白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

BACH CONZEPT (Zuerich)

2010-12-26 | 日常、思うこと
1、チューリッヒの概要



 チューリッヒ(人口38万人)は、スイス最大の都市にして、ヨーロッパ有数の世界都市である。市街地はチューリッヒ湖を囲むように馬蹄状に形成されており、チューリッヒ湖を発してライン川の支流・アール川に注ぐリマト川と、リマト川の支流・シール川の2本の河川によって二分されている。リマト川の東岸が旧市街地、西岸が新市街地にあたる。また、これらの2本の河川とは別に、シャンツェン・グラーベンと呼ばれる小さな堀割が、オフィス街のビル群の合間を流れている。


 チューリッヒは、世界金融の中心のひとつであることから、多数の金融機関や投資ファンド・証券会社などが活動拠点を置いている。世界有数の高い生活水準を達成していることもあり、在住者の所得水準も高い。また、市内には国際サッカー連盟(FIFA)を初め、数多くの国際機関や国際団体の本部が置かれている。2006年の「海外駐在員が最も住みやすい都市ランキング」では1位に選ばれるなど、名実ともにスイスにおける経済や文化の一大拠点都市である。





2、河川環境整備における「近自然工法」の採用


 
 チューリッヒは、1970年代以降、市内の河川改修工事を実施するにあたり、「近自然工法」を採用している。「近自然工法」とは、河川の改修に際し、植物を植えた土手や石積み水制などを利用して護岸の整備を実施し、防災機能と美的景観の創出をはかる工法をいう。

 
 「近自然工法」は、スイス・チューリッヒ州やドイツ・バイエルン州において、1970年代から独自に研究が開始され、1980年代以降に本格的な導入が進められた。日本においても、1990年代以降、当時の建設省によって「多自然型川づくり」として導入され、北海道や愛知県での河川環境整備事業を嚆矢として、全国に数多くの施工例が存在している。実際の施工においては、動植物の生息地及び生育地(ビオトープなど)を併せて整備するなど、生態系の保全・創出や、環境との親和性が重視される。スイス国内では、主に都市郊外部の大規模な河川(最大流量約1,500㎥/s程度)において、多く採用されている。


 注目すべきは、「近自然工法」の理念が、自然環境そのものの再生に主眼を置くものではない、ということである。「近自然工法」の実施にあたっては、河川の流路をあるがままに保つのではなく、防災機能と親水空間の確保を両立させた整備を行うことにより、流域に住む人びとが慣れ親しんできた生活や歴史・文化、あるいは環境の保全を実現することに、最大の目標が置かれる。これは、あるがままの「自然」ではなく、あくまでも人びとが慣れ親しみ、あるいはイメージしてきた「自然」に近い、安全な環境を保存する、ということを意味する。つまり、この場合の「自然」の語には、「景観」や「風土」、「郷土史」に対する人びとの意識や、地域文化への親しみなどの「生活文化」や「生活環境」の意味が複層的に込められている。


 その一例に、1985年に施工された、スイス・シャフハウゼン郊外のライン川本流、「ライン滝」の保全工事が挙げられる。この工事では、滝の落ち口にある岩場の補強工事が実施された。本来、滝をあるがままに保つならば、浸食作用によって岩場は自然に崩壊する。しかし、地域の人びとや観光客が慣れ親しんできた景観は、大量の流水が岩場によって二分され、流れ落ちるという滝のすがたであった。このため、岩場にアンカーを打込み、着色モルタルを吹き付けて補強する工事が実施されたことにより、「ライン滝」の景観が守られたのである。


 この「近自然工法」の理念の延長上に計画されたのが、「バッハコンセプト」と呼ばれる、チューリッヒの河川開放事業である。「バッハコンセプト」と聞いて、対位法か作曲技法のことかと思ったのは、職業病ならぬ、趣味病のせいだろう。





3、河川開放事業「バッハコンセプト」の開始



 「バッハコンセプト」とは、チューリッヒ市域において、暗渠化されていた小規模河川を再び地上に開放し、元の流路へ再生させる事業である。


 19世紀半ばまでは、チューリッヒの市街地を取り巻く丘陵地帯から、延長100kmにも及ぶ数多くの小河川がリマト川へと流入していた。チューリッヒに下水道網が整備されるにあたり、その排除方式として、汚水と非汚濁水(湧水、雨水、川の水)を混合して流下させて処理を行う「合流式」が採用されたことに伴い、これらの小規模河川の多くが暗渠化され、下水本管へと接続された。これは、小規模河川の水流を利用し、管路内の流水機能を果たすことが期待されたためであり、暗渠化された河川の延長は、実に50kmにも上る。


 しかし、1970年代、「合流式」による下水処理について、その効率性と費用対効果に対する市民からの疑問の声が上がった。これを受け、チューリッヒは、「合流式」による処理を維持し、老朽化した管路を更新しつつ浄化処理を行う場合と、新たに「分流式」の下水道網を整備して汚水のみを浄化処理し、非汚濁水を直接河川に放流する場合のそれぞれについて、費用をそれぞれ試算し、比較検討を行った。


