天使の図書館ブログ

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手負いの獣-17-

2013-03-16 | 創作ノート

 今回もまた文字制限に引っかかってしまったので、中途半端なところで切れて、次回へ>>続く。となっています

 ところで今回の画像はアバド指揮のブルックナーの交響曲第4番ロマンティックなんですけど……ブルックナーといえばギュンター・ヴァント先生や朝比奈隆先生のことをなんとなく同時に思い浮かべます。

 翼の指導医だったらしいブルックナー好きの朝比奈先生は、朝比奈隆先生から名字をいただいたんですよね(言わずもがな☆笑)

 そんで、その娘が朝比奈旭ってことにしてみたものの、旭ちゃんにはどうもお父さんと違って外科医としての才能はないのかなって思います(^^;)

 最近読んだ「完全図解・病院のしくみ」(石沢武彰先生編著・万代恭嗣先生監修/講談社)という本の中で、研修医C先生のお仕事として、


 >>基本的には研修医はすべての手術に参加し、多くの場合は第二助手(術者、「前立ち」と呼ばれる第一助手に次ぐ、3人目の医師)を務めます。第二助手は何時間も同じ姿勢で手術器具を持ったり、臓器を押さえたりしなくてはいけないので、体力的にきついこともあります。術野(手術操作を行っている場所)がまったく見えないような体勢の時には、正直猛烈な睡魔に襲われることもありますが、外科志望の研修医としては、手術を間近で体験できるので何よりも大切な勉強になります。今までは、手術の最後に皮膚を縫合するくらいしか任せてもらえませんでしたが、最近は簡単な外来手術などで術者をやらせてもらえるようになり、やり甲斐を感じています。


 とあったんですけど、わたしの↓の書き方では旭ちゃんは吸引が出来ればいいって感じなのかなって思ったり(いや、きっとそういう仕事もしてるんだよ!笑)

 あと、結腸手術の術後管理的なことは、前に画像を貼ったエキスパートナース2012年11月臨時増刊号を参考にさせていただいたものの、書き方が合ってるかどうだかな~☆と思ったり。。。

 この間大鐘稔彦先生の<孤高のメス>の第1巻を読んだんですけど(一部ナナメ読み☆)、色々な病気や手術室の描写などが圧巻だなあと思いました♪(^^)

 いえ、見たのは映画のほうが先なんですけど、映画と全然お話というか、雰囲気的なものが違う気がして、少しびっくりしました。「当麻先生が手術室で演歌をかけるって、あれは映画オリジナル?」とか思ったり(笑)

 2巻目以降まだ読んでないので、どこかでその設定が出てくるのかしら……と思ったりもするんですけど、自分的に登場人物として好きなのは、当麻先生よりも麻酔科医の白鳥先生かもしれません(^^;)

 どうもこう自分的に麻酔科医っていうと、随分昔にあった麻酔科の先生の麻薬中毒事件を思いだしてしまうせいか、登場人物としてはギャンブル好きで人格が破綻したジャンキーというイメージがあるんですよね(どんな)なので、↓の戸田先生もついそんな人にしちゃったものの、いかにもって感じのプロトタイプな設定だなあと思ってたので、それで余計に白鳥先生が眩しく感じられたのかもしれません。。。

 ところでこのお話、実はわたしの中で主題歌が「演歌」です(笑)

 前回はクラシックがテーマ曲だったのに、自分でも一体どうしちゃったんだろうと思いました(^^;)いえ、わたしもともと演歌ってそんなに好きじゃなかったので……でも母が物凄く演歌が好きで、小さい時から嫌々ながらも繰り返しメロディを耳にしていたというか。

 そして今回、自分でも初めて「演歌」の良さがわかったんですよ(笑)いえ、まさか自分でもこんな日がやって来ようとはまったく思ってもみませんでした。考えてみたら、クラシックだってその昔は「ただの退屈な音楽」と思ってたわけですから、やっぱり好きになる「時」っていうのがあるのかなあって思ったりします。

 まあ、なんで演歌がテーマ曲なのかってわかりにくいとは思うんですけど、お話を最後まで読んでもらって、また最初から読んだ時に、わかる人にはわかるかなって思います(^^;)

 それではまた~!!



       手負いの獣-17-

「しっかし、それにしてもさあ。こんなピンク色の珊瑚みたいな家、借りたら一体いくらするんだよ?ついでにいうと、あんまり海に近すぎて潮風で家屋が痛むのが早そうな気がするし。なんだっけ?事務長が院長に言ってここの屋敷を貸してくれたんだっけ?」

「うん、まあね。実際のところ、何年も人が住んでないせいか、部屋のいくつかは修善しないと使うのは難しいっていう状態になってるよ。でも僕、こういう遊びのある城みたいな家は結構好きだな。外から見たらまるで巻貝みたいに見えるし……一見して入口なんてどこにもないように見えるけど、階段をのぼってぐるっと回った天辺が玄関なわけ。まあ、お世辞にも実用的な家とは言えないけどね、院長がその昔、バブル期の絶頂にウハウハしてた頃に購入した家なんだってさ」

