白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

意識の貝殻 1

2006-02-16 | 哲学・評論的に、思うこと
人間は名前を信じるのではない。
見知らぬものについては、その履歴を信頼する。
嘘は大きければ大きいほど、人を信じさせる。
それにしても、女性の存在を、彼女自身の存在よりも、
彼女が泊まっていった翌日にひとりベッドに入ったとき
枕のあたりから不意に立ち上ってくる化粧の残り香に
感じるのは、どうしてなのだろうか・・・?





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箱庭療法という、あまりにも有名な精神療法がある。
統合失調の患者に、砂や模型で箱庭を作らせて
彼のこころのなかの世界に具体的なかたちを与え、
精神のありさまを把握すると同時に、
患者自身のこころの秩序の回復を企てるものだ。
出来上がった箱庭には、彼の意志のはたらきや
こころのありさまだけではなく、
無意識と呼ばれるものまでが映し出されている。
出来上がった箱庭に、患者は次々と意味を与えて
何が表現されているかを述べていく。





こうした「箱庭」モデルに最も近い性質を持つものとして
インターネット上に何千万と存在するブログが挙げられる。
世の心理学者の中には、このブログという「箱庭」を
分析し始めている人もいるだろうと思うけれども、
記事・文章について、文体や内包を分析することで
書き手が働かせた意識のあり方を探るのではなく、
書き手が文章を書くにあたって念頭に置いたであろう、
「自分の文章の表示のされ方」を分析することで、
現代の日本人の精神構造について、多くのことが
わかるのではないかと、僕は期待している。





例えば、ブログを本になぞらえてみるといい。
ブログを開設する際、ブログの書き手は
タイトル表示、背景、カラム配置、プラグインの内容、
フォントといった素材を組み合わせることで、
まず、「白紙の本」ともいうべきスタイルシートを準備する。
そこに記事が次々書き込まれることで、ブログは
一冊の本のように、ひとつの構造をもち、
それ自身によって体系化していく。





そこに表示される文章が、書き手が働かせた脳の動きの
痕跡であり、また、意識の所産であるとするならば、
スタイルシートは、いわば「意識の器」として、
書き手の意識の働く場所として準備された場所である。
スタイルシートは、文章の表示のされ方をあらかじめ
決める性質を持つがゆえに、
書き手の意識の働き方や、書き手が書き上げるであろう
文章そのものの内容や文体そのものに対しても
方向性や規則性など、一定の作用を与える。





このように、スタイルシートによる「表示のされ方」が
文章を書くための態度をある程度決定するということから
判断すると、
ブログというメディアにおいては、書き手自身が
自らの意識の働き方をあらかじめ決めるということである。
一般的な読書法として「行間を読む」ということがあるが、
これは、書き手が文章にする際に働かせた意識のうち、
ついに書かれることなく零れ落ちていった無意識の作用を
読者の側で拾い上げることで、書き手の真意を推し量ることだ。





ところがブログというメディアにおいては、
記事を書き込み表示させる役割が書き手ひとりに
ゆだねられているために、
書き手自身が常に第三者の視点を保ちながら、
自分の文章の「行間」を、まるで他人のものを読むように
意識出来るようにもなっている。
つまり書き手は、ブログを書くという行為の中で
自らの意識と無意識の両方を、スタイルシートという
「白紙の本」あるいは「意識の器」のなかで
自由にフィードバックさせているといえる。





ブログというメディアのあり方は、コンピュータと
インターネットの成立なくしては有り得なかった。
ブログの母は科学技術であるから、
その形式についても、近代科学の伝統を色濃く反映している。
いわゆる「意識の器」を事前に設けることで、
書き手が、自分の書き進むべき方向(意識を働かせる方向)を
定めてから記事を書き進めるというやり方は、
デカルト哲学(それは近代科学を支えたものだ)における
意識に対する方法の優位性の伝統を、見事に受け継いでいる。





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デカルトが「我思うゆえに我あり」と述べて、
理性のはたらきに人間の本質を見出すことで
思考の働きを意識の中に持ち込む「方法」が発見され、
これによって、演繹的世界認識が可能となり、
それまで経験則に根ざしていた科学は
実証性から出発しなくとも成果を期待することが
出来るようになり、飛躍的に発展することが出来た。
思考における方法の優位は、人間の意識の働き方を
決めてから考えるということに結びつく。
フロイトによって無意識が発見されたあとも、
心理学はその「科学的方法」によって
無意識そのものの働き方についても、法則性や
規則性の発見を試み続けている。





方法は、必ず二項の対立を想定して出発する。
事実と疑問、水素と酸素、昼と夜など、
例を挙げればきりがないけれども、
この「対立」こそが、人間が生み出した最初の方法である。
現状に疑問を持つということは、
疑う自分と、疑われる現状との対立関係を認識すると
いうことであるからで、
こうした対立の働きを可能にする場所=意識、の構図が
近代哲学においては不動のものとなった。





相対化という契機に、対立が内包されていることは
いうまでもない。
ポストモダニズムの多くが、ものごとを結論を導くことなく
ただただ対立させることのみに専心するのも、
理性的方法の過程で捨て去られてきた多くのものを
浮かび上がらせることが目的であったからで、
それゆえに、ポストモダニスムは傾向としてサブカルチャーや
アンダーグラウンドと必然的に結びつくことになったのだが、
ここでは詳しくは触れないで置こう。





