白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

意識の貝殻 3

2006-02-16 | 哲学・評論的に、思うこと
先に述べたように、ブログというメディアは
書き手を透かして見せるのにとても有用なものだが、
日本のブログの殆どは、個人の日記として書かれていて、
書き手が、自分が誰であるか知られていることを前提に
文章を書いている。
実は、日本のブログのアイデンティティはまさに、
「自分のことを読み手が知っている」ことに
委ねられている。





日本において、ブログの目的のほとんどは、
書き手と読者の両方が参加している特殊なコミュニティでの
人間関係や、コミュニケーションの円滑化をはかり、
自分たちの「絆」のようなものを深めることであり、
こうした性質のブログは、「自分のことを知っている人」に
向けて書かれた、極めて私的な文章になる。
だから、書かれる記事の殆どは、日記という体裁をとった
自分の近況などの個人情報や、
バトンという名の自己分析の公開に費やされている。
ブログの大半は、自分が誰なのかを、
自分のことを知っている人にひたすら自己紹介するだけの
履歴書であるといっていい。





このとき、書き手が想定している読み手の数、すなわち
「自分が知っている人」の数は、実際の閲覧数、
つまり「自分のことを知っている人」の数と一致している。
書き手が誰であるかを知っているひとにとっては、
その人に対する好奇心や、情報を握ることによる征服欲を
かきたてられながら読み進むので、面白いのだろう。
しかしそうした欲求は、コミュニティの成員の多くが
ブログを書いているという事実によって相殺される。
書き手と同じだけの読み手が存在するコミュニティでは
情報の一方向的な搾取関係は巧みにかわされ、
等価交換になるように自動的に調整される。
そうでなくては、人間関係は円滑になどなり得ない。
ブログの書き手の多くが、ブログを書いていない読者に
ブログを書くように勧めるのは、そのためだ。
みなが同じことを同じようにやり、それを分け合うという
農耕民族に特有の心性は、こういうところにも深く根を
下ろしている。





そもそもなぜ「書き言葉」が生み出されたのかといえば、
それは人間が、「自分が知っている人」以外にも
なにかを知らせたり、訴える必要が出てきたからであり、
複雑化し、規模の大きくなった社会では、
「ぼくが知らせようとする人」と「ぼくを知っている人」が
一致しないことが当たり前になったからである。





「書き言葉」と「話し言葉」をはっきり区別することは、
古今東西の、文字を持つあらゆる文化にとっては
太古より自明の、厳格に守られてきたルールであった。
「書き言葉」の誕生によって、口約束は契約となり、
不文のルールは法律や条約になることが出来た。
記憶は歴史になり、考えごとや試行錯誤、知恵の類は
学問や文学になることが出来た。





経済活動の発展、科学技術の進歩、政治制度の確立、
社会秩序の維持、文化芸術の創出などは、
「書き言葉」なくしては有り得なかったといってもいい。
「書き言葉」が文明を生んだのは紛れもない事実であり、
文字を持たなかった文明のことごとくが滅亡したことから
それは裏付けられる。
当然、複雑化する社会に生きる人間の意識構造そのものに、
「書き言葉」が大きな影響を及ぼしたことは言うまでもない。
人間にとって、「書き言葉」を使うことは社会への参加を意味し、
裏返せば、「書き言葉」こそが人間にとっての社会であり、
自らが踏み出していくべき世界そのものだったのである。





「話し言葉」は、「いまここに真向かいあっている相手」にしか
通用しないが、
「書き言葉」は、「話し言葉」が宿命として持っていた、
時間性(歴史)と空間性(距離)の制約を超えることが出来る。
人間が、自身の能力や存在領域の限界を超えるために、
人間同士の関係を網の目のように張り巡らせるには、
「書き言葉」はどうしても生まれなければならなかった。





「話し言葉」が、相手のパーソナリティについての
予備知識や、顔の表情などの非言語コミュニケーションと
補い合うことで初めて成立するのに対し、
「書き言葉」は、相手を全く見知らずとも、
自分の伝えたいことを効率的かつそっくりそのまま
さも読者の中に「移植できるように」つくられている。
「話し言葉」の目的の究極が「和解」であるのに対し、
「書き言葉」の目的の究極は「統制」にあるのは
明らかなのだ。
ところが、現在の日本におけるブログは、
あきらかに「書かれる性質」をもち、読まれるもので
あるにもかかわらず、「話し言葉」で書かれている。
それは、「世界の誰もが、ぼくを知っている」という
前提でも立てなければ、成しうるはずのないことだった。





もっとも、書き手のパーソナリティや、その人の声や顔を
さまざまに思い浮かべながら
「話し言葉」で書かれた文章を活字で読むというのは、
おそらく有史以降(書籍の誕生以降)初めてのことで、
それは非常に面白い経験であるともいえる。
しかし、インターネットという「公」の場所において、
知人に向けた「私」の文章が氾濫していて、

(赤の他人に読まれるよりも知人に読まれるほうが
 本来恥ずかしいことであるはずなのに)

そこには「話し言葉」が書かれている、という事実は、
これまでの世界の発展を支えてきた言語の構造や、
あるいはそれらが形作る精神のありさまについて、
静かにではあるが、確実に揺さぶっているのではないか。





