ライフ&キャリアの制作現場

くらし、仕事、生き方のリセット、リメイク、リスタートのヒントになるような、なるべく本音でリアルな話にしたいと思います。

134.マスクをしても笑顔であいさつ

2020-07-08 12:05:06 | 時代 世の中 人生いろいろ
先日朝、自転車で通勤していると、すれ違いざまに「おはようございます。」と声をかけられました。自転車を止めて振り返ると、少し離れた所から、マスクを手でずらした男性に、もう一度「おはようございます!」と、大きな声であいさつをされました。目と口元が笑っているように見えました。 私は、「あっ、おはようございます。これからお仕事ですか。」と、とっさに返しました。顔見知りの喫茶店の店長さんでした。私は爽やかな気持ちとともに、少し恥ずかしい思いがしました。マスクをしたまま表情を見せずに、声もこもっていたからです。

最近、飲食店では、職場の同僚と思われる人たちが、テーブルを囲んで食事をする光景も増えました。節度を持って談笑しながらも、お酒が進むと時折明るい笑い声も聞こえます。お客さんが店を出る時、マスクの店員さんが元気な声で、「ありがとうございました!」と礼を言うと、マスクをはずしたままのお客さんが、「ごちそうさま」と満足そうに微笑みます。こんな光景や何気ないやり取りに、私は忘れかけていた心の温もりを感じました。

 今、人と対面で会話をする時は、マスクをすることがエチケットとして習慣化されています。エチケットには礼儀作法という意味があります。礼儀は相手に敬意を表すもので、礼儀を表す言葉や動作が「あいさつ」です。そして、人は相手の言葉と表情が一致していないと、戸惑いを感じるそうです。

 最近営業を再開した観光地の商店街では、「マスクをしても笑顔で接客」を心がけるそうです。一方、これからの季節は、熱中症予防行動として、屋外で人と十分な距離が取れる時はマスクを外すことも勧められています。

 職場や地域や学校で、自分から明るい声と表情であいさつをすると、相手との心の距離は縮まるでしょう。今、就職活動中の方。マスクをしていても、リモート面接でも、笑顔のあいさつは、印象をぐんと良くすることでしょう。笑顔であいさつされたら、誰でも気分が良くなるものです。

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132.選客万来

2020-06-13 09:54:33 | 時代 世の中 人生いろいろ
 最近、ネットニュースで目に留まった記事がある。大阪のある食堂が、緊急事態宣言の中、あえて新規開店したという。周囲から開店延期の勧めもあり、店主も逡巡したものの、「黙って待っていてもいつ終息するか分からへん。それなら対策を徹底してやってみよう」と、開店を決断したという内容だった。
              

 前回のブログ(131)で紹介した焼き鳥屋の他にも、私がよく行く飲食店の中に、先が見通せない中、急激に変化して行く状況に翻弄されて、一時期休業を余儀なくされた店があった。大手チェーン店のような資本力や人材のない小さな店は、経営的にも精神的にも窮地に追い込まれたことだろう。自分や家族の健康と生活を守らないと、従業員の雇用を守らないと、そして何より客の安全を守らないと・・・。早速に行政の支援に頼った店もあれば、何から手をつけたらよいかわからず途方に暮れていた店もあった。そんなそれぞれの苦悩や苦労を何とか耐え忍び、まだ客足が戻らないうちから再開にこぎつけた店もあった。

 あるメディアは、感染者数が〇日連続で二桁を超えたとか、逆にX日連続20人を下回ったとか、相変わらず意味不明の数字を報じている。また、「第二波を警戒せよ。気を緩めるな。」と仰々しいのに空疎なニュースが続いている。「おうちで過ごそう」などとのん気な同調圧力の雰囲気もまだ残る。勿論、不安の度合いは人によって違うし、地域やそれぞれの立場で事情や考え方はあると思うが、現実はもっと深刻な社会問題が起き、さらに困難な状況に置かれた人々もいるのだろうに。