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対立させられるものには、導かれる結論を構成する
材料が含まれている。
むろんその材料を選ぶ際にも、意識の作用が働いていることは
いうまでもないのだが、
方法からいかに結論を導くかということに話題を集中し、
結論を導く効率的な方法の確立ばかりが求められた結果、
弁証法のような、結論を想定しないような方法
(結論が現れることを望まない方法)が生み出された。





その過程で結論を抜き取られ、廃棄物とされて
棄てられた材料そのものと、それがもたらす作用については
省みられることはあれ、そのものずばりは論じない、という
暗黙のルールが出来上がっていた。
方法化された意識は、一方向にしか働くことが許されない
ためである。
「反方法」という概念も、「方法」との対立のうえに
初めて成り立ちうる。





方法とは、意識を働かせる主体が、自らの意識が働く方向を
決めることである。
こうした自己決定性について、「我思う」という結論以前に
なかなか踏み込まなかった近代哲学は、
フロイトの無意識の発見によって、その基盤をいっそう
強くすることが出来た。





「方法」が選択される段階では一方向的な意識は存在しない。
意識自体の向きに関する自己決定性は、
意識自体の全方向的で無志向的な運動(=存在)のなかから
おのずと生成されるものにすぎず、
主体の自覚的関与については限定的にしか認められない。
その生成の働きには、自覚することの難しいものの運動が
大きな役割を果たしている。
しかし、この重要な事実は「方法」により発見された。
それゆえ、この働きは、自覚可能なものとしての「意識」に
対立させるかたちで、「無意識」と呼ばれることになる。





フロイトの発見は、
「方法」が、自覚可能な意識の働きだけではなく、
自覚することの難しい無意識の働きをも内蔵させることが
可能であるという事実を示すこととなった。
無意識の発見は、意識に対する方法の優位を揺らがせるどころか、
逆に、方法の可能性を拡張することに成功したのである。
意識の働かせる場所のありかたを定めることによって、
無意識の働き方についても、ある程度表示させることが
可能であることが証明されたのだ。





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このように見れば、ブログというメディアは、
スタイルシートによって書き手の意識の働き方について
一定の規制をかけると同時に、
書き手の無意識の働きをも表示することが出来るという点で、
デカルト以来の伝統としての、「方法」による精神の表現に
非常に適ったものであるということが出来る。
書き手によってつづられる文章(=意識の働きそのもの)は
ブログ表示のレイアウトによる規制を受けて、
書き手の無意識の働きを実によく反映するし、
レイアウト画面を構成する、タイトル表示や背景、カラム配置、
プラグインの内容、フォントといった素材そのものによって
書き手の無意識のあり方が、ある程度規則性を持った
フォルムとして、把握されやすくもなる。





その一方で、本文に多用される絵文字、アスキーアートによって
非言語による意味作用がフォルム化され、
言語能力などの問題から、書き手がことばに出来なかったような
意識の働きについても、形を与えて表示することが出来る。
意味体系がことばによってのみ支えられているだけではなく、
視覚的造形によっても言い換えられる。
かつては芸術作品(特に、造形や絵画)の専売特許だった
「人間の意識と無意識の、自由なフィードバックの表現」」は
いまやブログによって簡単に、多くの個人のものとなった。
しかし、表現のための素材が無限に存在している芸術とは違って、
ブログを構成する要素ははるかに量的・質的に制約を受けている。
結果として、書き手が構成するスタイルシートの数々は
類型化されたものが多く、そこに込められている意識と無意識の
作用についても、より明確にとらえることができる。





また、通常、ブログを開設するひとびとは、
何かを表現しようとする意図でそれを成す以上、
自分自身の物したものについての自己批評と推敲を、
自覚的かつ意識的に行っている。
自分の作品を反省する能力が自分に備わっていることを
知っているという事実を明確に意識しながら、
自らのこころの動きについて冷静に反省できるような
批評性や鑑識性を以って、
俯瞰的な視野に立って、納得が出来るまで審美している。





統合失調を患っている患者の「箱庭」には見出しにくい
これらの心の働きが、ブログには明確に見出せる。
つまりこの媒体は、書き手の意識と無意識の両方の動きを
非常に明確に浮かび上がらせ、
書き手のこころの働き方を、透かして見せるのだ。
言葉を使って書かれる以上、それはファッションや
趣味などよりもはるかに、書き手を象徴してみせる。





社会的な価値基準や評価基準を導入せずに言えば、
ブログの出現は、誰もが芸術を行うことを可能にした。
その意味においては、芸術はいまや完全に大衆化されたと
言うべきだろう。
いわゆる「本物」と「偽物」を分ける基準はそこには存在しない。
そこにはただ、ブログと言う方法で記述され表示された
書き手の意識の流れがあり、無意識の影が映じているのみだ。
それは、ことばにできるものと、できないものの両方が
同時に出現するという意味において、芸術における形式の
ひとつの臨界点でもあるだろう。
ブログが、その「表示」のなかに、ことばとことば以外のものの
両方を内包として持ちうることにこそ、
非常に大きな意味があるのである。





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2に続く。

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