ライフ&キャリアの制作現場

くらし、仕事、生き方のリセット、リメイク、リスタートのヒントになるような、なるべく本音でリアルな話にしたいと思います。

102.人生の先輩Mさん

2019-03-23 23:59:07 | 時代 世の中 人生いろいろ
およそ10年ぶりに、Mさんから突如電話があった。前に連絡があったのは、私が会社を辞めた後だった。Mさんは、私が20代半ばの若手だった頃、同じ支店の他部署にいた先輩だ。当時30代後半で、専門職として主にタフな交渉事を担当していた。

 事務所から帰宅しようとした時、携帯電話に登録していない番号からかかってきた。「Mです、久しぶりだね、元気?まだ仕事?今度そっちへ遊びに行くことになって、覚えてるかな、Kさんと会うんだけど、来る?」昔と変わらない声と話し方だった。

 「これから飲みに行くんだけど、来る?仕事なんかやめて、明日の朝来てやれよ。」よく飯や飲みに誘ってくれて、お酒の飲み方も教えてくれた先輩の一人だ。バブル時代の終わりの頃、当時携帯電話はなかったので、よく内線電話で誘われたり、残業中に強制的に仕事をやめさせられ連れて行かれた。そんな時代だった。

 「体は元気なんだけど、頭がついて行けなくなって、もう仕事は完全にやめたよ。」最近は、好きなテニスと近くに住むお孫さんの世話の日々とのこと。「毎年年賀状に来てくださいって書いてくれてたから、元気なうちに行っておこうかと思って。」会うのは、MさんもKさんもおそらく30年ぶりくらい。

 「ありがとうございます!いつ来られるんですか?」とつい声を弾ませて答えると、「相変わらずだねえ。」とMさん。相変わらずと言われて、心の中で苦笑しつつも、会社を辞めて10年の私にも声をかけてくれたことが嬉しかった。中部地方の都市からの電波に乗ったリアルな音声に、内線電話で呼び出されたあの頃にタイムスリップしたような感覚になった。

 Mさんはどんな人生を歩んで来られたのだろう。これからどんな人生を考えているのだろう。昔ほどは飲まなくなったという酒を一緒に飲みながら、話を聴くのが楽しみだ。会うのは、次の時代のスタートの月。






 



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96.ボランティア

2018-08-19 22:25:07 | 時代 世の中 人生いろいろ
 この夏、ボランティアの災害支援がクローズアップされた。豪雨の被災地へ赴き、救助、輸送、後片付け等に、自衛隊、消防、現地の人々と共に汗をかく様子が、ニュース等で繰り返し報道された。被災地の人々や自治体にとっては、ボランティアの支援は不可欠のものだったし、その精神や活動自体は尊いものだと思う。被災地復旧のために、被災地の家族や人々のために力になりたいとの純粋な思いのボランティアが大多数だろう。

 一方、辟易したこともある。一つは、十分な準備や装備もなく被災地へ駆けつけ、かえって足手まといになったという話。報道での批判は抑えられているが、被災者の精神的な負担や自治体等の活動の迷惑になるケースもあったようだ。善意のつもりだろうが、受け入れ態勢ができていないのにボランティアが多数やってきたり不要な物資が大量に送られてきたりして、対応や整理に手間取ったケースなどはその例だ。

 もう一つは、SNSの投稿。「勇気ある仲間が真っ先に現地に駆け付けました。」とか「遅ればせながら私も行ってきました。」など。現地の状況やボランティアの必要性を伝えることを目的に、被災者にも配慮した良心的な投稿もあるが、物見遊山にでも行ってきたかのような晴れやかな表情や露骨な被災地画像の拡散。偽善とまでは言わないが自己満足なのか。

 ボランティアとは、自発的に行うものでありライフキャリアの一部にもなる。仕事や生活を犠牲にしてまでするものではない。仕事の都合や、準備や体力が足りなくてできないこともある。募金などの形で密かに支援することもある。ボランティア活動は、相手の状況や心情に配慮しつつ、できる範囲で無理なく尽力し続け、見返りは求めず静かに終えるのが本当ではないだろうか。

 先日、行方不明の子供を発見したボランティアの老人の、力強くも謙虚な表情と言葉には素直に拍手を送った。

 
 
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91.終活は必要か?

2018-05-05 23:30:21 | 時代 世の中 人生いろいろ
 数年前まで、FPとして「終活」に関するセミナー講師をする機会があった。エンディングノートの書き方、相続、葬儀やお墓、終末医療や介護の事など、一般的な内容だった。

 ところが、この数年「終活」というテーマですることはなくなった。超高齢社会となった日本で、マスコミで取り上げられることも増えて、世間の認識やその必要性は高まっていると思う。高齢者の方を中心にセミナーなども賑わっているが、私には積極的に取り上げたいテーマではなくなった。

 「終活は必要と思うか?」と問われたら、「自分にもいつか必要になるだろうが、まだいい。」「必要と思う人はやればいいし、必要と思わなければあえてやらなくていい。」という正直な思いだ。