 そんな中、仕事や商売の現場では、不安や困難と向き合いながらも、一歩ずつ前へ、とっくに元へ、進んでいる人々も多くいる。働かないと生きて行けないし、何もリスクを取らないと逆に何も守れない人々が、私も含めて多数いる。悲観や非難や否定ばかりでは何も生まれない。「様子見」という思考停止では変化から取り残される。行政や誰かが守ってくれるという依存心だけでは、大切な人も仕事も守れない。理屈でなく感覚的にわかっている。
 
 商売もサービスも、売り手と買い手、する側とされる側、双方向のもの。一人や一方だけでは成り立たない。これからは、そこに一層の信頼関係が必要になってくると思う。飲食店で言えば、きちんと対策がされているか、店主や店員の客への配慮があるか、そして仕事ぶりに誇りや謙虚さが感じられるか。人それぞれの好みや使い分けはあっても、これまで以上に客が自分に合った店を選ぶようになると思う。長く付き合える店は、流行りや格付け、表面的な接客でなく、大切なことを守り続けている店。ほっとできる、居心地の良い店、と私は思う。

 客が店を選ぶ。「選客万来」。選ばれる店としてこの先も商売を続けて行くには何が大切か。「お客様の安心と安全」と唱えるのは簡単だが、自分事としてどうすればよいか。一方、客として自分が店を選ぶ時に大切にしたいことは何か。自分の仕事やくらしにつながる大事なことは何か。考え直したことや新たに気づいたことが、それぞれにあったこの数か月だったと思う。

 苦しかった胸の内を漏らしてくれた小さな店の主。この苦境を乗り越えつつある中で、仕事に向き合う目に力が戻ってきた。以前はちょっとクールな印象もあった喫茶店主。ある朝偶然すれ違った時、立ち止まってマスクをずらして「おはようございます」。目が穏やかに笑って見えた。

「過剰な自粛ムードに勝つにはお客さんや地域の信頼を得るしかない。これからもやれることは全てしていきます」(冒頭の記事の食堂店主の話し)
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131.串うち3年焼き一生(75再掲)・・・今。

2020-06-06 16:27:43 | 時代 世の中 人生いろいろ
一時期、客足が途絶えて閉店していた店に、6月に入ってようやく客が戻ってきた。店主に笑顔が戻った。でも、このまま回復して行けるのか、沈痛で不安定な日々がまた戻ってくるのか、まだ見通せない不安もあるのだろうが、それを抑えて、仕事ができる喜びをかみしめるかのように黙々と串に向き合っている姿に胸を打たれた。

 5月下旬に立ち寄った時には、思いつめた表情で給付金や助成金等の申請手続きをしていた。連休明けに店を開けてみたが客が来ず、再び店を閉めていたとのことだった。街中には、テイクアウトに注力していた店も多くあったが、それをしなかった。焼きたて、できたての串を食べてもらいたいという思いからだった。融通が利かないと言えばそうなのかもしれないが、自分のやり方を貫こうとした職人のプライドとみれば共感できる。

 アルバイトが注文を取ったり料理を運んできた時の声。客の話し声、笑い声。今は、きちんと対策をしたうえで予約客しか入れていないようだが、かつての常連や良い客が戻ってきているようだった。この姿勢をブレずに貫けば、客がより良い店にして行くのだろうと思う。

 店主自身がこの苦境の中で改めて気づいたであろう職人としてのプライドと、客への配慮と感謝の気持ちが、その姿勢から伝わってくるようで、私も客の一人として安堵した。カウンターの片隅で、こちらまで来るはずのない串焼きの煙が目に沁みた、気がした。

<以下、当ブログ75回「串うち3年焼き一生」再掲>
近所のよく行く焼き鳥屋の店主を甘く見ていた。年の頃は、40歳くらい。短髪に中肉中背で、いつも胸に店名が入った黒のTシャツを着て、無愛想ではないが黙々と焼いている。目配りは行き届いていて客の注文も聞くしアルバイトに適切な指示もする。すいている時は常連客の話し相手もするが、大体は店に入る時と帰る時の挨拶か注文くらいしか直接言葉は交わさない。もともと焼き鳥屋で働いていて、独立して10年らしい。値段はそれほど高くないし、味もいい。好きな店である。

