白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

旧東独・社会主義の刻印と克服のかたち(Leinefelde)

2010-12-25 | 日常、思うこと
1.はじめに



 ライネフェルデ=ヴォルビス市(人口約2万人、以下「ライネフェルデ」という。)は、ドイツの中央、旧東ドイツのチューリンゲン州に位置している。ライネフェルデ南部に開発されたニュータウン地区における都市再生の取り組みは、旧社会主義体制下に建設された都市の再生例として世界に広く知られている。今後、先進国に相次いで訪れると予測される人口減少社会の到来に合わせ、都市を適正な規模に縮小してその機能を維持しようとする、いわゆるShrinking City の成功例として、国連をはじめとする世界各地の都市計画賞を受賞している。


 ライネフェルデ南部において実施された都市改造の最大の特徴は、「減築」と呼ばれる手法にある。これは、既存の集合住宅をすべて取り壊し、新たな都市を建設するのではなく、人口の減少によって供給過多となった住棟を間引くように取り壊し、あるいは一部分を除却し、住居部の区画壁を除却して間取りに多様性を持たせるなどの試みをいう。その目的は、既存住の環境の高質化を図ることで住民満足度を高めるとともに、住民の流出を抑止し、新住民の獲得にも努めつつ、住宅供給市場を安定させることにある。


 日本においても、明治大学や国土交通省等により、主に建築技術・団地再生の側面から、ライネフェルデ南部の都市改造の経緯が紹介されている。ここでは、編年体による記述を通して、その概要を見ていくこととする。





2、発展期



 ライネフェルデは、ドイツ国土のほぼ中央という交通の要衝に位置することから、第二次世界大戦以前には、ケルン・ベルリン間の帝国道の開設や、鉄道の敷設により、ドイツ東西の陸上輸送網の拠点の一つとなっていた。しかし、第二次世界大戦の終了後、米ソによる分割統治を経て、1949年に旧東ドイツが建国されるに至り、これらの陸上輸送網は封鎖された。その結果、ライネフェルデは旧東ドイツに属することとなった。国境線は、街の西方約20㎞に引かれた。かくして、ライネフェルデは旧西ドイツとの国境の町となり、1990年の東西ドイツ統一まで、東西ドイツ間の交流は閉ざされることとなった。


 1950年代、人口わずか2,600人ほどの村であったライネフェルデは、1961年に東ドイツが策定した「地域経済計画」に即して、地方経済の発展を促進するため、国営のセメント工場・テキスタイル工場が建設されたことに伴い、急速に発展することとなった。


 ライネフェルデの都市設計は、就労の場と居住の場を一体とする「職住近接型」の都市建設を基本とする方針のもとに実施された。工場建設に伴い、増加した労働人口を吸収すべく、旧市街地の南部に開発されたのが、パネル工法(プレハブ)で建設された集合住宅群である。東西ドイツ統一直前の1989年には、総戸数は2,500戸に達し、居住人口は14,000人にものぼった。当時のライネフェルデの総人口が16,500人であったことをみれば、都市の性格は、日本的な言表を用いるとすれば、典型的な「企業城下町」であったということが出来る。しかし、住環境と就労環境が密接に結びついたライネフェルデの都市経営は、1990年の東西ドイツ統一により、急激な変化に見舞われることになる。





3、転換期



 1990年の東西ドイツ統一後、旧東ドイツ各地では、資本主義体制の導入に伴う不採算工場の再編と閉鎖により、労働市場が急激に縮小することになった。その結果、旧東ドイツ地域では、失業者が爆発的に増大した。その影響は深刻であり、旧東ドイツ地域と旧西ドイツ地域では、2010年現在もなお、失業率にして約10%近い格差が生じている。


 ライネフェルデの国営工場も例外ではなく、主要産業であったテキスタイル工場が閉鎖されたことにより、労働市場の急激な縮小が発生した。これに伴い、職を失ったライネフェルデ市民が旧西ドイツ地域へと急速に流出する事態となり、市の人口は急激に減少した。1990年から1994年にかけてのライネフェルデの人口は、16,500人から12,000人へと、実に25%も減少している。また、住宅市場の面でみた場合、集合住宅の入居率は80%にまで落ち込み、500戸以上の空き家が発生した。市域の一部ではスラム化が進み、治安が悪化し、「ゲットー」と呼ばれる区画さえ発生した(ドイツ人が「ゲットー」という語を用いる際、いかに重い意味が掛けられているかということについては、ドイツ史の理解に基づく十分な配慮が払われねばならない)。1994年にライネフェルデが行った調査の結果、2030年には、ライネフェルデの人口は7,500人にまで減少すると試算された。これは、1990年からの40年間に、人口が実に半分以下にまで減少することを意味していた。


