白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

1979.10.8 -

2009-10-08 | 日常、思うこと
伊勢湾台風から50年目、5000人以上の死者を出した
大災害の記憶薄れ始める頃に、その再来を予期せしめるに
十分の強さを持つといわれた台風18号は、
幸いにして、甚大な被害をもたらすまでには至らずに済み
(とはいえ、被災された方にはお見舞い申し上げるもの)
東海上に抜け、列島から離れていくようだ。
予報では、僕の故郷を強大な勢力を保ったままに直撃、と
されていたから、気が気でいられず、結局昨晩はずうっと
ニュースを見ていた。
徹夜明けの午前7時過ぎ、故郷に連絡を取ると、無事、と
返信があったので、ようやく安らいだ。
それから、早めに身支度を整えて、予想される交通面での
混乱を避けるべく、30分早く出勤した。





しかし、もし針路が西に30kmずれ、あと2時間程遅く
伊勢湾に達していたならばと考えると、ぞっとする。
それはまさに伊勢湾台風の針路と同じであり、満潮時に
強大な勢力の台風が最接近するという、最悪のシナリオで
あったからだ。
幸いにして、僕の故郷はほぼ台風の中心に入ったとはいえ
伊勢湾台風のような甚大な被害を蒙ることもなかった。
強いて言えば、雨漏りが発生したらしい、ということか。





僕は幼いころから、両親、祖母、親戚、そして学校で、
伊勢湾台風についての経験談を繰り返し聴いてきた。
東海地方にとっては、戦争というエポックに匹敵する
大事件だったのは、間違いがないらしい。





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父の経験:
台風来襲当日は、どうやら大きな台風が来るらしい、と
ラジオで聞いてはいたようだ。
ただ、それがどれほどのものであるのかは、全くもって
想像がつかなかったらしい。
午後8時、風雨が強まると同時に停電、やがて、雨戸が
内側にしなり始め、これは危ない、となって急いで
蝋燭の火を頼りに板材を打ちつけて補強したらしい。
午後9時頃には家がまるで大きな地震のように揺れ始め、
風雨の打ちつけ巻き上がる轟音のなかで、じいっとして
いるより他になくなったようだ。





この時点で既にどこかに避難することなど不可能だった。
あまりのことに、2階の、風向きとは逆の雨戸を開けて
外を眺め見た瞬間、屋敷内に建てられていた幅10m程の
一階建ての大工小屋の屋根がめくれあがり、暗黒の渦に
巻き込まれていったという。
次の瞬間に見えたのは、引きちぎられて青白い火花を
散らしながら暴れている電線、
風によってなぎ倒された隣家の母屋であったそうだ。





零時を回る頃、ようやくにして風は収まったものの、
明るくなるまでは外に出ないでおくことにして、
その晩は眠ったそうだ。
父は、翌日の朝の、台風一過の空の鮮烈な青さが
一番印象に残っているという。
まず倒壊した隣家に向かうと、幸い住人は逃げ出して
無事であったそうだ。
それから、屋敷の裏手の山に登って、景色を眺めると、
そこにあるはずの陸地が、完全に水に覆われてしまって
なくなってしまっていたという。
安否確認のために中学校に自主登校する道すがら、父は
小学校の2階建ての木造校舎の大屋根に、
巨大な角材が突き刺さっているのを見たという。





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母、祖母の記憶:
台風来襲当日、小学校は午前中で休みとなり、
大きな台風が来るらしいとは聞いていたものの、
特段の備えをしたわけではなかったようだ。
地域のなかでも、街道に面しているが故に、他地域より
標高が1.5mほど高かったため、
まさか水につかることはないだろう、と思ったそうだ。





午後8時頃、停電となり、風雨の激しく打ち付ける音、
逆巻いて空に昇る音を恐ろしく感じながら
ひたすらに台風の通過を待っていたところに、
それまでとは全く違う音が聞こえてきたらしい。
まさか、と思って通用口を開けると、側の道はすでに
濁流と化して、一気に流れ下っていたという。
そのうちに、水がだんだん間口の雨戸から入ってきて
俄かにかさを増したそうだ。





急いで2階に貴重物を移して、水の様子を見極めつつ
蝋燭の明かりのなかで2階に逃れる準備を始めたそうだ。
幸いにして、他地域が軒並み床上、下手すれば天井近く
水につかったのに対し、母の家は上がり框のぎりぎりで
浸水が止まり、床上にまでは達しなかった。
その痕は、今もなお残っている。





他地域の被害は悲惨なもので、母方の曽祖父の親友は、
台風来襲当日の昼に曽祖父と会ってから数時間後、
天井に達するほどの浸水を受け、天井を破って屋根に
逃れることもできずに溺死した。
曽祖父は、それ以来寝込みがちとなって、1年半後に
亡くなっている。
そうした溺死者があまりに多く、また火葬場も被災して
使えず、当時の衛生状況では伝染病の恐れもあったため
溺死者は河原に数十の単位で集められ、ガソリンを撒き
一斉に荼毘に付された。
その場所には今も、鎮魂の祈念碑が立っている。





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伊勢湾台風以降、高潮対策の防潮堤が伊勢湾岸に建設され
万全の対策が講じられたと思われたのも束の間のこと、
工業地域における地下水の汲上げを主因とする地盤沈下は
伊勢湾台風来襲時よりも実に1m以上進んだと言われる。
その結果、東海地方の防潮堤は内部で空洞化が進み、
十分な高さと強度が保てなくなってしまったことから、
ここ5年ほど、更なる堤防の嵩上げ・強化が図られてきた。
しかし、三位一体の改革による地方交付税の削減によって
県の管理する二級河川においては堤防工事の強化は進まず、
国の管理する一級河川でさえも、なかなか整備が進まない
状況がある。





また、海抜の低い地域において、雨水の排水に不可欠な
揚水機場は、これも原則として地方自治体が建設する。
自治体単位で見た場合、洪水への防災機能を果たすのに
十分であると見積られ、整備計画に記載されるであろう
揚水機場の排水処理能力は、おそらく24時間雨量にして
せいぜい約350~400mm程度であろう。
これを超えるような集中豪雨が降れば、まちはおそらく
水没してしまう。
事実、2001年東海豪雨において、愛知県の枇杷島で
2m以上の冠水が発生した。
財源のない自治体は、こうした防災、否、住民の生存を
保証すべき施設さえ、十分に整備することが出来ない。
しかし、地方分権の推進と税源移譲が、いわゆる
「有益な箱物」に使われ、メンテナンスに使われる確率は、
いかに。





そうした点でいえば、今朝、東京近郊でJRが取った措置は
決して過剰なものではない。
私鉄が運転を続けるなかで、ほぼ全線で運転を取りやめて
不測の事態に備えたのは、むしろ評価されてもいいだろう。
茨城で竜巻、横浜で土砂崩れ、通勤ラッシュと台風の接近の
一致といった要素を鑑みれば、多少長すぎた感はあれ、
運行停止は妥当な判断だったと思う。
おかげで首都圏は大混乱し、職場に遅参したひとのうちで
最も遅かった人は、行徳在住、午後2時だったけれども。





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それにしても、何も僕の30歳の誕生日を大嵐にしなくても
よいではないか。
朝はあれほど、汚れた海の匂いのしていた本郷も、夕方戻ると
すっかり秋の涼風に変わっていた。
とりあえず、購ったトカイワインで、ひとり飲むとしよう。





そしていつもの年のように、結局、空は晴れた。






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