 「まじめにがんばっているから繁盛しているのだろうが、この先いつまで毎日飽きずに鳥を焼き続けるのだろう。」「焼き鳥なら1年も修業すればそれなりの仕事はできるだろうし、もっといろんな商売をすれば儲かるかもしれないのに。」などと、自分の仕事柄店主の将来やキャリアに対する余計な心配が頭に浮かんだこともある。

 「串打ち3年、焼き一生」。たまたまある人から、焼き鳥屋の苦労話を聞いた。鶏肉を切って焼くだけの単純に見える仕事だからこそ、実は難しさや奥深さがあると言う。炭火加減、焼き加減、塩加減など、ちょっと間違うと商品としての出来が大きく変わってしまうらしい。だから手だけでなく目も耳も鼻も使う。また、お客様に満足してもらうにはそれなりの接客態度も欠かせない。すし職人と同様、一生を賭けるくらいの覚悟と努力で「焼き鳥職人」を目指すべきとのことである。
 
 そんな話を聞いてから、店主に対する見方が変わった。店主にとって、お客さんに喜んでもらう事や儲けも大事なことだろうが、それよりも「職人技を究めたい」というこだわりの方が強いのではないか。「焼き鳥職人」になるという夢の途中で、日々真剣勝負をしているのではないかと。

 これもまた余計な想像かもしれないが、そんなことを想わせる魅力と味がその店にはある。
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130.情報の“三密”

2020-05-07 11:44:54 | 時代 世の中 人生いろいろ
 「シンガタコロナウィルス~」 この数か月、この“音声”が耳に入った瞬間、脳が固まるような感覚になることが度々あった。ニュースやワイドショーの物々しい音声で、怒りや不安を帯びた声で、効果音まで伴って。ローカル局やケーブルテレビでは、アナウンサーが日常と変わらない淡白で単調なトーンで。あるいはFMラジオパーソナリティのトーク番組の会話の流れの中で。
 この”音声”に続く単語は、感染拡大、危機、警戒、爆発、崩壊、重大局面、不信、批判、悲観、不要不急、中止、差別、偏見、悪化、重症、死亡・・・など。それから、オーバーシュート、ロックダウン、クラスター、ソーシャルディスタンス、ステイホームなど、意味が曖昧で非現実的とも思えるカタカナ言葉。

 視覚の面でも、ネットニュースやSNSで、これらの文字が目に入ると、嫌悪感や不快感から目をそむけたくなることもあった。不安を煽り注目させるだけのタイトル。例えば、「専門家が指摘●●●の可能性。」という単なる個人的見解。1%でも99%でも、「可能性」であることには違いない。「感染者数、××人突破」「対策をしなければ、死者〇〇万人超も」と危機感煽る見出し。冷静に考えると、その人数の線引きにどれほどの意味や現実味、そして報じる必要性があったのか。結果は検証されず言い放しか。
 あるいは、「~してはいけない」「~しなければならない。」という類の、専門家や識者と言われる連中の上から目線のメッセージ。わかりきっている事や、わかっていても現実には難しいことを、強制したり批判したり。読んでみると中身は希薄で素人でも言えるようなこと。ましてや、わざわざ事情の違う海外の学者や識者の指摘など、結局、そのほとんどは「日本の状況は不思議だ、奇跡だ、予想外だ」と、うんざりなコメントで終わる。
 それから、何度も執拗に目に焼き付けられる電子顕微鏡写真。震災の後は、津波映像を自粛したのに、今回は視聴者のストレスや不安感への配慮もなく、わざわざ目に見えないものを何度も見せつけてくるマスコミ。もう、多くの国民は十分その恐怖や警戒感を共有し、それでも冷静に向き合おうとしている人が多いにもかかわらず、それを否定するかのように不要不急の写真を映し出す。十分に自粛し耐えている人々にも、「警戒しろ、気を緩めるな」と、さらにかぶせてくる。サブリミナル効果でも狙っているかのように。

