神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明するのです。
(ヘブル人への手紙、第4章12~13節)
「人間は、神の御前では裸なのですから、着ている衣服がどうとかいうようなことは、まったく関係がありません」――というのは、聖竜~の第Ⅱ部、第3章でミュシアが言ってる科白なのですが、作中の聖書というのは、基本的にイメージの母体がキリスト教の聖書にあります(^^;)
なので、クリスチャンの方か、聖書に詳しい方などが読むと、この言葉の背景にあるのは、聖書の中のあの言葉だろうとか、この言葉だろうといったように、すぐピンと来られるかもしれません。
とはいえ、聖竜~は異次元世界のファンタジーなので、どこまで実際の聖書を基に出来るだろうか……という、若干の不安がわたしにはあったりもして。。。
というのも、神の言葉に何か付け足したり削除したり、それに混ぜ物をしてはいけない、といったように聖書には書かれているので、わたしの書いてることは果たして本当にいいことなんだろうかという迷いがあるんですよね(^^;)
でもつい最近、キリスト教書店に毎月取り置きをお願いしている冊子を取りにいったところ、マザー・テレサの本があって、その本の中の御言葉にとても触れられました。
マザーの本は以前にも何冊か買って読んでいるのですが、さらにその後、色々と本の冊数が増えたような気がするので、そのうちまた図書館で借りるなどして読んでみたいと思っています♪(^^)
†祈り
イエスは、信仰に無関心な人々のために祈り、犠牲をするようにと言っています。
だから祈りましょう。
わたしたちは人に見られるために祈るのではありません。
それは皆が知っていることです。
祈りはわたしたちにとって欠かせませんし、また人々はいつでもその人が祈りのうちにあるかどうかをはっきりと感じるものです。
祈りによって、わたしたちのうちに触れ合いや愛や謙虚さが生まれてくるのです。
そしてキリストの聖性や聖母の謙虚さがわたしたちから発せられていき、それによってわたしたちは人々に祈りを伝えることができるのです。
祈るならわたしたちは生きます。
もし祈らないなら、わたしたちは霊的に死んだものとなります。
(「愛する子どもたちへ~マザー・テレサの遺言~」、ドン・ボスコ社より)
正確には、この言葉からではないんですけど、マザーの御言葉が後押ししてくれたことによって――聖竜~の第Ⅳ部を書く決心をはっきり固めたような次第です。
というのも、物語を通して祈ることの重要性について、初めて書けるような気がしたからだったり(^^;)
そして、以下の文章はわたし個人の「魂の暗黒の切り抜け方」についてのお話となります。
実はこの「魂の暗黒」、半分くらいすでに抜けました。。。
「何それ、はやっ!!」と思われるかもしれませんが、神さまに祈っているので、今回は祈りが聞かれたのが本当に速かったのだと思います。本当に心から神さまに深く感謝し、御名を褒め称えます。ハレルヤ(※ハレルヤとは、ヘブライ語で「主を褒め称えます」の意)。
これはあくまでたとえ話ですけど、仮に自分に三億……というのはあんまり現実的でない気がするので、三百万円くらいの借金があったり、月に生活を維持するのに、最低二十万円はかかる、とした場合――普通、人が真っ先に考えるのは、祈ることではなく、現実に働くことだと思うんですよね。
神さまに祈ったところで、どこかからふってわいたように現金収入があるわけじゃなし、という感じで。
でも、基本的に人はここで多くのことを間違えるものらしい、ということを、経験としてわたしはよく知っています。
何故といって、わたしもまた以前はそのような考え方をしていましたし、クリスチャンになってからでさえ、しばしばそのように考え、行動していたように思うからなんですよね。
でも、その後やはり「祈ってから決める」という機会というのは、圧倒的に増えました。
そしてその中でだんだんにわかってきたこと、というのが――どうも、神に「それをしなさい」と言われたことだけするのが重要なのであって、それ以外のことはさして重要でない、ということでした。
たとえば、月の維持費が二十万円かかるとしたら、それ相応の職場で正社員として働くことが求められるかと思います。
