、あとになってから、この対応について院長や事務長には色々言われる結果になったが、俺はこの対応で正しかったと今も信じている」

「ああ、そっか。そういえば思ったんですけど、金井さんはそもそも休みの日に出勤してきて仕事してたところを殺されたっていうことなんですか?」

 疲れたクマに癒しをと思い、翼は彼にコーヒーを入れてやることにした。それから机の夜勤時の非常食の中から、選りすぐりのうまい棒を何本か取り出す。

「クマに変な気を使う必要はないぞ、結城。それよりも、俺のほうからおまえにこれをくれてやろう」

 そう言って茅野は、どこか乱暴にビリビリ包み紙を破くと、餅入り最中を翼に投げて寄こす。

「あ、そーいや、茅野さん。あの金、返しておいてくれました?よく考えたらあの金ってたぶん、十三階のじーさんの手術した見返りって可能性が高いんですよね。だからあのふてぶてしいジジイは、俺のことを休みの日に呼びだしても金やったんだから当然って態度だったんだなって、あとになってから気づいたんですけど」

「ああ。たまたま偶然廊下ですれ違った時にな、三分ほど話があるって声をかけたら、自分の話を聞いてもらえるもんだと勘違いしたんだろう、金を返したらびっくりした顔してたよ。『結城先生は見かけによらず、意外に潔癖なんですね』ですとさ」

「まあ、なんにしてもいいや。俺は自分の良心の牙城を死守できれば、それで十分なんだから。それより、茅野さん。こういう聞き方は不謹慎なんですけど……金井さんは一体どんなふうに倒れてたんですか」

 餅入り最中自体に罪はないとばかり、翼は包み紙を破くとその中身にパクついた。やはり昼食が納豆巻きと魚肉ソーセージ、それにドラ焼きというのでは、腹持ちがあまりに悪すぎた。

「うちの事務員さんたちの制服は、一階の医事課の人たちも全員、灰色のチェックのベストに揃いのスカートって感じだろ?でもあの日の金井さんは、とても華やかな格好だったんだよ。リボンのついたピンク色のブラウスに、こう言っちゃなんだけど、中年の女性が着るのはどうかっていうような、フリルのついたスカートを着ていてね。まあ、休日出勤する時には、格好なんてどうでも良かったのかもしれないが、まるでデートにでも行く時のような格好だったね。仕事が終わったら、もしかして家族でどこかへ行く予定でもあったのかもしれないな」

「へえ。俺も死んだ人にこんなこと言うのはなんなんだけど……あの人、眼鏡キャラの女性には珍しく、髪の毛が金に近いくらいの栗色でしたよね。まあ、会計のところで患者と会うってわけでもなし、髪の色のことなんてどうでもいいっちゃどうでもいいんだろうけど。私服のファッションセンスとあの髪の色はちょっとどうかなあってふと思ったもんですから」

 翼が軽々と最中を食べ終えると、ふたつ目がクマの手元から投げ渡される。

「まあ、それ以上に俺が気になったのは、金井さんのそばに落ちていたエルメスのスカーフなんだ。刑事さんたちの話では、そのエルメスのスカーフで犯人は金井さんのことを絞め殺したってことらしいんだが……諏訪先生と玄関口で会った時に、あれと同じものを彼女がしていた記憶があるんだ。まあ、エルメスのスカーフなんて、多くのブランド好きの女性が愛用してるから、ただの偶然である可能性が高いにしても……諏訪先生といい金井さんといい、なんでこんなことになったのかと、溜息が出るばかりだよ」

「クマは優しいっすからね。デートに行くような格好に、エルメスのスカーフかあ。もしかして彼女、不倫してたってことはないんですかね。旦那と結婚して何年になるのかは知らないけど、旦那の連れ子と仲良くできなくて悩んでたって、ちらっと小耳に挟んだ記憶アリですよ、俺。で、大胆にも医局で待ち合わせてたなんてことは……」

「どうだかなあ。クマにはそのあたりの直感力がゼロだから、何がなんだかさっぱりわからんよ。なんにしても、刑事さんたちが一日も早く犯人を捕まえてくれることを願うのみといったところだ」