画面を表示すれば、書き手の象徴とも言うべきブログが
目の前に現れる。
そうすることで、もっぱら物理的感覚に委ねられていた
書き手と読み手の間の距離感が撤廃され、
あたかも知人同士でいまここで向かい合っているような感覚を
両者が相互的に持ち合ってしまっているのだろうか。
これはテレビによって生み出され、インターネットによって
より確実にされた感覚の撹乱であり、想像力の摩滅である。
そこには、「書き言葉」が生み出していた世界は喪失され、
無限に広がっていたはずのインターネット社会は
ごくごく狭い、線的な関係へと集約されて三次元性を失い、
書き手の意識のみならず、無意識の働きまでも表示しあう
自覚不可能な「ブログ的自己」が、いまや、
対他的実存どうしのごとくにふるまいつつ交錯しているとでも
言うのだろうか。





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ハイデッガーによれば、世界とは日常的な現存在が演じている
演劇であるという。
むろん、このことは「書き言葉」で述べられているので、
彼のいう世界とは「書き言葉」の世界のことである。
われわれの世界は、劇場である。
このことに気付いたとき(意識したとき)、われわれはすでに
何らかの役割を与えられてそれを演じている。
名前をつけられ、組織やコミュニティに属し、どこかに住み、
ある肩書きや役職が与えられていて、
劇場の中では、そうした属性に従って生きることを要請される。





つまりハイデッガーによれば、人間は当初から「共世界的」で、
その存在は世界という劇場の内側にあり、
劇場で演じられる「演劇」の演者であるということである。
そこで、与えられた役割や立場の属性のなかに耽落するのではなく、
それらの属性をすべて取り去った、まるはだかの自己が
どのようなものであるかを見ることで、
人間の奥底にあるものの正体を突き詰めようとした。





人間に属性を与えているものはむろん、ことばである。
これを取り去りつくすと、もはや自分自身でも人間でも
なんでもない、ただ「それ」としてほのめかすことしか
出来ないような「もの」になる。
それを指し示すためにハイデッガーは現存在という
言葉を用いた。
現実の人間は、何らかの属性に寄りかかって
いるがゆえに、まるはだかの自己については
その外側に視点を定めて見つめるしかないし、
そもそもその視点に立たなければ、現存在を見ることが
出来ない。
この視点のことを、実存という。
実存は、まるはだかの自己を見出すに当たって
先に準備されなければならない。
これが、サルトルの言う「実存は本質に先立つ」という
意味である。
そして、その「先立ち」こそが、時間のことでもある。





まるはだかの自己は、どこまでいっても
自分の外側にしか見出しえないから、
役割としての自己としてふるまう現実の自己を脱することで
本当の自己を求めることとなる。
それゆえ、この働きは「脱自」と言われる。
また、この「脱自」のはたらきは、
まるはだかでなく、何らかの属性を持った自己によっても
想定することができる。
それゆえ、まるはだかの自己と現実の自己を
フィードバックさせることを試み続けることが、
人間の真実を発見するための筋道であるとした。





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こうした構造だけをとるならば、
ブログという方法は、その記述のされる態度しだいでは
ハイデッガーの存在学が示したような、脱自のはたらきを
成しうるものになる可能性を秘めている。
自らの意識にある一定の方向をあらかじめ与え、
それに絶えず影響されながら書き進めるという行為が
実際に何千万というブログで行われていて、
そこでは、書き手の意識と無意識のうごめきが、
たえずフィードバックされながら表示されているのだから。





だが、日本におけるブログの利用のされ方は、
ハイデッガーの言い方を借りるならば、
書き手が、かれの現実の自己がどのようなものであり、
どのような役割を期待されているかを勘案し、
それに適うような記事、あるいは、新たな属性や役割を
自分に与えるための記事を書くことに終始している。
それらを書くために用いられる「話し言葉」こそ、
人間が、自らの立ち位置を定めるために用いる、
絶えず誰かと知り合うことを目的としたことばで
あることに、注意しなければならない。





日本において、ブログは、多くの書き手にとって、
自分の存在の真実としての現存在を求めるどころか、
自分が属しているコミュニティにおいて
自分が果たすべき、期待されている役割に忠実に演じ、
いわば「虚存在」をみずから生み出して読者と和解することに
その価値が見出されているにすぎない。
それゆえ、ブログの多くは、芸術になり得る可能性を
自ら捨て去ってしまい、
線的な関係でしかとらえられないような狭く息苦しい
世界を手繰るための道具に堕している。
複雑になりすぎた現実社会において自らの立ち位置を
確かなものにすることが難しくなったいま、
仮想現実において、擬似的とはいえ、
自らの主体性を回復しようとするための賭けとして、
ブログは書き手の無意識のありさままでも反映させながら
突如記事を出現させては、消していく。





記事が「話し言葉」で書かれることを要求されながら、
その体裁が厳密な西洋の「方法」によって表示されるという
屈折した性格を負わされたブログにおいて、
日本人は、その試みを果たして成功できるだろうか?





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まとめてみよう。
4に続く。

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