ライフ&キャリアの制作現場

くらし、仕事、生き方のリセット、リメイク、リスタートのヒントになるような、なるべく本音でリアルな話にしたいと思います。

152.移住の3S点検

2021-06-08 21:58:14 | 時代 世の中 人生いろいろ
 都会から地方への移住を希望する人が増えているという。コロナ禍の影響で働き方や暮らし方の価値観が変わって移住を考え始めた人もいるらしいが、その大半はまだ大都市圏の近県や周辺市町村への移住のようだ。
 
 私は学生時代とサラリーマン時代を通算して約10年東京にいた。若い頃は都会への憧れもあったし、大都会の魅力や利便性も多少は知っているつもりだ。
 しかし、今は東京へ出張して単発的な仕事をしたいとは思っても、住みたいとは思わない。それは、地元にUターンして長く仕事をして、人とのつながりや地元への愛着ができたからだと思う。また、特にこの1年余は、都会のメディアから発せられる一方的一面的な情報について、「東京は日本の首都だけど、日本の一部に過ぎない」と思えば気が楽で、仕事や生活にも何ら支障がないことがはっきりしたからだ。
 
 最近は仕事を通じて、移住者の方々と会う機会が増えた。移住と聞くと、定年退職後に好きなことをしたくて移住したとか、若い家族が都会から自然豊かな田舎に移住してゆとりある生活を始めたというような希望に満ちたイメージもあるが、現実はそれほど甘くも楽でもないことが多い。移住の形は、Uターン、Iターン、Jターンといろいろあるが、中には様々な理由で仕事の再スタートや人生のリセットを求めて、縁もゆかりもほとんどない所へ移住する場合もある。

 移住される方の多くは下調べや準備をして来られるが、実際に来てみて不安や戸惑いが増す場合がある。移住の前後で「三つのS」の違いが大きいと、そうなりがちなのだろう。
 Speed・・・スピード感の違いのようなもの。例えば、仕事の依頼や問い合わせに対するレスポンスの速さなど。
 Scale・・・規模観や水準の違いのようなもの。例えば、生活水準、物価、買い物の際の店の選択肢や品ぞろえの数など。
 Society・・・地域社会の慣習や人づきあいの違いのようなもの。例えば、個人やその家族等のプライバシーに対する関心や関与の程度など。
 
 移住地でどのような暮らしをするのも個人の自由だが、もし移住に違和感を感じるようであれば、この「3S」について捉え方を変えてみたり、移住した目的を思い出してみると、何かヒントが見えるかもしれない。または、「郷に入っては郷に従え」と合わせられるところは合わせたり、「住めば都」と割り切ることができるようになれば、少し楽になるのかもしれない。

 ある移住者の方が言っていた。「移住担当の行政窓口は、移住する前は親切で歓迎モードだったが、移住が決まった後は住み家や仕事探しも人づきあいもご自由にどうぞって感じで無関心。来るまでに住む所見つけて、来てから仕事探して、生活リズムの変化に慣れるまでが大変だった。」と。
 こういう点に、行政の縦割りの問題があるのかもしれない。キャリアコンサルタントとしては、この隙間を埋めて、定住につなげる役割を担えたらと思う。具体的には、移住者の方を本人の希望や価値観を尊重しながらも、何らかの仕事を通じてコミュニティーにつなぐことかと思っている。そして、一個人としても「移住してよかった」と思ってもらいたいと願っている。
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151.右側に寄った

2021-05-08 23:14:03 | 時代 世の中 人生いろいろ
 「雨が降ってるのに空は晴れている?」「天気荒天なれど波低し?」天気も世相ももやもやしがちなこの頃だが、昨年春先からの1年余を振り返ってみると、まだすっきりはしないものの、悪くはなっていないと思えてくる。
 
 経済・社会活動は、全国的に見れば昨年ほど抑制されていない。日経平均株価は今のところV字回復している。エッセンシャルワーカーだけでなく、働く人々の多くは不安や不便を感じることがあっても、変わらずに自分の仕事をしている。家事や子育ても休むわけには行かないから、主婦はいつもどおり日々の暮らしを守っている。学生の多くは、リモート授業に不慣れやクラブ活動制限などの不満はあっても、学びを続けている。就職活動や受験勉強も行われている。もちろん、様々な事情や問題で苦しんでいる人々を軽視するわけではないが、平穏な日常や生活リズムを守り頑張っている人が多いことも現実だ。

