白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

意識の貝殻 2

2006-02-16 | 哲学・評論的に、思うこと
まず、ことばにできるものについてみてみよう。





ヴォルテールは、人間は自分の考えていることを隠すために
ことばを使うのだ、と述べた。
それは、ことばの使い手の正体が白日の下にさらされた状態、
いわば、まるはだかの自己の意識を、
ことばによって服を着せることで隠蔽し、
自分を食い破ろうとする外敵の侵入を拒むために
ことばが生まれたということを意味する。
ことばこそが「個別な人格」を生むのは疑いない事実だが、
それは主体にとって意識の正体を隠すように作用すると同時に、
他者から見た場合には、不確定な意識の運動を纏め上げて
形を明らかにするという相反的作用をもたらす。





たとえば、腹を割って話したり、すべてを打ち明けることで
分かり合えることが少なく、むしろ無用な軋轢やいさかい、
失望などをもたらして、互いを遠ざけることになりがちなのは
そのためである。
人間は互いを遠ざけるためにことばを使うのだ。
例えば「愛している」ということばは、互いの存在を
実際に融合させるために使われるのではない。
それは愛しているほうと愛されるほうの別を、一層はっきりと
浮かび上がらせるために使われる。
互いがかけがえのない、別々の「個」であることが
一種の共同幻想としての愛にひれ伏すことでやっと保たれる。
ある種の妥協点を探りあうために作用し、
それを使う主体同士を隠しながら、その接点を明確にするという
意味からすれば、ことばは明らかに意識の産物である。





これに対し、絵文字やアスキーアート、レイアウトは、
ことばにしにくいものをイメージとして伝えるのに
非常に便利なものである。
絵文字文化がなぜ日本で隆盛したかについては、
日本語の成り立ちや仕組みと密接なかかわりがある。





日本語は、アルファベットなどの表音文字ではなく
漢字、カタカナ、ひらがなの3種類の文字体系を持ち、
そのいずれも表意文字であることに大きな特色がある。
表意文字は、それ自身の内側に視覚的イメージによる
意味のほのめかしを含んでいる。
表音文字を使う文化には、レイアウトにおける絵画性は
見出せても、その内部に世界観や意味を見出すような
書道のようなものは生まれなかった。
文章を読むときには、それを声に出して読むときの
抑揚、リズム、アクセントを音楽的なイメージに変換してから
空間化し、意味内容をとらえている。
これに対し日本人は、日本語を表記する文字の一つ一つに
すでに独立した意味の体系が内包されていることから、
文章を読むときには、内容を映像的なイメージとして
直接にとらえやすいので、
音楽的なイメージを経由して読まれることが少ない。





このことは当然文章を書く作業にも影響していて、
日本語でかかれたものを西洋音階に乗せようとすると、
リズムがまったく合わないという事態が頻発して
明治の音楽人はずいぶん戸惑ったようだ。
表音文字の文化と比べると、日本などの表音文字の文化では
確かに、音楽におけるリズムの発展が乏しい。
そのかわりに、日本語の歌はリズムによる細かな分節に
あまり左右されないので、
西洋の音に比べると、空間の処理の仕方がはるかに巧みである。
余白という概念は、西洋ではついぞ生まれることがなかったが、
これは、使用される言語が、時間と空間のいずれを
表記の基盤に置くかによって生まれた偶然の差異だろう。





日本語は、その表記のされ方が初めから視覚的である。
だから、ブログやメールなどで、アスキーアートや絵文字が
頻出しても、
それが意味するものを読み手の側で空間的に変換して
イメージ出来るから、文意が損なわれずに済むだけでなく、
より多くの情報を文章に詰め込むことが出来るという
メリットすら生まれる。
日本で絵文字文化がこれほど隆盛したのは、
日本語そのものの表記の特質によるところが大きい。





