中東「民主化」の攻防は、すでにリビアに移った。
こちらは一筋縄ではいかない様相を呈している。
しかし、アルジェリアやエジプト情勢が決着したわけではない。
暫定政権の弾圧には目をつぶる「国際社会」
アルジェリアでは、ベンアリ大統領が失脚したあとも、デモが続いている。独裁政権を支えてきた閣僚たちが、そのまま暫定政権を構成したのだから当然だ。そんな政権に、国民のための政治が期待できるはずがない。独裁者を追放した人々は、その勢いで旧支配層を政権中枢から排除しようとした。
しかし、そんな項目は「民主化」の工程表にはない。ベンアリを追放した時点で、民衆に与えられた役割は終わっている。あとは家に帰ってファンタジーの余韻に耽っていればいいのだ。「民衆革命」とは、あくまで方便であり、民衆は駒にすぎない。駒には自由意志による勝手な動きは許されていない。
アルジェリア国民と違って、「国際社会」は暫定政権の構成員には何の異議も唱えなかった。民主的国家の建設など最初から眼中にはないからだ。民衆が独裁体制を終わらせたという体裁が必要だっただけだ。北アフリカ・中東地域で、「民主化」が行なわれるというファンタジーを世界に信じさせればそれでいいのだ。
しかし、自分たちの役割も、「国際社会」の意図も知らないアルジェリアの民衆は、そのまま新たな抗議活動をはじめた。彼らは、自分たちがベンアリを追放したと本気で信じている。ファンタジーに酔っている彼らは、自信に満ち、どんな要求も実現できると勘違いしている。したがって、引き下がることを知らない。
軍・警察はこうした人々の勘違いに対して、実弾でもって応えた。まさか軍や警察が、ベンアリ追放の主役である自分たちに銃弾を浴びせるとは思っていなかったはずだ。デモ隊は5名の死者を出したが、それでもひるんでいない。
アルジェリアの民衆は自信をつけすぎた。それも無理はない。自分たちの運動が波及し、北アフリカから中東までをも呑み込んでいると思い込んでいる。エジプトではムバラクを失脚させ、いまは、リビアのカダフィ大佐が追い詰められている。すべては自分たちから始まったのだという壮大なファンタジーを信じている。その錯覚がチュニジア国民に自信と勇気を供給している。チュニジアの民衆はいまだ主役の気分でいる。これはちょっとした誤算というべきだ。
民衆の気分とは関係なく、すでに民衆はすべての過程から排除されている。暫定政権こそがすべてにおける主体なのだ。「国際社会」の沈黙が暗黙の了解を与えている。暫定政権の行為はすべて「民主化」の工程なのだ。その暫定政権に対する抗議は、自動的に「反民主化」活動となる。したがって、デモ隊に対する武力弾圧も正当な行為なのだ。だから、「国際社会」は流血の事態にも沈黙を保っている。民衆の主張が正しいかどうかはどうでもよい。すでに民衆は「民主化」の部外者なのだ。
この勘違いしたデモ隊を諭すために、親切なデモ隊が登場した。そのプラカードには、こう書かれている。「デモをやめて職場に戻ろう」。この台詞はどこかで聞いたような気がする。
2001年、ブッシュ大統領は911事件を受けて「対テロ戦争」の開始を高らかに宣言したが、しばらくすると、彼はこう演説した。「いつまでも悲しんでいては、テロリストの思うつぼだ。さあ、平時に戻ろう」、と。ようするに、いつものようにアメリカ人らしく旺盛に消費しろ、ということだ。愛国的米国民は愛国的消費に励んだ。5万ドルもする高級車ハマーが飛ぶように売れた。「対テロ戦争」と「愛国者法」を承認させてしまえば、もう国民に用はない。国民はいつもどおり消費のことだけを考えて暮らせばよいのだ。
2005年7月7日には、ロンドンの地下鉄とバスで複数の爆弾が炸裂したが、ほどなくイギリス政府はロンドン市民に対して、「仕事に戻り、普通の生活にもどろう」と呼びかけた。それは爆弾の炸裂からたった4、5日後のことだ。
チュニジアの国民も、ベンアリに対する暴動という役目を終えたら、とっとと「職場に戻る」ことが期待されているのだ。しかし、薬の利きすぎたチュニジア国民はそうはしなかった。自信をつけた民衆はいまのことろ引き下がる気配がない。しかし、これ以上の弾圧は得策ではない。仕方なく、旧政権の閣僚が次々と辞任して、事態の収束にあたった。
数ヵ月後に「民主的」選挙を実施すれば、国民は大人しくなるだろう。しかし、選挙で選ばれた政党や議員が民衆の意思を反映することはない。議会制民主主義とはそういうものだ。
エジプトでも、同様の事態が発生している。前政権の閣僚の排除などを求めて民衆はデモを続けた。この当然の要求に対して、軍部は暴力でもって応え、タハリール広場の群衆を強制的に排除した。発砲こそしなかったが、この間まで仲間だと思っていた軍隊に、民衆は徹底的に蹴散らされた。すでに民衆の役目は終わったのであり、これ以降の抗議行動は犯罪として、手荒い扱いを受けるぞ、という軍部からの意思表示なのだ。
ここでも「国際社会」は、エジプト軍の暴力行為に対して沈黙を保ち、民衆の正当な要求には無視で応えた。民衆の示唆行為はすでに不当であり、軍部の鎮圧行為が正当なのだ。この「民主化」のメカニズムにエジプト民衆は気づいていない。
「民衆革命」とは、民衆を主役に担ぎ上げた単なる儀式にすぎない。セレモニーが終わった後も、いつまでも主役の気分でいてもらっては困るのだ。民衆はとっとと家に帰るか職場に戻れ、これが「国際社会」の要望であり、本音なのだ。
甘美なファンタジーから覚め、民衆が「民主化」の正体に気づくのは、かなり先のことだ。
「民主化」される中東のゆくえ 2 : 資料編
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