 ここで、大体のところコーヒーが沸いたので、翼はクマのマグカップにそれを注ぎ、自分のカエルのマグにも並々とコーヒーを注いだ。

「おお、サンキュ。なんにしてもおまえ、明日は食道ガンの手術があるだろう?準備のほうは大丈夫か?」

「町田留造さんに対するムンテラはさっき終えましたけど、本人の顔つきが暗いのが何より気になりましたよ。あの人の部屋にいくと、食道ガンの人の闘病記とか、ガンについての本がまるで医者を圧迫するかのように積み上げてありますからね。ある意味、患者が色々知りすぎるのも問題かもしれないって思わなくもないっつーか……基本的に、上のほうにある臓器がガンになるほうがヤバいっていうのは、素人でも知ってるような常識だし、その中でも食道ガンは質が悪いとか、どの本にも書いてあるのを読んだりしたんでしょうね。『何か不安な点や質問などありませんか?』って最後に聞いたら――『このレントゲンとかCTの映像は、本当にわたしのものなんでしょうか』って言ってましたっけ。俺、何が言いたいんだろうと思って聞き返したら、『いえ、ガンは目に見えないから、こんなものが本当に自分の体にあるんだろうかと不思議になる』ってことだったんですよ。医者の説明を聞いて、ここにガンがあると聞くと、ああそうなのかと思う。で、手術をしてガン病巣を取り除けば根治する可能性があると言われても――何かこうみんなが自分に嘘をついていて、無駄な手術を受けさせようとしてるんじゃないかと感じることがあるって言うんですよ。俺、内心でちょっと『参ったな』と思って、町田さんの食道ガンは胸腔鏡手術が適応できるくらい初期のものだっていうことを一から説明し直したんですよね。もちろん、初期と言っても難しい手術であることは確かだし、云々といった説明を長々としたわけなんですけど……町田さんは結局、俺の説明では全然納得してない様子でした。で、速攻医務室から緩和ケア病棟に電話して、山ちゃんに相談したんですよ。そしたら、他にもそういうことを言う患者はいるから、自分がちょっといって安心させてみるって言ってくれて。いやあ、まったく癒しの貴公子、山ちゃん様さまって感じでした。そのあとに俺が部屋にいったら、『もうこれですっかり肚が決まったから、結城先生よろしくお願いします』って頭まで下げて……なんていうんでしょうね、俺と話してた時とは顔つきが全然違うんですよ。町田さんになんて言ったんだって聞いたら、また今度お教えしますって、山ちゃんは笑ってましたけど」

「ははは。まあ、人間には誰でも、向き・不向きがあるからな。おまえの通常のしゃべりは、丁寧に話してるつもりでも、どっか冷たく突き放されてるように誰でも感じるだろう。で、手術後に『無事成功しましたよ』って聞いてから初めて、『物言いはともかく、あの先生はいい先生だ』となる……そういう意味で、おまえはある意味ほんとに損な奴だよな。結城の中のどこらへんのスイッチやレバーを押せばそういうのが治るのか、俺にも結局わからずじまいだった。ま、山田先生から患者とのコミュニケーション術を学ぶってのは、おまえにとっていい勉強になるだろう。それにおまえの場合、そう素直に人から教えを乞おうとは思わん質なわけだから、すぐ山田先生に連絡しようって思うあたり、それはいい傾向かもしれんな」

「何言ってんスか。俺、茅野先生と及川先生には低姿勢で教えを乞おうとしてたと今でも思いますけどね」

 でんぐりガエル、そっくりカエル、みちガエル、ひっくりカエル……などと書かれたマグを手にとり、翼はずずっとコーヒーをすする。

「だからようするに、それはおまえが山田先生同様、俺や及川先生のことは<これ>という人間として直感的に認めたからってことだろ?だが、俺が見ていて思うに、結城がそれ以外と認定した人間に対する態度ってのは、一言でいえば冷たいな。特にその他大勢というカテゴリーに入れた人間に対しては、視界にいないも同然だろう。おまえは自分のそういう性格を根本的に治そうとか、治そうと努力しようと思うことはあるのか?」

「んー……いや、ありますよ。つーか、そう思ったから救命救急医も辞めようと思ったわけだし。これ以上ずっとここにいても、自分のそういう欠点は治らんなと思ったというか……なんにしても俺、茅野さんにここに呼んでもらって良かったと思ってるし、マジな話感謝もしてます。ただ、俺が来た途端に医局で殺人事件が起きたあたり、自分のせいじゃないはずなんだけど、なんでこう責任みたいなもんを感じるんだろうと思ったり」

