天使の図書館ブログ

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人生が変わる瞬間~その4~

2011-11-05 | キリスト教

 わたしがクリスチャンになる以前、<神>という存在に対するわたしの考え方というのは、概ね次のようなものでした。

 ある時、家の庭先を見ていると、アリたちが行列をなして歩いていくのが見えたのですが――たとえば、わたしがこの一匹を何気なく手のひらにのせて、その足を一本もいでから再びアリの行列へ戻したとしたらどうでしょう?

 アリはびっこを引き引き歩いてゆき、貴重な食糧を運ぶのにも困難を覚えるでしょうし、もしかしたら足が一本ないということで、他のアリたちからのけ者にされてしまうという可能性さえあるかもしれません。

 そして、わたしはその時、こう思いました。

 神さまとかいう人もきっと……仮にわたしが明日交通事故で片足をなくそうと、<わたし>という存在に対してさして注意を留めるでもなく、そのまま放っておかれるのだろう、と。

 そもそも、「もし神がいるのなら」、世界人類の全員、そのひとりひとりを幸せにする義務と責任があるだろうし、にも関わらずアフリカに難民がいなくならないことひとつとってみても――それこそがまさに「神がこの世に存在しない証拠」である……。

 わたしがこんなことを思ったのは確か、たぶん中学とか高校生あたりの話だと思うのですが(^^;)、このアリの行列を見た時のことを、何年かのちにわたしは再び思いだしました。

 というのも、実家からわりと近い交差点で、小学四年生くらいの男の子がトラックに轢かれ、足を失ったという話を聞いたからです。

 何しろ暗い夜のことで、男の子のほうは「青信号で渡ったのに、トラックが突っ込んできた」と主張し、トラックの運転手のほうは、「間違いなく信号のほうは赤だった」と言っているとのことでした。

 そこで、この男の子のお母さんが――その交差点のある信号機の近所を訪ね歩いて、「事故を目撃しなかったかどうか」と聞いて回っているということだったんですね。

 事故が起きた当時、車通りや人通りはなかったのかと思われると思うのですけど、そこって夜の遅い時間、あるいはそんなに遅い時間じゃなくても……場所的に車通りや人通りが少ないところなので、事故の目撃者を見つけるのは本当に難しいだろうと思いました。
 
 まあ、その話を聞いた時にはわたし、まだクリスチャンではなかったので――「なんてひどい話だろう」と思って、心が痛んだというそれだけだったのですが、このことはその後もずっと覚えていました。

 そしてクリスチャンになってから、またつい最近も、生まれつき足の不自由な女の子のお世話をしていて、自分はなんていう傲慢な人間だったのだろうとつくづく思ったのですよね(^^;)

 何故といって、わたし自身は「明日食べるものがない」という窮乏を経験したこともなく、交通事故で体のどこかが不自由になるという悲劇を経験したわけでもないのに……「これこそ、神がこの世に存在しないことの例証だ」なんて、そんなことを心の中で思っていたのですから。

 ところで、神さまに感謝し、讃美することについては、法則のようなものがあるみたいなんです。

「人生が変わる瞬間」のその1とその2では、マーリン・キャロザースさんの著作、「讃美の力」から文章を抜粋させていただいたのですけど――あの証しの文章に大体共通しているのは、「何かそういうことらしいから、とにかくやってみよう」とそれぞれの方が思った時に何かが変わったという、そういうことだと思います。

 つまり、わたしのように「神さま、何故こんなひどいことがあるのでしょう?」、「何故世の中にはこんな悲惨な事件ばかりが起きるのでしょう?」などとつぶやいている間には、何ひとつ良い変化など起こらない、ということです。

 わたし自身また、クリスチャンになったばかりのころは、「何故神さまに感謝し、また讃美しなければならないか」、理屈によってはたぶん、よく理解していなかったと思います(^^;)

 こうしたことを書くとおそらく、うさんくさい顔になる方がきっと多いと思うんですけど……わたしの場合、とにかくそれは神さまからの一方的な恩寵であり、恵みだったと今も本当に思っているんですよね。