すると、そうした自分の「人間的な考え」があまりにも勝ってしまった結果として、神の声を聞き逃す、ということがあるんですよね。
「神さま、その職場で働いても、アルバイトでせいぜい2~3万円しか稼げないでしょう。それでは生活していけません」……と神さまに祈ったところ、それでも祈りの中で「行け」と言われたら行けばいいわけです(※当然、人間には神の声を聞き間違えるということがあるので、正しい吟味が必要です。この吟味の中には、教会の方などに自分の祈りや祈ってることが正しいかどうかを聞いてもらうことも含まれます)。
すると、意外な形で道が開かれる、という経験をわたしは何度もしてきましたし、同じクリスチャンの方も似たような証しをされているのをよく聞いたりするんですよね。
†空っぽ
神はいっぱいのものを満たすことはできません。
神は空っぽのものだけを満たすことができるのです。
本当の貧しさを、神は満たすことができるのです。
イエスの呼びかけに「はい」と答えることは空っぽであること、あるいは空っぽになることの始まりです。
与えるためにどれだけもっているかではなく、どれだけ空っぽかが問題なのです。
そうすることで、わたしたちは人生において十分に受け取ることができ、わたしたちのなかでイエスがご自分の人生を生きられるようになるのです。
今日イエスは、あなたを通して御父への完全な従順をもう一度生きたいのです。
そうさせてあげてください。
あなたがどう感じるかではなく、あなたのなかでイエスがどう感じているかが問題なのです。
自我から目を離し、あなたが何も持っていないことを喜びなさい。
あなたが何者でもないことを、そして何もできないことを喜びなさい。
(「愛する子どもたちへ~マザー・テレサの遺言~」、ドン・ボスコ社より)
もっとも、神さまに「御心の職場に導いてください」と祈ったにも関わらず、人間関係などにおいて問題が許され、「神さまのおっしゃるとおりにしたはずなのに、何故なのですか?」といったようなことはよく起きます。
ゆえに、それだったら、「自分の頭で考えて何もかも決めて行動したほうがいい。祈るなんてただの時間の無駄だ」と、現代の功利主義的考えの方はおっしゃるかもしれません。
それでも、「その人にとって何が最善かを唯一知っているのは神だけである」というのは真実であり、真理であることに変わりはないんですよね。
だから、その人が躓き倒れた時にも、あるいは神の御心を取り違えて行動してしまった時にですら、神は――というか、イエス・キリストは、何百度でも何千回でも助けてくださいます。
これが、わたしの信じている神ですし、当然わたしのことだけでなく、同じ方法で数え切れないほど多くの人々を助けてくださる、イエス・キリストの真実の姿だと思います。
神の愛は無償ですし、本当にただなのです。
ただし、「ただより安いものはない」ということで、警戒する方はとても多いですし、「キリスト者というのは、善行を積み上げることで天国へ行こうという人たちの集まりだ」といったように誤解している人も多い、というか。
神の福音――この福音という言葉は、英語ではGood News、良い報せ、と訳されているそうですが、本当にそのとおりだと思います。
神さまは常に無償で、ただでわたしに良くしてくださいましたし、その見返りとして強いていうならば……神が、イエス・キリストがわたし自身にしてくださったように、また他の人にも無償で、ただで分け与えるように、としか求めてはおられないと思うんですよね。
最近あらわされた、神さまに祈ったことに対する結果が、あまりに素晴らしく素早く完全なものだったので、一度こうして記事にしてみようと思ったような次第です(^^;)
ではでは、そのうち忙しい合間などを縫って、聖竜~の続きを書きはじめる予定でいます♪
それではまた~!!
†イエスの喜びを、力として保ち続けなさい。
幸せで、落ち着いていなさい。
イエスが与えるものは何でも受け取り、イエスが取り去るものは何でも笑顔で差し出しなさい。
あなたはイエスのものなのです。
「わたしはあなたのものです。
もしあなたがわたしを切り刻むのなら、その一片一片はすべてあなただけのものです」
とイエスに言いなさい。
(「愛する子どもたちへ~マザー・テレサの遺言~」、ドン・ボスコ社より)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます