【プリマヴェーラ】サンドロ・ボッティチェリ
コスメ難民問題はこれからも継続中☆っていう感じなんですけど(笑)、そろそろ小説の連載のほうをはじめてみようかなと思いました(^^;)
え~とですね、実をいうとこの小説、わたし的に「このあたりがもう少し……ちょっと、なんだよね」っていう部分がまだ解消されてなくて、大幅に書き直したほうがいいんじゃないかなっていう気もするんですけど、とりあえず連載しながら少し書き加えていければと思ったりしました(汗)
いえ、最後のほうの展開がちょっとこれだと尻つぼみかな☆と思ったりしてるので、お読みになる方はまったく期待せずに読まれることが肝要かな、なんてww
ちなみに前回と前々回のお話と違って短いので、大体12回前後で終わるかな~と思います。
なんにしても、「要先生が男として最低な件☆」といったようなお話かと(笑)
そんでもって、こんなただの恋愛小説にボッティチェリのプリマヴェーラを持ってくるのはどうかと思いつつ(恐れ多い)、まあ一応そこにテーマがあるということもあって、前文のほうで少しこの「答えの出ない名画」について何か書いてみようかなと思いました♪(^^)
もちろん、ボッティチェリのプリマヴェーラやヴィーナスの誕生は、誰もが知ってる名画だとは思うんですけど、このお話を書き終わった頃くらいに、「ボッティチェリ【プリマヴェーラ】ヴィーナスの園としてのフィレンツェ」(ホルスト・ブレデカンプ、中江彬さん訳/三元社)という本を読んだんですよね。
一応、「プリマヴェーラ」の基礎知識として、「色んな人が色んなことを言ってる絵画だよ☆」っていうことは知ってはいるつもりでした。
でもわたしの中では「芸術新潮2001年3月号」の特集で書かれていたこと――その中で若桑みどりさんの書かれていた説がもっとも有力っぽいという印象をずっと持ってたので、読んでる途中から少し頭が混乱してきたのです(^^;)
「プリマヴェーラ」に関して説明しようとすると、ボッティチェリが生きた時代のこと、歴史的背景への理解が不可欠とは思うんですけど、まあまずは俗っぽい解釈から順にはじめたいと思います。
この横長の素晴らしい絵画は、右から左に時間が流れているように多くの人が感じると思うんですけど、まずは右から西風の神ゼフュロス(セフィロス?それはFF☆)、ニンフ・クロリス、そしてクロリスが変身して花の女神フローラへ。中央に座してこの絵画世界全体を取り仕切っているように見えるヴィーナス、その上には彼女の息子のキューピッド、三人の踊る女神はヴィーナスの侍女たる三美神、それから最後がメルクリウス(ヘルメス)です。
この楽園はいわゆるヘスペリデスの園と呼ばれる場所であろう……といったように、多くの方が解釈するかそうした印象を持つと思うのですけど、その前に「そのヘスペリデスの園って何よ??」という説明から、次回ははじめたいと思います♪(^^)
それではまた~!!
太陽と月に抱かれて
ライムグリーンのカーテンを透かして、光が忍び込んでくる……女は目が覚めると散らかった室内を見回し、どこか気怠そうに身じろぎした。このまま動きたくない、ずっと眠っていたい、また朝が巡ってくるだなんてこの世界はなんて残酷なのだろうと彼女は思う。
カーテン越しに入りこむ、光の眩しさに目を細め――彼女は自分が今この世に生きる唯一の理由に思いを馳せた。
「要……愛してるわ」
そう呟き、彼女はようやくのことで体を起こす。広いダブルベッドの上には、画壇の寵児と世間からもてはやされる男の、引き伸ばされたスチール写真が飾ってある。
縦75センチ、横80センチほどのその写真からは、どこか異様な空気が漂っている。女は昨晩、彼のことを思って自慰行為に耽ったことを思いだし、少しだけ体の芯が熱くなるのを感じた。
大きな乳房にくびれた腰、官能的なラインを描く臀部から太腿にかけてのライン……それらは彼がかつて心から強く望んで欲し、彼女のほうでも放埒なまでに解放して与えたものだった。
「要、愛してるわ」
彼女はそう呟き、朝の挨拶がわりに写真の要の唇に、自分のそれを与える。そしてディープキスするように何度も舌で彼の唇を嘗め――それから彼が決して眼差しを投げ返さないことに、今さらながら気づく。
「あなたがいけないのよ。私がこんなことをするようになったのは、全部あなたの所為……ねえ、わかってるでしょ?わたしがこんなにこんなにこんなに……」
そう言って女は、背伸びをして豊満な乳房を写真の要の体にこすりつけ、それからもう一度彼の唇にキスを繰り返した。彼女は全裸だったが、その体に不意に微かな痛みが走る。
スチール写真の表面には無数に穿たれた画鋲の跡があり、それが胸の表面にうっすらと傷を作ったせいである。
「痛いわ、要。でも貴方がわたしに与えた本当の痛みは、こんなものじゃない。心、精神、魂……そうよ。あなたはその一番奥にあるものに深い傷を負わせたのよ。だからわたしは絶対にあなたを許したりなんかしない。そう、絶対にね」
女はここで写真の要から離れ、全裸のままベッドの上を何度か飛び跳ねた。そしてそのままの姿勢で彼女が両腕を開いたり閉じたりすると、大きな胸が重力を嘲笑うように上下する。
「ふふっ。ねえ見て、要。とってもいい朝よ」
絨毯の上に着地すると同時、女はライムグリーンのカーテンを全開にした。五十階建て高層マンションの最上階――果たして今、ベランダに出た全裸の彼女を見ている人間というのは、都内に誰かいるものだろうか?
彼女は裸のままベランダの樹木や花に如雨露で水をやり、少しばかり花がら摘みをしてから、サンダルを脱いで寝室へ戻った。そして薔薇や菫にデイジー、ガーベラといった色とりどりの花びらをベッドのシーツに撒き散らし、そこへ裸のまま横になる。
「昔、こんなような状態であなたの絵のモデルをしたことを思いだすわね。なんだかとっても懐かしいわ」
『うん、そのまま横たわって……そう。まるで花の女神フローラといったようにね』
『その女の人、知ってるわ。ボッティチェリの<プリマヴェーラ>に出てくる女性のことでしょ?』
自分にも少しはその種の知識があるのだと知ってもらうために、彼女は無邪気に笑ってそう聞いた。
『そうだね。あの絵と同じくボッティチェリの作品で有名な<ヴィーナスの誕生>という絵があるだろう?<プリマヴェーラ>とあの絵はモチーフとしては繋がってるんだろうね。最初に君と会った時、何故かボッティチェリのヴィーナスのことを思いだした。顔がっていうんじゃなくて、なんとなく全体として雰囲気が似てるような気がしてね』
一体どこの高級な花屋に頼んだのか、薄いピンク色の桜や薔薇の花びらを惜しげもなくベッド上に降り散らせ――要はそこに横たわるよう、彼女に対してもう一度指示をだす。
『こんな感じでいい?』
『うん。悪いけど、後は黙ってて。少なくとも、僕がいいと言うまでは』
若い男の、というよりは芸術家の真摯な眼差しで一種の<商品>として眺めまわされることは、彼女にとって最初は戸惑い、のちには究極の快楽をもたらす行為となった。彼の目が自分の一体どこに注がれているのか、絵の進行状況など見なくてもよくわかる……そして彼が自分から誘わない限りは、決してその種の関係を結ぼうとしないだろうことも彼女にはわかっていた。
『ねえ、あなた絶対に頭がおかしいでしょ!?』
時司要という画家のモデルになって数週間目――彼女は自身の欲求不満を爆発させるように、最後はそんなふうに詰め寄っていた。
『匂いを嗅ぎながら食べない、目でセックスして体には指一本も触れないだなんて、あなたもしかしてゲイか何か!?』
『ああ、よく言われるよ。自分が帰ったとあとに自慰行為にでも耽ってるのか、それとも不能かゲイなのかってね。でも僕は……これから自分のすることには、責任を持てないから』
(君だってそうだろう?)というように見返されて、彼女は思わず後ずさった。まるで悪魔のように魅力的な優しい微笑み。これに絡め取られたら、おそらく自分はあとになって必ず後悔するだろう。にも関わらず、行き着くところまで、堕ちるところまで堕ちるしかないのだとわかっていた。
『ひどい男よね、要って。一体あなた、何人の女とこんなことをしてるの?』
『さあ、何人かな。数え切れないくらい』
悪びれずにそう答える要とベッドに倒れこみながら、花の香りの中で彼女は戴冠した。春はすぐに終わり、草木は枯れ、あとには絶望の冬の荒野だけが残ると知っていながら……。
女は過去の回想をやめると、もう一度微かに笑みを浮かべる男のスチール写真と向きあった。先ほどは仄暗い室内でのことだったので、はっきりしなかったが――その大きく引き伸ばされた写真はやはり、異様な空気を放っていた。何故なら彼の顔の輪郭といい体の線といい、そのすべてがまるで点描画のように画鋲で一点一点穿たれていたのだから。
「わたしがこんなことをするのは、要、全部あなたのせいなのよ」
甘えたような声を出しながら、女はベッドのヘッドボードから赤い画鋲を取りだし、それで彼の瞳の周囲をくり抜くように刺していく。眼球の周囲も、瞳を縁取る睫毛もすべて、何もかも……。
最初は、肩や服といった無難な、あまり良心の痛まぬところからはじめ、やがて髪、額、顔の輪郭と、呪いの儀式は着実に一点一点進んでいった。そしてそれは最後、両の眼の中央を残すばかりとなっている。
「要、愛してるわ。だからあなたのことは――私が必ずこの手で殺す」
1
「ひっくしょい!!おお、ちくしょう」
翼はくしゃみをすると、どこか芝居がかったようにそう言い、隣の画家の悪友のことを振り返った。
「で、なんだって?俺とおフランスまで旅行しないかって話だっけ?」
「うん。向こうの画廊で個展を開いてくれることになって……なんかパーティとかも盛大にしてくれるらしい。で、まあもちろん僕ひとりっていうか、事務所のスタッフを連れてくっていうのでもいいんだけど、もし翼の都合があえばどうかなと思って」
「ふうん。の割におまえ、全然気乗りしてねえように見えるのは、俺の気のせいか?」
春の海を遠く眺めながら、十階建てマンションの最上階のベランダで、翼は鼻をすすった。
「なんだ?翼って花粉症なんか患ってたっけ?」
「ああ、それがな。なんか今年になって急に鼻がグズグズ言いだすようになって……もしかして俺っちもとうとう花粉症デビュー!?とか思ったんだけどさ、今一生懸命自分に『俺は花粉症じゃない、花粉症じゃない、花粉症じゃない』って言い聞かせて、マインドコントロールしてるとこ」
「マインドコントロールねえ。そんなことより、耳鼻科にでもかかって薬もらったほうがいいような気がするけど」
要は呆れたように言い、ベランダの手すりに背をもたせかけ、溜息を着いている。