 感染症についても、対策をきちんとして普段通りに生活していれば、必要以上に恐れる必要はないと感じている人が増えた。一方、医療崩壊は実際には、ほとんどの自治体で起こっていない。もちろんそれは現場の医療従事者の方々や保健所関係者等の粉骨砕身の尽力あってこそだが、そもそも医療ひっ迫が起きて、繰り返されて、なかなか解消されないのは、ただ単に感染者数の問題だけではなく、行政や医療体制にも問題があるということも見えてきた。その中で、多くのまじめな飲食店や関係業界が理不尽なしわ寄せに耐え続けている。
 
 メディアの世界でも。批判のための批判や根拠のない偏った情報が、問題解決の邪魔であるということも見えてきた。自己顕示欲が強いだけの者が、他者を否定して自己主張してみたところで、その者が肯定されることもない。一部の情報番組のネガティブ感情の渦に巻き込まれそうになることはなくなった。思えばこの1年、TVニュースはほとんど見なくなったが、仕事にも生活にも特に支障がないことも分かったからだろう。

 政治に対する自分の見方も変わってきた。元々いわゆる無党派層で支持政党は無いし、主義や立場を明確にした団体等にも属していない。ただ、国政選挙と自治体首長選挙には行っている。
 はっきりとした線引きはない感覚的なものだが、日本社会の法秩序の中で許容される範囲の最も右寄り(保守系)を10、最も左寄り(革新・リベラル系)を1として点数にしてみると、一昨年までは判官贔屓なところもあってか「4」くらいだったのが、今では「7」くらいまで右に寄った感覚だ。
 そうなったのは、やはりこの1年でいろいろな事象の本質や人の素性が見えてきたり、これまで以上にリアルに物事を捉えて、できるだけ冷静に自分や事業の立ち位置や方向性を考えるようにしたからだと思う。
 結局、多様な意見や利害の対立の中で、方向性を示し、折り合いをつけながら、落し処を見つけるのは政治の力になる。よって、有事には、権力の暴走は止めなければならないが、迷走の際には批判するだけでなく軌道修正に力を貸すのが責任ある野党の姿勢だろう。選挙を意識したポジショントークやリアリティーのない提案ばかりでは、現実に向き合いながら日々懸命に働き暮らしている多くの人々の共感や支持は得られないだろう。
 今の政権には、批判も多いし逆風も強いし、水面下の足手まといもあるだろうが、ここまできたら完全ではなくとも一旦この事態を治めてほしい。そのためには、経済界の力や多数の国民の力も必要になるが、大局的には何とか治まりつつあると感じている。そして、結果は野党とともに次の選挙で国民が審判したらよい。

 年齢を重ねるにつれて、保守的になる人が多いと言われる。特にビジネスの世界はリアリティーが必要だ。そう考えると、これからの自分の仕事やキャリアの方向性は、緩やかな右カーブをほぼ曲がり切って、平坦ではないがまっすぐな道が見えてきたようなイメージだ。
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150.あの店のことが心配だ

2021-04-22 22:33:07 | 時代 世の中 人生いろいろ
 このブログ142号に掲載した「創業62年のバー」のマスターご夫婦のことが気がかりだ。今、この店のある繁華街は、時短要請の中で街が死んだようになっている。私は、店の常連でもマスターと親しい間柄でもない。マスターの作るハイボールの旨さと店の雰囲気、そしてバーテンダー一筋の生き様に感銘を受けた多くの客の一人だと思っている。
 
 昨年11月に久しぶりに訪れた際、マスターはいつものように淡々とお酒を作っておられた。奥様は人懐っこい笑顔で接客しておられた。ただ、その日マスターは、手が空くと時々店の片隅の椅子に座り込んでいた。お歳のせいか、少し疲れた様子も見えた。春になって、そろそろお元気なうちに行こうと思っているうちに、世間の状況が変わり行けなくなった。

 店を閉めて、どうしているのだろう。仕事が生きがいのように見えるマスターと、長年連れ添ってきた奥様。夫唱婦随で客の憩いと社交の場を守り続けてこられたお二人だから、常連さんらの応援もあって、きっと店を再開されると思う。バーテンダー人生の引き際をこんな状況の中で迎えるようなことにはならないでほしいと、勝手ながら願っている。