 つまり、何か「喜びの霊」、神さまに「感謝する霊」、「讃美の霊」ともいうべきもの(これがキリスト教の教義でいう、聖霊ということ)が常に自分とともにあり、それで出来る限り祈り、また祈れないような状況の時には「祈れるように」祈り、そうして神さまの衣のすそにすがり続けた結果として――次第に、あらゆることに対して感謝できるようになってきた、というか。

 このことから言えるのは、「自分の人間的な力よって」、「努力によって」、必死に状況を変えようとするのではなく、むしろ肩の力を抜いて、すべてのことを神さまの御力におゆだねする、そして神さまを感謝し讃美した時に何かが変わる、ということだと思います。

 このコツのようなものを掴むまでは、「なんで階段で転んだことを神に感謝せなあかんねん!」とか、「人前で恥をかいたことを神を讃美しつつ喜ぶなんて、絶対おかしいやろww」といった人間的な思索や感情が必ずつきまうとうものだと思うんですけど……とにかく、わたし自身は出来得る限り、そのようにしています。

 なんていうか、最初は人間的な思索が邪魔をして感情がついてこなかったとしても、続けていくうちにだんだんわかってくることがある、というか。

 つまりそれは、「神さまを感謝し讃美するということは、神の主権を褒め讃える」ということ、自分の人生に対する主導権を神さまに明け渡すことを意味している、ということです。

 自分の人生は、当然自分の自由にする権利がある……わたしは長い間、ずっとそう思って生きてきました。

 でも多くの人は、わたしだけではなく、自分の自由に、好きなようにしたはずなのに、抜けられない不幸の輪のようなものはまりこみ、抜け出せなくなっている、そのような経験を最低一度はしているものなのではないでしょうか。

 前回の「人生が変わる瞬間」その3の話の続きをするとしたなら、「事故に遭っても、賠償金は一切払わなくてよかった。そりゃ実に結構なことだが、そもそも神とやらがこの世に存在するのなら、あんたを事故そのものに遭わせないということは出来なかったのかね?」ということです。

 ところで、自動車というものは神が作ったものなのでしょうか?交通のルールといったものは、神が定めたものなのでしょうか?

 もちろん誰もが、そのことについて、「否」と答えると思います。でもそのあとに必ず、「だけど」という言葉が続くのですよね(苦笑)

 人間がやがて自動車というものを作り、いくら交通ルールといったものを定めたところで、それを破る人間は必ず現れる……「神はそのこともわかっていたはずだ」というわけです(^^;) 

 毎日のニュースの中で、放射能のことが何かの形で語られていますが、わたしはあの放射能測定器の数値を見るたびに、ある種の虚しさに打ちのめされる気持ちになります。

 こんなことを書くと、不謹慎だと思われるかもしれません。でも、神の愛というものは、決して数値では測れないものだと思うんですよね。親の子供に対する愛情といったものも、数値化することは絶対に出来ない。むしろ、測定しようと思えば測定器自体が壊れてしまうに違いありません。 

 わたしは自分の人生において、「その時は正しいと思っても」、のちになってみれば虚しい罪の刈り取りをしただけだった、という経験を何度もしてきましたし、自分のまわりにもそうした人たちを何人も見てきました。
 
 そうした個人レベルのことと原発の問題というのは、まったく別のことですけど(当たり前☆)――「どうしたら人間は神に立ち返ることが出来るのか」というのは、本当にすごく大きな問題だと思っています。

 言い方を変えるとしたら、「一体わたしたちはどこで間違ってしまったのか」ともいえると思うからです。

 そして、神から遠く離れれば離れるほど、神を信じたり感謝したり讃美することは難しくなっていく……そうした泥沼のルーティンワークのようなものだけが人間には残されている気がして、とても胸が痛くなる、というか。

 誤解のないように一応申し添えておくと、わたしは被災地のために祈っていますし、「あんたが祈ろうと祈るまいと、事態は何も変わらんのだよ☆」と言われたとしても、やっぱり祈ると思います。

 相田みつをさんの言葉にもあるとおり、「だって人間だもの」といったような気持ちで(^^;)

 ではでは、この記事はわたし個人の宗教観等に基づくものですので……あくまで何かの生きるヒントになればといったくらいの気持ちで書いた記事だということを、ご理解いただければと思いますm(_ _)m

 それではまた~!!




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