ライフ&キャリアの制作現場

くらし、仕事、生き方のリセット、リメイク、リスタートのヒントになるような、なるべく本音でリアルな話にしたいと思います。

152.移住の3S点検

2021-06-08 21:58:14 | 時代 世の中 人生いろいろ
 都会から地方への移住を希望する人が増えているという。コロナ禍の影響で働き方や暮らし方の価値観が変わって移住を考え始めた人もいるらしいが、その大半はまだ大都市圏の近県や周辺市町村への移住のようだ。
 
 私は学生時代とサラリーマン時代を通算して約10年東京にいた。若い頃は都会への憧れもあったし、大都会の魅力や利便性も多少は知っているつもりだ。
 しかし、今は東京へ出張して単発的な仕事をしたいとは思っても、住みたいとは思わない。それは、地元にUターンして長く仕事をして、人とのつながりや地元への愛着ができたからだと思う。また、特にこの1年余は、都会のメディアから発せられる一方的一面的な情報について、「東京は日本の首都だけど、日本の一部に過ぎない」と思えば気が楽で、仕事や生活にも何ら支障がないことがはっきりしたからだ。
 
 最近は仕事を通じて、移住者の方々と会う機会が増えた。移住と聞くと、定年退職後に好きなことをしたくて移住したとか、若い家族が都会から自然豊かな田舎に移住してゆとりある生活を始めたというような希望に満ちたイメージもあるが、現実はそれほど甘くも楽でもないことが多い。移住の形は、Uターン、Iターン、Jターンといろいろあるが、中には様々な理由で仕事の再スタートや人生のリセットを求めて、縁もゆかりもほとんどない所へ移住する場合もある。

 移住される方の多くは下調べや準備をして来られるが、実際に来てみて不安や戸惑いが増す場合がある。移住の前後で「三つのS」の違いが大きいと、そうなりがちなのだろう。
 Speed・・・スピード感の違いのようなもの。例えば、仕事の依頼や問い合わせに対するレスポンスの速さなど。
 Scale・・・規模観や水準の違いのようなもの。例えば、生活水準、物価、買い物の際の店の選択肢や品ぞろえの数など。
 Society・・・地域社会の慣習や人づきあいの違いのようなもの。例えば、個人やその家族等のプライバシーに対する関心や関与の程度など。
 
 移住地でどのような暮らしをするのも個人の自由だが、もし移住に違和感を感じるようであれば、この「3S」について捉え方を変えてみたり、移住した目的を思い出してみると、何かヒントが見えるかもしれない。または、「郷に入っては郷に従え」と合わせられるところは合わせたり、「住めば都」と割り切ることができるようになれば、少し楽になるのかもしれない。

 ある移住者の方が言っていた。「移住担当の行政窓口は、移住する前は親切で歓迎モードだったが、移住が決まった後は住み家や仕事探しも人づきあいもご自由にどうぞって感じで無関心。来るまでに住む所見つけて、来てから仕事探して、生活リズムの変化に慣れるまでが大変だった。」と。
 こういう点に、行政の縦割りの問題があるのかもしれない。キャリアコンサルタントとしては、この隙間を埋めて、定住につなげる役割を担えたらと思う。具体的には、移住者の方を本人の希望や価値観を尊重しながらも、何らかの仕事を通じてコミュニティーにつなぐことかと思っている。そして、一個人としても「移住してよかった」と思ってもらいたいと願っている。
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151.右側に寄った

2021-05-08 23:14:03 | 時代 世の中 人生いろいろ
 「雨が降ってるのに空は晴れている?」「天気荒天なれど波低し?」天気も世相ももやもやしがちなこの頃だが、昨年春先からの1年余を振り返ってみると、まだすっきりはしないものの、悪くはなっていないと思えてくる。
 
 経済・社会活動は、全国的に見れば昨年ほど抑制されていない。日経平均株価は今のところV字回復している。エッセンシャルワーカーだけでなく、働く人々の多くは不安や不便を感じることがあっても、変わらずに自分の仕事をしている。家事や子育ても休むわけには行かないから、主婦はいつもどおり日々の暮らしを守っている。学生の多くは、リモート授業に不慣れやクラブ活動制限などの不満はあっても、学びを続けている。就職活動や受験勉強も行われている。もちろん、様々な事情や問題で苦しんでいる人々を軽視するわけではないが、平穏な日常や生活リズムを守り頑張っている人が多いことも現実だ。