 まあ、これだけネガティブでストレスフルな文字や映像を、耳から目から浴びせられ続けたら、誰しも思考停止状態に陥ったり、心身の健康のバランスを崩したりしても無理はないと思う。不安症や強迫性障害等に悩まされた人もいるだろう。私も、辛うじてバランスを保てたとは思うが、一時頭重感が強くなったり不眠気味になったりした。

 そんな時、たまたま目に留まり救いになったメッセージが日本赤十字社のメッセージ動画だった。
 「ウイルスの次にやってくるもの」
その中のメッセージ。「誰にもわからないことは、誰にもわからないことでしかない。そのままを受けとめよう。」
 それから私の場合は、情報源を絞るようにした。受動的には、TVニュースならまあ無難にNHKかケーブルテレビ,能動的には、ネットニュースならmsnか県のホームページ。あとは時々日経新聞の経済関連記事。これらをベースにして、他のメディアにはなるべくアプローチしないようにした。また、民放やFMラジオは、娯楽や音楽など、日常感のある番組だけにした。SNSは、むしろタイトルの仰々しさと内容の薄さや不確かさのギャップを面白がるくらいのつもりで、暇つぶし程度に見るようにした。

 そうすると、徐々に見えてきたことがある。私としては、「情報の“三密”」に注意したいということ。その“三密”とは、
一.「過密」 
 情報量のパレートの法則のようなもの。「自分や家族の暮らしや仕事や健康にとって必要なことの8割は、溢れ返る情報の2割程度でカバーできるのではないか」ということ。実際、連休明け頃から、暗いニュースや不安を煽る数値、専門家などの不確かで独善的と感じる指摘、そして例の顕微鏡写真やしたり顔のコメンテーターなどの不快映像を見ないようにして、日常生活リズムを保つようにしたら、気分も体調も楽になり、生活や仕事にも支障はない。

二.「秘密」
 個人情報の保護という、今やあたりまえの常識。自分のプライバシーを守るだけでなく、他人のプライバシーにも配慮するということ。今回の騒動では、本県でも感染者の個人情報や公表していない医療機関名等の情報が流出し、根拠のない噂が広まったり、心ない誹謗中傷があったりしたようだ。また、「感染拡大防止のため」という独りよがりの理屈で、行政が公表していない情報を公開すべきだという声も一部にあったが、「自分がされたくないことは、他人にもしない」という大人の配慮や良識が、こういう時にこそ必要と思う。

三.「密着」
 情報の質の問題。その情報は、自分にとって必要なものかどうかを冷静に考えてみるということ。つまり、くらしや仕事に密着した情報で、スルーした場合に影響があるかということ。ちょっと、落ち着いて情報発信者の信用度を見て、周囲と共有してみると、不要不急と気づくことも多い。例えば、海外の情勢も国内の状況も何らかの影響はあるのだろうが、今一番必要なのは地域に密着した、地域住民に寄り添った情報と思う。そうでない情報や不要不急かどうかわからない時は、それこそソーシャルディスタンス。距離置く方が良い。一に書いたように、「過密」な情報にまとわりつかれ続けると、極端な場合それこそ頭のオーバーシュートならぬ感情爆発が起きかねない。そうならないように、情報の密着度を物差しにして、自己防衛したいと思う。

 事態が収束に向かうのか、また第2波がくるのか、あるいはこのまま経済も回復に向かうのか、先のことはわからないが、今後も様々な形でいろいろな情報が流され溢れかえると思う。マスコミやソーシャルメディア等は、それが仕事でそれで収益を得、視聴率や閲覧件数等の数字に追われながら生き残りを図っているという現実もあるだろう。彼らも、自縄自縛、思考停止しているかのようにも見える。勿論、使命感や倫理観を持った記者やジャーナリスト、情報発信者もいるだろうし、情報自体はくらしや仕事に不可欠なものである。そう考えると、情報の受け手として、情報を読む力や考える力、そして無視する力を身につけておくことも大切と痛感している。
 