以前、バカラのグラス落下事件があってのち――ふたりは手すりに物を置かず、小さなテーブルの天板の上に食事の皿や酒のグラスを置くのを慣わしとしていた。
翼は一度室内へ入り、大きな音をさせて鼻をかむと、その片手にデジタルカメラを持ってベランダへ戻ってくる。
「おまえ、写真なんか撮るの趣味にしてたっけ?」
「うんにゃ。俺にはその種の美的センスってもんはない。要とは違ってな。けどまあ、サニーちゃんと約束したんだよ。うちのベランダから見える桜景色はなかなかのもんだって言ったら、<K病院通信>の一面に使いたいと思うから、是非お写真をって」
カシャカシャッと連続して写真を撮ると、「これでよし」と満足したように保存データを眺め、翼はまたリビングに戻っていった。テレビに繋いで他の撮りためた桜景色もそれぞれチェックするためである。
「翼、おまえ今すごくいい顔してるよな。変な話、ひと皮剥けたっていうか……仕事が楽しくて仕方ないっていうのが、一緒にいてよくわかるよ」
「仕事のほうは楽しいっていうか、どっちかっていうとたの苦しいって感じかもな。楽しいけど苦しい、苦しいけど楽しいってーか。なんかさ、俺、大腸ガンの権威なんだってさ。内視鏡で大腸ガン治したければ、K病院の結城先生みたいに言われてるらしい。で、その評判のお陰で一日に多い時で四十人くらい内視鏡検査したりな。この間、テレビ取材の依頼があった時にはびっくりしたぜ。これ以上患者増えても捌けないから、断らせてもらうことにしたんだけど」
「そうか。翼、おまえさ、恩師の茅野さんみたいに独立する気はないのか?」
「独立かあ。まあ、このまま勤務医続けても先が見えてるってなったら、そういう道もあるよなみたいには、頭のどっかで考えるけどな。クマ公が電卓弾いて『大体このくらい儲かる見込み』なんて言ってるのを聞くと、確かにちょっとは心が動くし」
ソメイヨシノやヤマザクラ、シダレザクラといった桜が春の饗宴を繰り広げる画面に見入りながら、翼は笑って言った。
「でも今はとりあえず、このままもう二~三年はK病院にいようかなって思ってる。いくら居心地いいにしても、いつまでもそういうところにいると人間として成長はないとか思ったらさ、また考えようと思ってるけど」
よし、たぶんこれがいいな、と呟き、翼がテレビのチャンネルを変えると、日曜のこの時間は競馬中継をやっている真っ最中だった。
「今回の賞、俺もつっとばか麻酔科の先生に頼んで馬券買ってあるんだよ。もしミカサ=ルルブランドが一着で、コウライアゲハが二着だったりしたら、パリ行きの飛行機代は俺が自分で出してもいいぜ」
「……一緒に、来てくれるのか」
要にしては珍しく、気弱な物言いに翼は奇異なものを感じた。K病院に九月に赴任して以来、まとまった休暇らしきものを翼はほとんど取っていない。救命センターにいた時の習慣で、大晦日や三が日も緊急の連絡があれば出勤するということにしておいた。そして翼にとってそうすることは――部下に好かれるための手段ではなく、実家に戻らなくてもいい良い口実ともなることだったのである。
「なんだ?要っち、どうした?さっきからぬわんとなーく思ってたけど、おまえ陰気な冬が終わったって割に、全然精気がないような顔してるぜ。パリで個展を開くことになって、テレビでもなんか色々やってたよな。『彼の作品は本当に素晴らしい。この芸術の都で彼の個展を開けることは、ファンにとっても心から待ち望んでいたことだ』みたいに、向こうの人が字幕付きでしゃべってたり……おまえの画家としての人生は順風満帆なんじゃないかと思ってたけど、もしかしてスランプとかいうやつ?」
「いや、そういうのとは違うよ」
要の心情を慮ってか、四十七型テレビの音声を、翼は少しばかりリモコンで落とした。競走馬がそれぞれゲート入りし、あとはレースがはじまるばかりとなる。
「あ、ごめん、要!!スタートした!!続きはこのあとで!!」
翼が再び音声を上げると同時、十六頭の馬たちが一斉にゲートを出る。暫くの間はレッドグレイトブルースが先頭を飾り、第三コーナーを越えたあたりで次々と他の馬たちの追い上げがはじまった。二着サンピグマリオン、三着ブルームーンレディ、そして四着がミカサ・ルルブランドだった。続く五着がコウライアゲハ。
「おおっ!!来たきた、行けいけ、そのままブッち切っちまえっ!!」
ミカサ・ルルブランドがブルームーンレディを追いあげ、コウライアゲハも僅差でそのあとを追っている。その間もサンピグマリオンがレッドグレイトブルースと半馬身で競っていた。
「Oh,脳~っ!!サンピグマリオンが一位で、二位がレッドグレイトブルースかあ……結局俺っちの愛するルルとアゲハは、三着と五着でやんしたよ、要先生。しょんぼり」
「しょんぼりって、おまえ、一体これにいくら賭けてたんだ?」
見るからにがっかりしたようにソファの背もたれに頭をのせ、翼はその曲がった姿勢からテレビの電源をリモコンで切る。
「ま、一万円ってとこですぜ、要の旦那。あ~あ、加瀬の奴の予感が的中かあ。あいつ、今ごろ悔しがってるだろうなあ。何しろ物凄いドケチなんもんだから、今回も千円しか賭けないでやんの。麻酔科の戸田先生は、ブルームーンレディが一着で、サンピグマリオンが二位って予想だったけど……今ごろ競馬場で管巻いてるかもしんねえなあ」
「ふうん、なるほど」
要はレースがはじまる直前、馬券など買ってはいないものの、自分なりにこのレースの予想を立てていた。そして戸田先生と同じくブルームーンレディが一着、二位はミカサ・ルルブランドとしていたのだが――この場合、要の予想もまた大きく外れたということになるだろう。
「それにしてもあの馬、綺麗な馬だったな。毛並みが艶々してて、黒馬っていうよりは微かに体が青みがかってるように見えた」
「ああ。だからそれでブルームーンレディって言うんだろ。サンピグマリオンは白に斑のみっともない馬なんだけどさ、なんか妙に人気あんだよな。ルルとアゲハは栗毛と鹿毛で、一番俺好みな馬なんだけど」
「まあ翼は天邪鬼な奴だから、この場合あえて一番人気のサンピグマリオンには賭けようとすら思わなかったってことだろ?」
「あ、わかる?それよか、もう馬の話はいいわ。おフランスで梨を食う話でもしようぜ。なんかフランス人にラ・フランスの話をするとやたら受けるらしいけど、まあそんなこともどうでもいいとして……要、どうした?いつもは俺の人生相談に乗ってもらってばっかだから、今度は俺のほうがおまえの話を聞くぜ」
そう言って翼は、羽を生やして飛んでいった福澤諭吉のことは忘れ、キッチンで酒を入れはじめる。
「なんか最近俺、焼酎のレモン割にハマってんだわ。炭酸とポッカレモンで割って飲むってやつ。あと、食事のほうはいつも通り出前な。割と近くに『大衆食堂みくだりはん』ってとこがあってさ、そこのうな重とそばがめっちゃうまい。あとスープカリーの美味しい店を大分前に瑞島の奴から聞いた。で、そこも出前やってて、うちにも来てくれるし……あとは寿司とかピザとか、そんなところか」
「瑞島さんって、外科病棟の看護師の?」
彼女と医療図書室の司書、田中陽子の名前は翼の口からよく聞く名である。要は常々(もしかしたら……)と思っているのだが、翼曰く「いやいや、それだけは絶対ありえん」ということだった。
「あいつ、地元がもともとここだからさ、観光名所とか色々詳しいんだよな。瑞島が言うにはさ、このままじゃサニーちゃんの婚期が遅れに遅れそうだから、あの超格好いい絵描き先生にどうにかしてもらえってことだったんだけど、おまえはこの件、どう思う?」
「どうって……」
翼から焼酎のレモン炭酸割を受けとりつつ、要は隣の相棒の様子を伺う。
「つまりさ、サニーちゃんが言うには――つーか、この前提としておまえには絶対絶対絶対言うなっていう前提があるんだけど、俺は百パーおまえを男として信頼してるからそのまま話す。サニーちゃんはおまえのことを遥か彼方の望遠鏡から見てるだけで幸せなんだって。で、彼女が考えてんのはおもに恋愛的なことじゃなくて、要の家でおまえの靴でも磨いて過ごしたいってことだった」
「靴をねえ」
要は話の中心を理解しながらも、あえて気づかない振りをして焼酎を飲む。
「あ、これ、この間仙台からやって来た患者がくれた大豆の菓子。これが結構いけて、ひとりでもあっという間にぼりぼり食っちまう……って話もどうでもよくて、まあ、適当に食いながら聞いてくれ。サニーちゃんは毎日、おまえの服を洗濯したり、靴磨いたりして、芸術のお手伝いが出来たら幸せなんだって。しかも彼女の場合、特に特異なのが、そういう妄想をしてるだけで幸せだっていう一種の病気だな。『セックスとかしなくていいの?』って聞いたら、靴磨きの奴隷はご主人様の言うことを聞いてればそれでいいって話だった。つまり、当然ご主人様には他に何人もその種の女性がいる……けどまあ、サニーちゃんはそれでいいんだって。俺、その話聞いた翌日に瑞島に言ってやった。本人がそれで幸せだって言うんだから、他人が横でどーのと言っていい話じゃないって」
「おまえの言うことが正解だよ」
自分事ながら、要はくっくと笑って鳩の好きそうな豆菓子をつまんで食べる。
「その、さ。例の事件があってから――僕はK病院の絵を四枚制作した。二枚目に取りかかったところで、それ以上の報酬は支払えないってことだったから、海辺のピンク色の珊瑚の家と、四枚の絵をトレードするってことにしたわけだ。で、絵を実際に飾ったりなんだりする時に田中さんとは一緒に色々話をしたよ。彼女は絵画というか、芸術っていうのものを本質的に理解してる人だと思う。そしてそういう話の最中に彼女は確か、『自分には僕の靴の紐を解く値打ちもない』みたいなことを言ってたな。つまりはそういうことなんだと思う」
「よく意味わかんねーな。靴を磨く意味はあっても靴紐を解く値打ちはないってどういうことだ?」
「それはね、聖書で洗礼者ヨハネがキリストに対して言ってることなんだよ。その時代、主人の靴の紐を解くのは奴隷の仕事だった。つまり、靴の紐を解く値打ちもないっていうのは、奴隷の値打ちもないっていうこと」
「流石にそりゃ卑屈すぎなんじゃねーの?『ご主人様、靴をお磨きしました』、『うむ、ごくろう』、『ご主人様、お帰りなさいませ。ただ今靴紐をお外し致します』……なんてやってる内に、そのうち何かご褒美もらえるんじゃないかって思うのが人情ってもんだろ?」
「そうかもしれない。でもこの広い世界には、そういう女性も本当にいるんだよ。キリストと結婚するために修道院に入るっていうような女性がね」
「ふう~ん。なるほどねえ」
