ライフ&キャリアの制作現場

くらし、仕事、生き方のリセット、リメイク、リスタートのヒントになるような、なるべく本音でリアルな話にしたいと思います。

133.言葉のあや

2020-06-20 10:13:12 | コミュニケーション・人間関係
 「こういうご時勢ですから、やむを得ません。」「こればっかりは、どうにもなりません。」こんな言葉を、よく耳にした。そう言わざるを得ないのだろうが、こんな取りつく島もない言い方にやるせなさを感じた。大人げないが、心の中で突っ込みを入れたくなる。「こういうご時勢って、どういうご時勢なんだ?」「こればっかりは、と言うけれど、”これ”以外に他に何かしたのか?」と。

 「慎重に判断せざるを得ません。」と固い表情で話す者は、大体何もしないことを”判断”する。普通、判断には責任が伴うから。人の痛みに鈍感に見える者が、「責任を痛感する」と頭を下げても、結局責任転嫁するだけだろうと見透かされる。「全力で、総力を挙げて」と力まれても、「”やってる感”ばかりじゃなくて、メリハリをつけた方が結果につながるんじゃないか。」と逆に心配になる。「大切な人の命を守る」「安心と安全のため」と、守られた場所の中で守られた立場の者が世間や現場に向かって、だから「~しなければならない」とか「~してはいけない」と、声高に正義・正論を振りかざすのは正直鬱陶しい。「新たなステージ」「新しい生活様式」と仰々しくアピールする割にはそれほど目新しい事はなく、以前から心がけている当たり前の事や、逆に現実離れした事もあったりする。
 
 おうち、with、アフターなど。平仮名やカタカナ、英語表記を使うのは、子供や外国人にもわかりやすくとの配慮かもしれないが、物事の本質や深刻さを曖昧にして、「わかったつもり」に勘違いさせられるような違和感がある。

 「言葉のあや」と言ってしまえば、それまでかもしれない。「綾(あや)」とは物の面に表れた様々な線や形の模様のこと。そこから、文章表現の技巧や巧みな言い回しの意味。そう考えると、以上の言葉には、私には雑で軽薄な感が否めず、重みや人の匂いや体温もあまり感じられない。
 
 「考えておきます。」と言ってやんわり断る客の所に、後で「考えてくれましたか」と押し掛ける営業マンの様な強引さに眉をひそめる人は多い。つまり、人は時によって曖昧な言い回しを使う。まさに、「言葉のあや」を好む。それも、人間関係を円滑にする知恵かもしれないが、言葉のあやは言葉の虚しさと紙一重。その言葉を発する人に対する虚しさも映すと感じる。

 「言葉が変われば、心が変わる。心が変われば、行動が変わる。(略)」と言われる。私は、まず自分の言葉を変えるために、挨拶をしっかりとしようと思う。最近、仕事場や出先でも、マスクをしたままこもった声で表情を変えずに挨拶することが多かった。人間は相手の言葉と表情が一致しないと、相手に不信感を持ちやすいらしい。相手の目を見て、明るい声で挨拶する。挨拶は、相手との心の距離を縮めるもの。「新しい生活様式」とやらになっても守りたいあたりまえのことを、忘れかけていたように思う。
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132.選客万来

2020-06-13 09:54:33 | 時代 世の中 人生いろいろ
 最近、ネットニュースで目に留まった記事がある。大阪のある食堂が、緊急事態宣言の中、あえて新規開店したという。周囲から開店延期の勧めもあり、店主も逡巡したものの、「黙って待っていてもいつ終息するか分からへん。それなら対策を徹底してやってみよう」と、開店を決断したという内容だった。
              

 前回のブログ(131)で紹介した焼き鳥屋の他にも、私がよく行く飲食店の中に、先が見通せない中、急激に変化して行く状況に翻弄されて、一時期休業を余儀なくされた店があった。大手チェーン店のような資本力や人材のない小さな店は、経営的にも精神的にも窮地に追い込まれたことだろう。自分や家族の健康と生活を守らないと、従業員の雇用を守らないと、そして何より客の安全を守らないと・・・。早速に行政の支援に頼った店もあれば、何から手をつけたらよいかわからず途方に暮れていた店もあった。そんなそれぞれの苦悩や苦労を何とか耐え忍び、まだ客足が戻らないうちから再開にこぎつけた店もあった。

 あるメディアは、感染者数が〇日連続で二桁を超えたとか、逆にX日連続20人を下回ったとか、相変わらず意味不明の数字を報じている。また、「第二波を警戒せよ。気を緩めるな。」と仰々しいのに空疎なニュースが続いている。「おうちで過ごそう」などとのん気な同調圧力の雰囲気もまだ残る。勿論、不安の度合いは人によって違うし、地域やそれぞれの立場で事情や考え方はあると思うが、現実はもっと深刻な社会問題が起き、さらに困難な状況に置かれた人々もいるのだろうに。

 そんな中、仕事や商売の現場では、不安や困難と向き合いながらも、一歩ずつ前へ、とっくに元へ、進んでいる人々も多くいる。働かないと生きて行けないし、何もリスクを取らないと逆に何も守れない人々が、私も含めて多数いる。悲観や非難や否定ばかりでは何も生まれない。「様子見」という思考停止では変化から取り残される。行政や誰かが守ってくれるという依存心だけでは、大切な人も仕事も守れない。理屈でなく感覚的にわかっている。
 