「ウハウハねえ」と、翼は暖炉付きのリビングを抜けた隣、要が絵の制作をしているアトリエまで行くと、開いているドアから中を覗きこんだ。

「おまえが医局の階にあるホールに飾った絵、医者連中からも評判いいみたいだよ。<医の女神、ヒュギエイア>だっけ?」

 ヒュギエイアというのはギリシャ神話に出てくる女神で、優れた医術により死者さえも甦らせたというアスクレピオスの娘である。父と同じく医術を司る女神であり、かの有名な<ヒポクラテスの誓い>にも名前を連ねている女性でもある。

「まあ、あの絵自体は随分昔に描いたものなんだけど……医局のホールを飾るのにちょうどいいかなと思ってね。そして、今製作中なのが、医の神アポロン、アスクレピオス、ヒュギエイアとパナケイアの四人と人間を描いたものなんだ。これは一階のね、エントランスを抜けたあたりの目立つところに飾ってもらおうと思ってる」

「ふうん。なんかさ、邪魔したみたいで悪かったな。要って絵を描いてる間って時間が止まってるような状態になるじゃん?浮世の汚れとは断絶した、別世界で絵を描いて戻ってきたら、あっという間に時間が経ってた的な……」

「僕は浦島太郎じゃないよ」

 要はくすりと笑って、ガラスキューブの嵌った窓のあるキッチンから、紅茶とカステラを持って戻ってくる。

「実際、おまえが来てくれて助かったよ。ちょうどいい息抜きにもなるし、下界の様子が今どうなってるのかも知ることが出来て面白いしね」

「そうなんだよ、要。聞いてくれるか!?」

 この話がしたくて堪らなくてやって来たとばかり、翼はソファのほうまで素早く戻ってきた。この貝殻の家は、三階ほどの高さがあり、天辺にリビング、二階に寝室やゲストルーム、一階に多目的室があるといった作りになっている。そしてふたりは三階の、海を見渡せる広い窓の前に座り、そこから漣が砂浜を洗う景色を眺めていたのである。

「例の諏訪晶子殺しの件なんだけどさ、ずっと前に言ってた盗まれた五十万が、もしかしたら殺人事件の鍵かもしれないと思って」

「その話、赤城警部たちにはしたのか?」

「もちろんしたとも。でな、今日の午後俺は、青山さんという掃除のおばさんにちょっくら色んな話を聞いてみたわけ。そしたらさ、俺が推理するにはその五十万ってのはたぶん、ロベルティエ製薬っていう会社の賄賂なんじゃないかと思うわけだ……いやまあ、製薬会社だって昔ほど景気よくないと思うし、2010年問題で次々特許が切れて、倒産する会社だって出てくるだろうみたいに言われてるよな。でもそこはいまだに昔ながらの手法を使ってるとこらしいわけ。ようするに、似たような成分の入ってる名前だけ違う薬ってのが世の中にはいっぱいあるわけだけど、『A会社の薬の効能もB会社のそれも五十歩百歩で似たり寄ったりなら、是非我がC社のお薬を先生……』ってな具合でセールスして、見返りとして賄賂を贈ったりするっていうかさ。どうも俺が思うに、あの五十万て金は、その賄賂の匂いがプンプンすんだよな。で、ロベルティエ製薬の営業員の奴らってのは、餅入りのうまい最中の箱に賄賂を隠して配ってるんじゃないかと思うんだ。事務長室にいつもこの餅入り最中が置いてあるあたり、たぶん院長も事務長もグルっぽい。そんでな、前にも話したとおり、高畑先生ってのはそういうことに手を染めそうにない清廉潔白なお人柄なわけ。でも結局のところお嬢さまだから、もしかしたらちょっと金銭感覚がおかしいところもあるのかもしんない。で、朝比奈が殺人の起きた翌日に、女医のロッカールームから高畑先生が出てきたところを見てる。そしてその手には封筒が握られていた……ということは、だ。たぶん高畑先生は諏訪晶子に取られていた人に見られたくない何かをその時取り戻したんじゃないかって思うんだよな。それで、休日だったにも関わらず、わざわざ医局までやって来たんじゃないかと思う」

「ふむ。その朝比奈って子は確か、おまえと同じ科の、あんまり仕事の出来ない同僚なんだっけ?」

「あ、そうだ。言い忘れてたけど、朝比奈がそのことを俺に相談した次の日、あいつとうとう高畑先生のいびりにあっちまってさ。手術室の脇にある休憩室のところでだーだー泣いてたっけ。なんとも間の悪いことに、赤城警部が俺から話を聞いたあと、高畑先生に軽い脅しのカード切るのにそのネタ使っちゃったんだって。で、手術中に『吸引なんて馬鹿でも出来るんだから、そのくらいちゃんとやってちょうだい』って言われたんだってさ。そのグサッとくる一言と、いつも以上に硬化してる高畑先生の態度で、自分が話したことがバレたってすぐにわかったって」