 病で余命宣告をされた方や余生を心静かに送りたい方など、人生の終焉が感じられるようになった方々が、自らの意思表示の可能なうちに、家族や信頼できる人に財産分与などに関する意思を形にする「遺言」やリヴィングウィルが大切なことはよくわかる。誰しも人生いつどうなるかわからないから、相続トラブル防止のためにも、なるべく早めに準備や整理しておく方が良いだろう。それによって気づくこともある。

 では、「終活をすれば安心か?」と問われたらどう答えるか。「今の自分には終活の安心よりこれからの生活や人生の安心の方が大事。」「安心は、人それぞれの人生観や内面の問題なのでわからない。」というのが率直なところ。

 人生100年といわれる時代。それでも人生の長さは自分で決められないならば、私自身や人の日々の生活や仕事、そして生涯現役のキャリアを、最後まで心身ともにできるだけ健やかにして行く、いわば「健活」を考えて行きたいと思う。人の一生に余計な時間はないと考えるなら、「終わりの時よりも終わりまでの時間」をどう豊かに、どのように深めて行くかという思いの方を大切にしたい。
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45.現実主義か現実追随か

2016-08-12 23:52:05 | 時代 世の中 人生いろいろ
 原発の再稼動が始まった。賛否が分かれる問題について、このブログで個人の主張を展開するつもりはないが、身近な地域社会の問題でもあるので、現時点の考え方を記しておきたい。「理の面では、南海トラフ大地震が起きても絶対安全とは言い切れないし、福島もまだ復興ほど遠い状況であるし、結局、地域社会や住民が犠牲になりながら、「想定外」の事には誰も責任を取らないから『反対』。ただ、地域経済への影響や電力安定供給の必要性を考えると、本当にやむを得ない事なのかわからない。情の面では、万一の事を考えると不安で怖い。安全神話も信用できない。反対派の言い分もわかる。でも、心配しても仕方ない。」と複雑な心境だ。

 本件はニュースでも大きく取り上げられた。賛否両論の街頭インタビューも放送されていた。サラリーマン風の若い男性が、「地域経済や電力の安定供給の問題を考えると、現時点では再稼動は必要と思いますね。」と訳知り顔で答えていた。それを見て複雑な反感を覚えた。「あなた事の本質をわかって言ってるのか。自分は安全な所にいて他人事だと思ってるんじゃないのか。万一の時、海の向こうの九州へ船で非難するしかない住民の不安な気持ちわかってるのか。」と。

 「現時点で最善の現実的解決」とか「冷静かつ慎重に安全性を確認」などと言えば聞こえがいいかもしれないが、当然のことをしているだけである。安全性を確認せずに再稼動などあり得ない。現実主義とは、問題の大きさに思考停止してしまい、ただ現実に追随していることを正当化しているだけかもしれない。

 自分自身、難問にぶつかった際に、「現実的な解決はこれしかない」と安易に妥協したり、「今はしょうがない」と思考停止にならないよう、多様な価値観を尊重して大局的、長期的に考える姿勢、過誤は率直に修正する潔さも持ち合わせたいと思った。もっと自己研鑽が必要だが。

 
 

 
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35.豊かにはなったが心が満たされない人々

2016-07-17 00:00:19 | 時代 世の中 人生いろいろ
 今朝のNHKの番組で、頻発するテロに関する討論があった。出演していたコメンテーターも、私自身も、犠牲者の方々を悼み、勿論テロは許されない卑劣な行為だという考えだ。海外でその国の復興や発展のためにリスクを負って貢献している人々には敬意を持っている。その前提で、あえて冷静に政情、経済、歴史、文化などの背景から多角的に討論を進める中で、あるコメンテーターとキャスターのやり取りが印象に残った。

 (コ)「テロを起こす過激思想に共鳴する若者の中には、大学卒などの高学歴の若者も多い」(キ)「自分の成功や世の中のためと思って一生懸命勉強したはずなのに、なぜそれを人のために生かして行こうと考えないのでしょう?」(コ)「大学を卒業しても思うような仕事に就けない。仕事に就いた人も豊かにはなったけれど心が満たされない。一方、そんな人々の自由な発言が政府に抑えつけられていて不満が溜まっていた・・・」-最近起きたバングラデシュの事件に関するやり取りのごく一部だが、こんな主旨のやり取りだったと思う。
  
 日本でも、今から20年余前には都心でテロ事件があった。その事件を起こした教団には、いわゆる有名大学の出身者も少なからずいた。その後、幸い治安は回復したが、経済不況は長く続き、今も不透明感はある。

 人間の欲求には5段階あって、段々と上位の欲求を満たそうとするという理論がある。「心が満たされない」とは、その段階の中の「自尊欲求」か「自己実現欲求」が満たされないということだろうか。そんな単純なものではないのだろうが、どんな困難があってもあきらめずに自分の道や居場所を探す努力や、その努力や多様な可能性を無駄にしない、自由で寛容で平和な社会や国をつくり、守り、広げてゆくことが大切だとつくづく思う。最近の日本は、大丈夫だろうか。自分も他人も、命あっての自由や平和、それぞれの人生。



 
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