 感染症についても、対策をきちんとして普段通りに生活していれば、必要以上に恐れる必要はないと感じている人が増えた。一方、医療崩壊は実際には、ほとんどの自治体で起こっていない。もちろんそれは現場の医療従事者の方々や保健所関係者等の粉骨砕身の尽力あってこそだが、そもそも医療ひっ迫が起きて、繰り返されて、なかなか解消されないのは、ただ単に感染者数の問題だけではなく、行政や医療体制にも問題があるということも見えてきた。その中で、多くのまじめな飲食店や関係業界が理不尽なしわ寄せに耐え続けている。
 
 メディアの世界でも。批判のための批判や根拠のない偏った情報が、問題解決の邪魔であるということも見えてきた。自己顕示欲が強いだけの者が、他者を否定して自己主張してみたところで、その者が肯定されることもない。一部の情報番組のネガティブ感情の渦に巻き込まれそうになることはなくなった。思えばこの1年、TVニュースはほとんど見なくなったが、仕事にも生活にも特に支障がないことも分かったからだろう。

 政治に対する自分の見方も変わってきた。元々いわゆる無党派層で支持政党は無いし、主義や立場を明確にした団体等にも属していない。ただ、国政選挙と自治体首長選挙には行っている。
 はっきりとした線引きはない感覚的なものだが、日本社会の法秩序の中で許容される範囲の最も右寄り(保守系)を10、最も左寄り(革新・リベラル系)を1として点数にしてみると、一昨年までは判官贔屓なところもあってか「4」くらいだったのが、今では「7」くらいまで右に寄った感覚だ。
 そうなったのは、やはりこの1年でいろいろな事象の本質や人の素性が見えてきたり、これまで以上にリアルに物事を捉えて、できるだけ冷静に自分や事業の立ち位置や方向性を考えるようにしたからだと思う。
 結局、多様な意見や利害の対立の中で、方向性を示し、折り合いをつけながら、落し処を見つけるのは政治の力になる。よって、有事には、権力の暴走は止めなければならないが、迷走の際には批判するだけでなく軌道修正に力を貸すのが責任ある野党の姿勢だろう。選挙を意識したポジショントークやリアリティーのない提案ばかりでは、現実に向き合いながら日々懸命に働き暮らしている多くの人々の共感や支持は得られないだろう。
 今の政権には、批判も多いし逆風も強いし、水面下の足手まといもあるだろうが、ここまできたら完全ではなくとも一旦この事態を治めてほしい。そのためには、経済界の力や多数の国民の力も必要になるが、大局的には何とか治まりつつあると感じている。そして、結果は野党とともに次の選挙で国民が審判したらよい。

 年齢を重ねるにつれて、保守的になる人が多いと言われる。特にビジネスの世界はリアリティーが必要だ。そう考えると、これからの自分の仕事やキャリアの方向性は、緩やかな右カーブをほぼ曲がり切って、平坦ではないがまっすぐな道が見えてきたようなイメージだ。
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150.あの店のことが心配だ

2021-04-22 22:33:07 | 時代 世の中 人生いろいろ
 このブログ142号に掲載した「創業62年のバー」のマスターご夫婦のことが気がかりだ。今、この店のある繁華街は、時短要請の中で街が死んだようになっている。私は、店の常連でもマスターと親しい間柄でもない。マスターの作るハイボールの旨さと店の雰囲気、そしてバーテンダー一筋の生き様に感銘を受けた多くの客の一人だと思っている。
 
 昨年11月に久しぶりに訪れた際、マスターはいつものように淡々とお酒を作っておられた。奥様は人懐っこい笑顔で接客しておられた。ただ、その日マスターは、手が空くと時々店の片隅の椅子に座り込んでいた。お歳のせいか、少し疲れた様子も見えた。春になって、そろそろお元気なうちに行こうと思っているうちに、世間の状況が変わり行けなくなった。

 店を閉めて、どうしているのだろう。仕事が生きがいのように見えるマスターと、長年連れ添ってきた奥様。夫唱婦随で客の憩いと社交の場を守り続けてこられたお二人だから、常連さんらの応援もあって、きっと店を再開されると思う。バーテンダー人生の引き際をこんな状況の中で迎えるようなことにはならないでほしいと、勝手ながら願っている。

