白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

宇宙の果て 3

2005-11-14 | 哲学・評論的に、思うこと
楳図かずおの漫画に、年老いた母が自分の娘に脳を移植して
生きながらえる、というストーリーがある。
人間は生まれてくるとき、父母の学習した技術や知識を
受け継がずに、「アンインストールされた状態で」誕生する。
いわゆる素地的能力や形質、性向において
類似性を以っては誕生してくるが、
なぜ、父母、祖先の能力を受け継いで、生まれながらに
「超人」として生まれないのかといえば、
もしそうやって生まれてしまえば、生命が一回限りの
固有のものとして存在する必要がなくなってしまうからである。
人間の価値観として、人生は一度しかない、という
大前提があって,有史以来の人間は営みを続けてきた歴史がある。
父母の記憶、先祖の記憶を受け継いで生まれるということは、
生まれてきたものが「唯一の自分」としては存在しない、
つまり、自分というものが消えてしまうということだ。
そして、その唯一性こそが人間の自由の本質であろうし、
何者かになりゆこうとして絶えず不満であり、したがって
生きるしかなくなる、ということだろうと思う。





バタイユがヘーゲルを批判して言ったのは、こういうことだ。
弁証法の帰結としてすべてを知り尽くした絶対者は、
もはや何者にもなり行かず、自足しているが、
そのときにかれはそもそもなぜ、俺がすべてを知らなければ
ならなかったのかという問いを立てるだろう、
そしてそれは、もはやすべてを知り尽くしてしまった絶対者に、
すがるべき何者かも与えない。
そこに残るものは、すべてのものがもはや動きもしない、
完全なる死滅である。





唯一、完全なる形質遺伝をし、完全なる弁証的統一をなしうるものは
遺伝子である。
父と母、二つの別固体が合一して一固体としての子を産む。
プラトンが神話としていう、愛における合一思想である。
もとは一つであった生命が、二つに分けられた、というもの。
男二人から分けられたもの同士がホモ、女二人からならレズ、
男と女なら、ヘテロ。
配偶子の問題と、こうした神話の問題の類似したイメージがある。
セルフィッシュ・ジーン、人間を含めたすべての生物は
遺伝子の乗り物である、などという構造主義的な生物学アプローチならば
遺伝子は地球誕生、もしくはそれ以前から伝承された宇宙史の
完全なる記述であり、そして完全なる記憶である、ということも
できるだろう。
ということは、遺伝子を解読するということは、神のみが読むことを
許されていた、宇宙のすべてを記述した天の板を、人間が解読しようと
する試みなのではないか?それは、神への反逆ではないのか?、
というような倫理的な疑問が、宗教的倫理によって要請される。





しかし、
人間が電気信号で人間を操り、
遺伝子操作によって完全なるクローン人間を作り、
脳に流れる電気信号を思いのままに操ったなら
誰もが等しく幸福感に浸れる時代がくるとしたら。
宗教、哲学、こうしたものは必要なのだろうか。
宗教や哲学は、存立するのだろうか。
人間の尊厳が、単なる電気信号のオンオフで
技術的にどうにでもなってしまう時代に。





コンピュータは、人間の脳と同じ構造をしている。
電気信号で動き、プログラムという理性によって運営されている。
時折、制御不能になり、故障もする。





奇しくも脳科学は、上の例に見たように、古の宗教が
形而上的に結んできた頭脳の恐るべき可能性のヴィジョンを
実証するようにして進展してきた。
しかし、脳科学がどれほど進展しようが、
遺伝子の塩基配列の織り成す技やハプニングに対しては、
その発動の仕組みへの関与にまでしか干渉できず、
脳細胞自体が遺伝子を有している以上は
細胞の遺伝子を組み換えるまでには至ることはない。
脳細胞が遺伝子を組み替え始めたら、
いずれは脳細胞自体が自己超克を促されることになる。
しかし、遺伝子にはミューテーション、
いわゆる突然変異というものがあり、
脳細胞自体が自己超克を決断する前に随意に
内部で、遺伝子自体が自己超克してしまうのである。
免疫のシステムがそうであるが、
遺伝子の突然変異によって、ダウン症やアルビノといった
異常個体の出現も起きてしまう。





ここからは荒唐無稽な話になるが、
もしヒトゲノムが、解読されたことに不快であるならば
ヒトゲノムは突然変異して、全く異なる塩基配列を持った
あらたなる「ヒト」を産み始めるのかもしれない。
生まれてくる子達は、その父母とは全く異なる遺伝子配列を
有していて、
生物種として、地球上に全く存在しなかったスタイルで生存し
繁栄し始めるのである。
たとえば、遺伝子配列の中央銀行があり、
夫婦がそこから、さまざまな遺伝子配列の設計図を取り出して
組み替えてさまざまのシミュレーションをしながら
生まれてくる子のタイプを選択できるようになるとか、
遺伝子配列が随意に自由に組み替わることが出来るようになり、
ヒトは生きながらにして、全く異なる種、形質、能力を有する
別固体に変身し、複数人格、あるいは生命のありかたを
心身ともに往来するようになるとか。
この場合、あくまでも人間は遺伝子に従うしかないのであるが。
素粒子、ニュートリノにも質量があるらしいことがわかってきて
当分、人間が従っている物理的法則は転覆されそうにはないが、
その物理的法則にしたがってみても、上のような遺伝子の
自由なる突然変異は、十分に可能性がある話である。
あなたの隣人が、10年後に会ってみたら巨大な昆虫に
なっている、というようなカフカの話が、
決して荒唐無稽ではなくなりつつあるのかもしれない。
「ザ・フライ」の世界が現実のものになるのである。





埴谷雄高は「夢と想像力は決して限定されない」といったけれども、
ユングの言うような「生命誕生以来の全記憶」が
無意識におかれているとしたら、
それは遺伝子の組み換えと複製、いわゆるコピーにこそ
本質があるのだろうか。
しかし、いわゆる2重螺旋構造によらないDNA複製の可能性が
プリオンの出現によって示されてしまった以上、
もはや生命の謎を、コピー・ペーストの概念や、
弁証的統一という概念で捉えるのは難しいのではないだろうか。
とすれば、もはや全く新しい出現の形態を考えなければならないのか。





色即是空、空即是色。
ドーナツの穴。
出現と未出現、虚数宇宙。
無意識と松果体の次は、ハプニング、か。
いや。生きながら、停止することか。
それもまあ、不可能性への賭けだろう。





人間は、何になりうるか。
市井の無名の人間の成すべきことは、日々これを考えて
記述すること。





埴谷雄高の、極北の単独を思う。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