 商売もサービスも、売り手と買い手、する側とされる側、双方向のもの。一人や一方だけでは成り立たない。これからは、そこに一層の信頼関係が必要になってくると思う。飲食店で言えば、きちんと対策がされているか、店主や店員の客への配慮があるか、そして仕事ぶりに誇りや謙虚さが感じられるか。人それぞれの好みや使い分けはあっても、これまで以上に客が自分に合った店を選ぶようになると思う。長く付き合える店は、流行りや格付け、表面的な接客でなく、大切なことを守り続けている店。ほっとできる、居心地の良い店、と私は思う。

 客が店を選ぶ。「選客万来」。選ばれる店としてこの先も商売を続けて行くには何が大切か。「お客様の安心と安全」と唱えるのは簡単だが、自分事としてどうすればよいか。一方、客として自分が店を選ぶ時に大切にしたいことは何か。自分の仕事やくらしにつながる大事なことは何か。考え直したことや新たに気づいたことが、それぞれにあったこの数か月だったと思う。

 苦しかった胸の内を漏らしてくれた小さな店の主。この苦境を乗り越えつつある中で、仕事に向き合う目に力が戻ってきた。以前はちょっとクールな印象もあった喫茶店主。ある朝偶然すれ違った時、立ち止まってマスクをずらして「おはようございます」。目が穏やかに笑って見えた。

「過剰な自粛ムードに勝つにはお客さんや地域の信頼を得るしかない。これからもやれることは全てしていきます」(冒頭の記事の食堂店主の話し)
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131.串うち3年焼き一生(75再掲)・・・今。

2020-06-06 16:27:43 | 時代 世の中 人生いろいろ
一時期、客足が途絶えて閉店していた店に、6月に入ってようやく客が戻ってきた。店主に笑顔が戻った。でも、このまま回復して行けるのか、沈痛で不安定な日々がまた戻ってくるのか、まだ見通せない不安もあるのだろうが、それを抑えて、仕事ができる喜びをかみしめるかのように黙々と串に向き合っている姿に胸を打たれた。

 5月下旬に立ち寄った時には、思いつめた表情で給付金や助成金等の申請手続きをしていた。連休明けに店を開けてみたが客が来ず、再び店を閉めていたとのことだった。街中には、テイクアウトに注力していた店も多くあったが、それをしなかった。焼きたて、できたての串を食べてもらいたいという思いからだった。融通が利かないと言えばそうなのかもしれないが、自分のやり方を貫こうとした職人のプライドとみれば共感できる。

 アルバイトが注文を取ったり料理を運んできた時の声。客の話し声、笑い声。今は、きちんと対策をしたうえで予約客しか入れていないようだが、かつての常連や良い客が戻ってきているようだった。この姿勢をブレずに貫けば、客がより良い店にして行くのだろうと思う。

 店主自身がこの苦境の中で改めて気づいたであろう職人としてのプライドと、客への配慮と感謝の気持ちが、その姿勢から伝わってくるようで、私も客の一人として安堵した。カウンターの片隅で、こちらまで来るはずのない串焼きの煙が目に沁みた、気がした。

<以下、当ブログ75回「串うち3年焼き一生」再掲>
近所のよく行く焼き鳥屋の店主を甘く見ていた。年の頃は、40歳くらい。短髪に中肉中背で、いつも胸に店名が入った黒のTシャツを着て、無愛想ではないが黙々と焼いている。目配りは行き届いていて客の注文も聞くしアルバイトに適切な指示もする。すいている時は常連客の話し相手もするが、大体は店に入る時と帰る時の挨拶か注文くらいしか直接言葉は交わさない。もともと焼き鳥屋で働いていて、独立して10年らしい。値段はそれほど高くないし、味もいい。好きな店である。

 「まじめにがんばっているから繁盛しているのだろうが、この先いつまで毎日飽きずに鳥を焼き続けるのだろう。」「焼き鳥なら1年も修業すればそれなりの仕事はできるだろうし、もっといろんな商売をすれば儲かるかもしれないのに。」などと、自分の仕事柄店主の将来やキャリアに対する余計な心配が頭に浮かんだこともある。

 「串打ち3年、焼き一生」。たまたまある人から、焼き鳥屋の苦労話を聞いた。鶏肉を切って焼くだけの単純に見える仕事だからこそ、実は難しさや奥深さがあると言う。炭火加減、焼き加減、塩加減など、ちょっと間違うと商品としての出来が大きく変わってしまうらしい。だから手だけでなく目も耳も鼻も使う。また、お客様に満足してもらうにはそれなりの接客態度も欠かせない。すし職人と同様、一生を賭けるくらいの覚悟と努力で「焼き鳥職人」を目指すべきとのことである。
 
 そんな話を聞いてから、店主に対する見方が変わった。店主にとって、お客さんに喜んでもらう事や儲けも大事なことだろうが、それよりも「職人技を究めたい」というこだわりの方が強いのではないか。「焼き鳥職人」になるという夢の途中で、日々真剣勝負をしているのではないかと。

 これもまた余計な想像かもしれないが、そんなことを想わせる魅力と味がその店にはある。
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