 最近、「医療には人の命がかかっている、経済には人の首がつながっている。」という、ある元官僚・医師の言葉が胸に響いた。
 政治家、自治体や医療のリーダーやトップら、一部メディアは、「命を守ることが最優先」という当たり前のことを今さらながらに唱えるのもいいが、それなら守るべき命の重さは平等であることをどう考えているのか「お示し」してもらいたい。穿ち過ぎだと思うが、誰もが反対できない大義名分の裏には、独善や私利私欲や何か不都合な事が隠されているのではないかとさえ感じる。皺寄せを受けている人たちからは、守られた世界で傷つくことのない者たちが、現場の声も聞かずに一方的に不利益を押し付けているという恨み節も聞こえてきそうだ。

 有事にすべての人が納得する施策を打つことはまず無理だろう。優先順位や最大公約数を求める中で、どこかに皺寄せや犠牲が生じるのはやむを得ないことかもしれない。それでも、今度こそ緊急時の医療キャパシティーを増強する対策、金を配るだけではない血の通った具体的方策、バランス感覚のある冷静な報道。国民や住民に負担や不自由を要請するなら、要請する側こそがこれらを命懸けで追求しないと、地域社会や国が弱って行く。事態は自然とおさまって行くかもしれないが、そうして喉元過ぎて熱さ忘れては、今の二の舞い三の舞いだ。弱い立場の人の心はますます傷んで行く。

 それにしてもあの店のマスター夫婦はどうしているのだろう。残りそう長くはないであろう人生の生きがいを奪われるようなこの状況の中で・・・。
 他にも気がかりな店はある。きちんと対策をして、まじめにがんばって仕事をしていたのにこんなことになって。仕方ないと割り切っているのだろうか。心折れていないだろうか。どんな思いでいるのだろうか。案外したたかに密かにやり過ごしているのだろうか・・・。
 早く店に行って心置きなく飲み、うまいものを食べ、楽しく人と話したい。そんな健全な心や行動が、少しでもまた店を元気づける力になればと切に願うこの頃だ。
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149.資格の品格

2021-04-11 08:43:44 | 仕事 キャリア ライフキャリア
  私は「国家資格キャリアコンサルタント」の資格を持ち仕事の一つの柱にしているが、 資格は仕事をする際の「必要条件だけど十分条件ではない」と思う。
 「キャリアコンサルティング」を仕事として行うには、この資格が必要であある。キャリアカウンセラーなどと呼ばれる類似のものもあるが、それらとは異なり国(厚生労働省)の認定の名称独占資格である。合わせて、スキルアップを目指す場合の目標として「1級、2級、キャリアコンサルティング技能検定」がある。私は自己研鑽と他のキャリアコンサルタントとの差別化のために1級と2級の技能検定を目指し、各級とも複数回受検して合格した。受検にあたっては、テキストや過去問題集の勉強もしたし、実技試験対策講座にも参加した。地元には講座も少なく、受験会場もないので、県外まで時間とお金をかけて何度も行った。
 そこまでしなくても、キャリアコンサルタントとしての仕事はできるのだが、合格して改めて考えるようになったことが「品格」についてである。
 「国家資格」とか「国家検定」とか、「国」がやっている資格を持っているから品格があるというものでもない。服装や言葉づかい、立ち居振る舞いなど、見掛け倒しだったり、逆に砕け過ぎていたりということがないか。どんな仕事においても、ふさわしい見た目や態度というものがる。ふさわしいかどうかは、自分ではなく相手がきめることだろう。かつて、実技試験にサンダルとTシャツというような試験をなめた態度で来ていた者や、資格があってもホステスさんのような場違いな服装で学生相手の講師をするような者もいた。

 そう考えると、品格の一つの目安は相手目線の考慮や事情や心情への配慮があるかどうかということだと言える。キャリアコンサルティングの倫理綱領の中に、「人間尊重」という基本理念があり、職務遂行上の行動規範には「相談者の自己決定権の尊重」と言う項目もある。難しく考えなくても、時々、独りよがりになっていないかと自分を振り返る謙虚さを持っていればよい。

 もう一つの品格の目安は、やはり現場で仕事に向き合う姿勢から身につくものだ。「やってる感」やアピールは盛んだけれど、自己満足だったり、実績が伴わなかったりしていないか。ちょっと逆風が吹くとすぐに逃げたり心折れたりしないか。基本に忠実に進めているか。臨機応変もいいが、必要に応じて教えを請い助けを求めることができるか。真摯に相談者や仕事に向き合っているかということだろう。