 ちなみに要は、絵の仕事で病院へ行った時などに、こうした話をちょくちょく翼から聞いている。なので、先ほど翼が話したことの内容には、それ以前にすでに聞いていたことなども、若干重複して含まれていたといってよい。

「『結城先生のせいですよっ。どうしてくれるんですか!?』なんて言われても、俺にはどうも出来ないっつーか。だから、それ以前の問題として高畑先生とタイ張れるくらい仕事に意欲があるってところを見せる姿勢がおまえには欠如してるって、逆に指摘してやった」

「鬼だな、おまえ」

 言葉とは裏腹に、要はどこか面白がっているようだった。紅茶にブランデーを垂らしたものを翼に勧め、自分は抹茶味のカステラに手をつける。ちなみに、カステラのほうは翼が手土産として持ってきたものである。

「いや、外科手術なんて実際、阿修羅の道なんですぜ、要先生。俺なんかクマ公に崖から何度も転げ落とされつつ、その度に這い上がってようやく今くらいになったっつーか。あとはブルックナーな。あのジジイが手術中に難しい嫌味な質問ばっかしてくるんで、なんでも完璧に覚えなきゃならなかった。そういえば朝比奈の奴、このブルックナーの娘なんだってさ。だから父ちゃんのところにでも行って武者修行してこいって言ったんだけど、自分の娘がこんな仕事の出来ないみそっかすだって知ったらがっかりするから、そんなことは出来ないんだってさ。んで、いつまでもびーびー泣いてっから、『じゃあいつまでもそうしてろ』って言って終わり」

「ふう~む。僕は医学のことは専門外だけど、もし仮に外科医になろうと思って途中で向いてないと思ったらどうすればいいんだ?その朝比奈って子にしても、おまえの目から見てもう外科医は諦めたほうがいいっていう、そんな感じだってことか?」

「どうだかなあ。外科医ったって、ピンからキリまでいるだろ。あいつは経験不足ってのもあるだろうけど、基本的に術野しか目に入ってないあたり、そういう才能みたいなもんは確かにないな。手術してる最中ってのは当然、患者の全身状態に気を配れなきゃならない。だから常に全身状態のことを考えながら術野を見てるとこがあんだけど、あいつはほんと、そういう意味では視野狭窄だな。って言ってもまあ、あるひとつの手術だけが天才的に得意で、そればっかずっとやって金稼ぐって奴もいるし、あいつもそういうもんが見つかればいいのかどうか、俺は人を教育できるほど人間できてないから、よくわかんない」

「おまえの先輩の、茅野さんの意見はどうなんだ?」

「クマ公はすべてのメスに対して甘いから、話になんないんだよな。なんつーか、旭ちゃんは吸引だけ上手に出来ればいいよ。はい、どうもどうも、ご苦労さん……みたいな?俺に対してみたいにオスの本性剥きだしにして、目をカッ開いてしごくとか、そういうところが全然ないわけ。朝比奈がすがれるとすれば高畑先生くらいなんだけど、そのラインも断ち切られたって感じかな」

「で、それはそもそもの元を辿ればおまえのせいなんだろ?責任を感じたりしないのか?何分、相手は男じゃなくてか弱い女性なんだし」

「あ~、俺、そういうのキライ。大っキライなの。女の中によくいるよな。普段は男女平等とか言いながら、自分が損したり割食いそうになると『わたし、男じゃなくて女なのに』みたいになる女。そのくらいだったらやっぱり、可愛げなくても高畑先生みたいに肩意地張ってる女のほうが、遥かに好感持てる気がするぜ」

 翼は自分が持ってきたカステラにぱくつくと、ブランデー入りの紅茶を口に運んだ。

「なんにしても今は朝比奈の話なんか、本筋にはてんで関係ないの。まあ一応、大恩ある朝比奈教授の娘だから、なんか聞いてきたら教えるし、突き放すようなことはしない。でもあとはほんと、本人のやる気次第なんだよ。それか諏訪晶子みたいに男に色目使いまくって、それなりの男と適当に結婚して外科医は諦めるとかさ。そんなことは朝比奈が自分の頭で考えて行動するしかないことだから、俺に責任はない」

「言い切ったな。ま、僕は翼のそういうところが好きなんだけどね」

 要はリビングの中央にあるスウェーデン製の暖炉のところまでいくと、そこに少しばかり薪を足し入れている。

「なんか、最新式の高級暖炉って感じだよな、それ。この家のまわりって遮蔽物が松の林くらいしかないし、他は野ざらしって感じで、家自体が寒そうなんだけど、暮らしにくかったりしないのか?」

「その点は無問題だね。熱エネルギーが無駄なく循環するシステムになってて、この暖炉の熱が床に流れこんで、三階に関してはどこを歩いても足の裏があったかい感じなんだよ。二階と一階はほとんど使ってないから、あまり関係ないしね」

