白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

playground

2008-01-14 | 日常、思うこと
年初にパソコンを買い換えたのを機に、
この連休に部屋の模様替えを行って、書斎を構えた。





6畳の和室を主室、部屋続きの6畳の洋室を従室とし、
仕切りの障子の紙を銀泥線の紋様入りのものに張替えた。
和室に明かりは灯さず、洋室の明かりを障子越しに
ぼんやりと霞ませて取り入れるようにし、
手摺に蔓薔薇を這わせた窓を右に眺められるように
平行に机を置き、その奥の壁を背負うように書棚を配し、
机には電球色の電気スタンドと燭台とパソコンを置き、
手前に物置からやや低めの幅広の肘掛椅子を出してきて
据えつけた。





腰痛持ちの内向きの怠けた人間が読書と物書きをするのに
最適な環境は、
すぐに思いの本や音源を取り出せて、なるべく自然な姿勢を
保てて、出来るだけ立ち歩かずともよいものである。
窓を開けると、庭のモッコクの枝に据えた蜜柑をついばみに
やってくるメジロが松の枝を巧みに飛び渡る姿も見える。





机に平行となるように、サイドボードを置き、
所有するCDやDVD、夜酒を収めたあと、
SANSUIのプリメインアンプとONKYOのスピーカーを
ボードの上に並べ、ACROTECの高純度ケーブルで接続し、
パソコンとも接続して、音響環境を整えた。





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日曜にはその合間を縫って、壊れてしまっためがねを
修理に出そうと、名古屋へ赴いた。
Illyが迅速に手配をしていてくれたおかげで、
僕が名前と要件を告げるまでもなく、
スタッフは僕の名前と抱えた案件を確認したうえで
次々にお見舞いのような言葉を掛けてくれた。
ありがたいことだ。





3,150円の手間賃を払って見送られて店を後にし、
名駅の三省堂にてバタイユの著書を購入したあと、
タワーレコードに赴き、
ジェフ・バックリィの未発表音源、
ジョン・ダウランドのリュート作品集、
ヒリヤード・アンサンブルとクリストフ・ポッペンの共演、
マヌ・カッチェの新作リーダーアルバム、
I氏が参加しているDREAMS COME TRUEの新作、
今はなき高田渡の旧作、
朝比奈隆指揮のNHK交響楽団によるブルックナーの
交響曲第8番のDVD、という、
およそ分裂しているとしか考えられない選択をして
音盤を購う。





その後、両親の結婚記念日を祝うべく、
ソーテルヌの貴腐ワインとシェリー酒を購い、帰着。





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大あくびをして
ふ、と椅子から床を見下ろすと、
リュートの音が次々に座礁して
正確には墜落した、いや、もっと言うと
放物線の先の面に堆積しているというような、感じ。





いや、別にそういうわけでもないのだけれど、
どうにも音楽の砂礫がそこらじゅうに散らかっている気がして
脳天から降り注ぐ音が金銀砂子だった時代が懐かしいあまりに
どうにもアルミ板にそいつらを蒔絵しなおしてやりたくなる。
腹を下すばかりでちっとも醗酵しやしない。
がじゃがじゃじゃ、どいつもこいつも、





と、見ると、
摺り硝子越しに霞み入るぼやけた光に浮き彫りになった
ブラックストーンチェリーの焦がれたような甘い香りの煙が
燭台からの光熱でもって機用に大理石に化けて見えるもんで、
気障にしみったれているのもあほらしい。
自分の姿を省み 自分あざけりの笑いも引きつる理屈。
結局。必定。正味。





さて、象牙鍵盤に、頭蓋の底の凝り、音の砂金、あるいは雲母、
あるいは銀泥、あるいは岩塩、はたまた砂埃の類を排泄して
指の先から悪臭でも放ってみせたら
この街の気温は多少は上昇でもするだろうか。
さあね。
化石がかちかちと歩いてきて
肋骨の一本でもプリペアドしようものなら、
そいつのために濃茶でも点てるくらいの尊敬はあるのだけれど。
どうにもこうにも 後先がね。わからないからね。
やれんね。





地底で 無伴奏パルティータが切断した大気が
ひとびとの行きかう足音に箔のように打ち伸ばされていまして





キーをたたく僕の指先が
たたく先から炭化して、砕けて細かな煤塵となって舞って
ちょっと待ってね、あちゃ、ちょ、と思う間もなく
予想外の無味無臭の排泄で
音もなく 水流れずに
羽のように 地に達してとたんに反転して
箔に散り掛かるのは
ああ、雪でした。
形而上 失禁するもまた美しい、です、か。
それも愛だとは 神曲にも書いてないから
あながち嘘でもあるまいて。





ウィリアム・ブレイクが直腸の重みを下ろしたとたん
全天の星星は逃げ去り、月は恥じ入って赤く燃えたと
ウィリアム・ブレイクは書いていますから
だから逃げられない、って、あなた、それはないでしょう。





鸚鵡貝の韻律の微妙な変容にはシャコンヌの影があって、
それは人目につかないようにそっと 腐乱していくような愛で。





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・・・などと、色の欠落した妄念を自動・早送りにしつつ
今日を、身をルネサンス音楽の韻律に浸しながら、
レヴィナスとバタイユの比較読書に供し、
夜、今年に入って初めてピアノに触れた。
一時期のような、鍵盤を見ただけで吐き気がするような、
あるいは、拳が固まってしまって開かない、というような
症状は消えたものの、
こう弾けばよい、という啓示は不信心ゆえか、まだ訪れない。





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もう少しだけなら、待ってみようと思う。





けれど、どうにも会いたくて仕方がない。

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