 先日、ある技能検定対策講座の受講生が、働きながら数年かかって合格した感想をくれた。「ぎりぎりで合格できました。勉強はとても苦しかったけれど大切なものになりました。」
 やはり、努力し苦労したからこそ大切なものに気づくことができると思う。自己研鑽とは、講習会などに参加することだけでなく、合格までのプロセスや実務経験を積むことも含まれる。そうして、資質の維持や向上の姿勢を保ち続けることも品格につながると感じた。
 私も、技能検定の実技についてはぎりぎりに近い点数だった。それでも、技能士というレベルをクリアして新たなスタートに立ったことで、キャリアに関する視点や視野が広がった感覚もある。

 キャリアコンサルタントについては、資格取得者が増えてきたことで、これからは増やしながら淘汰して行く流れになるだろう。履歴書に書く資格を一つ増やしたいという程度の、金で資格を買うような感覚なら受けてもうからない。資格を取るか取らないかは自由だが、資格がなくても十分に仕事はできているという考えは見直した方がよいかもしれない。資格も仕事も、真摯に向き合ってみないとわからない事もあるのだから、講釈はやってみてからにした方がいい。キャリアコンサルタントは、様々な「人」を相手にする仕事なのだから。
 そうして、相談者に寄り添い伴走し、誠実に仕事のできるキャリアコンサルタントが残り、着実に増えて行けば良いと思う。品格は自然と備わってくるものなのだろう。自分自身も品格を備えて保持するように努めたいと思う。

(参照:80.キャリアコンサルティングの作法と型)
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148.桜が目に沁みる

2021-04-03 22:33:01 | 時代 世の中 人生いろいろ
 「おはよーございます。」と、大きな太い声。「あっ、おはようございます。」と、明るい女性の声。社員6人ほどの小さな営業所に、本社から部長がやって来て、新年度新発式が始まりました。会社の新年度方針や目標などの説明の後、全員で経営理念や社訓の唱和。その後、個別の打ち合わせが済むと、「よっし、じゃあみんなで弁当食べようかっ。」と部長の掛け声。すると、女子社員が注文した弁当の美味しさと安さをアピール。お茶の準備が整うと、電話番の社員を残して広い会議室に移動しました。会議室の外にはなごやかな笑い声も漏れ聞こえてきました。市内の桜の名所や、食べ物の名物の話などをしているようでした。
   
 私が昼食に寄った食堂は、安くてうまいと評判です。一つのテーブルに大体2名までとしているので、券売機の前に少し列ができています。壁面の大型テレビには高校野球の様子が映し出され、アナウンサーのメリハリのある声が聞こえてきます。野球を見ながら食べる人、スマホを見ながら食べている人、職場の同僚数名で一緒に食べている人たちもいますが、あまり会話は聞こえてきません。それでも、人が共に食事をするという日常が静かに流れています。
           
 桜を見に、近所の公園に足を運んでみました。芝生やベンチの上には、桜の下で弁当やお茶をしている家族連れや学生がいました。歩きながら、自転車に乗ったまま、桜の木の下で立ち止まっていました。今年は、写真を撮っている人が多い気がします。誰かに見せるためでしょうか。それとも、2年ぶりの記念でしょうか。

 昨年の春は、こうした人の動きや集まりはほとんどありませんでした。それを思うと、この1年で世の中の状況はずいぶん変わったと思います。まだまだ元に戻っていないという見方もありますが、戻りつつあるとは言えるでしょう。それに、元に戻らなくてもいい。元に戻ることは時の流れに逆行することになる。そのように考える人もいるのではないでしょうか。先行き不透明で不安定だと嘆く人もいますが、これまで常に先が見通せて安定した状況の中で生きてきた人がどれほどいるのでしょう。不安や保身も人情なら、安心したい、人と共にいたいと思うのも人情でしょう。
   
 「あれはダメだ」、「それはしてはいけない」、「こうするべきだ、こうあらねばならない」。こう言った、白黒思考、禁止や否定のメッセージ、完璧主義。私もこうしたものの広がりに一時期翻弄されそうになりました。もう緩和した方がいいと思います。人の回復力をそぐからです。「ここまでならいい」、「こうすればできる」、「こんな考えもある」。人それぞれの意見、事情、価値観の相違はあるにしても、こうした寛容で柔軟な思考や行動に重心を移した方がより健全でいられると感じています。そして、私の周りの多くの人は、多少の揺れや浮き沈みはあっても、日々働き暮らす中で新たな日常を自然と受け入れつつあるように見えます。自分や家族を守ることだけでなく、他者や周囲への気くばり、心づかいも大切という良識を、それぞれに取り戻しています。

