白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

誤読の可能性 (前)

2006-03-04 | 哲学・評論的に、思うこと
「こんにゃく問答」という落語がある。





久しく無人となっていた寺に、
ある流れ者が住み込むことになった。
寺に住むということは当然、住職をつとめる、と
いうことなのだが、
この男は道楽者の成れの果て、お経のひとつも
読むことができない、インチキ坊主である。





なぜこんな男が住職を勤められるのかというと、
誰も住むものがいないのでは寺は荒れるばかり、
これではいけない、体面上、住職は置いたほうが
いいだろう、というわけで、
世話好きのこんにゃく屋がこの流れ者に目をつけ、
住職に仕立て上げてしまったからである。
どうせふらふらしているんだから坊主になれ、という、
なんともいい加減な成り行きで住職に納まったこの男は、
葬式も法要もないことを幸いに、
毎日、下男を相手に酒ばかり飲んで過ごしていた。





ところがある日、この寺に、旅の禅僧がやってきて、
このインチキ坊主に問答を申し込んだ。
禅問答に敗れたときは、相手に寺を明け渡さねば
ならないという決まりごとがある。
これを聞いてあわてたインチキ坊主は
「住職は別の人間がやっている。今は留守だ」
と言い、いったん旅の僧を宿に帰し、
自分を世話したこんにゃく屋に相談をもちかける。





インチキ坊主はお経ひとつ読めないのだから
問答すれば負けるに決まっている。
そこで、こんにゃく屋に住職に化けてくれと頼み込む。
こんにゃく屋も当然、仏教の教えについては
何も知らないのだが、大胆にも引き受けてしまう。





さて翌日、旅の僧がふたたび寺にやってくる。
これを、住職に化けたこんにゃく屋が出迎える。
いくら旅の僧が問いを重ねても、こんにゃく屋扮する
和尚は、黙ったままである。
旅の僧はこれを、禅の修行である「無言の行」と捉えた。
しかしこんにゃく屋からすれば、何を聞かれているのか
さっぱり判らないので、黙るより仕方なかった、という
わけである。





そこで旅の僧は、身振り手振りで問いを仕掛ける。
すると、こんにゃく屋も、身振り手振りで答えを返した。





旅の僧が、指で小さな輪をつくって示すと、
こんにゃく屋は、大きな輪をつくって答えた。
このとき旅の僧は、「日の本は(日本のこと)?」と
聞いて、「大海の如し」と返されたと解釈したのだが、
こんにゃく屋からすれば、
「おまえの店のこんにゃくはこんなに小さいんだろ?」
と、バカにされたと思ったので、
「このやろう、うちのこんにゃくはこんなにでかいわ」
と答えるつもりで、大きな輪を作ったのである。





次に旅の僧は、両手を広げてさし出したのだが、
こんにゃく屋は、片手を広げて見せた。
このとき旅の僧は、「十方世界(大宇宙のこと)は?」
と聞いて、「五つの戒律で保たれる」と返されたと
理解したのだが、
こんにゃく屋からすると、
「おまえの店のこんにゃくは10個でいくらだ?」
と、聞かれたと思ったので、
「500円だ」
と答えるつもりで、片手を広げて出した、というわけだ。





最後、旅の僧は、3本の指を出した。
こんにゃく屋は、自分の目の下に右の人差し指を当てて
舌を出す。
このとき旅の僧は、「三尊の弥陀は?」と尋ね、
「眼の下におられる(人間には見えない)」と
答えられたと思っているのだが、
こんにゃく屋の立場からすれば、
「高いから300円にまけろ」
と、値切られたと思い、
「けちな坊主だ、あっかんべー」
としてやったつもりなのである。





結果、旅の僧は「自分の及ぶような相手ではない」と
すっかり恐れ入り、よい教えを受けた、と思って
退散する。
こんにゃく屋は、「うまいこと言い負かした」といって
上機嫌、この話はすべて、まるく収まった、という
オチである。





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「人間は、思い込みによって、状況の一面しか
 とらえていないときがある」
というコマーシャルが流れていたが、
この話もまあ、それに類するようなものだろう。





この話は、多くの思い込みと誤解によって
成り立っている。
一番大きな誤解は、旅の僧がこんにゃく屋を
和尚と見なしていることなので、
こんにゃく屋の側に、対話の主導権があるように
一見、思われるのだが、 
事はそれほど単純ではない。





旅の僧は、僧侶としての自分の文脈に沿って、
僧侶としての言葉を話し、僧侶として理解をする。
相手を和尚とみなして問いを立て、
禅問答の文脈に沿って相手の返事を理解し、
それを自分の文脈で意味づけて、納得している。





一方こんにゃく屋は、自分が偽者であることは
理解しているが、
相手が自分を和尚だと思い込んでいることで
自分が相手より優位な立場にいるということには
まったく、自覚がない。
第一、こんにゃく屋には相手をだましきれるだけの
知識がないのである。
つまり、彼は法解釈的に言えば「善意」である。
なぜなら彼は、和尚になりすまして和尚として
話をしているわけではないからだ。
彼はあくまでも、こんにゃく屋として、
こんにゃく屋の言葉で話していて、
こんにゃく屋の文脈に沿って、受け答えをしている。





このように、互いが自分の立場に沿って、
自分の文脈に即して相手の言葉を意味づけようと
するときには、
第三者から見た場合には明らかに会話の内容が
かみ合っていないように見えたり、あるいは、
当人同士も勝手に互いに全く異なる意味づけを
していたとしても、
話の内容が思わぬ実りある豊かなものになったり、
誰にも害を与えることもなく、ハッピーエンドと
なることがある。





これこそ、誤読の大いなる可能性である。
上の落語では、すべては旅の僧がこんにゃく屋を
和尚であると誤解している(だまされている)ことから
始まるのだが、
こんにゃく屋が相手を自覚的にだませたのはそこまで、
交わされるやり取りが、対話する本人同士の自覚を超えた
形而上で、当人同士に勝手にひとつの実りある意味世界を
作り出していくのだ。





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後半へ続く。

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