白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

老いの坂にて

2008-01-25 | 日常、思うこと
今朝、職場に届けられた新聞の地方版に、親戚の写真が
掲載されているのを見つけた。
老人向けデイサービスセンターで、101歳の誕生祝を
してもらっているところを撮影したものらしく、
記事によれば、そのひとはバースデーケーキに点された
蝋燭を一息で吹き消して、

「本当においしかった」

と話していたそうだ。





そのひとは祖母の叔母にあたる。
士族の家に明治40年に生まれ、時計店を営む
家に嫁入りした後、台湾に渡り、
戦争で実の子を含む家族全員と資産の一切を失って
引き上げてきたという壮絶な過去を持っている。
矍鑠、とは男性の老人のためにあるような言葉だが
そのひとにはまさに、士族の気風と凛とした品格が
備わっていたから、
齢95歳を超えてからお目にかかったときにはまさに
矍鑠、という言葉がぴったりと嵌った。
よく祖父の命日には線香を携えて我が家にやってきて
角ばった口調で、近況を慎ましく話したものだった。





齢100を前にして大病を患い、一時前後不覚に
陥ったものの、持ち直して、この日を迎えたそうだ。
新聞記事をコピーして家に持ち帰り祖母に見せると、
祖母は嬉々として記事に見入りながら、
まだまだ老け込めない、という持ち前の負けん気を
全面に見せていた。
祖母とて、秦氏の流れを引く家に生まれたものの
戦争の混乱で資産を失っている。
戦争の苦しい時期を生き抜いたひとびとの間には
そうしたシンパシーのみならず、
混乱の時代を生き抜いていくための対抗心が今も
残っているのだろうか。





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実は僕の親戚にはもうひとり長命のひとが健在であり、
そのひとは父方の叔父の義母にあたるのだが、
明治35年生まれというから、106歳である。
関東大震災のころにすでに看護婦として働いており、
ハルビン、ウラジオストク、ハバロフスクを転々として
満州に移り、そのまま終戦を迎えて帰国の後、
聖路加国際病院に勤めたひとである。
日野原重明氏よりも一回りも上のひとだ。





子を12人産んだが、たった1人しか成人しなかった。
その娘が僕の叔父の妻となった。
僕の父が大学生のとき叔父の家に下宿していたころ、
そのひとはすでに70歳を前にした老人だったのだから
その長命ぶりがわかる。





そのひとは70歳を過ぎて心筋梗塞を起こして
生死の境をさまよった。
永らえたが、80歳を過ぎて今度は癌を患った。
このときは覚悟があったのか、死に装束を自ら縫い上げ
病院に入ったという。
そのときも、永らえた。
その装束は今なお使われずにいる。
齢90を過ぎて、漱石の全集を読破したそうだ。
今はやや心身が不自由ながら、元気であるという。





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老いというものは、節度の崩壊と、自制心といった
自発的な戒めの弛緩からはじまっていく。
肉体の老いと精神の老いは共時ではなく、
今も祖母は自分の体が老いていくのがどうしても
受け入れられぬ様子だ。





タワーレコードで、リッチー・バイラークの新譜に
フェデリコ・モンポウの「内なる印象」が
演奏されていると知って、少なからず驚いた。
バイラークはそれまで、硬質かつ先鋭な響きでもって
耽美的で陶酔的な空間をつくり、そのなかに冷たく
燃え上がるような演奏をすることが多かったから、
モンポウの初期作品という、内気な若者の未熟で
憧憬に満ちた肌色の心象の表出が企図された作品を
取り上げるとは、とても思えなかったのである。





しかし、ピカソの作品やホルショフスキのピアノなど、
老いというものは、世俗や知性の塵を表現から取り去り
自然な呼吸と純度の高い音が淡々とつむがれるような、
あるいは邪気のない児戯のような作品を生み出させる
源泉にもなりうる。
僕の愛聴するモンポウの自作自演集では、81歳の
老人であるモンポウが、60年前、20歳の頃に作曲した
小曲を、慈しむように演奏している。
芭蕉の辞世、旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる、の
感がそこはかとなく漂っている。





50年後の自分のピアノを聴くとき、
僕は今の僕の演奏を夢見るのだろうか。





老いてなお、祖母は今も僕のスーツに当て布をして
アイロンをかけている。
そうして祖母の一日は終わっていく。
101歳のひとの明日は、デイサービスに出かける朝に
始まるだろう。
106歳のひとの明日は、食事と排泄と、眠りで過ぎる。





明後日のことは、誰も知らない。

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