 この1年の振り返り。今の自分を支えてくれている人への感謝。1年後への希望や目標。日々を地に足つけて生きている普通の人々の、弱さ、やさしさ、逞しさ。桜はやがて散っても、大地に根を張っていれば、また春が来れば咲く。そんなことを思いながら空を見ていると、桜が目に沁みてきました。
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147.数字

2021-03-25 21:21:31 | 時代 世の中 人生いろいろ
 「結果を出せ」「目標未達は許されない」「数字を作れ」ーそんなことを日々言われ続けた時期があった。前世紀の終わりから今世紀の初めころがそのピークだった。当時私がいた会社では「お客様第一主義」を謳いながら、こんな言葉が上司や“本部”から飛んでくることは日常茶飯事だった。高圧的に、時に乱暴に、ヒステリックに。営業社員の中には数字至上主義に神経をすり減らし、振り回され、やがて社会の常識や職業倫理からずれて行った者も少なくなかった。そして今では許されないようなコンプライアンスに反する行為も、数字を出すことで上司から黙認された。むしろ賞賛されることすらあった。「営業殊勲賞」などの表彰や、「高いパフォーマンスを出す〇〇方式」なるものが、社内の営業部門を中心にもてはやされた。その後、それらの中には、偽装や虚構が判明したものもあった。数字に追われ、振り回され、人格までも数字で評価されるかのような風潮もあった。
 もちろん、きちんと努力してしっかりと結果を積み重ねていた社員もいた。しかし、そうでない社員も少なくなかったことは、後に会社自体が監督官庁から厳しい行政指導を受けた事実からも明らかだ。私も“そうでない”ことの方が多かった社員の一人だった。ただ、私個人としては、会社の行政処分に伴い一定の処分を正直に受けたのを機に仕事に対する向き合い方を是正し、その後別の事情や思いもあって退職したことで人生を軌道修正できたと思っている。

 数字は、物事の計測や分析などに必要不可欠であることは言うまでもない。統計や調査のデータだけでなく、論理的な思考や客観的な指標やエビデンス評価など、様々な場面で使われる。また、私自身、数字という目標に執着して仕事をした経験の全てを否定しているわけではない。目標達成して評価された時の自己肯定感。逆に達成できなかった時の劣等感など。今の仕事に生かされている部分もある。一方、数字では表せない人の感情や葛藤、計算通りに行かないプロセス、そして結果がすべてではないことを知った。数字は一つの事実を示すものだが、必ずしも現実を表してはいない。状況や捉え方によってその意味が変わってくることを体感した。

 最近、特にメディアの報道などを見聞きしていると、数字の扱いが粗雑で、稚拙で、盲目的と思われることが多い。企業の不祥事や行政処分の要因に、「数字至上主義」の負の側面があったと指摘されることが今だにある。数字を過信したり偽装したりしたことが社会の不安や不信を招く事件も後を絶たない。メディアなどの数字の発信者の偏った思考、利己的な意図、無責任が見え透いて感じられることもある。〇〇者数、〇〇率、〇〇回数・・・など。恣意的に不正確で不公正な数字をさも真実や正論であるかのように乱用している者もいると思われる。社会が混沌とした中ではやむを得ない面もあるが、いつの世にもそういう輩や曲学阿世の徒はいるのだろう。

 とは言え、私のような数字に強くない凡人は、どうしたら今後も数字に振り回されずにすむのか。改めて考えてみた。
 一つは、自分の判断や行動の軸を持つこと。私自身、計数的な思考や論理的な判断より、情緒的な思考や感覚的な判断をする傾向が強いので、現場感覚を大事にするという軸になる。現場感覚とは、仕事の現場や地域の状況に対する感覚だけでなく、周囲の人の様子や話を見聞きして実感するもの。
 もう一つは、数字の持つ意味や影響を冷静に考えること。自分の暮らしや仕事、家族や周囲の人にどんな影響があるのかという視点で考えてみること。メディアやSNSの情報は、発信元を確認して、鵜吞みにしないか無視すること。そして、自治体や一部の公正で客観的なサイトなど信頼できる所が公表している数字をもとに考えてみること。できるだけポジティブな情報も捉えてみること。そして、考えすぎないことと思う。

  私のこの春は、新年度の仕事の予定も立ってきた。心機一転。心や行動をポジティブに転じるには、できるだけ多く「人に会い、本を読み、旅に出る(=現場に行く)」こと(出口治朗さん)を心がけたいと思う。その中で、身近な数字を仕事やくらしを見直し、より良くする目安として役立てたいと思う。自分の軸と倫理観をもって働くことが仕事へのプライドにつながるし、人と関わりながら暮らすことが人生をリアルにすると思う。
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146.笑顔のリアリスト

