天使の図書館ブログ

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人を変えることの難しさ、自分が変わることの難しさ☆

2013-09-02 | キリスト教
【十字架を担うキリスト】ヒエロニムス・ボス

※宗教的な内容を含みますので、キリスト教にアレルギーのある方は閲覧の際ご注意くださいm(_ _)m


 思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
 言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
 行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
 習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
 性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。

 マザー・テレサ。



 これはマザー・テレサの有名な言葉ですが、この言葉を聞いた時、本当にその通りだなあと思いました。

 キリスト教についてあまりご存知ない方でも、「心から悔い改めさえすれば、神さまは何度でも罪を許してくださる」ということは、聞いたことがあると思います。

 聖書の中に「人が罪を犯したら何度まで許すべきでしょうか。七度まででしょうか」とイエスの弟子のペテロが聞き、イエスさまが「七度を七十倍するまで」と答える箇所がありますけれども、七度を七十倍というと、490回許せということであり、これは一般に「相手が本当に心から悔い改めているなら、無制限に許せ」という教えであるというように解釈されています。

 また同時に、そのくらい人間というのは罪を犯すのが習慣になっていて、そんな自分を変えるというのは本当に難しいということでもあるのかもしれません。

 仮に人が一日に1mgの罪を犯したとして、「そんな1mgくらいどうだっていうんだ!!」という生き方を長きに渡って続けた場合――1年を365日として、まあ365mg、悔い改めない状態が三年続くと1,095mg、七年だと2,555mg、十年だと3,650mg……まあだんだんと重みが増していくわけですが、もし人が毎日のように「こんなどうしようもないわたしを許してください」と思いながら生きたとしたら、これは神さまがその重みを引き受けて、その罪をなかったことにしてくださる……おそらくそういうことなんだろうなと、わたし個人は思っています。

 あくまでも例えとして1mgということにしたのですけど、いや、俺は一日に最低でも10mgは罪を犯しているだろうとか、いいえ、わたしなんかバケツ一杯分は罪を犯している……などなど、人の<罪の自覚>というのはそれぞれだと思います。

 わかりやすく言うとすれば、人の悪口。「このくらいのことは誰でも言うさ☆」ということを日々続けていると、おそらくそれはやがて習慣になり、次には性格になり、最後には運命にすらなる……それはちょっと怖いことだなあ、と自分としては思うのですよね(^^;)

 聖書には他に、こういう言葉もあります。

 >>人の語る言葉にいちいち心を留めてはならない。あなたのしもべがあなたを呪うのを聞かないためだ。あなた自身も他人を何度も呪ったことを知っているからだ。

(伝道者の書、第7章21~22節)

 呪うというのは流石に強い言葉ですけど、簡単に言うとすれば人の悪口を一度も言ったことのない人間はいない、あなた自身も人を悪く言ったことが何度もあるだろう……ということなんだと思います。

 でも、人間にはやっぱり良心というものがあるので、「流石にそこまで言うことはなかったな」とか、「相手に悪口の同意を求められて、思わず同調しちゃったけど、あれはわたしの本音とは違うなあ」……といったこともあると思うんですよね。

 そして自分の本音とは違うことを相手に同調して言ってしまっただけなのに、当の本人にそれを聞かれてしまったといった、時にややこしい事態が人間社会にはあったりするものだと思います(^^;)

 そういう時にあとから、「あれは自分の本音じゃないのよ、ごめんね」と言っても相手から不審の目で見られた場合――それはもうそういう言葉を口から出した時点で自分が悪いのだと認めざるをえないと思う。

 でも人間というのは弱いものなので、その時の旗色次第で「そんなふうに言わせたあの人が悪いのであって、わたしは悪くない。それに言われるほうにも原因があるじゃないの」といったように自己弁護してしまうというか。

 こういう時、神さまがいてくださるというのは本当に恵みだなあと自分としては本当にそう思います。何故といって、「あの人とわたしとの間を正しく裁いてください」と訴えることが出来るから。

 その上で自分は悔い改めるし、これから口の過失については気をつけるけれども、相手の心を傷つけてしまったことは本当に申し訳なく思う。どうかその傷を神さまが包んで癒し、自分との関係を回復させてくださるように……と祈ればいいのですから。

 もちろん、こんなふうに祈ったあとでも人はまた同じことを繰り返します。

 先ほどの伝道者の書の7章20節に>>この地上に罪を犯さない正しい人はひとりもいないから。とある通り。

 イエスさまのおっしゃった、「七度を七十倍するまで許せ」というのは、具体的に言ったとすれば、もしかしたらそういうことなのかもしれません。

 無制限にキリなく人を許せと言われると、仏の顔も三度までとしたほうが自分の考えや性格に合っている……というケースが多々あるわけですけど(また許したがゆえの致命的な悲劇というのが、この世界にはあるので)、それでもイエス=キリストの神の愛の教えというのは基本的にそういうことなのだと思います。

 最初に言葉があり、言葉が行動になり、それがいつしか習慣になる……大体このくらいから、人がそこから<変わる>ということが相当難しくなると思うんですよね。

 そして「性格」というところまで到達してしまうと、周囲でも「あの人はああいう人だから」で終わるようになってしまうというか(^^;)

 でも仮にそういう人でも、<神>に触れられて180度そこから人生が変わるということは十二分にありうると思います。

 まあ日本だと<宗教の力で変わる>、<神の力で変わる>とか言った時点で「カルトww」とか「洗脳☆」といった単語が並ぶわけですけど、仏教にしてもキリスト教にしてもイスラム教でも――<神の教え>というものが廃れずに長く続くには、それ相応の理由がそこにはあると、最近イスラム教関係の本を読んでいて思いました。
 
 ええと、今回はちょっといつもと海苔(?)の違う記事でしたけど、うちのブログはたま~にこういう真面目なことも扱うということでよろしくお願いします(笑)

 ちなみに、わたし自身に最近人の悪口関係で悩むことがあったわけではなく――これはもう、人が3人以上集まった時点で避けて通れない普遍的な問題だとわたしは思ってるっていうことなんですよね(^^;)

 人の悪口を言うことが長く習慣化して、それが一番のストレスの捌け口になっているような人を変えるのは難しいことだし、人を変えるよりも自分が変われと言われても、それもまた難しい……でも心から悔い改めて神に縋ることの出来る人は、マザー・テレサの言う<シンプルな道>、神の道が必ず開かれるものなのだと思います。

 それではまた~!!





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