「ま、そんなものはただの偶然だ」

 餅入り最中をひとりで六個ほど食べたのち、またひとつ、クマは自分に噛みつくかもしれないヒョウにエサを投げて寄こす。

「第一、そんなことを言ったらおまえと一緒に入局した雁夜先生だって、なんらかの運命的因果関係にあるということになるだろう。だがあの人は脳外科医だから、自分がK病院にやって来たことが諏訪先生の死を早めたのではないかだの、金井さんの死を招く結果になったのではないかだのとは、まったく考えないんじゃないかな。ただ、諏訪先生のことはおそらく、院長がもう少し前に手を打って、彼女のことを転勤させるべきだったんじゃないかとは、俺も思うよ。男ってのは下品な生き物だからな、諏訪先生にまるで相手にされなかった医局員の中には――彼女が次に誰と関係を持つようになるか、賭けをしだす連中までいたらしい」

「あ、俺もそれに似た話を誰かから聞いた記憶があったような……そうだ、そうだ。山ちゃんだったかな。宮原総師長が諏訪先生は倫理的に問題ありってことを嗅ぎつけて、院長に進言したとかいう話。でもなんで諏訪晶子は結局、ここにい続けることになったんだろう……」

(その時、他の病院に出向していれば、死なずにすんだかもしれないのに)――そう翼が言おうとしていると、コンコンと二度ドアがノックされた。

「どうも、結城先生。先日はまったく失礼致しました。捜査に関係したことで、また少々お話をお聞かせ願えないかと思いまして……」

 赤城警部の顔を見るなり、何か有益な新情報があったに違いないと感じ、翼は後ろを振り返り茅野のことをじっと見つめた。

「ああ、俺はちょっとこれから妻と約束があるんで、話をするんならこの部屋を使うといい。捜査状況が今どうなってるのか、是非俺も知りたいが、家で飼う子犬を引き取りに行かなきゃならないもんでな。ま、詳しいことは明日、おまえが聞かせてくれや」

 茅野はそう言うと、時計の針が六時近くを指しているのを眺め、おそらくは愛妻の見立てだろう、茶の革のコートを着て、部屋から出ていった。

「刑事さんっていうのも大変っすね。俺らにしてみれば、六時に帰れるなんて全然早いって感覚ですけど……話が聞きたいんなら、夜の八時以降にしてくれって言われたら、それまでずっと待ってたりするんだろうし」

 翼は労いの意味もこめて、紙コップにコーヒーを入れると、赤城警部と白河刑事に、それぞれ差しだした。そして茅野の机までいき、餅入り最中の残り三個を失敬させてもらうことにする。

「いや、きのう時司先生のお宅では、実に有意義な時間を過ごさせていただいたと思っています。結城先生もご存知のとおり、あの時、事務員の金井美香子が殺されたという一報が入りましてな……で、死因は絞殺によるもので、近くには彼女を絞め殺したとおぼしき、エルメスの鎖模様のスカーフが落ちていました。このスカーフ、医局で色々な先生方に見てもらいましたところ、実に多くの方が『諏訪先生がしていたものじゃないか』と証言されていて。そこで我々は思ったのですが、何故犯人はダイイングメッセージよろしく、諏訪先生のスカーフを犯行現場に落としていったんでしょうか?何よりもこれは、諏訪晶子殺しの犯人と金井美香子殺しの犯人が同一人物ということを示唆しているように思われてならないと言いますか……」

「あるいは、諏訪晶子殺しに便乗しようと思った犯人が、捜査を攪乱させるためにわざと落としていったかのいずれかってこと?」

 ふたりとも、よほど腹が空いていたのだろうか、いそいそと最中の袋の封を切り、それを三口ほどでぱくぱく食べてしまう。

「まあ、その可能性も当然あるわけですが……」赤城警部は、コーヒーで最中を飲み下して続けた。「どうもね、捜査を進めていく過程で、総合的に見てもっとも怪しい人物が高畑京子先生なのです。高畑先生が諏訪先生のロッカーから封筒と思しきものを取っていったという証言しかり、警備員があの土曜に彼女の姿を見かけたこともそうなら、何より、高畑先生には金井美香子を殺す強力な動機があるんですよ」