 最近、「医療には人の命がかかっている、経済には人の首がつながっている。」という、ある元官僚・医師の言葉が胸に響いた。
 政治家、自治体や医療のリーダーやトップら、一部メディアは、「命を守ることが最優先」という当たり前のことを今さらながらに唱えるのもいいが、それなら守るべき命の重さは平等であることをどう考えているのか「お示し」してもらいたい。穿ち過ぎだと思うが、誰もが反対できない大義名分の裏には、独善や私利私欲や何か不都合な事が隠されているのではないかとさえ感じる。皺寄せを受けている人たちからは、守られた世界で傷つくことのない者たちが、現場の声も聞かずに一方的に不利益を押し付けているという恨み節も聞こえてきそうだ。

 有事にすべての人が納得する施策を打つことはまず無理だろう。優先順位や最大公約数を求める中で、どこかに皺寄せや犠牲が生じるのはやむを得ないことかもしれない。それでも、今度こそ緊急時の医療キャパシティーを増強する対策、金を配るだけではない血の通った具体的方策、バランス感覚のある冷静な報道。国民や住民に負担や不自由を要請するなら、要請する側こそがこれらを命懸けで追求しないと、地域社会や国が弱って行く。事態は自然とおさまって行くかもしれないが、そうして喉元過ぎて熱さ忘れては、今の二の舞い三の舞いだ。弱い立場の人の心はますます傷んで行く。

 それにしてもあの店のマスター夫婦はどうしているのだろう。残りそう長くはないであろう人生の生きがいを奪われるようなこの状況の中で・・・。
 他にも気がかりな店はある。きちんと対策をして、まじめにがんばって仕事をしていたのにこんなことになって。仕方ないと割り切っているのだろうか。心折れていないだろうか。どんな思いでいるのだろうか。案外したたかに密かにやり過ごしているのだろうか・・・。
 早く店に行って心置きなく飲み、うまいものを食べ、楽しく人と話したい。そんな健全な心や行動が、少しでもまた店を元気づける力になればと切に願うこの頃だ。
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148.桜が目に沁みる

2021-04-03 22:33:01 | 時代 世の中 人生いろいろ
 「おはよーございます。」と、大きな太い声。「あっ、おはようございます。」と、明るい女性の声。社員6人ほどの小さな営業所に、本社から部長がやって来て、新年度新発式が始まりました。会社の新年度方針や目標などの説明の後、全員で経営理念や社訓の唱和。その後、個別の打ち合わせが済むと、「よっし、じゃあみんなで弁当食べようかっ。」と部長の掛け声。すると、女子社員が注文した弁当の美味しさと安さをアピール。お茶の準備が整うと、電話番の社員を残して広い会議室に移動しました。会議室の外にはなごやかな笑い声も漏れ聞こえてきました。市内の桜の名所や、食べ物の名物の話などをしているようでした。
   
 私が昼食に寄った食堂は、安くてうまいと評判です。一つのテーブルに大体2名までとしているので、券売機の前に少し列ができています。壁面の大型テレビには高校野球の様子が映し出され、アナウンサーのメリハリのある声が聞こえてきます。野球を見ながら食べる人、スマホを見ながら食べている人、職場の同僚数名で一緒に食べている人たちもいますが、あまり会話は聞こえてきません。それでも、人が共に食事をするという日常が静かに流れています。
           
 桜を見に、近所の公園に足を運んでみました。芝生やベンチの上には、桜の下で弁当やお茶をしている家族連れや学生がいました。歩きながら、自転車に乗ったまま、桜の木の下で立ち止まっていました。今年は、写真を撮っている人が多い気がします。誰かに見せるためでしょうか。それとも、2年ぶりの記念でしょうか。

 昨年の春は、こうした人の動きや集まりはほとんどありませんでした。それを思うと、この1年で世の中の状況はずいぶん変わったと思います。まだまだ元に戻っていないという見方もありますが、戻りつつあるとは言えるでしょう。それに、元に戻らなくてもいい。元に戻ることは時の流れに逆行することになる。そのように考える人もいるのではないでしょうか。先行き不透明で不安定だと嘆く人もいますが、これまで常に先が見通せて安定した状況の中で生きてきた人がどれほどいるのでしょう。不安や保身も人情なら、安心したい、人と共にいたいと思うのも人情でしょう。
   
