一カトリック信者(ジュゼッペ)の日々想い

聖ヨゼフを愛する一カトリック信者の日々を綴ったブログです。

重要なのは中身

2018-09-11 07:47:08 | カトリック
聖福音書に、神殿で祈るファリサイ人と自分の罪を良く悟り改心を祈る徴税人の例えがイエズス様から語られています。もちろん神様から義とされたのは、徴税人の方でした。
確かにこの場合「祈る」というカテゴリーでは、この二人は同じことをしています。しかし重要なのは『想い』そしてそれに伴った『中身』だったのです。
最近この時期に来るとあちこちで「ラテン語」だとか「グレゴリオ聖歌」という声が聞こえます。私は一度も東京のカテドラルで行われる一年に一回のラテン語ミサに与ったことがありません。「伝統的なラテン語ミサ」と謳ってはいますが、現行の新しいミサのラテン語です。40年程の歴史の伝統なのだそうです。
確かにラテン語は尊い言葉です。なぜならば聖トマスによると、天国の言葉はラテン語だろうということです。しかし、言葉もメロディーもあくまでも手段でしかありません。
グレゴリオ聖歌もその内容故にあのようなメロディーが生まれたのです。
少なくとも残された文章だけでも5世紀まで遡ることが出来るというトリエントミサも現行のラテン語ミサも確かに同じ「ラテン語ミサ」というカテゴリーです。
しかし、以下の比較表を見たときに同じミサだ、同じ信仰だ、と言えるでしょうか。
中身を大切にしなければ、ただのミーハーに成り下がり、雰囲気だけ大切にして、全ては形骸化します。

新旧ミサ典礼の比較