2021-03-19 19:38:17 | 時代 世の中 人生いろいろ
  ヨガ教室が再開した。ヨガと言っても、呼吸や体の状態に意識を向けながら無理せず心身をほぐすような内容だ。座った前屈がほぼ直角の私でも、マインドフルネスの感覚で時々参加している。昨年に続き、2度目の休止期間が明けて、少人数で再開された。

 教室では、終盤に瞑想の時間がある。先生から、瞑想の間自分にとって神聖なものを思い浮かべるようにと言われる。雑念が沸いたら、それを脇に置いて、何も考えずゆっくり呼吸に集中するようアドバイスされる。

 私が、およそ2か月ぶりの瞑想で心に思い浮かべた、というより浮かんできたものは、身近な人の笑顔だった。行動の自粛を強いられていた間にも、食事、雑談、仕事など、日常のひと時に見せた笑顔だ。不安や迷いの中で、少しぎこちない笑顔、相手を気遣う笑顔、自然とこぼれた笑顔など。呵々大笑とか満面の笑みというものではない。そして、そのような笑顔を見せた相手に、私自身はどんな顔をしていたのだろうと振り返ってみる。固い表情が緩んだこともあれば、渋面のままのこともあった。こちらの笑いにつられて、相手も笑ったのかと思うこともある。

 リアリストとは、現実主義者という意味だ。どこかクールで冷徹。感情に左右されず、良くも悪くも理論的で計算高く、完璧主義のイメージもある。政治家や官僚、ビジネスマンなど、現実社会の中で葛藤しながら働いている人間もいれば、メディアやネットの中の「専門家」や訳知り顔の正体不明の者など。悲観論や批判ばかりだったり、虚栄心や自己顕示欲だけが見え透いていたり…。その実態は、有象無象の輩もいて、まさに玉石混交だろう。

 実際のリアリストは、現実の事態に即して物事を考え、対処をする。悲観も楽観もしない。まじめで計画性が高いという特徴があるらしい。そう考えると、混沌とした重苦しい空気の中でも、笑顔という他者への気遣いや心の余裕を忘れず、何気ない日々をまじめに粛々と生きている人。良い時も苦しい時も、なるべく右往左往したり人のせいにすることなく、自分が今できることを懸命にする人。先が見通せなければ、今日するべきことを計画的にする。起床、睡眠、食事、あいさつ、仕事、家事。あたりまえのことをあたり前にする。自身の弱さや痛みだけでなく、周りの人にも心の揺れや痛みがあるという事実に目を向けられる人。時には笑顔という心の手を差し伸べられる人。現実にただ追随するだけでなく、現実と折り合いをつけながら生きている。そんな人こそが、くらしや仕事を支えているリアリストではないかと思う。

 「笑顔のリアリスト」は、知恵も感情も、強さも弱さもある生身の人間。
瞑想しながら、そんな身近な人の笑顔がいくつも思い浮かんでくると、呼吸が暖かく軽くなった。そして、リアルな明日に意識が向いた。
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145.働く意味に思いをはせる

2021-03-08 11:01:29 | 仕事 キャリア ライフキャリア
  「おつかれさまでした」と、私は思わずなじみの居酒屋店主をねぎらいました。時短営業期間が終了した直後に、久しぶりに訪れて帰る時のことです。客がほぼいなくなった店で、店主はこう言って苦笑しました。「十年分休みましたからね。やる事がないから、おかげで家中がきれいに片付きましたよ。」
 お店を始めて20年。家族経営の小さな店は、ほぼ年中無休でした。しかし、店を開けても客が来ない、そうなると仕入れが難しいと、店を閉めることにしたのです。店主は疲れた目でこう続けました。「休業の補償金はもらったけど、仕事ができないことがこんなにしんどいとは思わなかった。」と。

