再度、ブログというものについて。
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まず、ことばにできるものについてみてみよう。
ヴォルテールは、人間は自分の考えていることを隠すために
ことばを使うのだ、と述べた。
それは、ことばの使い手の正体が白日の下にさらされた状態、
いわば、まるはだかの自己の意識を、
ことばによって服を着せることで隠蔽し、
自分を食い破ろうとする外敵の侵入を拒むために
ことばが生まれたということを意味する。
ことばこそが「個別な人格」を生むのは疑 . . . 本文を読む
先に述べたように、ブログというメディアは
書き手を透かして見せるのにとても有用なものだが、
日本のブログの殆どは、個人の日記として書かれていて、
書き手が、自分が誰であるか知られていることを前提に
文章を書いている。
実は、日本のブログのアイデンティティはまさに、
「自分のことを読み手が知っている」ことに
委ねられている。
日本において、ブログの目的のほとんどは、
書き手と読者の両方が参 . . . 本文を読む
まとめ。
ブログというメディアにおいては、書き手自身が
自らの意識の働き方をあらかじめ決めている。
そして、書き手自身が常に読み手の視点を保ちながら、
自分の文章の「行間」を、まるで他人のものを読むように
意識出来るようにもなっている。
スタイルシートによって書き手の意識の働き方について
一定の規制をかけると同時に、
書き手の無意識の働きをも表示することが出来るという点で、
ブログの、表 . . . 本文を読む
あたまの体操。
宇宙の果てとは、どこだろう。
キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、これら一神教においては
超越的唯一神が世界を創ったのであるから、
すべては神が知っているが、それを人間は知ることは出来ない。
パスカルのいう「神にも原子にもなれぬ中間者」である。
これに対し、インドのリグ・ヴェーダ賛歌によれば、
創造主自身が、どうやって世界を作ったのかわかってないかも
しれないらしい。
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脳の中に、松果体という部位がある。
いわゆる第三の眼として語られることの多いものである。
デカルトが「共通感覚=コモン・センス≒常識」として
心身の結節のよりどころとして求めた部位であり、
バタイユをはじめ、数多くの人々に論じられてきた事柄である。
古くアリストテレスは、すべての思考は
感覚を源泉としているということを述べている。
以降、人間の五感の統合としての「共通感覚」こそが、
人間の感性と理 . . . 本文を読む
楳図かずおの漫画に、年老いた母が自分の娘に脳を移植して
生きながらえる、というストーリーがある。
人間は生まれてくるとき、父母の学習した技術や知識を
受け継がずに、「アンインストールされた状態で」誕生する。
いわゆる素地的能力や形質、性向において
類似性を以っては誕生してくるが、
なぜ、父母、祖先の能力を受け継いで、生まれながらに
「超人」として生まれないのかといえば、
もしそうやって生まれてしま . . . 本文を読む