「えっ!?高畑先生と金井さんの間に、そんなすごい接点があったってこと?」

 翼は驚くあまり、最中を手からポロリと床に落としていた。もっとも、今も翼の中では人物評価的に、高畑京子は殺人犯などでは断じてありえなかった。何故といえば、手術室における彼女の手技は精緻にして完璧であり、診察室、あるいは回診時における高畑京子の医師としての振るまいにも、揺るぎのようなものは一切なかったからである。

「ええ。高畑先生の別れたご主人が、金井美香子の再婚相手だったんですよ。で、高畑先生が離婚されたのが今から九年前のことで、彼女が三十歳の時のことです。そしてお子さんのほうは当時まだ三歳だったとか。高畑先生からお聞きしたお話によりますと、高畑先生が結婚された男性というのは、ろくでもない男だったようですな。医者としての高畑先生の収入に期待して、ろくに働きもしないタイプの駄目男だったとか。高畑先生は当然、親権を主張したわけですが、この駄目男、司法試験になかなか受からないうちにどんどん駄目になっていったという男でして……つまり、法律には相当詳しかったわけです。そこで、ただ高畑先生のことを苦しめるためだけに自分が親権を奪取できるよう画策したんですな。最初の取り決めでは、それでも一か月に一度は会えるということだったようですが――まあ、これも高畑先生のご意見ですので、本当のところはどうなのかわかりません。とにかく彼女のお話では、彼女の元夫はまたしても高畑先生を苦しめるためだけに愛してもいない女性とすぐ結婚したということでした。そこで親子三人、実にうまくいっているという姿を見せつけ、法的にではなく自分と息子を二度と会えないようにしたのだと……ただ、最後に先生は『だからといって殺したりなんて、するわけがないでしょう』と、我々のことを実に厳しい目つきで睨みつけておられましたな」

「確かにそりゃそうだ。でも、俺がちらっと小耳に挟んだ話じゃ、金井さんは血の繋がりのない息子が懐いてくれなくて、悩んでたってことだったけど。まあ、その高畑先生の息子さんがもし、愛のない家庭とやらで育ってるんだとしたら――なんとも不幸なことのような気はするな。ところでさ、赤城警部。高畑先生が諏訪晶子のロッカーから持ちだしたものって、結局なんだったんだ?」

「ゴルフコンペに関連した、製薬会社の賄賂の証拠となる文書だったらしいですよ。高畑先生は取り返してすぐそれをシュレッダーにかけてしまわれたということで、現物は見ることが出来ませんでしたが……その点についてはご自分でも非を認めておいででした。K病院では、製薬会社はロベルティエ製薬を贔屓にし、医療機器メーカーはヴァルキサス・グループという会社を特別な取引先としていたようですな。もちろん、他の製薬会社、医療機器メーカーともそれなりに懇意にしているようですが、それは特定の会社とだけ取引していると見られないための、言わばまあ隠れ蓑という部分もあるようで……まあ、このあたりのことをお話くださったのは、総務課の経理担当の駒沢部長でした。病院の不透明な資金の流れについて知っていたのは、自分と金井さんと事務長、それに院長の四人だけ。そしてその中のひとりが殺されたということは、自分もこれからどうなるかわからない――という不安が増大するあまり、我々に普段は話さないだろうことを打ち明けてくれたわけです」

「まあ、高畑先生の罪の意識が希薄だったっていうのは、俺にもなんとなくわかる。親父が院長で、特定の製薬会社や医療メーカーを贔屓にしてたら、突っ張るだけ損ってものだからな。じゃあ、高畑先生は諏訪晶子に脅されていたってことなのか?」

「ええ。ゴルフコンペで用意した景品のリストと、賞金の五十万円をロベルティエ製薬の営業部長が高畑先生の部屋に置いていったのですが、それを盗んだのが諏訪先生だったようです。『この五十万は口止め料としてもらっておくわ。でもわたしがこんなことをしたのは、お金が目的じゃない。あなたがわたしを娼婦呼ばわりしたからよ』……高畑先生はそう諏訪先生に言われたそうです」

「でも、その時諏訪先生は鍵をどうしたのかな。まさか事務室から盗んだとか?」

「いえ、ロベルティエ製薬の人が来るとわかっている時には、高畑先生は部屋の鍵を開けておくのだそうです。で、昼休みに部屋へ戻ってきたところ、あるべきはずのものがなかったと……諏訪先生はその日、白内障の手術が入っていたそうですから、手術室を出た時にでもロベルティエ製薬の営業マンが廊下を歩く姿を見たのかもしれません。で、何気なく後をつけていったら、高畑先生の部屋へ勝手に入り、また出ていくところだったのではないでしょうか」