 その結果、「分流式」による下水道網の整備が、より効率的に下水処理を実施できるという評価が下されたため、チューリッヒは、市域の下水道網を「分流式」に再整備することとした。その際、暗渠化されていた小規模河川を下水管路から分離し、元の流路へと再生し、付近の居住空間の高質化を図る計画が持ちあがった。これが、「バッハコンセプト」として知られる、河川開放事業である。河川開放事業は、1985年に着手され、1988年に正式に議会の承認を得て、現在も実施されている。2010年現在、「バッハコンセプト」によって開放され、再生された河川の総延長は、約20kmに達している。


 なお、注目すべきは、「バッハコンセプト」によって開放された河川は、一般的な河川関連法令に基づいて管理されているのではなく、下水道として扱われ、下水道関連の法的規制を受けていることである。つまり、開放された河川は、一見したところ河川以外の何物でもないにもかかわらず、法的には河川ではなく、下水道としての扱いを受けている(正確には、下水道網の一部を構成する開放水流である)。1991年、スイスは、「水環境の保全に関する法律」を施行し、非汚濁水の河川への直接放流を禁止したが、チューリッヒにおいて、開放された河川に対する雨水の直接放流が認められているのは、これを理由とする。なお、「分流式」の下水道網の整備と処理技術の向上により、チューリッヒの下水処理費用は、「合流式」の時代に比べて、約75%減少している。





4、「バッハコンセプト」の施工プロセス



 河川再生事業の開始にあたり、チューリッヒ市当局は、暗渠化されていた河川がかつて、どの地域をどのように流れていたのか、また、暗渠化される以前の流路に再生させることが可能であるか否かを調査した。事業開始から約20年が経った現在では、暗渠化された河川も含め、市域内を流れるすべての河川について、その流路や河川断面、平均水量、最大流水量、周辺地形、周辺植生等、その構成要素がデータベース化されている。


 現在、「バッハコンセプト」は、一般的に、次のようなプロセスを経て実施されている。


A、事業主体
 チューリッヒ市の建設部や清掃課など、様々な部署に所属するスタッフがチームを編成し、生態学や地質学、景観工学の専門家を交えた議論を踏まえ、事業実施対象の河川に関する事前調査と評価を行い、事業実施の可否判断の後に仕様を設計し、工法を選択するというプロセスを採っている。事業実施の決定と、それに伴う設計・工法の選択にあたっては、事業開始当初は手探りの状態であったために何度も会議を重ねていたが、現在では市当局が構築したデータベースが活用されていることもあり、年5回開催される開発局会議において、事業実施の決定が行われている。チーム自体の年間運営予算は、約150万スイスフラン(2010年現在)である。


B、設計思想・施工・管理等
a、水・水害対策
 河川開放事業において最も留意すべきは、洪水・浸水等の水害防止対策である。日本の河川と違い、チューリッヒ付近の河川の平均水位は、河川断面の95%までを占めているため、常に洪水・氾濫の危険性にさらされている。特に、春から夏にかけては、大雨やアルプスの雪解け水による洪水の可能性が高まる。このため、施工にあたっては、汚水用の下水本管について、断面積に大幅な余裕を持たせており、開放された河川の流量が一定値を超えた場合には、汚水用の下水本管にも水が流れ込むように設計されている。また、近年、新興住宅地内で実施された河川開放事業においては、流路が住宅団地の中央の緑地・広場にあったことから、付近一帯を窪地とすることにより、集中豪雨時に下流域での急激な雑炊を抑止すべく、一時的な貯水池機能を持たせることとした事例も存在する。その他、10年確率の増水に対応すべく、洪水時に、雨水を直接リマト川に放流出来るように下水管路を設計した事例も存在する。


b、工法等
 河川開放事業の施工にあたり、河床基盤には、コンクリート層の基部の上に粘土層を造成し、水流の地下への浸透を防いでいる。さらに、粘土層の上には砂礫を敷き、多様な自然植生・水生動物の生育環境の形成が図られている。また、急傾斜地の流路には、上流部からの流木や大型の石、砂礫が下流に流出するのを防止するため、砂防設備や大型の沈砂枡を複数設置するとともに、流出口には直径15cm程度の金柵が等間隔に設置されている。また、段差や杭打ちによる水制設備も併せて整備されている。緩傾斜地には、流路の両岸に砂地を整備し、「近自然的に」砂礫を撒き、遷移における初期段階の植生が配置されているほか、石積みや木杭による水制設備を設置し、水流による河岸の浸食を防止している。


c、管理
 施工完了後は、週に2回程度の定期的な巡回・目視点検が行われており、必要に応じて、メンテナンス(水制の再築、流木の撤去、沈砂枡の浚渫、ゴミの清掃、虫害除去等)が実施されている。