 私としては、「情報の三密に注意」ということだけでなく、この数か月の間に自分なりに気づいた事や学んだ事、見えてきた事を、良い面も悪い面もわからないことも、これからのくらしや仕事の中で、忘れないようにしたいと思う。そして、知らなくてもいい事は知らないままに、忘れていい事は忘れようと思う。
 「正しく知り、正しく恐れて、今日、わたしたちにできることをそれぞれの場所で。」(日本赤十字社メッセージ動画より)
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129.「専門家」?

2020-05-02 16:27:12 | 時代 世の中 人生いろいろ
 前回のブログ投稿(128.静観)から二か月が経った。先日、ネットニュースを見ていて、胸に響いた記事があった。(以下、引用)
『ーこの新しい未知のウイルスに、本当の専門家がいません。本当は誰もわからないのです。過去の類似のウイルスの経験のみですべてを語ろうとする危うさがあります。そして専門家でもないコメンテーターが、まるでエンターテインメントのように同じような主張を繰り返しているテレビ報道があります。(中略)実際の診療現場の実情に即した意見かどうかがとても重要です。正しい考えが、市民や県民に反映されないと不安だけが広まってしまいます。危機感だけあおり、感情的に的外れのお話を展開しているその時に、国籍を持たず、国境を持たないウイルスは密やかに感染を拡大しているのです。(つづく)ー』
(神奈川県医師会 かながわコロナ通信 「ごまかされないで、まちがった情報に」 4月10日  )

 この数か月、専門家とか識者とか言われる連中が、テレビでネットでSNSでやかましい。胡散臭い情報や煽るだけのニュースは見聞きしないようにしているが、自らの意見や見解のみが正義や正論であるかのように、無責任な発言をする売名目的?の「専門家」にはうんざりする。もちろん、全てがそうだというわけでない。事実に向き合い、現場を熟知し、専門分野の見識と経験を駆使して懸命に責任を果たそうとしている専門家も少なくないだろう。だが、そういう方々の多くは、上記の記事の続きを読むと、テレビに頻出したりSNSに寄稿している暇など無いという。もっともだと思う。

 情報発信する側は情報の多様性とか報道の自由とかもっともらしい事を言うが、こうなると受け手の方が冷静かつ賢くなる必要がある。情報入手の拠り所をなるべく信頼できるところに絞り、その情報は今の自分にとって必要か?と落ち着いて考えてみる。そもそも、「専門家」の言うことが常に正しいわけではなく、良くも悪くも「専門バカ」も多くて、他分野や世間や社会、人の心に疎い者がいると思った方が良さそうだ。あえて皮肉を込めて言うと、事態の推移や結果を見てから、「私の言ったとおりだ」と手柄の様に言うことも、「想定外だった。」と言い逃れすることもできるのだ。

 自分自身も「専門家」と見られることがある。微力ながら、生活設計や仕事に関するコンサルティングを業とする面があるからだ。そう考えると、これから多くの人のライフスタイルや働き方に対する価値観が変わって行く中で、自分自身の見識、仕事に対する姿勢や責任、「専門家」としての自覚を問われることも増える。

 振り返ってみると、昨年の今頃は、「老後2000万円問題」というトピックスがあった。当時、「老後破綻」とか「老後2000万円なくて大丈夫?」と言った、不安をあおる上から目線のセミナーに対して、私は違和感を感じていたので、そのような講師はしなかった。人のライフスタイルや価値観は様々で、暮らしや仕事にも、地域差やそれぞれの事情もある。にもかかわらず、人や現場に丁寧に向き合わずに、ステレオタイプの幸福感や受け売りの情報をもとに、顧客本位とは言い難い不要不急の金融商品の販売をした者もいたようだから、一線を画したかった。やはり、上記のような「専門家」を他山の石としたいと思う。