 「あれはダメだ」、「それはしてはいけない」、「こうするべきだ、こうあらねばならない」。こう言った、白黒思考、禁止や否定のメッセージ、完璧主義。私もこうしたものの広がりに一時期翻弄されそうになりました。もう緩和した方がいいと思います。人の回復力をそぐからです。「ここまでならいい」、「こうすればできる」、「こんな考えもある」。人それぞれの意見、事情、価値観の相違はあるにしても、こうした寛容で柔軟な思考や行動に重心を移した方がより健全でいられると感じています。そして、私の周りの多くの人は、多少の揺れや浮き沈みはあっても、日々働き暮らす中で新たな日常を自然と受け入れつつあるように見えます。自分や家族を守ることだけでなく、他者や周囲への気くばり、心づかいも大切という良識を、それぞれに取り戻しています。

 この1年の振り返り。今の自分を支えてくれている人への感謝。1年後への希望や目標。日々を地に足つけて生きている普通の人々の、弱さ、やさしさ、逞しさ。桜はやがて散っても、大地に根を張っていれば、また春が来れば咲く。そんなことを思いながら空を見ていると、桜が目に沁みてきました。
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147.数字

2021-03-25 21:21:31 | 時代 世の中 人生いろいろ
 「結果を出せ」「目標未達は許されない」「数字を作れ」ーそんなことを日々言われ続けた時期があった。前世紀の終わりから今世紀の初めころがそのピークだった。当時私がいた会社では「お客様第一主義」を謳いながら、こんな言葉が上司や“本部”から飛んでくることは日常茶飯事だった。高圧的に、時に乱暴に、ヒステリックに。営業社員の中には数字至上主義に神経をすり減らし、振り回され、やがて社会の常識や職業倫理からずれて行った者も少なくなかった。そして今では許されないようなコンプライアンスに反する行為も、数字を出すことで上司から黙認された。むしろ賞賛されることすらあった。「営業殊勲賞」などの表彰や、「高いパフォーマンスを出す〇〇方式」なるものが、社内の営業部門を中心にもてはやされた。その後、それらの中には、偽装や虚構が判明したものもあった。数字に追われ、振り回され、人格までも数字で評価されるかのような風潮もあった。
 もちろん、きちんと努力してしっかりと結果を積み重ねていた社員もいた。しかし、そうでない社員も少なくなかったことは、後に会社自体が監督官庁から厳しい行政指導を受けた事実からも明らかだ。私も“そうでない”ことの方が多かった社員の一人だった。ただ、私個人としては、会社の行政処分に伴い一定の処分を正直に受けたのを機に仕事に対する向き合い方を是正し、その後別の事情や思いもあって退職したことで人生を軌道修正できたと思っている。

 数字は、物事の計測や分析などに必要不可欠であることは言うまでもない。統計や調査のデータだけでなく、論理的な思考や客観的な指標やエビデンス評価など、様々な場面で使われる。また、私自身、数字という目標に執着して仕事をした経験の全てを否定しているわけではない。目標達成して評価された時の自己肯定感。逆に達成できなかった時の劣等感など。今の仕事に生かされている部分もある。一方、数字では表せない人の感情や葛藤、計算通りに行かないプロセス、そして結果がすべてではないことを知った。数字は一つの事実を示すものだが、必ずしも現実を表してはいない。状況や捉え方によってその意味が変わってくることを体感した。

 最近、特にメディアの報道などを見聞きしていると、数字の扱いが粗雑で、稚拙で、盲目的と思われることが多い。企業の不祥事や行政処分の要因に、「数字至上主義」の負の側面があったと指摘されることが今だにある。数字を過信したり偽装したりしたことが社会の不安や不信を招く事件も後を絶たない。メディアなどの数字の発信者の偏った思考、利己的な意図、無責任が見え透いて感じられることもある。〇〇者数、〇〇率、〇〇回数・・・など。恣意的に不正確で不公正な数字をさも真実や正論であるかのように乱用している者もいると思われる。社会が混沌とした中ではやむを得ない面もあるが、いつの世にもそういう輩や曲学阿世の徒はいるのだろう。