「ふうん。俺今日、ここに泊まってってもいい?寝床はこのソファで全然いいから。で、要が仕事してる時は、俺のことはいないもんだって思ってくれればいいし」

「まあ、のんびりしていけよ。月曜からはまた仕事なんだろ?それで、朝比奈さんのことはとりあえず横に置いておくとして、製薬会社の五十万の賄賂と殺人事件の関連性はどうなったんだ?」

「うん。俺の仮説によると、だ……」

 ここで翼は、カステラのザラメのような舌ざわりを味わうため、一旦言葉を切った。

「ちょっとここで話飛ぶように思うかもしんないんだけどさ、俺、きのう十三階にいる患者の、結腸ガンの腹腔鏡手術ってのをやったの。開腹手術でいいんなら、高畑先生が執刀医でも良かったんだろうけど……誰が入れ知恵したんだか、腹腔鏡なら結城先生がお上手ですよ的に、そのジジイに言ったんだろうな。この十三階ってのが別名気難し屋病棟って言われてる、なかなかうさんくさいジジイどもの住み家になってるらしいんだ。で、このジジイは六十五なんだけど、脳梗塞になって引退する前までは、ロベルティエ製薬の代表取締役だったんだと。脳梗塞になった時は、脳外科の権威と言われる高畑先生に手術してもらって一命をとりとめ、その後はリハビリに特化した施設に長くいて、最高のスタッフと最高の環境に囲まれてリハビリに励んでいたらしい。でも、その最高のスタッフをもってしても、これ以上はよくならないっていうくらい回復したのち、そこを退院してうちに来たんだって。ここまで来れば、賄賂の流通経路についてはもう、何も説明する必要はねえだろ?あと、喫友からちらっと小耳に挟んだ話によると、病院の裏手の庭に建設予定の訪問看護ステーションなんかは、そのジジイと同じく十三階に入院してる、某医療機器メーカーの元CEOとかいう人とか、ようするに金持ち連中が資金繰りにうまいこと手を貸してんじゃないかって噂があるらしい。ま、あくまでも噂だけどな。そんで、俺は今日の午後、掃除のおばさんから餅入り最中がしょっちゅう先生方のゴミ箱に捨ててあるっていう話を聞いた。たぶん、箱の下には賄賂が挟まってる仕組みなのかなって思う。高畑院長って人はそこらへんの隠蔽工作にも長けてて、事務長とグルになってうまいことやってんだろうな、きっと」

「で、おまえはどうするんだ?K病院で実際に働きはじめる前までは、『そんなの絶対嫌だーっ!!』って、潔癖な小僧っ子みたいに海に向かって叫んでなかったっけ?」

「んー……なんかさあ。もう一か月も経っちゃうと、ぬるま湯に浸かってるみたいに結構居心地いいわけ。正直、最初はあんまり、人間関係的なことに期待することは何もなかったんだけどな。外科に関しては看護師の質も標準より高いくらいだし、煙草吸いながら話せる友達もいるし、イケメンドクターコンテストで堂々一位だった山ちゃんも性格いいし……なんか、自分のところだけバリア張って、そういうのを潔癖的に寄せつけなければそれでいっかみたいに、今は思いはじめてる」

「そっか。まあよく考えれば、仕事のほうに忙しく集中してたら、賄賂がどーの、そんなことは日常の些事って感じになるよな、たぶん」

「そういうこと。で、話を戻すとだな、高畑先生はもしかしたら、なんか事情があってロベルティエ製薬から金を受けとったことがあるのかもしんない。高潔にして高貴なるお方とはいえ、人間誰だって完璧じゃないし、弱いところは絶対にある。だから俺、その件であの人のことをここぞとばかりに責めようとは思わないわけ。でも問題は、諏訪晶子がそのことを知って高畑先生を脅してたんじゃないかってことだ。なんでも高畑先生は彼女に『医局で娼婦みたいな真似はよすのね』って、人前で言ったらしいからな。で、気位の高い諏訪晶子は、もしかしたら高畑先生の弱味を握ることのできる機会を狙っていたのかもしれない。何分、賄賂の問題ってのは高畑先生ひとりの問題じゃないから、マスコミに騒がれれば当然面倒なことになる。何しろあの人は院長の娘なわけだし、もしかしたらゴルフコンペの景品の出どころなんかも、ロベルティエ製薬かもしれないからな。なんにしても、諏訪晶子が死んで証拠の品も取り返した高畑先生は、もしかしたら今ほっと一安心してるのかもしれない」

「翼のその推理でいくと、高畑先生は諏訪晶子を殺してないってことになりそうだけど……僕はその高畑先生当人を知らないから、より客観的に考えて思うに、可能性としては低いにしても、高畑先生が諏訪晶子を殺した可能性が数パーセントはあるんじゃないかって気がする。たとえば、誰もいない院長室にいて、夜になって医局の様子をそれとなく伺い、人が出払ったのちに諏訪先生を殺して院長室へ戻る。もちろん、高畑先生は諏訪先生から脅しの元となるものをすぐに取り返したくはあっただろう。でも人に見られる可能性を考慮すると、一度にそこまでは出来なかった。で、翌日に諏訪晶子死亡の報告を聞いたのち、警察がロッカーを調べるより先に目的のものを手にした……そういう可能性もあるんじゃないか?」