そう言って翼は、修道院暮らしの僧がおそらくは出来ないだろう、食事の出前の注文について、要に色々相談した。
「これはここら一帯で注文が許される範囲のメニュー表。ま、なんでも好きなものを頼んでちょ。そのかわり、フランス行きの飛行機代はおまえ持ちな」
「いや、僕は言わば向こうから招待される形で行くわけだから……ファーストクラスの座席ふたつについては、経費を自前で支払わなくていいんだよ。なんにしても僕は今日は寿司が食べたい。焼酎を飲んでたらなんとなくそういう気分になってきた」
「よし来た!寿司食いねえ!!」
そんな意味不明の言葉を呟きつつ、特上の寿司を二人前頼み――翼はようやくここで、本気の本題へ入ることにしたのだった。
「で、おまえのなんか春愁しちゃってる様子と、今回のフランス行きには何か因果関係があったりするのか?本当ならここで更なる海外進出を果たせてバンザーイ!!ってなるとこだろうに、要がそんな浮かない顔してるってことはさ」
「ああ……実は自宅にこういうものが届いてね」
そう言って要は、ソファの背にかけてあるライトブルーのベストの懐から、一枚の手紙を取り出した。
「え~と、何々。>>時司要に告ぐ。わたしはおまえの一挙手一投足を監視している。おまえは人殺しだ。過去の罪を消すことなど決して出来はしない。その罪を償う瞬間が刻一刻と迫っていると思い知れ。二階堂マリエ……なんだ?要、もしかしておまえ、過去の女にストーカーでもされてるとか?」
事の推移を楽しむように笑う翼のことを無視し、要のほうはあくまで真剣な表情を崩さぬままだった。
「翼、今度ばかりは本当に笑いごとじゃないんだ。その二階堂マリエって子は、その昔僕が確かにモデルにしてた子だ。けど、五年前に飛行機事故で亡くなってね……遺体の引き取り手がいなかったから、僕が色々と手続きをしてフランスの墓地に葬った。パリから日本へ戻る機体が離陸してすぐにエンジントラブルを起こして墜落したんだけど、日本人の乗客がマリエを含めてほんの数名だったせいか、日本ではそんなに大きく取り上げられなかった。いや、もしかしたら取り上げられたのかもしれないけど、ほんの短期間報道されてすぐ忘れ去られたっていう感じだったと思う。僕はね、これは彼女のことを知ってる人間の犯行だと思ってる。人殺しっていうのはたぶんそういう意味だ……というか、他には考えられない」
「でも、このマリエって子は飛行機事故で死んだんだろ?だったら、おまえが殺したってわけじゃ……」
「いや、犯人の言いたいことの主旨は大体わかる。僕は彼女がヨーロッパで仕事をするために、日本を発つ前にあえてマリエのことを突き放した。だからこの犯人はたぶん――彼女の心を殺したっていうことを言いたいんだと思う」
「そうか。でも五年も前にあったことを、なんで今更……」
「今更かどうかはわからない。この手紙の送り主は、僕の一挙手一投足を監視していると言っている。けど、この手紙は僕の自宅に届いてたんだ。僕はあの海辺の珊瑚の家を手に入れて以来――東京とこっちを行ったり来たりしてるから、そういう意味では犯人がどの程度僕の行動を見ているのかは怪しいものがある。たぶん、おまえが絵画で賞をいくつも取って何やらもてはやされてることは知っている、そういうメディアの動向にはいつも目を光らせてるっていう意味なんじゃないかとも思う。なんにしても僕が気になってるのはマリエがフランスで死んだってことと、今回僕がパリへ行くってことになったこと、そのふたつについて犯人は何かが許せなくてこうした行動に及んだんじゃないかっていうことなんだ。まあ、現地で何か事を起こす気なのかどうかまではわからないにしても、そう考えた場合、今回の招待は断ったほうがいいのかなと思いもした。でも……」
「いや、むしろそいつは逆なんでないの、要先生」
翼にしてみれば、昔つきあっていたモデルの恋人が飛行機事故で死んだという話自体初耳だった。そもそもこの親友が大の秘密主義者であるとは、古いつきあいでよく知っている……ゆえに、今回の旅で自分の知らない要の過去について色々聞けそうな予感のすることが、翼は何やら楽しみだった。
「この不幸の手紙みたいなもんを書いた女は、たぶん今でもおまえのことが好きなんだよ。ようするに強い未練と執着を持ってるってことだ。そう考えた場合、おまえの取るべき道はおそらくふたつある。その前に選択肢ゼロとして、おまえがパリ行きをキャンセルするとか、そういう行動を取るのは絶対やめたほうがいい。今要が言ったとおり、この犯人はおそらくおまえがK市の海辺に別荘を持ってるとは知らない可能性が高い。何故かっていうとな、もし俺がこの女の立場でこんな手紙を書くとしたらばだ、手紙に書いたとおり本当に色々知ってるって匂わせるために、ピンク色の巻き貝別荘のほうに手紙を投函するだろう。でもそうはしてないってことはさ、サニーちゃんが望遠鏡でおまえのことを見てるだけで幸せだっていうみたいに、遠くからずっと動向を監視してた可能性が高いわけだ。にも関わらず、おまえがフランス行きを自粛したりしたら――それこそ犯人の思うツボだぜ。こいつはおまえが自分の言うこと聞いてくれたみたいに錯覚して、ますますおまえにつきまとうことを考えようとするだろう。そこで選択肢第一。まずは何事もなかったようにいつも通りの行動をして過ごすことだ。要はさ、自分の身がどうこうっていうんじゃなくて、周囲に迷惑をかけるかもしれないと思ってパリ行きをキャンセルしようと考えたんだろうけど……こんなの、ただの悪戯で終わる可能性も高いわけだろ?つーか、わざわざフランスまで一緒についてきて嫌がらせとか、金かかりすぎだぜ。相手にそこまでする根性があるとも思えないしな」
「いや、あるよ。この手紙にはエッフェル島の描かれた切手が貼ってあって、消印はパリだった。つまり、この犯人は今フランスに住んでる可能性もあるってことだと思う。まあ、今はインターネット全盛時代だから――そういうことを請け負ってる業者のサイトもたくさんある。つまり、アメリカのどこそこ州のなんとかって場所からこの手紙が出されたように見せかけて欲しいとか、そういうことだね。ところでさ、翼はこの手紙を出した犯人、間違いなく絶対女性だと思うか?」
聞かずもがなのことを聞くな、といったように、翼は呆れ顔をして答える。
「そんなの、決まってんだろー!?99.9パーセント、こんなことをするのは女だって相場が決まってんの。男の場合は自分に自信のない小心者がやる行動だって気がするな。大体さ、要だって自分でわかってるだろ?で、あの子かもしれないしこの子かもしれない……とか、あまりにも心当たりありすぎで、相手が誰だか特定出来ないんだろーし」
自分のこれまでの行状については棚に上げ、翼はまるで勝ち誇ったようにふんぞり返ると、豆菓子をぼりぼり食べている。
「僕もさ、もちろん相手が女性だろうなとは当然思った。今翼が言ったとおり、99.9パーセントの確率で。でも、人のことはともかくとして、自分事ってことになるとどうもね……いつもの冷静さとか、客観性みたいなものが失われてる気がして、それでおまえに聞いてみたってだけなんだ。それで、翼の考える僕の第二の選択肢っていうのは?」
「警察に『こんなん届きましたけど~』って言って、被害届け出すってこと。まあ普通だったら実被害が出るまでは警察だって相手にしないだろう。『そんなこと言われてもね、失笑』で終わるのがオチってーか。けど、おまえは普通の並いる凡人とは違う、セレブ感あふれる高貴な出自なわけだ。それだけでも警察は割と真摯に話を聞いてくれるだろうし、二通目の手紙が届いたりしたら内容いかんによってはおまえの周辺警備ってのを多少はしてくれるかもしんない」
「なるほど。翼の言いたいことはよくわかった。ようするに僕はおまえの言う第一の選択肢とやらを取って、いつも通り過ごすのが望ましいってことなんだろうな。ただし、暫くの間はいつも以上に自分の行動や周囲のそれには注意深くなったほうがいいってことか。あと翼、僕は全然セレブ感あふれる高貴な出自なんかじゃないよ。おまえも知ってるだろうけど、せいぜいのところを言って安っぽい成金セレブってとこ」
時司グループは、国内と海外に二百店舗以上のデパートとリゾートホテル、チェーンレストランなどを保有する、ここ四半世紀ほどで大きく業績を伸ばした複合企業である。開業者は要の父の時司征十郎で、彼は七十歳になった今も現役であり、息子にトップの座を譲ることなくCEOの椅子に座り続けていた。
「俺の目から見れば、要はそこらの伝統と格式を持つセレブリティなんぞより、よっぽど本物って気がするぜ。そういやおフランスのドドド貴族のみなさまは、現在ほとんど死に体らしいがな。なんにしても要、パリ滞在中は俺が常におまえのそばにいて守ってやるから、大船に乗ったつもりでいろって」
「大船ねえ」
いつもの要らしくなく、彼は軽い鬱状態すら患っているかのようだった。ある意味これだけでも十分、犯人の思惑は成功しているように思え、翼としては心に不安が深い染みを残すように広がっていくのを感じた。そしてらしくもなくちびちび焼酎を飲む友のことを励ますべく、翼が言を継ごうとすると――ピンポーンとインターホンが鳴ったのだった。
翼はオートロックの施錠を解くと、寿司の配達人に支払いをすべくクロムハーツの長財布に手を伸ばした。特上の寿司二人前分で樋口一葉が一枚飛んでいったが、元気のない友を励ますための出費と思えば安いものである。テーブル上に桶をふたつ並べると、翼は今度は台所で玉露の茶を淹れはじめる。
「でさ、具体的に要には容疑者候補として何人か顔が思い浮かぶ心当たりとかあんの?」
床のオリーブグリーンのラグに直接座りこむと、翼は手づかみで、要は箸を使って双方あぐらをかきながら寿司を食べはじめた。
「いや、僕もそれをずっと考えてたんだけど……この手紙に名前のあるマリエって子は、小さい頃に両親が離婚して、マリエのほうは母親に、妹のほうは父親に引き取られたらしいんだ。それもうんと小さい頃のことだから、マリエは実の父親についても二卵性双生児の妹についても、ほとんど記憶がないって話だった。それで……」
「あーっ、わかった!!要、もしかしてこの手紙の差出人、その二卵性双生児の妹とかなんじゃねーの?二卵性ってことは、一卵性と違って顔なんか全然似てない可能性がある。そんで、お姉ちゃんがおまえに弄ばれたとも知らず、自分も同じ目に遭ったってことを後になって知って、以来おまえに復讐心を……」
「翼、おまえ意外にメロドラマの見すぎなんじゃないのか?」
要はおかしくなるあまり、牡丹エビの寿司に手を伸ばすのをやめ、声に出して笑った。
