白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

no use, no life?

2008-01-24 | 日常、思うこと
修理に出していたless than humanが
たった1週間で出来上がってきたとの電話が入った。
最初、3週間程度はかかるとの見通しだったのだが
どのような手を使ったのだろうか、と
いささかの疑念を禁じえなかったが、
店に出向いて実物を確認してみたところ、
レンズに遮光用に入れたカラーも指定通り、
仕上がりも申し分なく、
スタッフに感謝の念を伝えた。
Illyの力添えあってのことだろうか。





帰り際、割れたレンズはどうされますか、と
スタッフに声を掛けられたが、
持って帰っても仕方がないし、何より縁起が悪いと思い
店のほうで処分してもらうように言い、店を後にした。
所詮、伊達めがねである。
実用ではない、はっきり言えば無駄なものだ。
しかし、今ではそれは間違いなく、僕の顔である。





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ここ2年ほどのユーロ高の影響が、とうとう僕の生活の
周辺にも及んできたようである。
もはやドルが世界の基軸通貨ではなくなりつつある現在、
音盤や書籍の類には、資本の関係上、まだそれほどの
影響は感じられないけれども、
しかしそれも、アメリカ経由のものに限るのであって、
欧州圏からの輸入盤などは、いまや国内盤よりも高価である。





一般に、ECMの音盤の質が、国内盤よりもドイツ盤の方がよい、
という評価があるようだ。
確かに、思わず首肯せざるを得ない瞬間があった。
国内盤で購ったキース・ジャレットのトリオの音源を失くして
ドイツ盤で購い直したときのことだ。
ジャック・ディジョネットのライドシンバルから発せられる
拡散音の粒立ちの明確さ、打点からの持続音の伸びやかさ、
木製のチップと金属がかち合う瞬間の接触音の自然さ。
それらは聴き覚えのある国内盤よりも明らかに滑らかで、
それぞれの楽器の音のしなやかな立ち上がりときらびやかな
倍音空間の処理でもって仕上がっていた。
それ以来、ECMの音源は出来るだけドイツ盤で買うことに
している。





しかしながら、同じ音源でありながら、輸入盤のほうが
国内盤よりも値が張るというのは、
プラザ合意以来の円高基調のなかの消費文化の中で育った
僕としては、どうしても腑に落ちない部分が残る。
国内盤には輸入盤にはない、日本人の手が入っている。
それを邪魔だと感じるひともいるだろうが、
僕は文化というものを日本が受容した痕跡として、
日本人の言葉がそれに添えられるのは好ましいと思って
いるから、その分を値段に加えてもらっても構わないと
考えている。
それゆえに、国内盤よりも輸入盤のほうが値が張るのが
何とも言えず不満なのだ。





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話を戻そう。
ユーロ高の影響が僕にとってさらに深刻なのは、
輸入ものの食料品がここのところ軒並み値上がりしつつ
あることだ。
殊に、僕が愛飲する酒類はほとんどが欧州系のものであり、
値上がりの幅が大きい。





埴谷雄高がハンガリー動乱のさなか、辻邦生と二人して
飲み続け、「甘口馬鹿」という雑文にも登場するハンガリーの
貴腐ワイン、トカイなどは、この1年で25%近く値上がりした。
僕も埴谷の影響を受けて愛飲するようになったこのワインは、
金色をしていて、蜂蜜のような濃厚な甘みと芳香が、
葡萄に由来する程よい酸味と蔓の匂いと相俟って、
果実のエスプリを味わうことが出来る素晴らしいワインである。





貴腐ワインの中でも、ソーテルヌに比較しても比較的安価で
良心的なものだったのが、
高級な嗜好品に戻って行きつつある。
トカイもソーテルヌも、よいものは1万円を超えるようになり、
おいそれと気軽に手を出せる代物ではなくなった。
もっとも、ジョニ黒が大卒の新入社員の初任給ほどの値段で
売られていた時代もあるというのだから、
まだ手を出せるだけ、恵まれているのかもしれない。





そのほかにも、僕の愛飲するスコッチ・ウィスキーのマッカラン、
あるいはシェリー、アブサンの類が、20%ほど値上がりをした。
では日本の酒に乗り換えるか、というと、
原油の高騰や小麦価格の上昇によって、ビールや焼酎の値上がりが
決定、あるいは予想されている。