 とは言え、私のような数字に強くない凡人は、どうしたら今後も数字に振り回されずにすむのか。改めて考えてみた。
 一つは、自分の判断や行動の軸を持つこと。私自身、計数的な思考や論理的な判断より、情緒的な思考や感覚的な判断をする傾向が強いので、現場感覚を大事にするという軸になる。現場感覚とは、仕事の現場や地域の状況に対する感覚だけでなく、周囲の人の様子や話を見聞きして実感するもの。
 もう一つは、数字の持つ意味や影響を冷静に考えること。自分の暮らしや仕事、家族や周囲の人にどんな影響があるのかという視点で考えてみること。メディアやSNSの情報は、発信元を確認して、鵜吞みにしないか無視すること。そして、自治体や一部の公正で客観的なサイトなど信頼できる所が公表している数字をもとに考えてみること。できるだけポジティブな情報も捉えてみること。そして、考えすぎないことと思う。

  私のこの春は、新年度の仕事の予定も立ってきた。心機一転。心や行動をポジティブに転じるには、できるだけ多く「人に会い、本を読み、旅に出る(=現場に行く)」こと(出口治朗さん)を心がけたいと思う。その中で、身近な数字を仕事やくらしを見直し、より良くする目安として役立てたいと思う。自分の軸と倫理観をもって働くことが仕事へのプライドにつながるし、人と関わりながら暮らすことが人生をリアルにすると思う。
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146.笑顔のリアリスト

2021-03-19 19:38:17 | 時代 世の中 人生いろいろ
  ヨガ教室が再開した。ヨガと言っても、呼吸や体の状態に意識を向けながら無理せず心身をほぐすような内容だ。座った前屈がほぼ直角の私でも、マインドフルネスの感覚で時々参加している。昨年に続き、2度目の休止期間が明けて、少人数で再開された。

 教室では、終盤に瞑想の時間がある。先生から、瞑想の間自分にとって神聖なものを思い浮かべるようにと言われる。雑念が沸いたら、それを脇に置いて、何も考えずゆっくり呼吸に集中するようアドバイスされる。

 私が、およそ2か月ぶりの瞑想で心に思い浮かべた、というより浮かんできたものは、身近な人の笑顔だった。行動の自粛を強いられていた間にも、食事、雑談、仕事など、日常のひと時に見せた笑顔だ。不安や迷いの中で、少しぎこちない笑顔、相手を気遣う笑顔、自然とこぼれた笑顔など。呵々大笑とか満面の笑みというものではない。そして、そのような笑顔を見せた相手に、私自身はどんな顔をしていたのだろうと振り返ってみる。固い表情が緩んだこともあれば、渋面のままのこともあった。こちらの笑いにつられて、相手も笑ったのかと思うこともある。

 リアリストとは、現実主義者という意味だ。どこかクールで冷徹。感情に左右されず、良くも悪くも理論的で計算高く、完璧主義のイメージもある。政治家や官僚、ビジネスマンなど、現実社会の中で葛藤しながら働いている人間もいれば、メディアやネットの中の「専門家」や訳知り顔の正体不明の者など。悲観論や批判ばかりだったり、虚栄心や自己顕示欲だけが見え透いていたり…。その実態は、有象無象の輩もいて、まさに玉石混交だろう。

 実際のリアリストは、現実の事態に即して物事を考え、対処をする。悲観も楽観もしない。まじめで計画性が高いという特徴があるらしい。そう考えると、混沌とした重苦しい空気の中でも、笑顔という他者への気遣いや心の余裕を忘れず、何気ない日々をまじめに粛々と生きている人。良い時も苦しい時も、なるべく右往左往したり人のせいにすることなく、自分が今できることを懸命にする人。先が見通せなければ、今日するべきことを計画的にする。起床、睡眠、食事、あいさつ、仕事、家事。あたりまえのことをあたり前にする。自身の弱さや痛みだけでなく、周りの人にも心の揺れや痛みがあるという事実に目を向けられる人。時には笑顔という心の手を差し伸べられる人。現実にただ追随するだけでなく、現実と折り合いをつけながら生きている。そんな人こそが、くらしや仕事を支えているリアリストではないかと思う。

 「笑顔のリアリスト」は、知恵も感情も、強さも弱さもある生身の人間。
瞑想しながら、そんな身近な人の笑顔がいくつも思い浮かんでくると、呼吸が暖かく軽くなった。そして、リアルな明日に意識が向いた。
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144.歩力(ふりょく)