 内閣府の「国民生活に関する世論調査」によると、働く目的の一番は、「お金を得るため」です。次に大きいのが「生きがいを見つけるため」となっています。仕事や働き方に対する思いや考え方は人それぞれです。仕事内容や職場環境、年齢や経験年数等によっても違います。
 私は、この店主にとって仕事は生きがいで、お金を得て家族と生きて行くためだけではなく、仕事を通じて自分を活かすために働いているのだろうと感じました。
 この春から新しい環境の中で仕事をスタートする人、心機一転して仕事探しを始める方。そのような方々は、この機会に「何のために働くのか」ということに思いをはせてみましょう。もし働く目的が分からなければ、やりたい仕事を探すより、できる仕事を始めてできるだけ続けてみましょう。困難や不安なことがあっても、そうする事で働く目的や自分が活かせる仕事が見えてくることもあるのです。仕事のやりがいや生きがいは、与えられるものではなく自分で見つけるか、時間をかけて気づくものだろうと思います。

 その後再びその店を訪れた時の帰り際です。座敷からお会計を頼むと、8席ほどのカウンターに並ぶお客さんに出す料理を作る手を止めて店主が言いました。「20年この仕事が続いたのは、若い時たまたまこの業界に入って修行して、これしかできないと思って独立して店持ってやっているうちに、好きな仕事になったからなんでしょうね。」勘定を渡す時、マスクの上の店主の目には力が戻っていました。私はいつものように「ごちそうさま」と、店を出ました。「ありがとございましたー。」と、大きな声が背中に響きました。

 多くの人は、生きるために働くだけでなく、働くために生きているのだろうと感じ、胸が熱くなりました。
 在宅ワークの長い友人が言いました。「人と会うストレスよりも、人に会わないストレスの方が大きくなった。」と。


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144.歩力(ふりょく)

2021-02-21 18:19:16 | 時代 世の中 人生いろいろ
 「歩」という文字には、読み方によって次のような意味がある。
  

 この1年を振り返って、これから大切に思うことの一つに「歩力」(ふりょく)がある。「ほりょく」と発音すれば、文字どおり「歩く力」の意味。「脚力」の方がわかりやすいかもしれないが、介護の分野で使われているようだ。

 「ふりょく」と発音する「歩力」という言葉は辞書にはない。自主企画のセミナーのテーマを考えていた時に、私の知人が思い付きから造った言葉である。その意味を、辞書の解説をもとにイメージしてみた。

ー先走ったり、浮足立ったり、右往左往することなく、一歩ずつ前へ歩く力。時につまづいたり、逆風に立ち止まったりすることはあっても、足元を見ながら一歩ずつ進む力。ー

  周囲の状況を見ながら、他者への配慮をしつつ、自身の判断で淡々と、粛々と、平然と歩く。美空ひばりの「川の流れのように」の歌詞の一節にもあるような凸凹道や曲がりくねった道、地図さえない道でも、歩けない(できない)理由をもっともらしく語るより、どうすれば歩けるか(できるか)を考える。赤信号では立ち止まる。黄色なら注意する、雨が降れば傘をさし、靴を履き替える。そうした、あたりまえのこと、できることをしながら歩く。
 
 でも、それは一人ではなかなかできない。やはり伴走者ならぬ「伴歩者」がいてほしい。共に歩いてくれる者が一人でも多くいれば、共に歩き抜くこともできる。そして、時には伴歩者に手を差し伸べる。たとえ途中で方向が違ってきたとしても、一時期でも共に歩いてくれる人を大切にする。そんな姿勢が大切に思える。

 世の動きの先頭を走っているつもりの者や、周囲に同調しているつもりの者が、気づいたら牛歩に追い抜かれていて、大きな潮目の変化からも取り残されていることもある。ウサギと亀の話しの教訓は「ウサギはカメを見て、カメはゴールを見ていた」ということらしい。つまり、油断したり周囲に惑わされたりすることなく、自分の目標に向かって着実に前に進んだ者が、結局早くゴールにたどり着くということ。

 将棋の駒の「歩」は、前に一歩づつしか進めないが、敵陣に入ると「金」に成る。「歩力」とは、そんなイメージの力とも感じられる。
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143.元気な高齢者

2021-02-15 07:04:21 | シニア 人生100年
Kaさん。60代後半の男性。時々行く日帰り温泉施設でたまに会う。先日、半年ぶりくらいに湯舟で会った。湯気でよく見えなかったのだが、白髪筋で肉質の男性が軽く右手を挙げて「おっ、久しぶり」と声をかけてくれ、湯船に入ってきた。少し離れたところに体を沈め、すぐに目を閉じた。私も目を閉じてしばらくすると、いつの間にか先に出ていた。Kaさんは、確か7,8年前に、設備工事関係の会社を定年退職し、再就職のために職業訓練を受けに来られていた時に、私がその訓練生の就職支援を担当していたことから知り合った方だ。それ以来、会うこともなかったのだが、数年前にソバ屋で偶然声をかけられて以来、時々温泉施設で会う程度だ。風呂の中ではマスクをしないので、今はお互いに気を使って、あいさつ程度で会話はしない。