「でも、そんなに長時間院長室にいるってのもな。トイレにだって行きたくなるだろうし……第一、高畑先生が諏訪晶子を殺したいと思ったら、あの人は海の崖近くにでもあの女を呼んで、安手のサスペンスドラマよろしく、『例のものは持ってきたんでしょうね?』とか、そんなふうにする可能性のほうが高い気がする」

「いや、僕が言ってるのはさ、あくまでも可能性の問題だよ。高畑先生が犯人である可能性はゼロパーセントっていうんじゃなく、最低でも一パーセントくらいはあるんじゃないかって話。第一、院長室には院長専用のトイレが奥にあるよ。僕も部屋に通された時、初めて気づいたことなんだけど」

「へえ、そうなんだ。流石は院長室ってとこか。で、俺のなまくら推理と赤城警部の捜査情報筋を合わせると、とりあえず今のところ、捜査線上に浮かび上がってる容疑者が他に五人ほどいるわけ。まずひとり目が内科の池垣先生。諏訪晶子とはいわゆる大人の関係だったって話。ちなみに見た目がいかにもエリートって感じの、いつ会っても髪一筋乱れてないって雰囲気の先生。で、二番目が精神科医の溝口先生。いつも白衣の下にパリッと糊のきいたシャツにネクタイ締めてるっていう、軽くストーカーチックな佇まいの先生。で、三番目が辻崇って名前の整形外科医。赤城先生の話じゃあ、諏訪晶子が死んだって聞いたショックで、病院を欠勤したらしい。そんで四番目が小児科医の君塚豊。例の殺人事件が起こった夜に、医局の仮眠室で諏訪晶子と寝てたっていう、かなり問題のある野郎だな、色んな意味で。それから麻酔科医の戸田道生。<K病院通信>のプロフィール見ると、趣味として麻雀と競馬をあげてたあたり、もしかしたら結構なギャンブル好きかもしれない。他にパチンコとか競艇とか、賭け事全般みんな好きって感じだとしても、プロフィールにそう書くのはイメージ的にはばかられるもんがあるだろうしな。要はさ、これまで俺の話を聞いてて、直感的にコイツがあやしいんじゃないかとか、そう思うようなところってある?」

「さて、どうだろうね」

 要はチンツ張りのソファの上で足を組み替えると、腕木のところに置いたソーサーに一旦カップを置き、窓いっぱいに寄せては返す波景色を眺めながら、暫く黙ったままでいた。今日のように曇り空の、今にも天から雨が降りだしそうに見える時には、繰り返し寄せては返す波が、何か精神に不安を呼び起こすものとして感じられてしまう。

「まあ、会って話したこともない人のことを、あれこれ解釈するのは僕の趣味じゃないんだけど……結局のところ、諏訪晶子にとっての<本命>っていうのは誰だったんだろう?前に翼から聞いた話によると、内科の池垣先生と小児科の君塚先生は既婚者なわけだろ。前者がいわゆる<大人の関係>で、後者は金の羽振りが良かったから彼女はつきあっていた。今の翼の話を聞く限り、麻酔科医の戸田先生は諏訪晶子にとって本命ではありえない気がする。ギャンブル好きってことは、もしかしたら借金だってある可能性があるし、そういう男っていうのは家庭を持っても賭け事と手を切れるとは思えない。諏訪先生っていうの人はどうも、なかなか賢い女性のようだから、そのあたりのことは他人から指摘されるまでもなく理解してたんじゃないかって気がする。あと、精神科医の溝口って男は、陽子さんに言い寄ってた先生のひとりだよ。と言うのも、あれからまた陽子さんと話す機会のあった時に――彼女がついポロッと、『溝口先生からはメールが来なくなって安心してます』って言ってたからなんだ。となると、僕が思うにこの中では唯一最後に辻崇が残るって図式になる。独身で出世が約束されてる五部屋のうちの、左から二番目の部長室にいる男。で、翼から聞いた話によると、イケメンドクターコンテストで十位以内に入ってたんだっけ?おそらく条件的に見て、諏訪晶子が本命にしてたのは彼だったんじゃないだろうか」

「ふう~む。なるほどね」

 翼は蜂蜜色のカステラを食べる手を止め、感心しきりといったように、何度も繰り返し頷いている。

「でもさ、それでいくとよくわかんないことがある。というのも、諏訪晶子が妻子持ちの君塚とつきあってるっていうのは、医局員全員が知ってるような了解事項だったわけ。あるいは公然の秘密というか。しかもそれ以前に彼女は他の医者のことも食ったりしてるわけだから、そんな女と本気で<結婚>なんて考えるものかな。俺だったら、せいぜいのところをいって何度かやらせてもらえてラッキーくらいにしか思わない気がする」