「僕も、その可能性については一応考慮しないでもなかった。何しろ僕とマリエはそんなに長くつきあってたわけじゃないし……名字が違って顔もまるきり似てないとなったら、流石の僕も気づきようがない。でもそんな偶然は砂漠で針を拾うほど確率が低い――とは言わないけどね、あまり現実的じゃないよ。まあ、一応今の翼の話もありえないことではないとして、頭の隅に留めておくにしても、とにかくマリエには親戚らしい親戚がひとりもいなかった。そういう意味で天涯孤独に近かったことも考えあわせると、彼女のことをいつまでも覚えてるのは、僕とマリエの母親と、あとはモデル事務所の関係者数人に限られるような気がするな」
「そういやさ、その子の母親ってちょっとおかしくないか?娘が外国で死んだってのに、赤の他人のおまえに葬儀一切任せるなんて……」
「それだけ、ショックだったんだよ。彼女はその頃、日本のほうのモデル事務所はやめてパリに留学してたんだ。で、単身向こうでオーディションなんかを受けて、有名ブランドのショーでランウェイを数回歩いたって頃に起きた事故だったから――これからもしかしたら成功するかもしれないっていう、まだ花の咲きはじめ、蕾の頃にマリエは死んだってことになる。だから日本に彼女の熱心なストーカー的ファンがいたとは考えにくいし……それは向こうでだって同じだろう。となるとね、その頃僕はマリエの死を受けて、すべてつきあいのある女性と関係を絶っていたから……僕の考えすぎじゃなかったとすれば、この手紙はその時期に僕のモデルをしてた女性の誰かっていう気がするんだ。なんとなくだけど」
「よくわかんねえな」エンガワを口許に運びながら、翼がしきりと首を捻る。「そもそもそのマリエって子はどんな子だったわけ?まあ、向こうのショーでランウェイ歩けるくらいっていうと、相当美人だったんだろうなとは思うけど……彼女が死んだせいでおまえと関係を持てなくなって二階堂マリエを逆恨み。けど、相手は結局死人だから憎むに憎めず、その矛先は要に戻ったってことか?」
「女性の深層心理っていうのは複雑怪奇なものだから、僕如きには到底理解しがたいにしても……その可能性はあると思う。ただ、マリエの死のショックでその頃の記憶が実はあまりなくてね。そういう女性から電話がかかって来たりすると、電話に出ないか、出ても『二度と電話して来ないでくれ』って言うかのどちらかだった。こんなことを人に言ってもたぶん、理解できないだろうけど――僕は彼女の死は自分のせいだと思ってた。少なくともその一因は自分にあると。だから自分に罰を与える必要性を感じたし、マリエの死の前と彼女の死後では僕の描く絵の作風はかなりのところ変わっている。それまでも国内の賞はいくつか獲ってたけど……海外の大きな美術の賞を獲得するようになったのは、彼女が死んで以降のことだった。それまでにも僕には絵を描く才能については自分で自惚れるくらいには確かにあったろう。でも本当の意味で僕が世界に通用するくらいの物描きになれたのは――彼女が死んだからなんだよ」
胸に強くこみあげるものがあったのか、要は瞳に涙が滲むのを誤魔化すように、玉露をすすった。
「もう一回聞くけどさ、要、そのマリエって子はおまえが夢中になるくらいいい女だったっていう、これはそういう話なんだよな?」
「夢中になるも何も」と言って、鼻をすすって要は続けた。「最初の頃、彼女は僕にとってストーカー以外の何ものでもなかったよ。とにかくしつこくてね……僕は君みたいな女性にはまるっきり興味なんかないし、つきまとわれるのがあまりに鬱陶しくて、『君程度の女なんか、道端に履いて捨てるほどいる』って言ってやったこともあるくらいだった」
「へえ、面白いな。要ってさ、変なところで潔癖みたいなとこあるだろ?相手に会った瞬間とか見た瞬間に美人・不細工関係なく、あいつとこいつとそいつはいい……でも、そいつとこいつとあいつは駄目だ、みたいに一瞬で選別して、ランク外になった奴とは社交辞令以上の関係には絶対進まない、みたいなさ。それでいくとその子は最初は要の中でランク外だったわけだ。でも今じゃあ死んだことで別格の存在になってるっていう、これはそういう話なんだろ?」
サイドメニューとして頼んだ、若鶏の唐揚げを口に放りこみながら、翼はどこか悪戯っぽそうに瞳を輝かす。自分とこの無二の親友との関係は、普段さして意識していないにしても、大抵は対等か、要のほうが下であるように見せかけておいて若干上である場合が多い……その珍しい立場の逆転性を、翼としては大いに楽しんでおきたかったのである。
「まあ、そういうことになるのかな」要は観念したように溜息を着き、雲丹に手を伸ばすと、焼酎の残りを飲んだ。「最初に会った時、僕はマリエに対して感じるところは何もなかった。むしろ逆にモデル事務所に所属してるってわりには、背もあまり高くないし、それほど人目を引く容貌をしてるようにも思わなかったっていうか……いや、唯一人を射殺すような目だけはしてたけど、僕自身の好みとしては全然モデルにしたいと思うようなタイプじゃなくてね。でも本人の図々しいまでの売り込みが凄くてつきあったっていう、唯一の例だよ。マリエみたいな女の子は、彼女の後にも先にも、ひとりとしていなかった」
「ふうん。でもなんかそれ、すごくわかる気がするぜ。普通の女はさ、サニーちゃんじゃないけど、まずは遠巻きにおまえのことを見るもんな。たとえば俺みたいな男に玉砕覚悟で告白するってのは、要に「好きです」って言葉にして伝えるのとは雲泥の差がある。なんでって、俺程度の男だったら「顔はいいけど性格悪そう。だから振られて良かった」ってなるかもしんない。けど、おまえの場合はなあ……「君って性格悪そうだよね」なんて要に言われたら、俺が女なら次の日にはロープ買ってきて自殺することを考えるね」
「なんだよ、それ」と言って、要は魚偏の文字がびっしりと並ぶ湯呑みを、なんとなく眺めて笑った。鱚と書いてきすと読むらしいという、新しい発見がある。
「つまりさ、そんくらい要の言うことは女に対して破壊力と影響力があるってこと。だからおまえに「綺麗だ」とか「可愛い」なんて言われた日には、「そんなこと言われ慣れてるわ」って女でも、心底から喜びがわきあがるっつーのかね。そこは唯一にして普遍な絶対の価値があるわけ。だってさ、要って絶対俺以上のたらしだもんな。おまえは確かに嘘はつかないよ。不細工な女に綺麗だの可愛いだのっていうふうには、絶対言わない。けど、どんな女にもどっか一箇所くらいは見るべきところがある……髪が綺麗だとか指が綺麗だとか、着てる服のセンスがいいとか、そういうことだけど。で、おまえは心の底から本当にそう思ってるって言い方するだろ。だから女のほうでも勘違いするんだよ」
「それは違うよ。僕は嘘はつかないし、本当のことしか言わない。でも言う相手のタイプは限られてる……「別に無理してそんなこと言わなくてもいいのに」っていう感じの女性にしか、そうは言わないからね」
「だーかーらー、それがおまえが正真正銘のたらしだっていう、証拠みたいなもんだろーよ!!」
翼は要の自覚のなさに呆れ返ったというように、肌触りのいいラグの上でそっくり返った。桶の中には海鰻がひとつ残っており、翼の食わず嫌いを知っている要は、箸を伸ばして二口ほどでそれを食べた。
それからふたりはフランスのパリ行きの日程のことなどを話し合い――また翼は二階堂マリエとその他要の過去の女たちについて彼から聞き出し、その日は満足の内に眠ったといえる。だがまさか、無理をして一週間の休暇を取得したその初日に、テロリストが乗り込む機内で大きなトラブルに巻き込まれることになるとは、さらには要に届いた脅迫めいた手紙とその事件に関連性があろうとは、翼はこの夜、夢にも思ってみなかったのである。
>>続く……。
コスメ難民問題はこれからも継続中☆っていう感じなんですけど(笑)、そろそろ小説の連載のほうをはじめてみようかなと思いました(^^;)
え~とですね、実をいうとこの小説、わたし的に「このあたりがもう少し……ちょっと、なんだよね」っていう部分がまだ解消されてなくて、大幅に書き直したほうがいいんじゃないかなっていう気もするんですけど、とりあえず連載しながら少し書き加えていければと思ったりしました(汗)
いえ、最後のほうの展開がちょっとこれだと尻つぼみかな☆と思ったりしてるので、お読みになる方はまったく期待せずに読まれることが肝要かな、なんてww
ちなみに前回と前々回のお話と違って短いので、大体12回前後で終わるかな~と思います。
なんにしても、「要先生が男として最低な件☆」といったようなお話かと(笑)
そんでもって、こんなただの恋愛小説にボッティチェリのプリマヴェーラを持ってくるのはどうかと思いつつ(恐れ多い)、まあ一応そこにテーマがあるということもあって、前文のほうで少しこの「答えの出ない名画」について何か書いてみようかなと思いました♪(^^)
もちろん、ボッティチェリのプリマヴェーラやヴィーナスの誕生は、誰もが知ってる名画だとは思うんですけど、このお話を書き終わった頃くらいに、「ボッティチェリ【プリマヴェーラ】ヴィーナスの園としてのフィレンツェ」(ホルスト・ブレデカンプ、中江彬さん訳/三元社)という本を読んだんですよね。
一応、「プリマヴェーラ」の基礎知識として、「色んな人が色んなことを言ってる絵画だよ☆」っていうことは知ってはいるつもりでした。
でもわたしの中では「芸術新潮2001年3月号」の特集で書かれていたこと――その中で若桑みどりさんの書かれていた説がもっとも有力っぽいという印象をずっと持ってたので、読んでる途中から少し頭が混乱してきたのです(^^;)
「プリマヴェーラ」に関して説明しようとすると、ボッティチェリが生きた時代のこと、歴史的背景への理解が不可欠とは思うんですけど、まあまずは俗っぽい解釈から順にはじめたいと思います。
この横長の素晴らしい絵画は、右から左に時間が流れているように多くの人が感じると思うんですけど、まずは右から西風の神ゼフュロス(セフィロス?それはFF☆)、ニンフ・クロリス、そしてクロリスが変身して花の女神フローラへ。中央に座してこの絵画世界全体を取り仕切っているように見えるヴィーナス、その上には彼女の息子のキューピッド、三人の踊る女神はヴィーナスの侍女たる三美神、それから最後がメルクリウス(ヘルメス)です。
この楽園はいわゆるヘスペリデスの園と呼ばれる場所であろう……といったように、多くの方が解釈するかそうした印象を持つと思うのですけど、その前に「そのヘスペリデスの園って何よ??」という説明から、次回ははじめたいと思います♪(^^)
それではまた~!!