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企業が徹底したコスト削減によって余剰人員や余剰設備を削り、
国内に生産拠点や研究開発部門の中枢を設け、あるいは集約し、
アジア等の新興国への技術・製品の双方の輸出を強化することで
ようやく製造業種の分野において収益構造が安定化しつつあった
日本経済の回復は、ドル安円高基調でしか進み得ないものに
なってしまっていた。
企業体力が回復し、設備投資によるインフラ面からの技術革新が
国内から発生する機運が高まりつつあったそのときに、
アメリカの投資ファンドが原油やレアメタル市場に資金を投入し
経済の実態のないマネーゲームの草刈場にしてしまったことや、
サブプライムローンという、社会的弱者の信用取引によって
発生した巨額の不良債権の問題が、世界通貨としてのドルの地位を
相対的に押し下げてしまったため、
加工貿易型・商社としての日本経済には暗い影がさし始めている。





東京の株式市場に投資ファンドが多額の資金を投入して株価を上げ、
日本の投資家が市場に参入してきた頃合を見計らって売り抜け、
日本の投資家の資産を吸い上げて去って行く。





国富が減少する一方で、輸入に依存する商品原価は高騰する。
スタグフレーションが現実に起こりつつあるのだな、と実感し、
自分が仕事上関わっている数年越しのプロジェクトの前途と
寒風の薄暮の中に凍るように落下する夕陽を眺めていた。





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10年前に5~6万円で購えたクロケット・ジョーンズの靴、
15万円で購えたアクアスキュータムのコート、
40万円で購えたジャガールクルトの腕時計、
今ではそれぞれ8万円、20万円、60万円になっている。
ものは今でも街に溢れている。
しかし、ひとびとは、それらを買えなくなりつつある。
10年前、僕の住む街の至るところを走っていたベンツや
BMWの類は、
いつしかダイハツやスズキの軽自動車へと変わっていた。
国内での新車販売台数の落ち込みの原因は、
若年層に新車を買うだけの資金力と信用力、それを援助できる
親の資産力が、この数年でなくなっていった結果であろう。





元に戻るのだろう。
50年前に戻るのである。





現状維持すらもすでに困難となっている時代に、
圧倒的な現実の前で豊かさを夢見ることなど出来ない。
バブル崩壊からの15年、日本人は自らの生活を守るため
多数の人的・経済的犠牲を強いてきた。
そこで企てられたのは成長ではなく、いかにして現状を維持
出来るか、というものだった。
成果主義は達成不可能なノルマとなって労働者にのしかかり、
若年層の雇用は抑制され、熟年層は職を追われ、
規制緩和によって時流に乗った者を、時代の英雄として
時流から追いやられた者が支持するという不可思議な現象すら
起こった。
しかしそれは、もはや何も夢見ることの出来なくなった者、
夢から阻害された者が、現実の中に見出した幻に過ぎなかった。





改革の痛みなど、誰も自分に降りかかるとは思っていなかった。
生活のみに支配された人間は、自らの遠望どころか、目の前の
現実すら判然とはしなくなる。
目を上げてものを見るのではなく、絶えず自分の足元を見ている。
だから、イエスかノーか、見極めずに、
イエスかノーかを呼びかける声に、気分だけで判断を下した。
残ったのは、貧しい若者、貧しい熟年層、夢見ることも適わぬ
倫理の欠落した、自己を守ることに執着した世情である。
だがしかし、すでに国富は蝕まれ、蚕食されつつある。
みなが守ろうとする領域は、すでに空洞になりつつあるのだ。
それはもはや、どうすることもできないのではないか、と、





・・・・・半ば諦めながら、タワーレコードへ入った。





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上掲の写真は、そこで購った、アルゼンチン音響派に属する
アレハンドロ・フラノフの音盤である。
宮崎駿のデザインしたかのようなジャケットに惹かれて
思わず衝動買いしてしまったのだが、
果たして、無駄なものでしか出来ていない、傑作だった。





その天真爛漫で無邪気な音のように生きたいと夢見ながら、
まだ夢見られるのは、音のおかげだと感じた。
文化という、いわば偉大なる無駄とでも言うべきものの
おかげで、ここにこうして呼吸している。
無駄なものの居場所だけは、なくしてはいけない。
何の役にも立たないもので遊び切ることができればと思う。
仕事における創意とて遊びの一種であるし、
アイデアや思いつきなどの大半は無駄なもので出来ていて、
生活から少し離れているから、思わず、はっとするのだから。





その文化が買えなくなるときが来ないことを、切に願う。
けれど、その日を迎えるひとが確実に増えつつあることも、
僕は知っている。





どうしようもないのだろうか。

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