 今思うこと。現場感覚、人に対する共感力や想像力、わかりやすく丁寧な説明力などを磨きながら、格好つけづに、謙虚なコンサルティングを目指す「専門家」でありたいと思う。オンラインセミナーも否定はしないが、コンサルティングやセミナーはやはりライブでやりたいと思う。相手や参加者の視線や反応、場の空気を五感で感じることはAIにはできないだろう。人間のやる仕事だから、しんどいこともあるがやりがいもある。だから、早くできることから前に進みたい。多くの人も私も、くらしや仕事を守らないと、生きがいも命も守れないから。
 

 
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128.静観

2020-03-03 18:45:28 | 時代 世の中 人生いろいろ
 また一つセミナー講師の予定が延期になった。今は、参加者のことを考えると仕方のない事と思いつつ、正直なところ気分の良い話ではない。そして、マスコミやネットのニュース報道を見る度に辟易する。一人でも感染者が出ると、日本地図上のその都道府県が、全域に「感染」が広がっているかの様に赤や黄色で塗りつぶされる。その都度、目に見えないウィルスの電子顕微鏡写真が映し出される。この画像が必要かと不機嫌になりチャンネルを変える。震災の後、津波映像の自粛をした時のような配慮はないものかと思う。街頭インタビューでは、マスクをした人々の不安の声ばかりが報道される。買占めとか品不足とかもそうだが、事実を報道することは当然だとしても、いたずらに不安や恐怖をあおる報道の仕方は、そろそろ見直しても良いのではないか。先が見通せない状況の中でも、現場で対応している人々の明るい話題とか、冷静で客観的な分析とか、もっと大事な事があると思うのだが。

 飲食店では、客が我が県内でも一人感染者が出たとか、その感染者が市内の交通機関を使ったから菌が各所に散らばっているのではないかとか、不安そうに話をしていた。こうして根拠のない憶測やデマが広がって行くと考えると不快になる。もちろん、感染した人や感染した人の周囲にいた人、高齢者や持病のある方が心配するのはわかる。重篤な状態の方もいるから、不安になるのもやむを得ない。この1~2週間が「正念場」とは言え、危機感ある情報ばかりがあふれ、国の突然の要請があったりすると、混乱が起きたり不安を掻き立てられたりするのも致し方ないのだろう。

 一方で、この間も医療従事者や厚労省の官僚、報道関係者等だけでなく、極力平常心で社会や経済、家族のくらしを支えるために働いている人の方が多数ということも事実だろう。働きたくても、仕事再開の見通しが立たず働けなくて困っている人もいる。それから、マスクもトイレットペーパーも、それらを作る人、運ぶ人、売る人がいるから手に入る。だから、病院や介護施設などにいる本当に必要な人への配慮や、普段通り働いている人や困難な状況の中でも務めを果たしている人達への配慮やねぎらいもあっていいと思う。「耐える」ことと「逃げる」ことは違うし、不安から逃げようとすればするほど、不安は大きくなるだけだ。人間に無菌状態など無いのだし、自分だけが守られて安全な社会など無いのだから。

 事態の本質から外れたセンセーショナルな情報や憶測に振り回されず、予防や周囲への配慮もしながら。今は悲観も楽観もせず静観する胆力が試されているように思う。この騒動が収束した後のためにも、今しておくべきことを見失わないようにしたい。

 もうすぐ桜。気分が変われば、景気も回復すると願いたい。そして、夏には日の丸の「感動」。今年の漢字一文字は、「感」になるか?
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125.同級生だけの同窓会

2020-01-19 17:22:11 | 時代 世の中 人生いろいろ
今年の正月、高校の同窓会に参加した。地元の同級生有志が幹事となって、4年に一度全体で開催している。私は、十数年前地元に帰ってから参加している。おそらく、4回目の参加になる。サラリーマン時代にも参加したことがあったかもしれないが、あまり記憶にない。