太陽と月に抱かれて
ライムグリーンのカーテンを透かして、光が忍び込んでくる……女は目が覚めると散らかった室内を見回し、どこか気怠そうに身じろぎした。このまま動きたくない、ずっと眠っていたい、また朝が巡ってくるだなんてこの世界はなんて残酷なのだろうと彼女は思う。
カーテン越しに入りこむ、光の眩しさに目を細め――彼女は自分が今この世に生きる唯一の理由に思いを馳せた。
「要……愛してるわ」
そう呟き、彼女はようやくのことで体を起こす。広いダブルベッドの上には、画壇の寵児と世間からもてはやされる男の、引き伸ばされたスチール写真が飾ってある。
縦75センチ、横80センチほどのその写真からは、どこか異様な空気が漂っている。女は昨晩、彼のことを思って自慰行為に耽ったことを思いだし、少しだけ体の芯が熱くなるのを感じた。
大きな乳房にくびれた腰、官能的なラインを描く臀部から太腿にかけてのライン……それらは彼がかつて心から強く望んで欲し、彼女のほうでも放埒なまでに解放して与えたものだった。
「要、愛してるわ」
彼女はそう呟き、朝の挨拶がわりに写真の要の唇に、自分のそれを与える。そしてディープキスするように何度も舌で彼の唇を嘗め――それから彼が決して眼差しを投げ返さないことに、今さらながら気づく。
「あなたがいけないのよ。私がこんなことをするようになったのは、全部あなたの所為……ねえ、わかってるでしょ?わたしがこんなにこんなにこんなに……」
そう言って女は、背伸びをして豊満な乳房を写真の要の体にこすりつけ、それからもう一度彼の唇にキスを繰り返した。彼女は全裸だったが、その体に不意に微かな痛みが走る。
スチール写真の表面には無数に穿たれた画鋲の跡があり、それが胸の表面にうっすらと傷を作ったせいである。
「痛いわ、要。でも貴方がわたしに与えた本当の痛みは、こんなものじゃない。心、精神、魂……そうよ。あなたはその一番奥にあるものに深い傷を負わせたのよ。だからわたしは絶対にあなたを許したりなんかしない。そう、絶対にね」
女はここで写真の要から離れ、全裸のままベッドの上を何度か飛び跳ねた。そしてそのままの姿勢で彼女が両腕を開いたり閉じたりすると、大きな胸が重力を嘲笑うように上下する。
「ふふっ。ねえ見て、要。とってもいい朝よ」
絨毯の上に着地すると同時、女はライムグリーンのカーテンを全開にした。五十階建て高層マンションの最上階――果たして今、ベランダに出た全裸の彼女を見ている人間というのは、都内に誰かいるものだろうか?
彼女は裸のままベランダの樹木や花に如雨露で水をやり、少しばかり花がら摘みをしてから、サンダルを脱いで寝室へ戻った。そして薔薇や菫にデイジー、ガーベラといった色とりどりの花びらをベッドのシーツに撒き散らし、そこへ裸のまま横になる。
「昔、こんなような状態であなたの絵のモデルをしたことを思いだすわね。なんだかとっても懐かしいわ」
『うん、そのまま横たわって……そう。まるで花の女神フローラといったようにね』
『その女の人、知ってるわ。ボッティチェリの<プリマヴェーラ>に出てくる女性のことでしょ?』
自分にも少しはその種の知識があるのだと知ってもらうために、彼女は無邪気に笑ってそう聞いた。
『そうだね。あの絵と同じくボッティチェリの作品で有名な<ヴィーナスの誕生>という絵があるだろう?<プリマヴェーラ>とあの絵はモチーフとしては繋がってるんだろうね。最初に君と会った時、何故かボッティチェリのヴィーナスのことを思いだした。顔がっていうんじゃなくて、なんとなく全体として雰囲気が似てるような気がしてね』
一体どこの高級な花屋に頼んだのか、薄いピンク色の桜や薔薇の花びらを惜しげもなくベッド上に降り散らせ――要はそこに横たわるよう、彼女に対してもう一度指示をだす。
『こんな感じでいい?』
『うん。悪いけど、後は黙ってて。少なくとも、僕がいいと言うまでは』
若い男の、というよりは芸術家の真摯な眼差しで一種の<商品>として眺めまわされることは、彼女にとって最初は戸惑い、のちには究極の快楽をもたらす行為となった。彼の目が自分の一体どこに注がれているのか、絵の進行状況など見なくてもよくわかる……そして彼が自分から誘わない限りは、決してその種の関係を結ぼうとしないだろうことも彼女にはわかっていた。
『ねえ、あなた絶対に頭がおかしいでしょ!?』
時司要という画家のモデルになって数週間目――彼女は自身の欲求不満を爆発させるように、最後はそんなふうに詰め寄っていた。
『匂いを嗅ぎながら食べない、目でセックスして体には指一本も触れないだなんて、あなたもしかしてゲイか何か!?』
『ああ、よく言われるよ。自分が帰ったとあとに自慰行為にでも耽ってるのか、それとも不能かゲイなのかってね。でも僕は……これから自分のすることには、責任を持てないから』
(君だってそうだろう?)というように見返されて、彼女は思わず後ずさった。まるで悪魔のように魅力的な優しい微笑み。これに絡め取られたら、おそらく自分はあとになって必ず後悔するだろう。にも関わらず、行き着くところまで、堕ちるところまで堕ちるしかないのだとわかっていた。
『ひどい男よね、要って。一体あなた、何人の女とこんなことをしてるの?』
『さあ、何人かな。数え切れないくらい』
悪びれずにそう答える要とベッドに倒れこみながら、花の香りの中で彼女は戴冠した。春はすぐに終わり、草木は枯れ、あとには絶望の冬の荒野だけが残ると知っていながら……。
女は過去の回想をやめると、もう一度微かに笑みを浮かべる男のスチール写真と向きあった。先ほどは仄暗い室内でのことだったので、はっきりしなかったが――その大きく引き伸ばされた写真はやはり、異様な空気を放っていた。何故なら彼の顔の輪郭といい体の線といい、そのすべてがまるで点描画のように画鋲で一点一点穿たれていたのだから。
「わたしがこんなことをするのは、要、全部あなたのせいなのよ」
甘えたような声を出しながら、女はベッドのヘッドボードから赤い画鋲を取りだし、それで彼の瞳の周囲をくり抜くように刺していく。眼球の周囲も、瞳を縁取る睫毛もすべて、何もかも……。
最初は、肩や服といった無難な、あまり良心の痛まぬところからはじめ、やがて髪、額、顔の輪郭と、呪いの儀式は着実に一点一点進んでいった。そしてそれは最後、両の眼の中央を残すばかりとなっている。
「要、愛してるわ。だからあなたのことは――私が必ずこの手で殺す」
1
「ひっくしょい!!おお、ちくしょう」
翼はくしゃみをすると、どこか芝居がかったようにそう言い、隣の画家の悪友のことを振り返った。
「で、なんだって?俺とおフランスまで旅行しないかって話だっけ?」
「うん。向こうの画廊で個展を開いてくれることになって……なんかパーティとかも盛大にしてくれるらしい。で、まあもちろん僕ひとりっていうか、事務所のスタッフを連れてくっていうのでもいいんだけど、もし翼の都合があえばどうかなと思って」
「ふうん。の割におまえ、全然気乗りしてねえように見えるのは、俺の気のせいか?」
春の海を遠く眺めながら、十階建てマンションの最上階のベランダで、翼は鼻をすすった。
「なんだ?翼って花粉症なんか患ってたっけ?」
「ああ、それがな。なんか今年になって急に鼻がグズグズ言いだすようになって……もしかして俺っちもとうとう花粉症デビュー!?とか思ったんだけどさ、今一生懸命自分に『俺は花粉症じゃない、花粉症じゃない、花粉症じゃない』って言い聞かせて、マインドコントロールしてるとこ」
「マインドコントロールねえ。そんなことより、耳鼻科にでもかかって薬もらったほうがいいような気がするけど」
要は呆れたように言い、ベランダの手すりに背をもたせかけ、溜息を着いている。
以前、バカラのグラス落下事件があってのち――ふたりは手すりに物を置かず、小さなテーブルの天板の上に食事の皿や酒のグラスを置くのを慣わしとしていた。
翼は一度室内へ入り、大きな音をさせて鼻をかむと、その片手にデジタルカメラを持ってベランダへ戻ってくる。
「おまえ、写真なんか撮るの趣味にしてたっけ?」
「うんにゃ。俺にはその種の美的センスってもんはない。要とは違ってな。けどまあ、サニーちゃんと約束したんだよ。うちのベランダから見える桜景色はなかなかのもんだって言ったら、<K病院通信>の一面に使いたいと思うから、是非お写真をって」
カシャカシャッと連続して写真を撮ると、「これでよし」と満足したように保存データを眺め、翼はまたリビングに戻っていった。テレビに繋いで他の撮りためた桜景色もそれぞれチェックするためである。
「翼、おまえ今すごくいい顔してるよな。変な話、ひと皮剥けたっていうか……仕事が楽しくて仕方ないっていうのが、一緒にいてよくわかるよ」
「仕事のほうは楽しいっていうか、どっちかっていうとたの苦しいって感じかもな。楽しいけど苦しい、苦しいけど楽しいってーか。なんかさ、俺、大腸ガンの権威なんだってさ。内視鏡で大腸ガン治したければ、K病院の結城先生みたいに言われてるらしい。で、その評判のお陰で一日に多い時で四十人くらい内視鏡検査したりな。この間、テレビ取材の依頼があった時にはびっくりしたぜ。これ以上患者増えても捌けないから、断らせてもらうことにしたんだけど」