日本語は独力で文字を発明しなかった。
柄谷行人によれば、日本人は漢字を輸入し、
音読みと訓読みを併用するなかで、
漢字の持つ視覚的なイメージを、ある程度表音的にとらえて
日本人の心性に内面化しながら理解できるようになったという。
ひらがなやカタカナの原型は、朝鮮半島で考案されたが、
朝鮮語の持つ母音と子音の数が多かったため、それを明確に
記述しうるハングル文字が発明され、かな文字の体系が
整備するまでには至らなかったらしい。
これに対し、母音と子音の少ない日本語はかな文字を重宝し、
やがて今日のひらがなとカタカナの体系が整備され、
これを日本独自の発明に集約できた。





柄谷の説によれば、
日本人はこうして漢字・ひらがな・カタカナの3種類の文字体系を
獲得して、日本語を表記し始めたにもかかわらず、
漢字に対して、それが外国由来であるという意識が残されたという。
現在でも外来語はカタカナで表記されるが、
それは日本語に取り込まれたように見えながら、その外来性を
表示させることで意識できるようにしているのだ。





絵文字やアスキーアートが、日本語の中に表記されても
あまり違和感を感じないにもかかわらず、
常に本文のなかから突き放されたようにして、独立した意味を
表示しているように見えるのは、
こうした日本語表記の特質によるところが大きい。
絵文字やアスキーアートは、それが表示されることによって、
それが意味するものが書き手から追放されたことを表している。
書き手が言葉にし尽くせなかった思いや無意識の動きが
絵文字やアスキーアートの中に閉じ込められたまま、
書き手の意識(=ことば)の中から追い出されるのだ。
このことは、書き手が、自分が書いた文章であるにもかかわらず
それが自分の書いたものであるという実感を得られないことに
一層拍車を掛ける。





「書くこと」と「表示すること」が書き手によって
一手に担われていることは、
個人の意識の社会化が、たった一人でなされるということである。
「表示」によって、書き手は自分の意識を自分の中から
追放している。
本来、編集者や読者に担われていたこの作業が
書き手という意識の主体に回収されることは、
書き手の意識自体に、複数性を強いることとなる。
少なくとも、書き手、読者、編集者という「3人」が
書き手の中にいるのであり、
結果としてブログに現れる書き手の人格も、
分裂されていくことになる。
それを「文責」というかたちで纏め上げる作業は、
書き手によって担われることはない。




それゆえ、ブログは、書き手が自分自身を冷静に見つめるときに
非常に有効なのだが、それは危うい作業でもある。





ブログの書き手が虚偽の身分や素性をかたり、
記事そのものについても虚偽を書くことは

(これは「土佐日記」で紀貫之が試みて以来
 すでに1000年の伝統があるスタイルだ。
 紀貫之こそ、日本最古のかな文字の文章を
 書いた人間でもある)

よくあるのであり、
純粋芸術の作品のように、書き手が誰であるかを
厳密に特定する必要もない。
書き手にとっては、自分が書き手であるという認識だけで
十分なのである。





だが、事はそれほど単純ではない。
僕は、ブログというメディアは、日本の活字文化そのものを
大きく変え始めたのではないかと思っている。
それは、さきに述べたような、
ブログという「方法」と、実際に表示される「内容」との
決定的な断絶が、ブログの利用のされ方に見出されるからだ。





それは、日本語の表記という問題と密接に関わる問題でもある。
日本語の中に組み込まれたように見えながら、
あいかわらず「よそもの」として意識されている外来語。
日本語の表記法と、表記されるものとの屈折した関係をみれば、
日本文化と外国文化とが、真っ向から対立することなく、
今の日本に空間的に混在していることが理解しやすいのだが、
ブログという、極めて西洋的方法に基づいたメディアを
日本人がどのように利用しているかをみれば、
その構造は、よりはっきりとしてくる。





なぜ、現在の日本におけるブログは、
あきらかに「書かれる性質」を持つのにもかかわらず、
そしてそれが公の場所であるインターネット上に
存在するにもかかわらず、「話し言葉」で書かれるのか?





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3に続く。

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