 その一方で、資本主義経済の導入に伴い、ライネフェルデ市民の価値観に変化が現れた。それは、特に住宅市場における需要動向において顕在化した。旧東ドイツ時代に建設された2,500戸もの集合住宅は、パネル工法と呼ばれる、コンクリートパネルの組上げによって建設されたプレハブ住宅である。それらの集合住宅は、社会主義国家における都市建設・集合住宅整備の例に漏れず、「居住」という目的だけを達するための、画一的で殺風景な、無味乾燥の建築であった。それゆえ、「居住」という機能について、本来ならば必然として付随するはずの「心地よさ」や「癒し」、「安心感」、「愉悦感」、「快適性」といった要素は、ライネフェルデの集合住宅群には見られないものであった。資本主義経済の導入により、人々が住居を「消費財」「不動産」として見るようになったことで、ライネフェルデの住宅市場における既存の集合住宅への需要が低下することは、明らかであった。


 かくして、ドイツ連邦政府による旧東ドイツ地域における都市再生事業の開始を機に、ライネフェルデは都市再生事業を一気に推進することとなった。それは、人口減少社会に対応し、都市を適正な規模に縮小してその機能を維持しつつ、就労機会を創出し、高質な居住空間を実現して資産価値の高い住宅を市場に供給することにより、地域経済と市民生活の安定をはかるものであった。





4、再生期



 1995年、ライネフェルデは最初のマスタープランを作成し、南部の集合団地区域の再生について、①インフラ網の維持・改善 ②雇用環境の創出と経済の振興 ③居住空間の高質化を目的とした改築・周辺環境の改善 ③住宅市場の安定を目的とした不要な集合住宅の取り壊し及び減築の実施・高質な住居の供給 ④周辺地域と調和した都市構造及び景観の実現 の4項目を基本方針に定め、実施することを決定した。この都市再生事業は、市民に対する定期的なモニタリング調査によって、社会情勢・地域動向・住民の合意形成に即した計画へと恒常的に修正をはかりつつ、進められた。


 このマスタープランによって実行に移された主な試みには、団地中心部の重点的な整備、緑地帯の整備、戸建団地の開発、住居に対する私的空間の導入、不要な集合住宅の取り壊し・減築等の実施が挙げられる。とりわけ、住空間の高質化を図るため、画一的で殺風景かつ無味乾燥な印象を与えていた集合住宅群について、その機能とデザインを一新するための改築が実行に移されたことは、特筆に値する。その内容は、不要な住棟を取り壊し、或いは減築する一方で、残した住棟を街区ごとに暖色・寒色に統一して塗り替え、個々の住居ごとにバルコニーや坪庭が設置する、というものであった。こうした取組みにより、資本主義経済の導入によって市民に生じた価値観、例えば、プライバシーの保護や「住みやすさ」「快適さ」の実現がはかられたことは、画期的であった。なお、取り壊しや減築によって生じた廃コンクリートは、道路舗装や戸建住宅の建材へと転用されている。
 

 なお、こうしたリノベーション事業の対象とされた集合住宅は、市営のもの、市の住宅公社が所有するもの、旧東ドイツ時代に設立された管理組合が運営するものの3種に区分される。特に、管理組合が運営する集合住宅に居住する者に、このリノベーション・プランに反対するものがあったが、周囲の住民の同意数が増加していくにつれて、その数は少なくなったという。


 2000年、ライネフェルデは、ハノーヴァー万博における「未来工業都市プロジェクト」に参加し、サテライト会場とされた。この際、ライネフェルデの集合住宅再生にかかる国際コンペティションが開催され、世界各地から、都市再生にかかる多くの提案が行われた。これを契機に、ライネフェルデは都市再生計画の実施にあたり、専門家によるコンペティションを継続的に導入した。その結果、旧来の老朽化していた集合住宅が、デザイン性と機能性に優れた高質な住空間へと次々に生まれ変わって行った。現在、ライネフェルデの各地で見られる独創的な建築物のほとんどは、このコンペティションを通して、低コストで実現されたものである。
 

 また、高質な住空間の実現は、住宅部分のリノベーションのみでは実現されないとの見地から、公共空間の拡充・充実が着手された。駐車場の整備や、日本式庭園、若年層向けの公園施設、集会施設、緑地帯の整備が、その例である。これらの施策の基本には、常に、住宅市場の変化に適合した、資産価値の高い住宅供給を目指す姿勢が保持されている。
 なお、これらの事業の財源は、ドイツ連邦政府や州政府による、助成金の投入によって賄われており、ライネフェルデの自己負担は、計画の初期段階を除いて、殆ど生じていない。1993年以降、2008年までに投入された補助金は、実に1億7,700万ドルに上る。