2021-02-21 18:19:16 | 時代 世の中 人生いろいろ
 「歩」という文字には、読み方によって次のような意味がある。
  

 この1年を振り返って、これから大切に思うことの一つに「歩力」(ふりょく)がある。「ほりょく」と発音すれば、文字どおり「歩く力」の意味。「脚力」の方がわかりやすいかもしれないが、介護の分野で使われているようだ。

 「ふりょく」と発音する「歩力」という言葉は辞書にはない。自主企画のセミナーのテーマを考えていた時に、私の知人が思い付きから造った言葉である。その意味を、辞書の解説をもとにイメージしてみた。

ー先走ったり、浮足立ったり、右往左往することなく、一歩ずつ前へ歩く力。時につまづいたり、逆風に立ち止まったりすることはあっても、足元を見ながら一歩ずつ進む力。ー

  周囲の状況を見ながら、他者への配慮をしつつ、自身の判断で淡々と、粛々と、平然と歩く。美空ひばりの「川の流れのように」の歌詞の一節にもあるような凸凹道や曲がりくねった道、地図さえない道でも、歩けない(できない)理由をもっともらしく語るより、どうすれば歩けるか(できるか)を考える。赤信号では立ち止まる。黄色なら注意する、雨が降れば傘をさし、靴を履き替える。そうした、あたりまえのこと、できることをしながら歩く。
 
 でも、それは一人ではなかなかできない。やはり伴走者ならぬ「伴歩者」がいてほしい。共に歩いてくれる者が一人でも多くいれば、共に歩き抜くこともできる。そして、時には伴歩者に手を差し伸べる。たとえ途中で方向が違ってきたとしても、一時期でも共に歩いてくれる人を大切にする。そんな姿勢が大切に思える。

 世の動きの先頭を走っているつもりの者や、周囲に同調しているつもりの者が、気づいたら牛歩に追い抜かれていて、大きな潮目の変化からも取り残されていることもある。ウサギと亀の話しの教訓は「ウサギはカメを見て、カメはゴールを見ていた」ということらしい。つまり、油断したり周囲に惑わされたりすることなく、自分の目標に向かって着実に前に進んだ者が、結局早くゴールにたどり着くということ。

 将棋の駒の「歩」は、前に一歩づつしか進めないが、敵陣に入ると「金」に成る。「歩力」とは、そんなイメージの力とも感じられる。
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141.人生は勝負?

2020-11-05 16:28:56 | 時代 世の中 人生いろいろ
 「勝ち組 負け組という言葉がある。私はこの言葉が大嫌いだ」 TVドラマ「半沢直樹」の中で、主人公の半沢が言い放ったセリフだ。「どんな会社にいても、どんな仕事をしていても、自分の仕事にプライドを持って日々奮闘し、達成感を得ている人のことを、本当の『勝ち組』というんじゃないかと俺は思う。」私も共感したセリフの一つである。

 世間には、勝ち負け、優劣、白黒等、勝手に二分したがる者がいる。「勝ち組、負け組」「幸せか、不幸か」など、雑誌やネットメディアなどでもよく見かけるレッテル貼りのタイトルだ。だが、中身は陳腐で、日々の仕事や暮らしを地道に紡いでいる多くの人々には無意味な内容がほとんどだ。こんなコンテンツに金を使うくらいなら、目の前のことや周りの人を大切にすることを考えた方が良い。

 勝負事をすべて否定するつもりもなければ、幸福追求や金儲も人それぞれの生き方だから、どうしようと個人の自由と責任だと思っている。ただ、そもそも勝負に参加していない者まで巻き込むような偏見やレッテル貼りには嫌悪感を持つ人々もいる。これは、私のようなコンサルティングや講師を仕事としている者も心掛けた方がよいことだと思う。「勝ち組になる戦術」とか「幸せになる方法」とか、講師の自己満足にすぎないような話も、関心ある人は聞いてもいいだろうが、仕事も人生もそんな簡単なものではないだろう。私も、勝ち組とか負け組とか、幸せとか不幸とか、自分の人生に関係のない他人に言われたくはない。

 先日、首都圏の終電の時間が30分程度早まるというニュースがあった。都心の駅近くの飲食店などは影響があるのかもしれないが、世の中の変化に合わせて商売をして行くしかないだろう。一方、滑稽に思えたのが、一部のサラリーマン。仕事が終わってから飲む時間が減るとコミュニケーションが取りにくくなるとか。終電は早まったとはいえ午前零時頃。30分早く仕事を終わらせるとか、家の近くで飲むとか、それくらいの‘発想の転換’はできないものか。これも時代錯誤のマスコミが大げさに取り上げただけのこととは思うが。