「そうか。翼、おまえさ、恩師の茅野さんみたいに独立する気はないのか?」
「独立かあ。まあ、このまま勤務医続けても先が見えてるってなったら、そういう道もあるよなみたいには、頭のどっかで考えるけどな。クマ公が電卓弾いて『大体このくらい儲かる見込み』なんて言ってるのを聞くと、確かにちょっとは心が動くし」
ソメイヨシノやヤマザクラ、シダレザクラといった桜が春の饗宴を繰り広げる画面に見入りながら、翼は笑って言った。
「でも今はとりあえず、このままもう二~三年はK病院にいようかなって思ってる。いくら居心地いいにしても、いつまでもそういうところにいると人間として成長はないとか思ったらさ、また考えようと思ってるけど」
よし、たぶんこれがいいな、と呟き、翼がテレビのチャンネルを変えると、日曜のこの時間は競馬中継をやっている真っ最中だった。
「今回の賞、俺もつっとばか麻酔科の先生に頼んで馬券買ってあるんだよ。もしミカサ=ルルブランドが一着で、コウライアゲハが二着だったりしたら、パリ行きの飛行機代は俺が自分で出してもいいぜ」
「……一緒に、来てくれるのか」
要にしては珍しく、気弱な物言いに翼は奇異なものを感じた。K病院に九月に赴任して以来、まとまった休暇らしきものを翼はほとんど取っていない。救命センターにいた時の習慣で、大晦日や三が日も緊急の連絡があれば出勤するということにしておいた。そして翼にとってそうすることは――部下に好かれるための手段ではなく、実家に戻らなくてもいい良い口実ともなることだったのである。
「なんだ?要っち、どうした?さっきからぬわんとなーく思ってたけど、おまえ陰気な冬が終わったって割に、全然精気がないような顔してるぜ。パリで個展を開くことになって、テレビでもなんか色々やってたよな。『彼の作品は本当に素晴らしい。この芸術の都で彼の個展を開けることは、ファンにとっても心から待ち望んでいたことだ』みたいに、向こうの人が字幕付きでしゃべってたり……おまえの画家としての人生は順風満帆なんじゃないかと思ってたけど、もしかしてスランプとかいうやつ?」
「いや、そういうのとは違うよ」
要の心情を慮ってか、四十七型テレビの音声を、翼は少しばかりリモコンで落とした。競走馬がそれぞれゲート入りし、あとはレースがはじまるばかりとなる。
「あ、ごめん、要!!スタートした!!続きはこのあとで!!」
翼が再び音声を上げると同時、十六頭の馬たちが一斉にゲートを出る。暫くの間はレッドグレイトブルースが先頭を飾り、第三コーナーを越えたあたりで次々と他の馬たちの追い上げがはじまった。二着サンピグマリオン、三着ブルームーンレディ、そして四着がミカサ・ルルブランドだった。続く五着がコウライアゲハ。
「おおっ!!来たきた、行けいけ、そのままブッち切っちまえっ!!」
ミカサ・ルルブランドがブルームーンレディを追いあげ、コウライアゲハも僅差でそのあとを追っている。その間もサンピグマリオンがレッドグレイトブルースと半馬身で競っていた。
「Oh,脳~っ!!サンピグマリオンが一位で、二位がレッドグレイトブルースかあ……結局俺っちの愛するルルとアゲハは、三着と五着でやんしたよ、要先生。しょんぼり」
「しょんぼりって、おまえ、一体これにいくら賭けてたんだ?」
見るからにがっかりしたようにソファの背もたれに頭をのせ、翼はその曲がった姿勢からテレビの電源をリモコンで切る。
「ま、一万円ってとこですぜ、要の旦那。あ~あ、加瀬の奴の予感が的中かあ。あいつ、今ごろ悔しがってるだろうなあ。何しろ物凄いドケチなんもんだから、今回も千円しか賭けないでやんの。麻酔科の戸田先生は、ブルームーンレディが一着で、サンピグマリオンが二位って予想だったけど……今ごろ競馬場で管巻いてるかもしんねえなあ」
「ふうん、なるほど」
要はレースがはじまる直前、馬券など買ってはいないものの、自分なりにこのレースの予想を立てていた。そして戸田先生と同じくブルームーンレディが一着、二位はミカサ・ルルブランドとしていたのだが――この場合、要の予想もまた大きく外れたということになるだろう。
「それにしてもあの馬、綺麗な馬だったな。毛並みが艶々してて、黒馬っていうよりは微かに体が青みがかってるように見えた」
「ああ。だからそれでブルームーンレディって言うんだろ。サンピグマリオンは白に斑のみっともない馬なんだけどさ、なんか妙に人気あんだよな。ルルとアゲハは栗毛と鹿毛で、一番俺好みな馬なんだけど」
「まあ翼は天邪鬼な奴だから、この場合あえて一番人気のサンピグマリオンには賭けようとすら思わなかったってことだろ?」
「あ、わかる?それよか、もう馬の話はいいわ。おフランスで梨を食う話でもしようぜ。なんかフランス人にラ・フランスの話をするとやたら受けるらしいけど、まあそんなこともどうでもいいとして……要、どうした?いつもは俺の人生相談に乗ってもらってばっかだから、今度は俺のほうがおまえの話を聞くぜ」
そう言って翼は、羽を生やして飛んでいった福澤諭吉のことは忘れ、キッチンで酒を入れはじめる。
「なんか最近俺、焼酎のレモン割にハマってんだわ。炭酸とポッカレモンで割って飲むってやつ。あと、食事のほうはいつも通り出前な。割と近くに『大衆食堂みくだりはん』ってとこがあってさ、そこのうな重とそばがめっちゃうまい。あとスープカリーの美味しい店を大分前に瑞島の奴から聞いた。で、そこも出前やってて、うちにも来てくれるし……あとは寿司とかピザとか、そんなところか」
「瑞島さんって、外科病棟の看護師の?」
彼女と医療図書室の司書、田中陽子の名前は翼の口からよく聞く名である。要は常々(もしかしたら……)と思っているのだが、翼曰く「いやいや、それだけは絶対ありえん」ということだった。
「あいつ、地元がもともとここだからさ、観光名所とか色々詳しいんだよな。瑞島が言うにはさ、このままじゃサニーちゃんの婚期が遅れに遅れそうだから、あの超格好いい絵描き先生にどうにかしてもらえってことだったんだけど、おまえはこの件、どう思う?」
「どうって……」
翼から焼酎のレモン炭酸割を受けとりつつ、要は隣の相棒の様子を伺う。
「つまりさ、サニーちゃんが言うには――つーか、この前提としておまえには絶対絶対絶対言うなっていう前提があるんだけど、俺は百パーおまえを男として信頼してるからそのまま話す。サニーちゃんはおまえのことを遥か彼方の望遠鏡から見てるだけで幸せなんだって。で、彼女が考えてんのはおもに恋愛的なことじゃなくて、要の家でおまえの靴でも磨いて過ごしたいってことだった」
「靴をねえ」
要は話の中心を理解しながらも、あえて気づかない振りをして焼酎を飲む。
「あ、これ、この間仙台からやって来た患者がくれた大豆の菓子。これが結構いけて、ひとりでもあっという間にぼりぼり食っちまう……って話もどうでもよくて、まあ、適当に食いながら聞いてくれ。サニーちゃんは毎日、おまえの服を洗濯したり、靴磨いたりして、芸術のお手伝いが出来たら幸せなんだって。しかも彼女の場合、特に特異なのが、そういう妄想をしてるだけで幸せだっていう一種の病気だな。『セックスとかしなくていいの?』って聞いたら、靴磨きの奴隷はご主人様の言うことを聞いてればそれでいいって話だった。つまり、当然ご主人様には他に何人もその種の女性がいる……けどまあ、サニーちゃんはそれでいいんだって。俺、その話聞いた翌日に瑞島に言ってやった。本人がそれで幸せだって言うんだから、他人が横でどーのと言っていい話じゃないって」
「おまえの言うことが正解だよ」
自分事ながら、要はくっくと笑って鳩の好きそうな豆菓子をつまんで食べる。
「その、さ。例の事件があってから――僕はK病院の絵を四枚制作した。二枚目に取りかかったところで、それ以上の報酬は支払えないってことだったから、海辺のピンク色の珊瑚の家と、四枚の絵をトレードするってことにしたわけだ。で、絵を実際に飾ったりなんだりする時に田中さんとは一緒に色々話をしたよ。彼女は絵画というか、芸術っていうのものを本質的に理解してる人だと思う。そしてそういう話の最中に彼女は確か、『自分には僕の靴の紐を解く値打ちもない』みたいなことを言ってたな。つまりはそういうことなんだと思う」
「よく意味わかんねーな。靴を磨く意味はあっても靴紐を解く値打ちはないってどういうことだ?」
「それはね、聖書で洗礼者ヨハネがキリストに対して言ってることなんだよ。その時代、主人の靴の紐を解くのは奴隷の仕事だった。つまり、靴の紐を解く値打ちもないっていうのは、奴隷の値打ちもないっていうこと」
「流石にそりゃ卑屈すぎなんじゃねーの?『ご主人様、靴をお磨きしました』、『うむ、ごくろう』、『ご主人様、お帰りなさいませ。ただ今靴紐をお外し致します』……なんてやってる内に、そのうち何かご褒美もらえるんじゃないかって思うのが人情ってもんだろ?」
「そうかもしれない。でもこの広い世界には、そういう女性も本当にいるんだよ。キリストと結婚するために修道院に入るっていうような女性がね」
「ふう~ん。なるほどねえ」
そう言って翼は、修道院暮らしの僧がおそらくは出来ないだろう、食事の出前の注文について、要に色々相談した。
