白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

つぶれた猫

2007-08-07 | こころについて、思うこと
忙しさにかまけて 本も読まず 音も探さず
作業機械のように7月を労働して
8月 3日間の大阪逗留と 1日の慌しい出張を終え
今日を久しぶりの休みにあてた





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大阪で 音を求めようとして 鬼になった
抽象的な表現で音像のニュアンスを伝え 有機的で
伝わる音を引き出せる状態にはないと判断したからだ
技術が 自力で音楽を構築できる水準に達していない
それならば 音楽の骨格を確固としたものにすることに
全力を傾けようとした
肉付けをするには しっかりとした礎がなければ
それはただの虚飾 ぶよぶよと膨れたり はがれおちる




リズム 音程 ダイナミクス
これら 音楽を表現するうえでの基本動作のミスや
あいまいさを余さずに指摘し それを反復練習して 
精度を上げる練習をした
エッジを立てるべき音 拡がりを有するべき音
直線的であるべき音 あいまいであるべき音
おのおののフレーズにおいて 一音たりとも意味の欠けた
音というものは存在しない
一音もおろそかにせず その音の有する固有の性格を
把握してもらうことに努めた






これはオーストリアの指揮者 カール・ベームの方法を
取り入れたもので
こうして出来上がる響きは 表情や温度 色彩には乏しいが
精妙で濁りが無く ニュートラルなものとなる
いわば どのような表情付け 構成や演出にも耐えうる
柔軟性に富んだもの





これを築くまでが僕の仕事と思って 燃焼した
これを築いて初めて 曲の構成や演出に着手できるからだ





各セクションのアーティキュレーションの
有機的な絡み合わせには
ダイナミクス変化を各セクション間で逆にしたり
時系列を少しずらすことも必要になる
旋律の中にあるリズムを感じたり
和声の中にあるメロディを感じて
特定のセクションの特定の箇所を強調して響かせ
旋律 リズムのデフォルメを行うなど
眼の前の総譜のなかから まったく新しい音を生むための
様々な試みが可能となる






音楽の基本的な旋律線を取り出して
指揮をするようにして 視覚化して見せ
音量 アクセントの位置 音の収束・終息を指示して
譜面における各セクションの役割を位置ごとに明確に分離し 
曲の構成に物語性を与えた後
はじめて 歌を響きに与える作業に入る





ここにおいては 指導者の指示に拠らぬ
各演奏者の自発性が求められるのだが
それが不可能であれば 指示を与えることもやむを得ないが
自らが鳴り響くべき場所では 好きに鳴り響けばよい
そしてこの段階では 各演奏者が明確に他の演奏者の音を
聞き分けられるはずである





隣にいる人間 前後にいる人間を如何に引き立てればよいか
どう演奏すれば周囲の人間を最大限に生かすことが出来るのか
それを考えるうちに 音楽的な信頼も生まれ
やがて 各演奏者の意思が自然に集束して
迷いの無い ダーツの中心をピンスポットで射抜くような
壮烈な集中力と訴求力 温度 色彩に満ちた
生命の音として 演奏が音楽へと昇華することだろう





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ほんとうは ここまでやりたかった
けれど 限られた時間 環境 コンディションのなかで
最大限の情報量をあたえようとすると
どうしても無理が生じる
それは 指導者への演奏者の信頼の度合い
演奏者への 指導者への信頼の度合いにも左右される





演奏者には当然のことながら
自分たちの苦しみや努力の積算がある
これを否定することから始めるとき
当然のことながら こちらもその傷みを負う
音楽は 努力している姿で評価されるものではない
苦しみも 友情も愛情も 本来音楽には何ら関係は無い
愛情や信頼は 音楽に力を与えるものにもなるけれど
自縄自縛の結果をもたらすものでもある





音楽には いい音楽と悪い音楽しかない
音楽の場所というのは 心身をすり減らしても
何も生むことが出来ないかもしれないような過酷な場所だ
そのことを伝えようとして うまく伝わらずに
無力感に襲われて 自分が間違っているのかと考えて
居たたまれなくもなる
もう 祈るしかないというのに
組み合わせる手が どうしてもうまく絡んでくれない





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そして今日 高橋悠治のHPで
三弦奏者の高田和子の死を知った
高橋の挽歌の前に 僕の筆力は無力だ
http://www.suigyu.com/sg0708.html#07





6年前 彼女の「糸」というプロジェクトに惹かれた
その音盤には「音は糸です 伝わるから」と書かれていた 
3年前 京都造形芸術大学で
巻上公一 高橋悠治 志村禅保らによるイベントがあり
僕は藤井貞和の「寝物語」や
ジョン・ケージの「ヴァリエーションⅣ」の
現在聴く事が出来るであろう 最高の演奏を聴く事が出来た
http://www.k-pac.org/kpac/expe/sangen2/top.html





遠ざかるとは きっとこういうことをいうのだろう
それは 感慨 生命 生活の交差点が
きっとだんだんとねじれていくことなのだ
聴こえていたはずの音が頭上を通過し
言葉にのぼせるのを憚られるような響きが
後頭部にぶつかってくる
凍っている僕の足元を 愛する人が誰かと暖かく通っていく





眼の前でねじれている電話線
ひととひととの声を運び 
つながることを役目とするケーブルが
時折 ひととひととのかかわりかたをフォルムとして
ねじれることで示してくれるのはなんという皮肉だろう





高田の音は 時折 糸電話を弾くような響きを立てていた
彼女はもう 糸電話を弾く事は無い
ふと押さえたラの音が 今日は心臓までも伝わらずに
肘のあたりで鈍い痛みとなって消えた





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伝わらぬことには慣れている
ならばたった一度でもいいから 伝わってはくれないのか
通じてはくれないのか と
まるで轢死した猫のように ぐしゃぐしゃになって祈る
けれど 猫も轢死しまっては
ひとに嘔吐を催させるだけの ただの肉片と血液にすぎないのだ




血みどろで告げられる愛を受け容れる女性はいない
では 愛からは血が抜き取られなければならないのか?


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