 昨年の「老後2000万円問題」もそうだ。マスコミの問題の本質を外した煽り報道によって右往左往した人も都会では少なくなかったようだが、地方にいるとしらけた目で見ていた。もちろん、老後のお金はあった方が良いし、若い人なら早くから計画的に資産形成しても良いだろう。ただし、忘れてはいけないのは、お金は普通働くことで得られるということ。資産運用の基本は、長期、分散、積立という三原則があるということ。誰しもお金は大事だからこそ、自分や家族が得られるお金の範囲で日々を大切に暮らして行けばいいと思えば、大方気が楽になると思うのだが。実際、2000万円無くても心豊かに暮らしている人もいる。
 
 最近メディアで、「アフターコロ〇の生き残り~」「金持ち老人、貧乏老人」のようなタイトルを見た。まだこんな発想で記事を書いてる者に、私はどこか悲哀すら感じる。「生き残り」とか「金持ち」とか、仮に自分がそう思えたとしても、それは社会を支えてくれているエッセンシャルワーカーと言われる人々や、周囲の人々のおかげなのだ。自分だけが金を手にして生き残る社会など非現実的であるし、そこに人としての生きがいなどないと思う。

 仕事や人生においても、勝負をかける場面はあるだろう。ただ、人生は長いか短いか、いつ終わるかわからない。常に勝ち続ける者、逆に負け続ける者などいるのか。そもそも勝敗はいつ誰が決めるものなのか。他人との無用な“試合”に巻き込まれずに、自分が決めること。そして、もし勝ったと思った時は足元を、負けたと思ったら前を向く。できるだけ多くの人を信じ、手を差し延べられたら恩返しを忘れないことだ。

 この1年、いろいろな事に過敏になり窮屈な思いもした中で、見えてきたこともある。それは、仕事には結果に至るプロセスがあって、プロセスにこそプライドの種があること。長い人生の色彩には、濃淡やグラデーションもあるということ。そして、これからは「競争」より「共創」ということを考えて行きたい。競争は線、共創は面のイメージくらいしかないのだが。まずは今までよりも周りに目配り気配りを心がけてみようと思う。
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139.レジリエンス

2020-10-03 10:41:51 | 時代 世の中 人生いろいろ
 「レジリエンス」には、回復する力、再起する力、逆境に向き合う力などの意味がある。「しなやかに立ち直る力」と考えられる。

 今、日本の経済や社会は、多少の波はありつつも徐々に回復に向かっていると考えられている。私の仕事も周囲の人々も、用心は続けながらも概ね通常業務や日常に戻っている。以前のような緊張感や不安感は和らいでいる。人間は緊張感ばかりが続いて限度を超えると、心身の故障につながる。また、社会や人間関係に支障が生じるような不安感はメディアの煽り過ぎによると感じているので、私は今の地域の落ち着いた状況に安堵している。

 では、今の状況は、今年の始まりの頃と同様の仕事や暮らしかというとそうではない面もある。リモートワークの導入や新しい生活様式など、仕事や暮らしの中で変わりつつある部分もあって、変わりながら回復している様子だ。
        

 そう考えると、回復力のベクトルは、「元に戻る」のではなく、新たな方向や価値に向かうイメージと思えてくる。約8か月前の経済や社会の状況に戻ったか否かが問題ではなく、一人一人がこれからの仕事や暮らしの中で守りたいことや成し遂げたいことを見出して行くことが課題になってくる。「もう少しこう変えたい」「もっとこうしたい」、または「このままでいい」とか。難しく考える必要はなく、すぐに解決しなくてもいい。意識や姿勢が、これまでより大切になってくるだろう。

 一方で、レジリエンスを弱めてしまうクセがある。自分にも心当たりがあるものもある。
(レジリエンス入門 ちくまプリマ―新書 参照)
・否定的側面の拡大(肯定的側面の否定 メディアやSNSの偏った情報に煽られて)
・二分化思想(少なすぎる判断基準 勝ち負け思考 白黒思考 グレーが許せない)
・「当然」「べき」「ねばならない」思考(自分だけでなく他者に対してこうだときつくなる)
・過剰な一般化(みんなこうだ、世の中全部がそうだと思いこむ そして悲観する)
・結論の飛躍(根拠のない思い込み、支離滅裂、差別や偏見にもつながりかねない)
・劣等比較(自分より劣っていると思う者と比較して優越感や自己肯定感 これは続かない)
・他者評価の全面的な受け入れ(人の言うことを鵜呑みにしたり惑わされたりでしんどくなる)