5、終わりに



 ライネフェルデは、ドイツ中部の中核都市・カッセルまで、列車で1時間、アウトバーンで30分という地理的条件にある。近年では、カッセルのベッドタウン化が進行していることもあり、人口の減少は鈍化しつつある。また、企業誘致の実施により、地元の雇用環境の創出にも努めており、失業率も、周辺地域に比較して 数%程度低減されている。


 これらの成果を見る限り、ライネフェルデの都市再生は順調に進んでいるように見えるが、2005年のモニタリング調査では、市民から次のような意見が出されている。

① 改築に伴う地区ごとに、より低価格で入居可能な住居を整備することを考慮に入れるべき。(住居供給の更なる多様化の必要性)
② 駐車場を設置すべき。
③ 道路網を整備すべき。
④ 緑化による工業地区周辺の修景を実施すべき。

 ライネフェルデは、将来的に、バリアフリー型住宅や、職住一体型(自営型)住宅などの需要も発生すると予測しているが、2010年をもって、マスタープランに基づく事業はいったん終了することとしている。今後は、旧市街地や、合併地域(ヴォアビス等)との一体的なまちづくりを進める方針を示している。
 

 注目すべきは、ライネフェルデの都市再生の歴史は、単なる団地再生の歴史ではないという事実である。ライネフェルデの都市再生計画の最大の目的は、東西冷戦構造の崩壊に伴う社会主義体制からの脱却と、資本主義経済の導入の過程で生じた、さまざまな社会矛盾の克服にあった。リノベーション事業により、多彩で高質な居住空間を実現しようとした意図の裏側には、画一的で無味乾燥な、旧社会主義体制を想起させる建物を一掃することで、市民が感じる心理的な圧迫感や、歴史上の忌まわしい記憶を軽減しようという意志があったことは想像に難くない。人口減少社会に対応すること、都市を適正な規模に縮小してその機能を維持すること、就労機会を創出すること、高質な居住空間を実現すること、資産価値の高い住宅を市場に供給すること、地域経済と市民生活の安定をはかること。こうした一連の施策が、ライネフェルデのまちづくりの主たる目的であったのではない。社会主義から資本主義への移行によって、旧共産国家における新たな都市像の実現が求められた時代にあって、ライネフェルデがどうしても必要とした手続きであり、手段だったに過ぎないのである。この事実を見落としては、ライネフェルデのまちづくりを、正確には理解できない。
 

 このライネフェルデの手法を学ぶために、日本からも多くの視察者が訪れている。しかし、日本の賃貸住宅は、借地借家法により、借主側の権利が手厚く守られている。また、分譲団地においては、区分所有権の問題が存在する。つまり、リノベーション事業を実施する際には、権利変換や、建替費用を捻出するための保留床の積み増し、優良建築物等整備事業認定による自治体からの補助の獲得等、権利面・資金面での問題が噴出することになる。戦後の農地解放以降、日本は土地・不動産に資産面での第一義的な価値を置いてきたこと、奇跡ともいわれる経済成長を成し遂げた経験を有することから、日本の金融文化・生活文化に、縮小という概念は馴染みにくいのも事実である。都市再生機構が実施する団地再生事業には、間引きを実施する代わり、新規着工住棟への間引き分の積み増しを実施し、保留床の売却益を建築費に充当しているものが見られる。ライネフェルデの手法が日本で本格的に注目されるようになるには、数十年後、人口減少社会がいよいよ本格化し、市街地の空洞化が深刻となり、治安や福祉、インフラの維持等、都市機能の維持に支障をきたすようになる時期を待たなければならないのだろうか。
 

 最後に、ライネフェルデが提示する、都市再生が成功するためのクライテリアを以下に示して、本稿の筆を擱くこととする。

①徹底的かつ公平な分析を行うこと
②長周期の予測と戦略をたてること
③透明性の担保された、参加型計画プロセスを選択すること。
④マスタープランの目的を実現するため、運用に柔軟性と信頼性を持たせること
⑤核となる地域に焦点を当て、持続的に施策を実行すること
⑥パイロットプロジェクトを迅速に実現し、可視化すること
⑦市民に参加機会と情報を適切なかたちで与えること
⑧継続的な事業の実施体制・品質管理を確立すること
⑨政治が積極的に関与すること
⑩事業実施を共にする良い相手を見つけること
⑪忍耐と主張
⑫運


 なお、ライネフェルデの治安状況は、東西ドイツ統一直後に比べれば改善されているとはいえ、黒のシャツにスキンヘッドという、いわゆるネオナチに属すると思しき若者が、街のあちこちにたむろする姿が見られる。最寄りの在独領事館はフランクフルトであり、列車で3時間以上を要する。また、旧東ドイツ地域に属することから、英語の通用率は、旧西ドイツ地域に比較すると、低い傾向にある。


 それにしても、勤勉かつ実直で冗談の通じないドイツ人が、成功要因に「運」を挙げているというのは、面白い。





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