「なるほどね。でも俺の記憶じゃあ、高畑先生はその時『朝はあったお金がない』みたいに言ったって聞いたけど、そうじゃなかったってことだな。もちろん、そう言わなきゃ辻褄が合わないってことで、咄嗟についた嘘だったんだろうけど……あと、そんな大切なものをなんで諏訪先生がロッカーに置いてたのかも、なんとなくわかんないでもない。それは彼女にとっては外にバレようがどうしようがどうでもいいものだったから、割とずさんに扱ってたんだろう。それに、医局の自分の机に入れておくよりも、女医のロッカーのほうが安全だっていう部分もあったかもしれない。けど、高畑先生はなんで、諏訪晶子が死んだと聞いて、すぐロッカーにそれを取りに行ったんだろう。第一、最初からそれがそこにあるとわかってたら、手の打ちようはいくらでもあったはずだ。それなのに、なんで……」

 翼が自分の頭の中で考えたことを、独り言でも呟くように一方的にしゃべっていると、その答えを赤城警部が提示した。

「高畑先生個人の携帯のほうに、メールがあったそうですよ。>>例のものはスワのロッカーにある。取りにいけ。という文面だったそうですが、その記録はすぐに消したということで残っていません。ちなみに、メールアドレスのほうは、まったく身に覚えのないものだったとか」

「う~ん。よくわかんねえなあ。ま、犯人が殺人と医局からの逃亡に忙しいあまり、例のものを処分することにまで手が回らなかったっていうことかな。で、そのような善意のメールをしたと……っていうことはこりゃ、ほぼ間違いなく院内の人間が諏訪晶子のことも金井美香子のことも殺したってことか。ところでさ、金井美香子自身は誰かのことを脅してたってことはないのかな。例の不透明な金の流れに関してってことだけど」

「経理部長の駒沢さんの話では、金井さんが事務長や院長を脅すことはありえないということでした。というのも、金井さんも駒沢さんもすでに勤続十年になりますし、そのことを黙ってさえおけば、普通の企業で事務員として働く三倍くらいのお給料をいただいていたということですからね。金井さんが忘年会の時に酔って話していたところによると、彼女の旦那という人はすっかり彼女の金をあてにして、ろくに働きもしていないのだとか。唯一、高畑先生と離婚調停を進めている時だけ、一流企業に勤め先を見つけ、頑張っていたそうですが……ゆえに、金井さんが勤務先を失うということはそのまま家族全員が路頭に迷うことを意味していたそうですよ。仮に事務長や院長を脅して一千万や二千万の金を巻き上げるより――長い目で見れば退職金含め、真面目にコツコツ勤務したほうが割がいいと考えるという、金井さんはそういう人でもあったろうと、駒沢さんはおっしゃっていましたね」

「今までの話で、まあ一応理屈としては、高畑先生が容疑者のトップになったっていうのは、俺にもわかる。メールが来たとかいうのも全部彼女の嘘で、高畑先生が諏訪晶子も金井美香子も殺したんだろうっていうのも、一応筋が通っているように聞こえる……けど、なんかこういまいちしっくりこないんだよなあ。赤城警部たちが彼女を疑ってるのはやっぱり、ふたりの死亡推定時刻に高畑先生のアリバイがないっていうせいもあるのか?」

「ええ。諏訪晶子の死亡推定時刻には少し幅があるんですが……それでも状況から見て、浴槽に浸けられたのは大体夜中の一時以降でしょう。君塚先生にお聞きしても、バスルームの横は確かに通ったが、電気がついていたかどうかなんて、特に気に留めなかったということですし……でも犯人は、その時まだ浴室にいたはずなんですよ。そして我々が想像するには、周囲の物音に耳を澄ませ、おそらく誰もいないというタイミングを見計らい、外に出たのだと思います。そのあと一体どこに隠れていたのかはわかりませんが、もし仮に高畑先生が犯人であった場合、ご自分の部屋にいたという可能性が高い。そしてその時の高畑先生のアリバイは、独り暮らしをしている自宅で眠っていたの一言でした。金井美香子の死亡推定時刻は土曜の夜、十時から零時の間くらいで、発見されたのは翌日曜の午前十二時頃です。高畑先生は土曜にも日曜にもやはり自宅にいらっしゃったということでした。土曜日はゴルフ仲間とゴルフに行く予定だったそうですが、天候不順により中止したとのことで、結局土曜も日曜もご自宅で勉強をしてすごされたと……なんでもお医者さんというのは、一生勉強なさるものらしいですな。高畑先生は海外で発表された論文を読み、ご自分でも論文を執筆して、その両日は過ごされたということでした」