「これはここら一帯で注文が許される範囲のメニュー表。ま、なんでも好きなものを頼んでちょ。そのかわり、フランス行きの飛行機代はおまえ持ちな」
「いや、僕は言わば向こうから招待される形で行くわけだから……ファーストクラスの座席ふたつについては、経費を自前で支払わなくていいんだよ。なんにしても僕は今日は寿司が食べたい。焼酎を飲んでたらなんとなくそういう気分になってきた」
「よし来た!寿司食いねえ!!」
そんな意味不明の言葉を呟きつつ、特上の寿司を二人前頼み――翼はようやくここで、本気の本題へ入ることにしたのだった。
「で、おまえのなんか春愁しちゃってる様子と、今回のフランス行きには何か因果関係があったりするのか?本当ならここで更なる海外進出を果たせてバンザーイ!!ってなるとこだろうに、要がそんな浮かない顔してるってことはさ」
「ああ……実は自宅にこういうものが届いてね」
そう言って要は、ソファの背にかけてあるライトブルーのベストの懐から、一枚の手紙を取り出した。
「え~と、何々。>>時司要に告ぐ。わたしはおまえの一挙手一投足を監視している。おまえは人殺しだ。過去の罪を消すことなど決して出来はしない。その罪を償う瞬間が刻一刻と迫っていると思い知れ。二階堂マリエ……なんだ?要、もしかしておまえ、過去の女にストーカーでもされてるとか?」
事の推移を楽しむように笑う翼のことを無視し、要のほうはあくまで真剣な表情を崩さぬままだった。
「翼、今度ばかりは本当に笑いごとじゃないんだ。その二階堂マリエって子は、その昔僕が確かにモデルにしてた子だ。けど、五年前に飛行機事故で亡くなってね……遺体の引き取り手がいなかったから、僕が色々と手続きをしてフランスの墓地に葬った。パリから日本へ戻る機体が離陸してすぐにエンジントラブルを起こして墜落したんだけど、日本人の乗客がマリエを含めてほんの数名だったせいか、日本ではそんなに大きく取り上げられなかった。いや、もしかしたら取り上げられたのかもしれないけど、ほんの短期間報道されてすぐ忘れ去られたっていう感じだったと思う。僕はね、これは彼女のことを知ってる人間の犯行だと思ってる。人殺しっていうのはたぶんそういう意味だ……というか、他には考えられない」
「でも、このマリエって子は飛行機事故で死んだんだろ?だったら、おまえが殺したってわけじゃ……」
「いや、犯人の言いたいことの主旨は大体わかる。僕は彼女がヨーロッパで仕事をするために、日本を発つ前にあえてマリエのことを突き放した。だからこの犯人はたぶん――彼女の心を殺したっていうことを言いたいんだと思う」
「そうか。でも五年も前にあったことを、なんで今更……」
「今更かどうかはわからない。この手紙の送り主は、僕の一挙手一投足を監視していると言っている。けど、この手紙は僕の自宅に届いてたんだ。僕はあの海辺の珊瑚の家を手に入れて以来――東京とこっちを行ったり来たりしてるから、そういう意味では犯人がどの程度僕の行動を見ているのかは怪しいものがある。たぶん、おまえが絵画で賞をいくつも取って何やらもてはやされてることは知っている、そういうメディアの動向にはいつも目を光らせてるっていう意味なんじゃないかとも思う。なんにしても僕が気になってるのはマリエがフランスで死んだってことと、今回僕がパリへ行くってことになったこと、そのふたつについて犯人は何かが許せなくてこうした行動に及んだんじゃないかっていうことなんだ。まあ、現地で何か事を起こす気なのかどうかまではわからないにしても、そう考えた場合、今回の招待は断ったほうがいいのかなと思いもした。でも……」
「いや、むしろそいつは逆なんでないの、要先生」
翼にしてみれば、昔つきあっていたモデルの恋人が飛行機事故で死んだという話自体初耳だった。そもそもこの親友が大の秘密主義者であるとは、古いつきあいでよく知っている……ゆえに、今回の旅で自分の知らない要の過去について色々聞けそうな予感のすることが、翼は何やら楽しみだった。
「この不幸の手紙みたいなもんを書いた女は、たぶん今でもおまえのことが好きなんだよ。ようするに強い未練と執着を持ってるってことだ。そう考えた場合、おまえの取るべき道はおそらくふたつある。その前に選択肢ゼロとして、おまえがパリ行きをキャンセルするとか、そういう行動を取るのは絶対やめたほうがいい。今要が言ったとおり、この犯人はおそらくおまえがK市の海辺に別荘を持ってるとは知らない可能性が高い。何故かっていうとな、もし俺がこの女の立場でこんな手紙を書くとしたらばだ、手紙に書いたとおり本当に色々知ってるって匂わせるために、ピンク色の巻き貝別荘のほうに手紙を投函するだろう。でもそうはしてないってことはさ、サニーちゃんが望遠鏡でおまえのことを見てるだけで幸せだっていうみたいに、遠くからずっと動向を監視してた可能性が高いわけだ。にも関わらず、おまえがフランス行きを自粛したりしたら――それこそ犯人の思うツボだぜ。こいつはおまえが自分の言うこと聞いてくれたみたいに錯覚して、ますますおまえにつきまとうことを考えようとするだろう。そこで選択肢第一。まずは何事もなかったようにいつも通りの行動をして過ごすことだ。要はさ、自分の身がどうこうっていうんじゃなくて、周囲に迷惑をかけるかもしれないと思ってパリ行きをキャンセルしようと考えたんだろうけど……こんなの、ただの悪戯で終わる可能性も高いわけだろ?つーか、わざわざフランスまで一緒についてきて嫌がらせとか、金かかりすぎだぜ。相手にそこまでする根性があるとも思えないしな」
「いや、あるよ。この手紙にはエッフェル島の描かれた切手が貼ってあって、消印はパリだった。つまり、この犯人は今フランスに住んでる可能性もあるってことだと思う。まあ、今はインターネット全盛時代だから――そういうことを請け負ってる業者のサイトもたくさんある。つまり、アメリカのどこそこ州のなんとかって場所からこの手紙が出されたように見せかけて欲しいとか、そういうことだね。ところでさ、翼はこの手紙を出した犯人、間違いなく絶対女性だと思うか?」
聞かずもがなのことを聞くな、といったように、翼は呆れ顔をして答える。
「そんなの、決まってんだろー!?99.9パーセント、こんなことをするのは女だって相場が決まってんの。男の場合は自分に自信のない小心者がやる行動だって気がするな。大体さ、要だって自分でわかってるだろ?で、あの子かもしれないしこの子かもしれない……とか、あまりにも心当たりありすぎで、相手が誰だか特定出来ないんだろーし」
自分のこれまでの行状については棚に上げ、翼はまるで勝ち誇ったようにふんぞり返ると、豆菓子をぼりぼり食べている。
「僕もさ、もちろん相手が女性だろうなとは当然思った。今翼が言ったとおり、99.9パーセントの確率で。でも、人のことはともかくとして、自分事ってことになるとどうもね……いつもの冷静さとか、客観性みたいなものが失われてる気がして、それでおまえに聞いてみたってだけなんだ。それで、翼の考える僕の第二の選択肢っていうのは?」
「警察に『こんなん届きましたけど~』って言って、被害届け出すってこと。まあ普通だったら実被害が出るまでは警察だって相手にしないだろう。『そんなこと言われてもね、失笑』で終わるのがオチってーか。けど、おまえは普通の並いる凡人とは違う、セレブ感あふれる高貴な出自なわけだ。それだけでも警察は割と真摯に話を聞いてくれるだろうし、二通目の手紙が届いたりしたら内容いかんによってはおまえの周辺警備ってのを多少はしてくれるかもしんない」
「なるほど。翼の言いたいことはよくわかった。ようするに僕はおまえの言う第一の選択肢とやらを取って、いつも通り過ごすのが望ましいってことなんだろうな。ただし、暫くの間はいつも以上に自分の行動や周囲のそれには注意深くなったほうがいいってことか。あと翼、僕は全然セレブ感あふれる高貴な出自なんかじゃないよ。おまえも知ってるだろうけど、せいぜいのところを言って安っぽい成金セレブってとこ」
時司グループは、国内と海外に二百店舗以上のデパートとリゾートホテル、チェーンレストランなどを保有する、ここ四半世紀ほどで大きく業績を伸ばした複合企業である。開業者は要の父の時司征十郎で、彼は七十歳になった今も現役であり、息子にトップの座を譲ることなくCEOの椅子に座り続けていた。
「俺の目から見れば、要はそこらの伝統と格式を持つセレブリティなんぞより、よっぽど本物って気がするぜ。そういやおフランスのドドド貴族のみなさまは、現在ほとんど死に体らしいがな。なんにしても要、パリ滞在中は俺が常におまえのそばにいて守ってやるから、大船に乗ったつもりでいろって」
「大船ねえ」
いつもの要らしくなく、彼は軽い鬱状態すら患っているかのようだった。ある意味これだけでも十分、犯人の思惑は成功しているように思え、翼としては心に不安が深い染みを残すように広がっていくのを感じた。そしてらしくもなくちびちび焼酎を飲む友のことを励ますべく、翼が言を継ごうとすると――ピンポーンとインターホンが鳴ったのだった。