 参加人数は、この4回は概ね百十名前後。同期の約四分の一程度だ。ホテルの会場には懐かしい顔もあれば、全く記憶にない顔も多々ある。面影を残しているものもいれば、名前と顔が一致しない者もいる。私は、高校時代あまり目立つ生徒ではなかったが、中学からの同級生には「変わってないな」と言われる。中には当時のあだ名で呼んでくれる者もいる。

 この4回で回を重ねるごとに変わったと感じる事がある。一つは、同窓会での居心地が落ち着いてきたこと。もう一つは、名刺交換の数が減ったことである。

 十数年前、四十代だった頃は、男性も女性も、多くの同級生が働き盛り。企業や役所の中で、要職を務めている者もいた。その後、十数年経って、皆等しく五十代後半。役職を降りたり、出向や転籍した者、中には孫のいる者もいる。もちろん、まだまだ現役同様に活躍している者もいる。

 そんな中で、段々と落ち着いて来たのは、十数年前に会社を辞めた頃と比べ、自分に自信がついて来たからだろうか。同級生という他人と自分を比べて、優越感を感じたり劣等感を感じたりせず、それぞれの家族や大切なものや生き方があると考えると、肩肘張らずに自然体で居られるからだろうか。

 ライフキャリアは、人それぞれ、自分らしく続けたい。五十代後半ともなると、人生が顔に表れるとも言われる。参加している同級生は、概ね良い顔を見せているように感じた。あと四分の三の同級生はどんな人生を歩んでいるのだろうか。消息の分かっている中で、全員で物故者に黙祷をささげながら、参加できることはありがたいという思いが込み上げてきた。
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121.AIにはできない仕事

2019-10-10 00:42:23 | 時代 世の中 人生いろいろ
 NHKスペシャル「AIでよみがえる美空ひばり」を見た。最先端のAI技術を駆使して、30年ぶりに美空ひばりをよみがえらせるという企画だった。歌声や歌唱力だけでなく、目や口の動き、振り付けや立ち居振る舞いまで、4K・3Dホログラム映像で再現していた。技術者や作詞作曲家、衣装デザイナーやファンクラブの高齢者などの関係者が、膨大な音源と映像データをもとにAIが出現させた「30年ぶりの美空ひばりの歌と姿」に心を揺さぶられるかという点が一つの見どころだった。

 私の感想は、プロジェクトの関係者の苦悩や努力、試行錯誤を繰り返しながらもあきらめずに取り組む姿勢には感銘を受けたし、日本のAI技術の高さにも驚嘆したが、「美空ひばり」はやはり「AIの美空ひばり」の印象だった。長年のファンの方々が感涙にむせぶ場面も、テレビの画面で見ているせいか違和感があった。30年前の録画映像と、30年ぶりの再現映像を比べて、これらをどう見たらよいのかわからなくなったのだ。なぜなら、「美空ひばり」の歌と姿に、30年間に刻まれたであろう「年輪」を感じなかったからだ。確かに、AIは30年前からさらにデビュー当時までさかのぼったデータを解析して合成することはできたのだが、30年前から現在までに刻まれたであろう皺や年輪、磨かれたであろう艶や綾までは予測し再現しなかったからだろうか。

 どんなに技術が進歩しても、人間にしかできない事やわからない事はある。以心伝心。阿吽の呼吸。人情の機微や心の琴線は、AIには表現し得ないものだろう。私が携わっている対人支援や相談業務のコミュニケーションには、勘や加減や曖昧さ、洞察力や寛容さ、そして倫理観も大切だ。理論やデータ分析も必要だが、理屈だけでは済まない世界だから、AIに取って代わられることはないだろうと思っている。経験と研鑽を積んで、年輪を刻んで行けば。
 
 

 

