ライフ&キャリアの制作現場

くらし、仕事、生き方のリセット、リメイク、リスタートのヒントになるような、なるべく本音でリアルな話にしたいと思います。

130.情報の“三密”

2020-05-07 11:44:54 | 時代 世の中 人生いろいろ
 「シンガタコロナウィルス~」 この数か月、この“音声”が耳に入った瞬間、脳が固まるような感覚になることが度々あった。ニュースやワイドショーの物々しい音声で、怒りや不安を帯びた声で、効果音まで伴って。ローカル局やケーブルテレビでは、アナウンサーが日常と変わらない淡白で単調なトーンで。あるいはFMラジオパーソナリティのトーク番組の会話の流れの中で。
 この”音声”に続く単語は、感染拡大、危機、警戒、爆発、崩壊、重大局面、不信、批判、悲観、不要不急、中止、差別、偏見、悪化、重症、死亡・・・など。それから、オーバーシュート、ロックダウン、クラスター、ソーシャルディスタンス、ステイホームなど、意味が曖昧で非現実的とも思えるカタカナ言葉。

 視覚の面でも、ネットニュースやSNSで、これらの文字が目に入ると、嫌悪感や不快感から目をそむけたくなることもあった。不安を煽り注目させるだけのタイトル。例えば、「専門家が指摘●●●の可能性。」という単なる個人的見解。1%でも99%でも、「可能性」であることには違いない。「感染者数、××人突破」「対策をしなければ、死者〇〇万人超も」と危機感煽る見出し。冷静に考えると、その人数の線引きにどれほどの意味や現実味、そして報じる必要性があったのか。結果は検証されず言い放しか。
 あるいは、「~してはいけない」「~しなければならない。」という類の、専門家や識者と言われる連中の上から目線のメッセージ。わかりきっている事や、わかっていても現実には難しいことを、強制したり批判したり。読んでみると中身は希薄で素人でも言えるようなこと。ましてや、わざわざ事情の違う海外の学者や識者の指摘など、結局、そのほとんどは「日本の状況は不思議だ、奇跡だ、予想外だ」と、うんざりなコメントで終わる。
 それから、何度も執拗に目に焼き付けられる電子顕微鏡写真。震災の後は、津波映像を自粛したのに、今回は視聴者のストレスや不安感への配慮もなく、わざわざ目に見えないものを何度も見せつけてくるマスコミ。もう、多くの国民は十分その恐怖や警戒感を共有し、それでも冷静に向き合おうとしている人が多いにもかかわらず、それを否定するかのように不要不急の写真を映し出す。十分に自粛し耐えている人々にも、「警戒しろ、気を緩めるな」と、さらにかぶせてくる。サブリミナル効果でも狙っているかのように。

 まあ、これだけネガティブでストレスフルな文字や映像を、耳から目から浴びせられ続けたら、誰しも思考停止状態に陥ったり、心身の健康のバランスを崩したりしても無理はないと思う。不安症や強迫性障害等に悩まされた人もいるだろう。私も、辛うじてバランスを保てたとは思うが、一時頭重感が強くなったり不眠気味になったりした。

 そんな時、たまたま目に留まり救いになったメッセージが日本赤十字社のメッセージ動画だった。
 「ウイルスの次にやってくるもの」
その中のメッセージ。「誰にもわからないことは、誰にもわからないことでしかない。そのままを受けとめよう。」
 それから私の場合は、情報源を絞るようにした。受動的には、TVニュースならまあ無難にNHKかケーブルテレビ,能動的には、ネットニュースならmsnか県のホームページ。あとは時々日経新聞の経済関連記事。これらをベースにして、他のメディアにはなるべくアプローチしないようにした。また、民放やFMラジオは、娯楽や音楽など、日常感のある番組だけにした。SNSは、むしろタイトルの仰々しさと内容の薄さや不確かさのギャップを面白がるくらいのつもりで、暇つぶし程度に見るようにした。

 そうすると、徐々に見えてきたことがある。私としては、「情報の“三密”」に注意したいということ。その“三密”とは、
一.「過密」 
 情報量のパレートの法則のようなもの。「自分や家族の暮らしや仕事や健康にとって必要なことの8割は、溢れ返る情報の2割程度でカバーできるのではないか」ということ。実際、連休明け頃から、暗いニュースや不安を煽る数値、専門家などの不確かで独善的と感じる指摘、そして例の顕微鏡写真やしたり顔のコメンテーターなどの不快映像を見ないようにして、日常生活リズムを保つようにしたら、気分も体調も楽になり、生活や仕事にも支障はない。

二.「秘密」
 個人情報の保護という、今やあたりまえの常識。自分のプライバシーを守るだけでなく、他人のプライバシーにも配慮するということ。今回の騒動では、本県でも感染者の個人情報や公表していない医療機関名等の情報が流出し、根拠のない噂が広まったり、心ない誹謗中傷があったりしたようだ。また、「感染拡大防止のため」という独りよがりの理屈で、行政が公表していない情報を公開すべきだという声も一部にあったが、「自分がされたくないことは、他人にもしない」という大人の配慮や良識が、こういう時にこそ必要と思う。