d、施工費用
施工費用の目安は、1mあたり約2,500スイスフランである。


e、施工にかかる事業費の財源
 先述のとおり、スイスでは、1991年に制定された「水環境の保全に関する法律」に基づき、雨水は原則として、河川に直接放流できないことと定められている。これは、土地所有者の責任において、雨水の地下浸透を促進しなければならないことを意味する。ただし、大規模な建築物が存在する土地などでは、年間降水量が、地下への浸透量を超える場合もあることが想定されるため、チューリッヒ市は、そうした土地の所有者に対して「排水税」を課税している。税率の目安は、1,000㎡の屋根を有する建物であれば、年間約800スイスフラン程度である。チューリッヒ市の「排水税」による税収は、日本円にして年間約8億円にのぼる。これが、「バッハコンセプト」の財源となる。


f、住民への説明・合意形成
 チューリッヒでは、「バッハコンセプト」の啓蒙活動として、市民向けの説明会や、モデル展示会を定期的に実施している。また、実際に事業の実施が決定した地域については、施工に先立ち、市民向けに、郵送物や新聞で周知を実施するほか、事業計画や工法・設計等に関する事前審査を実施し、住民を対象に、事業の実施によるメリットとデメリットの説明を行っている。なお、チューリッヒ市域は12の行政区分で構成されているが、事業実施地域の外の住民であっても、事前審査に参加し、自由に意見を述べることが出来る。最終的な事業実施の決定は、市議会の議決によって行われ、その後、州政府によって、合法性にかかる審査が実施される。ただし、議会の議決後であっても、事業の実施に反対する市民や環境団体等には、訴訟権の行使が認められている。





6、「バッハコンセプト」に対する住民の反応



 こうした「バッハコンセプト」に対する住民からの反応は、概ね好意的なものが多い。その理由には、チューリッヒにおける行政・市民双方の、水に対する意識が高いことが挙げられる。実際に、親水空間に隣接している宅地は、その不動産価値においても高く評価される傾向にあるという。


 チューリッヒは、上水道の水源を、地下水、湧水、チューリッヒ湖の湖水に求めている。また、塩素処理ではなく、バクテリアによる有機物の分解作用を利用した独自の浄水処理技術を開発し、ヨーロッパでは珍しい、「生水」を飲める環境を整備している。また、下水処理においても、世界有数の汚水処理技術が確立されている。


 特に、チューリッヒ湖は、市民にとって最大の親水空間として親しまれている。実際に、多くの市民が朝早い時間から湖畔で読書をし、あるいはカヌーを漕ぐ姿が見られる。夏には舟遊び等に加えて、オフィスワーカーが昼休みに水浴する姿も多く見られる。こうした背景もあり、「バッハコンセプト」による親水空間の創出は、生活空間の質を高め、地域の価値を向上させるものとして、市民に歓迎されている。無論、河川の開放にあたり、治水対策が十分に行われ、地域の防災上の安全性が担保されていることも、住民理解の促進の一助となっている。
 

 なお、「バッハコンセプト」は、現在ではスイス国内のみならず、イタリアやスペイン等においても、施工例があるという。チューリッヒ市の「近自然工法」、「バッハコンセプト」は、その理念と施工、活用の実態から判断するに、親水空間の創出による高質な居住空間の形成の取組みにおける成功例と言える。日本においても、環境親和型のまちづくりのための有効な選択肢の一つとして、導入の検討を行うに値する事業であると思われる。特に、全国各地のニュータウン地域における下水管路の更新時等に、その応用の可能性がある。ただし、その検討にあたっては、防災上の措置と安全性の担保に対する検討もさることながら、情報の開示と、市民の参画機会の創出を徹底する必要があることに、留意すべきであろう。


 スイスの歴史は、市民による自治権の獲得の歴史である。世界でも数少ない直接民主制の国であり、現在もなお、126ものカントンと呼ばれる自治区分が存在する。そのうち最小のものは、わずか21人ほどで構成されている。ドイツ、フランス、イタリア、ロマンシュという4つの公用語を有するばかりか、そのドイツ語においてさえ、「スイス・ドイツ語」と呼ばれる、独自の語彙体系が存在する。スイスにおいては、トリリンガルが市民たる一条件として必然的に要請される。まちづくりに対する住民意識の高さは、こうした歴史に裏打ちされたものでもある。これは、決して一朝一夕に醸成されるような文化ではない。他地域での成功を安易に模倣して導入することを避け、地域のアイデンティティや歴史、ひと、資源を重視しつつ、外部の視点を積極的に導入し、まちを絶えず「開かれたもの」とする姿勢に、学ぶべき点は多い。


 そのスイスの政情は、近年、右傾化が顕著となりつつある。2010年、スイス国籍を持たない外国人が特定の犯罪を犯した場合、滞在許可を取り消し、即時に国外追放とする憲法改正案に関する国民投票が実施され、賛成多数で承認された。また、2009年には、イスラム教の礼拝所に尖塔を建築することの禁止についても、国民投票で承認されている。ドイツ・ベルギーのメディアはこれを批判的に伝えているようだが、フランス・イタリアのメディアには、際立って批判的な論調は見られないという。









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