「いや、逆にだからこそ彼は、病院を休むくらいショックを受けたんじゃないかな。僕が想像するにはね……おまえは例外だけど、医者と呼ばれる人たちは基本的に真面目で誠実というか、そうした傾向にある人が多いと思う。辻先生にとって諏訪先生というのは、行動が奔放で美しい、それまでつきあったことのないタイプの女性だったんじゃないかな。で、すっかり彼女の魅力にめろめろになって、プロポーズするくらいまでに関係性が深まっていったんじゃないだろうか。でも彼女のほうで突っぱねたのか、それとも他に事情があって、彼のほうで婚約はなかったことにして欲しいと言ったのかもしれない。そしてこの場合、パターンがいくつかあるように考えられる。諏訪晶子のほうで辻先生に『あなたとはただの遊びの関係』と言ったのだとしたら、諏訪晶子はおそらく、もっと金回りのいい君塚を捕まえたから、溝口・戸田・辻先生とは関係を断つことにした。またそうではなく、辻先生のほうから諏訪晶子に別れを切りだした場合――おそらくそれは他にもつきあっている男が複数いるとか、そんな理由だろう――諏訪晶子はおそらく、<本命>としていた男から捨てられたことで自棄になり、辻先生にあてつけるようにして君塚と人目もはばからず交際するようになったのかもしれない」

「すげえな、要。俺から話聞いただけで、よくそこまでのことが思い浮かぶっていうかさ」

 しきりに頷いて感心してみせる翼に対し、要は苦笑しながら溜息を洩らす。

「こんなのはただの当てずっぽうの迷推理みたいなもんだよ。だから、また赤城警部に話でも聞いて、本当のところがわかったら僕にも教えてくれないか?ただ、僕はね……以前つきあってた恋人が死んだと聞いて、普通なら休めない職場を欠勤するとしたら、そういう理由しかないだろうと思ったっていうだけ。彼はおそらく、諏訪晶子の奔放な性格も含めて、彼女のことを愛していたんだと思う。だけど、こんな形でもし死ぬってわかってたら、もっとああするんだったとか、自分がもっとこうしてれば彼女は死ななかったとか、あの時喧嘩なんかするんじゃなかったとか、自責の念を覚えることがすごくあったんじゃないかな。とりあえず僕が犯人なら、殺しを行った次の出勤日に休むなんていう、周囲に疑惑を招くようなことは絶対しないけど……殺したあとに激しい後悔に駆られて、今遺書を残して死のうかどうしようか考えてる真っ最中っていうことも、なくはないのかもしれない」

「いやいや、要先生。俺が今の要の話聞いてて思ったのはさ――辻先生が自分の名字を冠した大病院の息子だってこと。ただ、病院を継ぐのは医者として優秀だっていうお兄ちゃんのほうらしいんだけどな。なんにしても、辻先生は医療一族って感じのなかなか血筋のほうが御立派なサラブレットドクターらしい。要の説でいくと、この場合、たとえば両親と会うところまで話が進んでたのに、母親があれこれ息子に言って破談になったとか、そういうことなんじゃないかと思って。つまり、諏訪晶子は本命の辻先生になんらかの理由で別れを切りだされたんじゃないかって気がするな。その時についうっかり『君みたいな女性はうちの家には相応しくない』とかさ、そんな別れ方だったりしたら、そりゃ後悔のあまり寝込みもするだろうよって話」

「そういえば、殺人事件の夜、おまえと同じく当直だった雁夜先生とやらはどうしたんだ?彼には疑いの矛先を向けなくていいのか?」

 翼の話ぶりから、ハーバード帰りの脳外科医のことをあまり快く思っていないらしいと、要は以前に聞いたことから察していた。彼がイケメンドクターコンテストで自分を抜いて二位だったりしたら、おそらくクソ面白くない気持ちになっただろうということも。

「あ~、雁夜か。あいつ見てると何故か、鴨肉の入ったそばを思いだすんだけど……そんなことはどうでもいいとして、奴さんにはどう考えても動機がない気がするわけ。もし食堂かどっかで、俺に対してしたみたいに雁夜先生にも諏訪晶子が色目を使っていたとして、あの先生はそんなのにあまりのって来ないような気がする。よしんばついうっかり、ホテルなんかに行ったことがあったとして、こんな知り合って短期間で殺意まで芽生えるかなって話。一歩間違えれば、医者としての社会的地位も何もかも喪う可能性が高いのに、あそこまで計画して実行に移したからには、相当根深い愛着か憎悪か妬みがあったとしか思えない」

