ライフ&キャリアの制作現場

くらし、仕事、生き方のリセット、リメイク、リスタートのヒントになるような、なるべく本音でリアルな話にしたいと思います。

116.目線

2019-08-31 23:20:49 | コミュニケーション・人間関係
 「目線」という言葉には、「その立場におけるものの考え方やとらえ方」という意味がある。「お客様目線」とか「子供目線」などの使い方をする。もともとは、映画・演劇界で使われていた「視線」を表す言葉が一般化したものらしい。

 最近、時々気になることがある。「やわらかな上から目線」とでも表現したらいいのか、違和感や苛立ちを感じる「目線」である。自分に対してであったり周囲の人に対するものであったりするが、「今の言い方、態度、何かおかしいな」と感じるものだ。その相手との間に上下関係や主従関係があれば仕方ないのだが、本来対等な関係であったり協働する立場であったりするからだろう

 例えば、「(さんざん自論を言った後で)さあ、あなたの意見言ってみて。」と人を指しながら話を聞かない年長者。「(関係構築もできていない段階で)あなたの話を聞いてあげるから何でも話してごらんなさい。」と身を乗り出すカウンセラー。「(職場で当然の作業をしただけなのに)ありがとうございますやっていただいて、大丈夫でしたか?」と過剰な礼を言う同僚。それから、個人の自由とはいえ、SNSでの美食自慢や多忙自慢に見える発信も、スルーするのもうんざりすることもある。

 いわゆる「明らかな上から目線」の場合、反発、無視、忍従あるいは面従腹背などの対応が考えられる。一方、「やわらかな上から目線」の場合、やり過ごしたとしても、何かもやもやした不快感が残る。それは、自分が馬鹿にされたような慇懃無礼な態度に見えるからだろうか。いちいち指摘するのも腹を立てるのも大人げないとは思うが。
 
 自分自身も、たとえ無意識であっても「上から目線」にならないよう心掛けたい。そのためには、やはり相手を尊重する態度としての「聴く」ことを大切にしたい。そして、視線はなるべく上下より左右に動かそうと思う。相手と自分の自尊心を守るためにも。
 

 

 
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115.猫が気づかせてくれたこと

2019-08-25 23:02:53 | 人、本、旅 日記
 近所の小さな寺に住み着いていた猫がいなくなった。誰かが拾ってきた野良猫だった。子猫の時からおよそ2年たっていたから、猫年齢は2~3才だった。この寺には、他に2匹の猫が住み着いている。年長の黒猫と、若い猫。年長の黒猫とあまり折り合いが良くないのか、黒猫がいないときに2匹が餌を食べ、仲良く昼寝し、時々じゃれ合ったりけんかしたりしていた。
 
 1年くらい前から、この寺にはいろいろな人が寄ってくるようになった。地元商店街の人や近所の子連れママさん。自転車整理係の高齢者や仕事中のサラリーマンが境内で一服していることもある。テレビの街ネタニュースで「猫のいる寺」として紹介されてからは、遠方から愛猫家らしき人々や観光客なども立ち寄るようになった。また、働いていないのか昼間行き場がないのだろうと見える人なども涼みに来ていた。老若男女。ただ見物に来たり、毎日餌をやりに来たり、スマホで写真を撮りに来たり。猫たちは人々から可愛がられていた。住職一家も猫たちの世話を毎日していた。

 そんな猫たちの一匹がいなくなった。おとなしくて、マイペースで、ほとんど境内から出ずに、大体いつも境内でゴロゴロしているか草陰で寝ているような猫だったので、かわいがっていた人たちは大いに心配した。近所を探し回った人もいた。皆、いつか帰ってくると待っていた。

 「猫を探しています」という写真入りの貼り紙が外壁に貼られて間もなく、住職のもとに猫はもう帰ってこないという知らせが入った。どこかで生きていると信じていた人たちは、ショックを受けた。号泣した人もいた。住職も涙をこらえた。残念な思いで気持ちが沈んだ。
 
 私は、もう帰ってこないと知った時、喪失感があった。泣いた人の話を聞いているうちに、悲しくもなった。いなくなって初めて、自分も猫たちに癒されていたとわかった。あたりまえと思っているささやかな日常も、当たり前ではないと気づいた。あたりまえのように自分の周りにある物、あたりまえのように周囲にいる人に、感謝の気持ちを忘れてはいけないと思った。