 
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111.コンプライアンスは身を守る

2019-08-03 21:35:50 | 時代 世の中 人生いろいろ
 かんぽ生命の不適正販売のニュースを見て、「まだこんなことやっていたのか。」と、怒りを通り越してあきれてしまう。17、8年前、保険業界にいた私は同様の体験をした。目標数字に追われて、不適切な営業活動を行った時期があった。一部にせよやったことは事実だった。よって、会社自体が業務停止処分を受けた時、懲戒処分を受けた多数の社員の中に名を連ねた。「訓告」という処分であったが、恥ずかしい気持ちと、ノルマからの解放感が入り混ざったような複雑な気持ちだったのを覚えている。「そこまでやれと言った覚えはない」と手のひらを反したり、「これくらいの処分は営業の勲章だ」とうそぶく上司、不正の自己申告に不誠実な申告をする同僚など、サラリーマンの責任転嫁と保身の術を目の当たりにして悲哀を感じたりもした。一方で、真っ当な仕事をしていた者や、自分なりのけじめをつけた者もいて、麻痺していた常識や良心が戻ってくるような安堵感もあったと思う。

 今回のニュースでも、不適正販売件数や被害にあった顧客のインタビュー、現場職員の声がクローズアップされているが、全体像やその背景はまだつまびらかになっていない。ただ言えることは、組織ぐるみの事件であるということだろう。勿論、実際に不適正販売を行った職員は謝罪をして処分を受けるべきだが、それ以上に現場に圧力をかけた上司、その上司、そして経営陣の責任は免れないということだ。社内牽制やチェック体制が甘かったというよりも、黙認されていたか物を言えない雰囲気もあったのだろう。それでも、出世欲や保身のために顧客や部下を騙したり犠牲にしたりすることが許されるはずはない。

 今の私は、コンプライアンスは自分を守るためと心得ている、迷った時こそ、信念や職業倫理をもとに判断していることは誇りになりつつある。「何のために働いているのか。」同じ過ちを繰り返さないためにも、時々思い起こしたい。
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109.再会

2019-05-30 23:42:52 | 時代 世の中 人生いろいろ
このブログの102回目に書いた「人生の先輩Mさん」に、およそ30年ぶりに再会した。この間、中部地方に住むMさんとは、毎年年賀状のやり取りは続けていた。一言書きには、お互いほぼ同じことを書き続けていた。「今年こそお会いしましょう。遊びに来てください。」

 来年古希を迎えるMさんは、若々しかった。週に4~5日はジム通いやテニスをされているせいか、体は引き締まっている。声の張りや艶が、脳裏に残っている当時の声と変わらない。かわいいお孫さんもいて、お子さんの休みの日には一緒に遊びに来るらしい。スマホで見せてもらった奥様も若くきれいな方だ。サラリーマンの定年退職後の幸せな暮らしのモデルのようだ。

 そんなMさんと昔よく行ったバーへ行った。Mさんは、四半世紀ぶりにマスターと再会できることを期待していた。マスターがいた。「おおっ、お久しぶり」と、お互い懐かしそうに声を上げ、カウンター越しに握手した。それから、Mさんが店に来たいきさつや今の暮らしぶりなどを話し、マスターもお店の近況を簡単に話した。丁度、カウンターの上に、お店の34周年を祝う花が置かれていた。マスターは、ずっと好きな音楽活動をしながら、お店は同じ場所で改築して広げて、今はライブハウスにもなっている。メジャーなミュージシャンが来るような名店にもなっている。お客さんや仲間からも慕われている。休みの日は、還暦過ぎて繰り上げてもらっている年金で、一人気ままに日本各地の名所やライブハウスを旅しているそうだ。

 お二人ともに半生に悔いはないものの、まだまだやりたいこともある様子。そんな二人を見ていて、人生いろいろ、いつも満足ではなくても納得の行く生き方をしたいと思った。

 「じゃあ、また来るわ」と店を出るMさんを、マスターはいつもの柔らかいまなざしで見送った。私には「また来てよ」とささやいた。








 

 

 
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