「つまり、そこだよ。何故犯人は医局なんていう極めて危険な、一歩間違えれば犯行自体を見られる可能性の高い場所で、<美人女医殺害事件>なんていう、マスコミが喜んですぐ飛びつきそうな事件を起こしたんだろう?単に弱味を握られていたっていうんなら、殺しは病院の裏の林ででも犯せばいいってことになる。あるいは、ここから少しいったところにある、療養所近くの岩場にでも呼びだして、陳腐なサスペンスドラマよろしく、諏訪晶子のことを突き落とすとか……」

「療養所?」と、翼は思わず聞き返した。確か、内科の内藤医師の妻が、海辺にある療養所に入院中だと聞いた記憶があった。

「ああ。療養所というか、正確には精神病院みたいなところだけどね。晴れた日にはこのあたりまで、車椅子に乗った患者さんが、職員と一緒に散歩に来たりするんだ」

「そっか。なるほどね……俺、思うんだけどさ、要。もしかしたら犯人はむしろ逆に、高いリスクを犯してでも、<医局で殺人事件を起こしたかった>っていう可能性はないだろうか?高畑院長って人はさ、脳外科医としては結構な腕を持った人かもしれないけど、なかなかずる賢い人間なんじゃないかと俺は睨んでる。でな、宮原総看護師長って人がまたちょっと、総看護師長っぽくない人柄の人間なわけだ。高畑院長も宮原総師長も、どっちかっていうと、人の弱味を握ったりなんだりして、今の権力の座というか、そういう場所に着いてるように思われる節がある。で、このふたりと事務長とが裏でグルになって、過去に人を貶めるようなことを行っていた場合……犯人はおそらく、復讐目的で医局で殺人を犯したかったんじゃないだろうか?つまり、犯人の目的はK病院がスキャンダルに巻き込まれてマスコミに叩かれることなわけだから、仮に自分が殺人事件の犯人として逮捕されても構わない――そのくらいの覚悟が、最初からあったんじゃないだろうか?」

「すごい推理の冴えだな、翼。それはもしかしてすごく当たってるんじゃないかって、僕も思うよ。ところが天が味方したというか、運命が犯人に味方して、幸いのところっていうのはおかしいけど、犯行はバレなかった。この場合、もしかしたら犯人には諏訪晶子自身にさして恨みのようなものはなかった可能性もある。というより、<その程度の女>と見下し、せせら笑ってさえいたかもしれない。ただ、諏訪晶子が医局で殺されれば――マスコミがハイエナのように飛びついて、彼女の交遊関係を洗いざらい調べようとするだろう。そしてその過程で恥ずべきことが次から次へと明らかになれば……医者ってのは意外に道徳観念が低いだの、世間に面白おかしい格好のネタを提供することになるって犯人は思ったんじゃないのかな」

「と、いうことはだ」

 翼は紅茶を飲みほすと、盆にのった小さなピッチャーのブランデーを、ティーカップに注いだ。

「赤城警部たちが特にあやしいと思って、優先的に聞き込みをしている医者どもの中に犯人はなく、どこか別の場所にダークホースが潜んでる可能性があるってことになるか?」

「そうだな。あと可能性としては、犯人の諏訪晶子の殺害理由が独占欲や恋愛感情のもつれといったものじゃなかった場合……犯人はやはり、諏訪晶子に何か弱味を握られていたんじゃないだろうか。それがもし公表されれば自分の医師生命は終わりだといった種類のものだったら、犯人は彼女を殺さなければ破滅すると思っていたかもしれない。もちろん殺したことがバレても破滅だけれど、いずれにしても破滅なら、殺人がバレないほうの可能性に賭けたという可能性もある。ようするに、手負いの獣のような心理状態の人間は、追い詰められればなんでもするっていうことだよ」

「手負いの獣?」

 翼はつい最近、その単語をどこかで聞いたような気がして、頭の中で記憶をつまぐった。『人間は手負いの獣のようなもので、追い詰められればなんでもする』……確か、緩和ケア病棟の707号室の患者、桜庭泰蔵が話していた戦争体験の中に、そういった言葉があったように記憶している。

「どうかしたか?」

「いや、なんでもない。病院みたいなとこにいるとさ、次から次にやることがいっぱいあって、探偵ごっこに時間を割く余裕がなくて残念だなと思って。本当は十三階の手術したばっかのジジイの経過も気になるんだけど、なんかこう、あのジジイは人柄的に、むしろ逆に腸閉塞でも起こして苦しんでろってタイプの患者。もちろん、そんなことになったら携帯がピロピロ鳴ることになるから、そんな事態は避けたいにしても……なんかこう、周りに威張り散らしてばっかの、目の下に消えない隈がくっきりある、悪党面したおっさんなんだよな。これまで欲にあかせた生活を送ってきたから、それがだんだん体内に蓄積していって、最後に病気になったみたいな感じのする。もちろん俺は普段、医者としてそういう非科学的なことはまったく考えないし、過去になんか悪いことしたから前立腺ガンになったとか、そういう思考法は大っキライなわけ。でもあのおっさんに関しては、この先ろくな死に方しかしなくても自業自得なんじゃないかとしか思わないな」