 「猫を探しています」という貼り紙は、しばらく貼ったままだった。皆の心のどこかに「猫違い」であって欲しいという気持ちがあったのだろうか、忘れたくない気持ちもあったのだろうか。猫を探しその名を呼ぶ人の声に、命を守りたいという思いを感じた。人それぞれの思い、良心、人情の一端を垣間見る出来事だった。今もいる若猫に「どこにも行くなよ。」と強く言いつける声には、慈しみの響きがあった。

 若猫は、いつものように餌をもらい、ゴロゴロしている様に見えるが、遊び相手がいなくなって寂しそうと話す人もいる。一方、境内には毎日餌をやったり見守ったりという役割が減って、寂しそうな人もいる。

 人もまばらになった境内に、ツクツクボウシが鳴き始めていた。

 

 


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114.老後2,000万円・・・?

2019-08-18 23:07:17 | 生活 お金 ファイナンシャルプランニング
 老後の金融資産が2,000万円必要という金融庁の報告書が問題となったのはつい数か月前のことだ。参議院選挙前だったせいかマスコミも大きく取り上げ、その論調が批判的だったゆえに与党側は火消しに躍起となった。その後、金融機関等が主催する資産運用をテーマにしたセミナーの参加者が急増したというニュースもあったが、今はどうなのだろう。そもそもが騒ぎ過ぎで、本来は国の方向性や社会保障制度と合わせて、国民的な議論が必要な問題だという指摘もあった。個人的にも、ニュースで将来不安にかられて右往左往する都会の若いサラリーマンや、セミナー参加者の急増を得意げにアピールする主催者を見て、少なからず違和感を感じていた。

 もちろん、セミナーや個別相談で情報収集したり生活設計を考えること自体は大事なことだ。一方、お金に対する価値観や生活レベル、仕事や家族の事情も人それぞれだから、将来必要なお金も人によって当然変わってくる。だから、あまり情報に振り回されずに、自分自身や家族にとって必要なお金の見通しを立ててみて、問題が見つかればそれに対してできることから考えてみればよいと思う。
 
 どんなにきれいなライフプランも緻密な課題解決策も実行できなければ意味はない。そして、実行するためにはお金(収入)は必要だ。その収入は、多くの場合働くことによって得られる。このあたり前のことを忘れて、「お金にだけ働かせよう」と思っても無理だ。つまり、若い世代も高齢者もできるだけ長く働いて、〝自分という資産を運用する”ことが大事と思う。

 あまり先々のことを考えてみても、計画通りの人生がすべてではないのだから、できるだけ健康でなるべく長く働き、身の丈に合った暮らしをしていれば、何とか生きて行けるだろうと思うと気が楽だ。いくらお金があっても、自身に関わったり支えてくれる人がいないと生きて行けないと考えると謙虚になれる。

 
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113.「働く」ということ。

2019-08-12 23:30:19 | 仕事 キャリア ライフキャリア
 「働くということは、どういうことか?」などと、普段は考えないだろう。「なぜ働くのか?」と問われたら、どうだろう。お金のため。生活のため。家族のため。会社のため。事業存続のため。こんな現実的な答えの一方で、「仕事が好きだから」、「お客様に喜んでもらうため」、「社会のため」、「自分の成長のため」というような、内心的な答えもあるだろう。人それぞれの現実社会での働き方や仕事に対する思いや価値観は多様だ。「何も考えない」というのも一つの価値観かもしれない。

 私にとって「働くということ。」は、どういうことだろう?理屈やきれい事を抜きにして、まず思いついた。「自分の存在を認めてもらうということ。そのための自分の表現の場であるということ。」と。小難しい言い方に聞こえるかもしれないが、簡単に言うと、現在組織を離れて個人事業主である以上、仕事がなければ生きて行けないということ。仮に、事業で大儲けして有り余るほどのお金が手に入ったとしても、生きていて健康である以上仕事はするだろう。先々のことまで、まだ真剣に考えているわけではないが、できる限り生涯現役を目指すだろう。

 「お金が儲かって、楽で、和気藹藹」そんな仕事や職場などあるものだろうか?もし、あったとしても、おそらくそれはごく一部であったり一時的なものだろう。人や環境が変われば、仕事も職場の雰囲気も変わって行くし、果たしてそれでやりがいや自分の成長など感じられるだろうか。リスクを取らずに儲けたり、楽して経験を積んだり、努力せずに円滑な人間関係を維持したりすることなど、不可能なのは当然と考えた方が気が楽だ。