翼はオートロックの施錠を解くと、寿司の配達人に支払いをすべくクロムハーツの長財布に手を伸ばした。特上の寿司二人前分で樋口一葉が一枚飛んでいったが、元気のない友を励ますための出費と思えば安いものである。テーブル上に桶をふたつ並べると、翼は今度は台所で玉露の茶を淹れはじめる。
「でさ、具体的に要には容疑者候補として何人か顔が思い浮かぶ心当たりとかあんの?」
床のオリーブグリーンのラグに直接座りこむと、翼は手づかみで、要は箸を使って双方あぐらをかきながら寿司を食べはじめた。
「いや、僕もそれをずっと考えてたんだけど……この手紙に名前のあるマリエって子は、小さい頃に両親が離婚して、マリエのほうは母親に、妹のほうは父親に引き取られたらしいんだ。それもうんと小さい頃のことだから、マリエは実の父親についても二卵性双生児の妹についても、ほとんど記憶がないって話だった。それで……」
「あーっ、わかった!!要、もしかしてこの手紙の差出人、その二卵性双生児の妹とかなんじゃねーの?二卵性ってことは、一卵性と違って顔なんか全然似てない可能性がある。そんで、お姉ちゃんがおまえに弄ばれたとも知らず、自分も同じ目に遭ったってことを後になって知って、以来おまえに復讐心を……」
「翼、おまえ意外にメロドラマの見すぎなんじゃないのか?」
要はおかしくなるあまり、牡丹エビの寿司に手を伸ばすのをやめ、声に出して笑った。
「僕も、その可能性については一応考慮しないでもなかった。何しろ僕とマリエはそんなに長くつきあってたわけじゃないし……名字が違って顔もまるきり似てないとなったら、流石の僕も気づきようがない。でもそんな偶然は砂漠で針を拾うほど確率が低い――とは言わないけどね、あまり現実的じゃないよ。まあ、一応今の翼の話もありえないことではないとして、頭の隅に留めておくにしても、とにかくマリエには親戚らしい親戚がひとりもいなかった。そういう意味で天涯孤独に近かったことも考えあわせると、彼女のことをいつまでも覚えてるのは、僕とマリエの母親と、あとはモデル事務所の関係者数人に限られるような気がするな」
「そういやさ、その子の母親ってちょっとおかしくないか?娘が外国で死んだってのに、赤の他人のおまえに葬儀一切任せるなんて……」
「それだけ、ショックだったんだよ。彼女はその頃、日本のほうのモデル事務所はやめてパリに留学してたんだ。で、単身向こうでオーディションなんかを受けて、有名ブランドのショーでランウェイを数回歩いたって頃に起きた事故だったから――これからもしかしたら成功するかもしれないっていう、まだ花の咲きはじめ、蕾の頃にマリエは死んだってことになる。だから日本に彼女の熱心なストーカー的ファンがいたとは考えにくいし……それは向こうでだって同じだろう。となるとね、その頃僕はマリエの死を受けて、すべてつきあいのある女性と関係を絶っていたから……僕の考えすぎじゃなかったとすれば、この手紙はその時期に僕のモデルをしてた女性の誰かっていう気がするんだ。なんとなくだけど」
「よくわかんねえな」エンガワを口許に運びながら、翼がしきりと首を捻る。「そもそもそのマリエって子はどんな子だったわけ?まあ、向こうのショーでランウェイ歩けるくらいっていうと、相当美人だったんだろうなとは思うけど……彼女が死んだせいでおまえと関係を持てなくなって二階堂マリエを逆恨み。けど、相手は結局死人だから憎むに憎めず、その矛先は要に戻ったってことか?」
「女性の深層心理っていうのは複雑怪奇なものだから、僕如きには到底理解しがたいにしても……その可能性はあると思う。ただ、マリエの死のショックでその頃の記憶が実はあまりなくてね。そういう女性から電話がかかって来たりすると、電話に出ないか、出ても『二度と電話して来ないでくれ』って言うかのどちらかだった。こんなことを人に言ってもたぶん、理解できないだろうけど――僕は彼女の死は自分のせいだと思ってた。少なくともその一因は自分にあると。だから自分に罰を与える必要性を感じたし、マリエの死の前と彼女の死後では僕の描く絵の作風はかなりのところ変わっている。それまでも国内の賞はいくつか獲ってたけど……海外の大きな美術の賞を獲得するようになったのは、彼女が死んで以降のことだった。それまでにも僕には絵を描く才能については自分で自惚れるくらいには確かにあったろう。でも本当の意味で僕が世界に通用するくらいの物描きになれたのは――彼女が死んだからなんだよ」
胸に強くこみあげるものがあったのか、要は瞳に涙が滲むのを誤魔化すように、玉露をすすった。
「もう一回聞くけどさ、要、そのマリエって子はおまえが夢中になるくらいいい女だったっていう、これはそういう話なんだよな?」
「夢中になるも何も」と言って、鼻をすすって要は続けた。「最初の頃、彼女は僕にとってストーカー以外の何ものでもなかったよ。とにかくしつこくてね……僕は君みたいな女性にはまるっきり興味なんかないし、つきまとわれるのがあまりに鬱陶しくて、『君程度の女なんか、道端に履いて捨てるほどいる』って言ってやったこともあるくらいだった」
「へえ、面白いな。要ってさ、変なところで潔癖みたいなとこあるだろ?相手に会った瞬間とか見た瞬間に美人・不細工関係なく、あいつとこいつとそいつはいい……でも、そいつとこいつとあいつは駄目だ、みたいに一瞬で選別して、ランク外になった奴とは社交辞令以上の関係には絶対進まない、みたいなさ。それでいくとその子は最初は要の中でランク外だったわけだ。でも今じゃあ死んだことで別格の存在になってるっていう、これはそういう話なんだろ?」
サイドメニューとして頼んだ、若鶏の唐揚げを口に放りこみながら、翼はどこか悪戯っぽそうに瞳を輝かす。自分とこの無二の親友との関係は、普段さして意識していないにしても、大抵は対等か、要のほうが下であるように見せかけておいて若干上である場合が多い……その珍しい立場の逆転性を、翼としては大いに楽しんでおきたかったのである。
「まあ、そういうことになるのかな」要は観念したように溜息を着き、雲丹に手を伸ばすと、焼酎の残りを飲んだ。「最初に会った時、僕はマリエに対して感じるところは何もなかった。むしろ逆にモデル事務所に所属してるってわりには、背もあまり高くないし、それほど人目を引く容貌をしてるようにも思わなかったっていうか……いや、唯一人を射殺すような目だけはしてたけど、僕自身の好みとしては全然モデルにしたいと思うようなタイプじゃなくてね。でも本人の図々しいまでの売り込みが凄くてつきあったっていう、唯一の例だよ。マリエみたいな女の子は、彼女の後にも先にも、ひとりとしていなかった」
「ふうん。でもなんかそれ、すごくわかる気がするぜ。普通の女はさ、サニーちゃんじゃないけど、まずは遠巻きにおまえのことを見るもんな。たとえば俺みたいな男に玉砕覚悟で告白するってのは、要に「好きです」って言葉にして伝えるのとは雲泥の差がある。なんでって、俺程度の男だったら「顔はいいけど性格悪そう。だから振られて良かった」ってなるかもしんない。けど、おまえの場合はなあ……「君って性格悪そうだよね」なんて要に言われたら、俺が女なら次の日にはロープ買ってきて自殺することを考えるね」
「なんだよ、それ」と言って、要は魚偏の文字がびっしりと並ぶ湯呑みを、なんとなく眺めて笑った。鱚と書いてきすと読むらしいという、新しい発見がある。
「つまりさ、そんくらい要の言うことは女に対して破壊力と影響力があるってこと。だからおまえに「綺麗だ」とか「可愛い」なんて言われた日には、「そんなこと言われ慣れてるわ」って女でも、心底から喜びがわきあがるっつーのかね。そこは唯一にして普遍な絶対の価値があるわけ。だってさ、要って絶対俺以上のたらしだもんな。おまえは確かに嘘はつかないよ。不細工な女に綺麗だの可愛いだのっていうふうには、絶対言わない。けど、どんな女にもどっか一箇所くらいは見るべきところがある……髪が綺麗だとか指が綺麗だとか、着てる服のセンスがいいとか、そういうことだけど。で、おまえは心の底から本当にそう思ってるって言い方するだろ。だから女のほうでも勘違いするんだよ」
「それは違うよ。僕は嘘はつかないし、本当のことしか言わない。でも言う相手のタイプは限られてる……「別に無理してそんなこと言わなくてもいいのに」っていう感じの女性にしか、そうは言わないからね」
「だーかーらー、それがおまえが正真正銘のたらしだっていう、証拠みたいなもんだろーよ!!」
翼は要の自覚のなさに呆れ返ったというように、肌触りのいいラグの上でそっくり返った。桶の中には海鰻がひとつ残っており、翼の食わず嫌いを知っている要は、箸を伸ばして二口ほどでそれを食べた。
それからふたりはフランスのパリ行きの日程のことなどを話し合い――また翼は二階堂マリエとその他要の過去の女たちについて彼から聞き出し、その日は満足の内に眠ったといえる。だがまさか、無理をして一週間の休暇を取得したその初日に、テロリストが乗り込む機内で大きなトラブルに巻き込まれることになるとは、さらには要に届いた脅迫めいた手紙とその事件に関連性があろうとは、翼はこの夜、夢にも思ってみなかったのである。
>>続く……。
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