三.「密着」
 情報の質の問題。その情報は、自分にとって必要なものかどうかを冷静に考えてみるということ。つまり、くらしや仕事に密着した情報で、スルーした場合に影響があるかということ。ちょっと、落ち着いて情報発信者の信用度を見て、周囲と共有してみると、不要不急と気づくことも多い。例えば、海外の情勢も国内の状況も何らかの影響はあるのだろうが、今一番必要なのは地域に密着した、地域住民に寄り添った情報と思う。そうでない情報や不要不急かどうかわからない時は、それこそソーシャルディスタンス。距離置く方が良い。一に書いたように、「過密」な情報にまとわりつかれ続けると、極端な場合それこそ頭のオーバーシュートならぬ感情爆発が起きかねない。そうならないように、情報の密着度を物差しにして、自己防衛したいと思う。

 事態が収束に向かうのか、また第2波がくるのか、あるいはこのまま経済も回復に向かうのか、先のことはわからないが、今後も様々な形でいろいろな情報が流され溢れかえると思う。マスコミやソーシャルメディア等は、それが仕事でそれで収益を得、視聴率や閲覧件数等の数字に追われながら生き残りを図っているという現実もあるだろう。彼らも、自縄自縛、思考停止しているかのようにも見える。勿論、使命感や倫理観を持った記者やジャーナリスト、情報発信者もいるだろうし、情報自体はくらしや仕事に不可欠なものである。そう考えると、情報の受け手として、情報を読む力や考える力、そして無視する力を身につけておくことも大切と痛感している。
 
 私としては、「情報の三密に注意」ということだけでなく、この数か月の間に自分なりに気づいた事や学んだ事、見えてきた事を、良い面も悪い面もわからないことも、これからのくらしや仕事の中で、忘れないようにしたいと思う。そして、知らなくてもいい事は知らないままに、忘れていい事は忘れようと思う。
 「正しく知り、正しく恐れて、今日、わたしたちにできることをそれぞれの場所で。」(日本赤十字社メッセージ動画より)
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129.「専門家」?

2020-05-02 16:27:12 | 時代 世の中 人生いろいろ
 前回のブログ投稿(128.静観)から二か月が経った。先日、ネットニュースを見ていて、胸に響いた記事があった。(以下、引用)
『ーこの新しい未知のウイルスに、本当の専門家がいません。本当は誰もわからないのです。過去の類似のウイルスの経験のみですべてを語ろうとする危うさがあります。そして専門家でもないコメンテーターが、まるでエンターテインメントのように同じような主張を繰り返しているテレビ報道があります。(中略)実際の診療現場の実情に即した意見かどうかがとても重要です。正しい考えが、市民や県民に反映されないと不安だけが広まってしまいます。危機感だけあおり、感情的に的外れのお話を展開しているその時に、国籍を持たず、国境を持たないウイルスは密やかに感染を拡大しているのです。(つづく)ー』
(神奈川県医師会 かながわコロナ通信 「ごまかされないで、まちがった情報に」 4月10日  )

 この数か月、専門家とか識者とか言われる連中が、テレビでネットでSNSでやかましい。胡散臭い情報や煽るだけのニュースは見聞きしないようにしているが、自らの意見や見解のみが正義や正論であるかのように、無責任な発言をする売名目的?の「専門家」にはうんざりする。もちろん、全てがそうだというわけでない。事実に向き合い、現場を熟知し、専門分野の見識と経験を駆使して懸命に責任を果たそうとしている専門家も少なくないだろう。だが、そういう方々の多くは、上記の記事の続きを読むと、テレビに頻出したりSNSに寄稿している暇など無いという。もっともだと思う。

 情報発信する側は情報の多様性とか報道の自由とかもっともらしい事を言うが、こうなると受け手の方が冷静かつ賢くなる必要がある。情報入手の拠り所をなるべく信頼できるところに絞り、その情報は今の自分にとって必要か?と落ち着いて考えてみる。そもそも、「専門家」の言うことが常に正しいわけではなく、良くも悪くも「専門バカ」も多くて、他分野や世間や社会、人の心に疎い者がいると思った方が良さそうだ。あえて皮肉を込めて言うと、事態の推移や結果を見てから、「私の言ったとおりだ」と手柄の様に言うことも、「想定外だった。」と言い逃れすることもできるのだ。

 自分自身も「専門家」と見られることがある。微力ながら、生活設計や仕事に関するコンサルティングを業とする面があるからだ。そう考えると、これから多くの人のライフスタイルや働き方に対する価値観が変わって行く中で、自分自身の見識、仕事に対する姿勢や責任、「専門家」としての自覚を問われることも増える。

 振り返ってみると、昨年の今頃は、「老後2000万円問題」というトピックスがあった。当時、「老後破綻」とか「老後2000万円なくて大丈夫?」と言った、不安をあおる上から目線のセミナーに対して、私は違和感を感じていたので、そのような講師はしなかった。人のライフスタイルや価値観は様々で、暮らしや仕事にも、地域差やそれぞれの事情もある。にもかかわらず、人や現場に丁寧に向き合わずに、ステレオタイプの幸福感や受け売りの情報をもとに、顧客本位とは言い難い不要不急の金融商品の販売をした者もいたようだから、一線を画したかった。やはり、上記のような「専門家」を他山の石としたいと思う。

 今思うこと。現場感覚、人に対する共感力や想像力、わかりやすく丁寧な説明力などを磨きながら、格好つけづに、謙虚なコンサルティングを目指す「専門家」でありたいと思う。オンラインセミナーも否定はしないが、コンサルティングやセミナーはやはりライブでやりたいと思う。相手や参加者の視線や反応、場の空気を五感で感じることはAIにはできないだろう。人間のやる仕事だから、しんどいこともあるがやりがいもある。だから、早くできることから前に進みたい。多くの人も私も、くらしや仕事を守らないと、生きがいも命も守れないから。
 

 
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