「赤城警部たちはどう思うかわかんないけど、それは本当にそうなんだよ。何しろ医学の世界は日進月歩、大学病院を離れたら、最新の情報や学識については自分で勉強したりなんだりするしかないだろうし……高畑先生はそこらへん、結構神経質だと思う。たぶん内視鏡手術っていうのは、低侵襲で治りが早いとかって一般の患者は思ってるだろうけど、医者の習熟レベルはまだ一定してないんじゃないかな。開腹手術や開胸手術はともかく、内視鏡は俺のほうがうまいって認めるあたり、高畑先生は平等で公平な精神をお持ちな方なわけ。何しろ気に入らない俺のことでも、そういう評価を冷静に下せるわけだから……で、そういう人が誰か人殺すかって言ったら、俺の中じゃあんまりピンと来ないんだよな。大体、例のものはスワのロッカーにあるとかいう文書も、高畑先生を嵌めるためのものだっていうふうに、考えられなくもないだろ?」

「ふむ。その可能性は我々も考えてみませんでしたな」

 アイボリーのソファに並んで腰掛けている赤城警部と白河刑事に向かい、翼は自分の考えをさらにとうとうと述べる。

「なんかさ、高畑先生と腹違いだっていう弟が、この院内にいるんだよな。で、そいつが院長の肺ガンの手術を半年くらい前にしたって話。もしこいつがなんらかの理由で院長及びその娘を内心では憎んでいたとしたら――復讐のためにK病院にやって来たっていう可能性はないだろうか?まあ、実際には父親のことを慕うあまりに医者を志したとか、そんなところなんだろうし、医大を卒業するまでの養育費なんてのも、院長の財布から出ていて、そのことにも感謝してんのかなって思うけど……飯島先生とは俺、直接話したことがあるわけじゃないから、赤城警部たちが興味あるなら調べてみてとしか言えないんだけど」

「なるほど。その件については我々のほうでも留意しておきましょう」

 赤城警部と白河刑事のふたりは、紙コップのコーヒーを一滴残らず飲みほしてから、「ではまた何かありましたら、よろしくお願いします」と頭を下げ、部屋から出ていった。時計を見ると、時刻は七時――翼は突然、奇妙な脱力感と疲労感に襲われ、マンションに帰るのが億劫な気分になった。

 おそらくこうした瞬間に、諏訪晶子のような女に声をかけられたら、ついていく男は多いだろうと、翼はそんなふうに想像する。

「それにしても俺、なんで高畑先生を庇うようなこと、言っちゃったのかねえ」

 ふう、と溜息を着いて自分の前髪をかきあげながら、翼は机の上にぐったりと身をもたせかけた。

(たぶん、個人的にあの人が犯人であってほしくないっていうのと、あとはアレだ。山ちゃんが高畑先生のことを好きっていうのがあるよな。あんなに慕ってる女性が殺人犯として疑われてるなんて知ったら、山ちゃんもショックだろうし……)

 ここで翼は一瞬、山田優太が高畑京子の弱味を握る諏訪晶子を殺し、また彼女を苦しめる存在であった金井美香子をも殺害したという仮説が頭に思い浮かび――慌てて頭を振った。

(アホか、俺は。たぶんちょっと疲れてるんだな。明日はつっとばかプレッシャーのかかる手術も控えてるし……今日は早く帰って寝ることにしよう)

 そう思って翼が机の上を片付けていると、不意に内線で電話が鳴った。その相手は山田優太であり、明日手術予定の町田留造のことも含め、少しばかり話が出来ないかということで、ふたりは自然、また<港しぐれ>へと出かけることになった。

 そして翼はそこで、ガン患者の実に複雑で、ある場合には屈折した心理パターンを山田より色々聞かされ、「なるほどなあ」と唸ることになったのである。



 >>続く……。





最新の画像もっと見る

コメントを投稿