「そんなにひどいのか」

 そう言って要は笑い、サイドボードの中からブッカーズを取り出していた。ピッチャーのブランデーが空になったのを見て、別の酒が必要だろうと思ったのである。

「いや、一応噂には聞いてたんだけど、十三階付きの看護師たちは苦労するだろうなって思う。体力的にっていうよりは、どっちかっていうと精神的にさ。一度外科病棟に入ってもらって、術後の容態が安定した一週間後にでも十三階に戻ってもらおうと思ってたんだけど……本人が一刻も早く元の部屋に帰りたいって駄々こねてさ。なんかそういう我が儘が金の力で押し通っちゃうのを見てると、なんだかな~ってつくづく思うぜ。外科病棟の看護師たちは平均して優秀なんで、結構安心して術後を任せられるんだけど、十三階の看護師はベテランが多いのかどうかさえ、俺にはよくわかんないし。っていうか、オペ室の看護師が申し送りするのを聞いてたら、担当の病棟看護師のほうが妙にビビってるように見えたわけ。ま、自分の我が儘が自分の体のためにならないだけじゃなく、周囲にどういう迷惑をかけるのかさえ、あのジジイにはわからないんだろうよ。揚げ句、周囲に当たり散らしてれば世話ねえよなって話」

「俺は老後、絶対にあんなジジイみたいにだけはならないぞって感じか?」

 冷凍庫から持ってきた氷をグラスに入れ、要はブッカーズを惜しみなく注ぐと、マドラーでかきまぜてから翼に手渡した。

「サンキュ。ま、今はそんなこと言っていながら、最終的に俺もあんなジジイみたいな末路を辿るのかもしれないんだけどな。それまでには人間として、もう少しまともになってたいよなってこと」

「ふうん。そうか」

 翼と要はその後、ただ互いに同じソファに腰掛けたまま、広い窓の外の景色をじっと眺めやっていた。遠くの水平線に灰色の雨雲が湧き起こってきており、それが次第にこちらへ近づきつつあるという、どこか不気味で、終末的にさえ感じられる風景だった。 

 要はグラスのブランデーに口をつけると、それから隣の親友のことをなんとなく盗み見た。翼のほうでは何か、深い考えごとに耽っているような気配があり、何か殺人事件に関連したことか、仕事に関係したこと、あるいは患者について考えているのかもしれなかったが――要には彼が、誰か女性のことを思っているらしいことが、顔の表情からよくわかっていた。

「ああ、とうとう雨が降ってきたな」

 その要の一言で、翼が再び目を上げて見ると、最初は海の上にポツポツと降りはじめた雨が、やがて線上になって紺碧の波の中へと斜めに突き刺さっていく。そして最初はそのように小降りではじまったにも関わらず、数分後には雨と風が、ともに海面に激しく叩きつけるように降り注いでいた。

「俺、こういう光景って結構好きだな。どっかうら寂しい感じはするんだけど、なんとなく嘘くさくなくていいんだよ。これで雷でも鳴れば完璧なんだけどなあ。ほんと、この窓が絵の額縁でさ、その中の動く絵を見てるみたいな感じがする」

「ああ。僕がこれまでに描いたどんな絵よりも、こっちのほうがよっぽどリアルだよ」

 要がそう言うと、翼は親友とグラスをカチンとぶつけあい、軽く乾杯しあった。それから夕食をどうするかという話になり、要が冷蔵庫にある材料でパエリアを作ってくれることになったのだが――その食事の途中、携帯が鳴り、翼は急遽K病院へ急ぐということになった。

 看護師の話によると、十三階の例の患者である武藤幸三が、「結城先生を呼べっ!!」と言って聞かないのだという。担当看護師にいくつか質問をして、術後合併症の疑いはまったくないと翼は思ったものの――夏目という名前の若い看護師の声があまりに哀れっぽく、仕方なく食事を中座して病院へ向かうことにしたのだった。

「やれやれ。例の我が儘じいさんのお守りか。場所が変われば、それはそれで違う苦労が出てくるものなんだな」

「ま、でも急性期医療の現場に比べたら、こんなのまだ全然可愛いもんだぜ。ただあのジジイに会うと俺、なんとなく生気を吸いとられるようなところがあってさ。それで顔を合わせたくないわけ。俺の中にまだ僅かばかり残ってる善良な心が、なんかしたらあいつの悪い霊みたいなもんのほうへ引っ張られちゃいそうな気がするっていうか……なんにしてもまあ、ちょっくら行ってくるわ」

「気をつけろよ。家の中から見てる分には荒々しい景色もいいもんだけど、その中の登場人物ってことになると、ズブ濡れになって風邪ひくだけだからな」

 翼はひんやりと冷たい螺旋階段を下り、一階のガレージまで来ると、そこから黒のシトロエンを出してK病院まで向かった。確かに要の言ったとおり、室内から雨模様を眺めている分には良かったが、そこに自分が登場人物として巻き込まれるのは、なかなかに難儀なことだったといえる。



 >>続く……。





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