Naさん。来年から後期高齢者。首都圏在住。サラリーマン時代に世話になった取引先の社長。長く掛けている保険に関しておよそ30年ぶりに電話がかかってきた。声も話し方も変わっていなかった。当時は、気性が激しい面もあったが、いつも前へ前へと、上へ上へと向かおうとされていた記憶がある。かと言って、決して順風満帆だったわけでなく、いろいろな衝突や挫折もあったように思う。ただ、一つ言えることは、今も仕事をしているということだ。そして、Naさんは、いまも勉強してチャレンジしようとしている仕事の話を、あの頃と同じような口ぶりで話してくれた。まさにリカレントだ。そして、「私に言わせりゃ、60、70歳なんて小僧だよ」と喝破して笑った。あの頃の生き方を今も貫いているのかと思うと、胸が熱くなった。

Kuさん。身近なところの後期高齢者の知人Kuさん。大手企業を定年退職した後も、自力で再就職先を次々と見つけ出し、一昨年まで働いていた。そこを辞めるときには、もう仕事は疲れたからしないといって、たまに会うと認知症予防パズルの話などを聞かされたものだった。ところが、最近になって家にいても暇だからと再就職先を探し始め、今度私が講師をする再就職支援のセミナーにも参加されるという。仕事が見つかるかどうかわからないが、それでも何かできる仕事を探そうという心意気には敬服する。

 他にも、おととしこちらに遊びに来られた大都市圏に住む古希を過ぎたMiさん。(当ブログ109.再会)大変な時期なのに、年賀状には「お元気ですか?また行きます。」とひとこと書き。一回り以上も年下の私に、離れて何年たってもこの気遣いだから、若いころは結構モテた。
 Moさんは、60代後半で小さなシステム関係の会社を経営されながら、日本各地を飛び回っておられる。それだけでなく、四国八十八か所巡礼ももう何週も繰り返し、もうすぐ「先達」の資格が得られるそうだ。服装には嫌みのないおしゃれ感がある。
 
 私の年齢で、キャリア支援や研修講師などの現場で仕事をしていると、自分より年下のスタッフや関係者と協働したり連携したりすることが多い。だが、最近、時節柄「特に高齢者に配慮を」と言われていることに、どこか違和感を感じることがあるのは、周囲に元気なシニアが少なくないと感じていたからだろうと思う。確かに、医療・介護や福祉の支えや、自立した生活や経済面での配慮が必要な高齢者は今後も増えるだろうが、「配慮」という点では相手の年齢は本来関係ないはずだ。シニアに「高齢者」というレッテル貼りをして、配慮が遠慮になったり、敬意が敬遠になったりしては、時代の流れに逆行するのではないか。社会が息苦しくなるだけではないかと思う。

 人生の先輩方の中にもいろいろな人がいて、様々な生き方をされている。元気なシニアでも、同じ人間である以上、個人差はあれ誰も老いには逆らえない。若い頃にできたことでも、できなくなることもある。ミスや時間がかかることも増えるだろう。最近のニュースを見て感じたことだが、仮に相手が社会的地位があって嫌いなタイプの高齢者だとしても、本人の悪意や故意がない一部の失言や態度を敵意を持って非難したり、その人格や人生までも容赦なく否定したりするようなことを、それが正義であるかのように振る舞うのはやり過ぎで、誰も何も得るものはない。おそらく、そういうことをする人物の方が、いずれ「迷惑老人」とか「勘違い人間」と批判されるべきはないか。

「多様性」という言葉が注目されつつある現在、高齢者が社会のマイノリティーだった時代は終わっている。日本の高齢化率(65歳以上)は、約28%。地方では3人に一人以上が高齢者という現実もある。サザエさんが生まれた時代、磯野波平は54歳という設定らしいが、現在、54歳で波平のようなキャラクターやイメージ人はどのくらいいるのだろうか。 

 上記の私の周りの人生の先輩方は、今は昔の肩書や地位がなくても、失礼な言い方だが、世間周知の功成り名を遂げたと言われなくても、地に足つけて自分の人生を生きている市井の人々だと思う。皆に共通しているのは、ご苦労を乗り越えられたこと、そして年を重ねることで他者に寛容になったことではないかと思う。お顔にそう書いてある、声にそれがしみ込んで
いるような気がする。

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