 このように考えてみると、公共であれ民間であれ、仕事の場を提供してくれたり一緒に場づくりをしてくれる方々には感謝の気持ちを、そして仕事の場に来てくれるお客様、受講者や相談者の方々には誠実な姿勢を忘れてはいけないと改めて思った。

 (参照)☆松山市ホームページ

     ☆ミラジョブ イベント・セミナーカレンダー



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112.ささやかな感動

2019-08-06 12:02:54 | 仕事 キャリア ライフキャリア
 先日、ある大手家電量販店で腕時計のバンドを交換した時のことです。ずらっと壁面に並ぶバンドの中から、同系色の二つを見比べていました。すると、近くにいた白髪で上品な感じのユニフォームを着た男性が横に近づいてきました。

 「幅は17ミリでいいか図ってみましょうか?」さっと物差しを私の時計に当てて確認してくれました。私は尋ねました。「この二つは同じに見えるのですが値段の違いはどこにありますか?」男性は少し得意気に答えました。「洋服に例えると仕立ての違いのようなものです。どちらも同じメーカーの素材を表も裏も使っていて、防水性も他社よりすぐれていて差はないのですが。」と言いながらケースから両方を取り出して、裏側を見せてくれました。確かに、裏地の色合いには違いがありました。「それから、横から見てもらうとわかるんですが、二枚重ねと三枚重ねの違いです。こちらは、厚みのある分丈夫ですが、少し硬くて腕になじむのに時間がかかるかもしれませんね。」それから、昼光色のライトの下に二つを並べて、「これからの季節こういう明るめの色合いが良いと思います。」と、穏やかに話しました。

 「レジをお待ちいただいている間に交換いたしましょうか。」と言って、私が選んだ方の会計を若い女性店員に丁寧な言葉で引き継ぐと、手際よくバンド交換を済ませてくれました。「ありがとうございました。」と大きな声が聞こえて振り返ると、その男性は眼鏡の奥の柔和な眼で見送ってくれていました。
 
 買い物客でごった返す週末の都心の家電量販店。数万円以上の時計も並ぶ売り場の片隅で、数千円の時計バンドの交換に親切に対応してもらえたことにささやかな感動を覚えました。あの人は百貨店の紳士服売り場で働いて定年後再就職したシニアの方かなと想像しながら、その人の生き方や人生が顔や姿勢に現れていると感じました。そして、見違えるようになった大事な腕時計を眺めて、気持ちも明るくなりました。


☆ご参照:ワークネットコラム 

     お仕事コラム第25回

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111.コンプライアンスは身を守る

2019-08-03 21:35:50 | 時代 世の中 人生いろいろ
 かんぽ生命の不適正販売のニュースを見て、「まだこんなことやっていたのか。」と、怒りを通り越してあきれてしまう。17、8年前、保険業界にいた私は同様の体験をした。目標数字に追われて、不適切な営業活動を行った時期があった。一部にせよやったことは事実だった。よって、会社自体が業務停止処分を受けた時、懲戒処分を受けた多数の社員の中に名を連ねた。「訓告」という処分であったが、恥ずかしい気持ちと、ノルマからの解放感が入り混ざったような複雑な気持ちだったのを覚えている。「そこまでやれと言った覚えはない」と手のひらを反したり、「これくらいの処分は営業の勲章だ」とうそぶく上司、不正の自己申告に不誠実な申告をする同僚など、サラリーマンの責任転嫁と保身の術を目の当たりにして悲哀を感じたりもした。一方で、真っ当な仕事をしていた者や、自分なりのけじめをつけた者もいて、麻痺していた常識や良心が戻ってくるような安堵感もあったと思う。

 今回のニュースでも、不適正販売件数や被害にあった顧客のインタビュー、現場職員の声がクローズアップされているが、全体像やその背景はまだつまびらかになっていない。ただ言えることは、組織ぐるみの事件であるということだろう。勿論、実際に不適正販売を行った職員は謝罪をして処分を受けるべきだが、それ以上に現場に圧力をかけた上司、その上司、そして経営陣の責任は免れないということだ。社内牽制やチェック体制が甘かったというよりも、黙認されていたか物を言えない雰囲気もあったのだろう。それでも、出世欲や保身のために顧客や部下を騙したり犠牲にしたりすることが許されるはずはない。

 今の私は、コンプライアンスは自分を守るためと心得ている、迷った時こそ、信念や職業倫理をもとに判断していることは誇りになりつつある。「何のために働いているのか。」同じ過ちを繰り返さないためにも、時々思い起こしたい。
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