 私なりのレジリエンスを強める心がけは、以前から現実を踏まえた楽観主義かと思っている。つまり、状況や情報を見聞きしながらも、そのうち何とかできると考える事かと。そうは言っても、私もいつもそんなに強くはないから、謙虚に人の支えや助け、知恵も借りる姿勢も心がけたい。そして、この8ヶ月で特に感じたことは、人や情報や社会の動きについて、自分にとって大事なことを、惑わされずに冷静に考えてみる姿勢の大切さである。 
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136.バランス感覚

2020-08-05 12:08:46 | 時代 世の中 人生いろいろ
 「経済より命が大事」。先日、そんな“正論?”をまた耳にした。さすがに、メディアも経済が停滞すると自らの首を絞めることが分かってきたと思っていたのだが。TVワイドショーで、あるコメンテーターが、“そのこと”を「国民全体で考えなくてはいけない。」という趣旨の話しをしていた。それぞれの立場で責任を持って意見を言うことは自由だが、個人的にはその手のコメントには辟易しているので途中で見るのをやめたから、どのような話の展開になったかはわからない。

 多くの国民も、国の基本方針も、今は「経済も命も大事」なのだと思う。そのバランスに心を砕き力を入れている。そんな正論まがいのことを考える暇があったら、日々の暮らしを守り、紡ぎ、事業の継続に尽力したいと、懸命に、淡々と、当たり前に両方を守ろうとしている人が多数だろう。

 「経済困窮で落とす命」も「感染症で落とす命」も、命の重さは同じはず。行政を批判しても命は戻ってこない。この感染症は多くの場合、数週間で治癒すると言われているが、経済的ダメージは回復に数か月から数年かかる可能性が高い。「命があれば経済はいくらでも立て直せる」と言われても、既に立て直せなかった企業や事業者も出てきている。おそらく、経済的にも社会的にも堅固に守られ豊かと思っている一部の人々には、「経済的困窮」などイメージできないのだろう。無理もないことかもしれないが。

 たとえ、「経済困窮で命を落とす」という最悪の事態には至らなくとも、飲食業であれ観光産業であれどんな職業であれ、まじめに働き自分や家族の生活を守っている人々にとって、働くことは生きること。仕事が生きがいの人にとって、仕事ができない辛さは、もうこりごりだろう。その点、国や自治体が補償をすればよいと簡単に言う者もいるが、金の問題ではない。その金は税金であって湯水のごとく湧いてくるものでもない。必要な補償や補助はすべきだろうが、金が絡むと公平な線引きが難しい。仮に、一時的に経済を止めるとした場合、そんな状況の中で自分や家族の暮らしや健康を守ってくれる人々へのねぎらいの思いはあるのだろうか。メディア出演者等のポジショントークなのかもしれないが、経済困窮とは無縁でも感染症は自分もなる可能性があるから、自分だけは守られたいという心理が透けて見えることもある。

 メディアの多くは、相変わらず数字ばかりを報道している。意味不明のラインを超えたとか、何日連続とか・・・。数字には足し算もあれば引き算もあるだろうし、他の指標もあるのだから、それらを公平にバランスよく報道すべき、不安を煽り過ぎと、以前から指摘されているのに。自らに対して指摘された事には思考停止で、他人のあらを探しては指摘しているメディアが少なくないように思うのは私だけか・・・。

 世の中、白か黒か、是か非か、二者択一で解決できる問題など少ない。だから、できるかぎり知恵を絞り手を差し延べ合うことが大切になってくると思う。そのためには、バランス感覚が必要ではないかと思う。バランス感覚は、勿論個人差あるが、自分以外の他者の意見や状況に対する想像力と、それらを否定せずに受け入れる寛容さから生まれてくるのではないか。必ずしも「中立」ではなくても、自分の軸足の置き所を考えながら、自分の傾きや偏りを意識する。そんなことを考えながら自分の軸足を見直してみたら、揺れることはあってもブレてはいないと思えた。また、それは自分が日々の仕事を通じていろいろな人と関わり、支えられているからと感じた。
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